セイレーンの涙
エレジーはひとりで空を飛びながら歌っていた。エレジーの声はとても小さい。眼下の海に浮かぶ泡のように、歌声はたいして響きもせずに消えていった。
エレジーは鳥乙女だ。人の女性の上半身に、鳥の翼と下半身を併せ持つ。その甘美な容姿と歌声は船乗りたちを魅了し狂わせ、海へと身を投げさせる。そうしてセイレーンは溺れた人間を食らうのだ。だからセイレーンは人間から恐れられていた。
しかし、それは人間から見た一方的な評価だ。セイレーンから言わせてみれば、歌うことも食べることも種としてのごく自然な習性であり、彼女たちの本来のあり方だった。鳥がさえずるように歌い、獣のように人間を狩り、そして食う。それがセイレーンという生き物なのだ。歌うことをやめたら、食うことをやめたら、セイレーンはたちまち弱ってしまう。
エレジーの声はとても小さい。
気弱な彼女は、自信をもって歌うことができずにいた。歌はセイレーンの本懐であり、声の小さなエレジーは仲間の輪からはずれがちだった。狩りのときも、エレジーはひとりで船乗りを狂わせることができない。いつも仲間たちの仕留めた人間の残飯を食っていた。
エレジーの歌は尻すぼみになった。いつの間にかすぐそばをかもめたちが舞っていた。
(浜が近いわ、エレジー。引き返しなさい)
かもめたちのうちの一羽がエレジーを呼び止めた。
(あなたの歌では、人間を狩ることはできない。これ以上陸に近付くのは危険だわ)
「危険? 人間が? 彼らはただの食べものよ」
エレジーは宙返りして言った。かもめは思慮深げにエレジーを諭す。
(セイレーンの涙は、霊薬だと言われている。わざわざセイレーンを狙う人間だっているのよ)
「まあ、怖い」
エレジーはかもめの忠告に従い、沖へと引き返した。
目印となるものの何もない海は、人間にとっては危難に満ちた領域だが、セイレーンにとっては庭のようなものだ。小声で鼻歌を歌いながら、エレジーは海面すれすれを飛んだ。波しぶきがエレジーの腹の羽毛を濡らす。春の海は柔らかな日差しを反射して、真珠のように輝いた。潮風がエレジーの髪をさらって、くるくると渦を巻いては上空へ吹き上げていった。
「なあに、エレジー。あなたそれでも歌ってるつもり? 全然聞こえないわ」
不意に、天高くから、意地悪な声が降りかかってきた。仲間のセイレーンのユニゾンが、エレジーを見下ろしていた。
「そんなんじゃあ人間を海へ落とすことなんてできないわよ」
「歌で人間を仕留めることができなかったら、そのセイレーンは死んじゃうのよ」
「死んじゃえ、死んじゃえ。ろくに歌えないあんたなんか、セイレーンじゃないわ」
ユニゾンのほかにもセイレーンたちが集まっていて、彼女たちはユニゾンに同調してエレジーをあざ笑った。
エレジーは慌てて逃げた。勝ち誇ったかのようなユニゾンたちの歌声が、エレジーを追い立てる。エレジーは全速力で沖へ沖へと飛び去った。
陸から離れた海域に、エレジーの隠れ家があった。誰もいない島だ。小さいながらも、豊富な雨水が森をはぐくむ、緑豊かな場所だった。
エレジーは浜辺に降り立つと、疲労で重くなった翼を背に折り畳み、森へと分け入った。ヤマモモの木に背を預けて座り込み、ヤマモモの実を口に放り込むと、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。セイレーンは本来、人間以外は口にしない。仲間に見つかったらどう言われるか想像したくもないが、エレジーはこの果物の味が好きだった。ヤマモモの木はどっしりとして大きく、寄りかかって眠ることができた。生い茂る葉はエレジーを雨から守ってくれる。
エレジーは小さな声で子守歌を歌った。自分のための子守歌でもあったが、エレジーを抱きとめてくれるヤマモモの木のための歌でもあった。
(歌は大好きなのに、どうして堂々と歌えないのかしら。私はみんなみたいに強くなれない)
歌いながら、エレジーは考えた。
(ヤマモモはこんなにおいしいのに、どうして人間を狩らないといけないのかしら。ヤマモモだけを食べていれば、それでいいじゃない)
考えながら、エレジーのまぶたは貝のように閉じていった。春の陽気の中、エレジーはまどろみの底へ潜っていった。自分がセイレーンであることに対する疑問はエレジーの胸の奥底にくすぶっていた。
ある日、セイレーンたちは商船に狙いを定め、上空を旋回していた。エレジーも遠巻きに彼女たちの様子を見守っていた。
船乗りたちはセイレーンたちの姿を認めると、弓を持ち出してきた。矢の飛び交う中、ユニゾンを筆頭に、セイレーンたちは翼をひるがえして歌った。甘い歌声がゆるやかに響き渡ると、船乗りは手の力が抜けたかのように弓を取り落とし、ふにゃふにゃとその場にくずおれた。セイレーンの歌がいよいよ山場に差し掛かると、彼らは気が狂ったように笑いだして、一人、また一人と甲板から海面へ身を投げていく。おぼれた男たちの中から、セイレーンたちはめいめい好みの人間を選び、肉を食らった。
ところが甲板には、まだ人間が残っていた。女だ。セイレーンの歌の効き目は、女に対しては薄い。女は力が抜けて立ちあがれない様子だったが、正気を保っていた。
「この淫婦が!」
女は毒づいた。エレジーにはその言葉の意味が分からなかったが、悪態をついているということは理解できた。エレジーは客船のマストに留まり、倒れた女の様子を眺めていた。
「卑しい悪魔どもめ、さっさと泣いて涙を寄越しなさい」
女はなおも声を張り上げた。ユニゾンが舌打ちして、エレジーに向かって言った。
「うるさいわねぇ。女の肉は私たちの口には合わないの。エレジー、あんたが食べたらいいわ」
エレジーは、女の肉は食べたことがなかった。尻込みしていると、ユニゾンがひときわ大きな声でアリアを歌った。女の首ががっくりと落ちる。彼女はこうべを垂れたままふらふらと立ち上がると、舳先へ向かい、波間へと飛び込んだ。
「ほら、エサよ。エレジー」
ユニゾンがエレジーの背を乱暴に叩く。船乗りの男たちの肉に食いついていたほかのセイレーンたちが甲高い声で笑う。エレジーは言われるままに、マストから海面に舞い降りると、事切れて浮かび上がった女の身体を足で掴み、拾い上げた。はやし立てるセイレーンたちの声が一段と大きくなる。彼女たちの目の前で女の肉を食らうのは癪だった。エレジーは女を足で掴んだまま、セイレーンたちから逃げるように商船を離れた。
隠れ家の島へやって来たエレジーは、浜辺に女を下ろした。エレジーは食指が進まなかったが、食事をとらないわけにはいかない。エレジーは女に馬乗りになって歯を立てようとした。すると、女の首のあたりに何かきらきらとしたものが絡まっているのに気が付いた。留め金を外して女の首から取り上げ、うららかな春の日差しにかざしてみる。太陽と同じ金色の鎖に、やはり金色の丸く平べったいものが通してあった。丸い部分には蔦模様の彫刻が施されている。そこは蓋になっていて、開けることができた。好奇心からその蓋を開いてみると、中には小さな絵が入っていた。男の肖像画だ。
エレジーはしげしげと絵を眺めた。セイレーンが襲う船の中には、美術品を積んだものもある。絵画を目にしたことはあったが、こんなに小さな絵は見たことがない。それに、絵をじっくり眺めるのは初めての経験だった。
それからエレジーは女の肉を食った。柔らかくて、案外美味だった。
エレジーは女を真似て、金の鎖を自分の首に巻いた。丸い飾りはエレジーの胸元の、ちょうど羽毛が生えはじめているあたりに程よくおさまった。エレジーはこの鎖が気に入った。その鎖が「首飾り」であるということは、あとになってかもめに教えてもらった。エレジーは首飾りを大切にした。
隠れ家に潜んでいるあいだ、エレジーは首飾りの蓋を開け、男の肖像画を眺めて過ごした。
エレジーは、女が首飾りを身に付けていた意味について考える。首飾りは美しい。美しいものはエレジーも好きだ。美しいから持ち歩いていたのだろうか? 美しいものを身に着けると、自分も美しくなれるのだろうか?
肖像の男は美しい。女は、美しい男を愛でていたのだろうか。エレジーが海に落ちる夕日に向かって翼を広げるように? 青い空と白い雲、そして青い海と白い波の合間を、どちらが上でどちらが下か分からなくなるまで滑空するように?
首飾りの裏側には、何か文字が書いてあったが、エレジーは字を読むことができなかった。
エレジーは、肖像の男をロマンスと呼ぶことにした。
ロマンスは、エレジーの胸元に常にあった。エレジーは、ロマンスをそれはそれは大切にした。ロマンスのことを考えながら歌うとき、エレジーは、今までよりも少しだけ大きな声を出せる気がした。歌はあとからあとから次々にわいてきた。エレジーは、歌うことがもっと好きになった。歌っているあいだは、ロマンスが絵の中から飛び出して、エレジーに寄り添っていてくれるような気がした。
エレジーがロマンスを得てから数か月たった夏の日、セイレーンたちはまたしても商船を襲った。エレジーは例によって、彼女たちの所業を遠巻きに見ていた。
ユニゾンが声を張り上げて歌うと、船上の男たちは次々と海に身を投げる。セイレーンたちは無邪気に笑って狩りを楽しんでいた。
エレジーが見るともなしに人間たちを眺めていると、ある男に目が釘付けになった。男はロマンスだった。エレジーが日夜見つめていた首飾りの肖像画の人物そのものだった。
エレジーの胸は怒涛のように高鳴った。ロマンスはユニゾンの歌によって今まさに甲板の手すりを乗り越えようとしていた。エレジーはさっと羽ばたいてロマンスに近付き、その体を抱きとめた。
「エレジー、何するつもり⁉」
別の男を捕らえていたユニゾンが、エレジーの行動に気付いたが、エレジーはロマンスを抱きかかえたまま、その場から逃げ去った。ユニゾンの金切り声が聞こえた。「誰か、エレジーをつかまえて」
しかし、食事中のほかの仲間たちはユニゾンのためには動かなかった。彼女たちは笑いさざめきながら食事を続けた。ユニゾンはみずからエレジーを追いかけようと飛び立ったが、いくらも飛ばないうちに翼の羽根がばらばらと抜け落ちて、海へ墜落してしまった。セイレーンが歌で人間を狩るとき、歌を聴かせた人間を必ず仕留めなければならない。もしも狙った人間が生き延びたら、そのセイレーンは死んでしまう。
エレジーは、狩りにしくじったセイレーンを見るのは初めてだった。エレジーはロマンスを抱える腕に力をこめた。ユニゾンは、エレジーがロマンスを助けたために死んだ。しかし、今、エレジーの胸を熱く焦がすのは、悔恨ではなく喜びだった。ほんもののロマンスに会えたのだ!
エレジーは隠れ家の島の砂浜にロマンスを連れてきた。ロマンスは気を失っていた。ロマンスは、抱きしめると熱かった。熱を出していたのだが、発熱の経験のないエレジーには、それが病だということは分からなかった。彼を引きずってヤマモモの木のもとへと運んだ。実りの時期はとうに過ぎていたが、ヤマモモの葉は夏の日差しからロマンスを守った。
やがて日が落ち、夜が来た。エレジーはロマンスの隣で眠った。朝を迎えると、ロマンスの熱は引いた。ロマンスが薄目を開けたとき、エレジーは固唾をのんで見守った。ロマンスの目は、イルカの肌のようにつやつやとした、優しい灰色だった。
「きみが助けてくれたの?」
ロマンスがかすれ声で訊ねた。彼が正気を取り戻していることに、エレジーは安堵した。こっくり頷くと、ロマンスは「ありがとう」とだけ言い、また眠ってしまった。
エレジーは背の高い椰子の木まで飛んでいき、その実からジュースを取り出してロマンスに飲ませた。タマリンドの実を集めて、ロマンスに食べさせた。ロマンスは少しずつ元気を取り戻していった。
エレジーもロマンスも、交わす言葉は少なかったが、ロマンスがセイレーンを忌避していないことは、その態度から伝わってきた。
(私が半端ものだから、怖がらせないで済んだんだわ)
エレジーは、ユニゾンたちから「あんたなんかセイレーンじゃない」と言われたことを思い出した。
(私は、セイレーンじゃないのかもしれない。もっと人間に近い生きものなのかもしれない。だとしたら、こんなに嬉しいことってないわ)
しかし、エレジーのセイレーンとしての性質は、ロマンスと一緒にいることによって、かえって強まっていった。
エレジーもロマンスと同じように椰子の実のジュースを飲み、タマリンドの実を食べたが、喉の渇きと飢えは満たされなかった。エレジーは猛烈に歌いたくなったが、我慢した。エレジーは少しずつ元気を失っていった。
「きみは、どうしてぼくのことをロマンスと呼ぶのかい?」
ロマンスが訊ねる。エレジーは小さな声で答えた。
「あなたのことを考えると、歌があふれ出しそうになるから」
「きみの歌がききたい」
ロマンスの言葉に、エレジーは目を伏せて首を横に振った。本当は、声が枯れるまで歌いたかったが、歌うことはできなかった。
島の自然の恵みによってロマンスは元気を取り戻したように見えた。一方のエレジーは見る見るうちに衰弱していった。翼の艶は失われ、頭髪とともに束になってけば立っている。頬は瘦せこけた。セイレーンの栄養源は人間だ。いくら果実を食べても、精はつかない。歌を歌わないことも、セイレーンの生態としては不自然だ。
島から離れてこっそり歌うにしても、万が一ロマンスの耳に入ってしまったら? あるいは、ほかのセイレーンの仲間にロマンスの居場所を知られてしまったら? 臆病なエレジーは、ひたすら島に隠れているしかなかった。
ロマンスは自力で果物を集めることができるまで快復した。今ではエレジーのために森の恵みを採ってくるほどだ。
エレジーがヤマモモの木の下で休んでいると、両腕に果物を抱えたロマンスがやってきて、訊ねた。
「きみが着けているペンダントは綺麗だね」
エレジーは胸元の鎖に手をやった。
「ぺんだんと……これはぺんだんと、というのね。首飾りだと思っていたわ」
「ペンダントも首飾りも同じものだよ」
ロマンスはそう言って笑うと、エレジーの隣に腰かけた。
「ぼくの本当の名前はヴァレンティーノというんだ」
エレジーはヴァレンティーノと名乗る青年を見た。ロマンスは、ロマンスではないのか。エレジーは胸に広がる哀しみを抑え込んで、青年に尋ねた。
「ロマンスと呼んでもいい?」
青年は少しの間呆気にとられた表情をしていたが、すぐに「いいよ」と頷いた。
「きみの名前は?」
「エレジー」
「哀歌……美しい名前だね」
別のあるとき、ロマンスはエレジーに尋ねた。
「エレジーはどうしてペンダントを身に着けているの?」
エレジーはかすれ声で答えた。そのころにはもう、声の張りは失われていた。
「美しいからよ」
ロマンスは重ねて尋ねた。
「そのペンダントを、どこで手に入れたの?」
「海を流れてきたのを、浜辺で拾ったの」
エレジーは生まれて初めての嘘をついた。
順調に元気を取り戻していたかのように見えたロマンスだが、秋が近づくにつれて、激しく咳き込むことが多くなった。時には血を吐いていたが、エレジーには、それが病だとはやはり分からなかった。彼に椰子の実のジュースを飲ませたくても、エレジーにはもう、木のてっぺんの方まで飛んでいく力がなかった。
ヤマモモの木に背を預け、苦しそうに肩で息をするロマンスは、やはりヤマモモの木の根元に寝そべるエレジーに向かって言った。
「ぼくの病気は治る見込みがない。でも、婚約者はあきらめなかった。彼女は必ず薬を見つけると言って、旅に出た。そして帰ってこなかった」
ロマンスはエレジーを見下ろして、首飾りにそっと触れ、丸い部分をひっくり返した。
「そのペンダントは、ぼくが彼女にプレゼントしたものなんだよ。裏面にほら、ヴァレンティーノからルチアへって書いてあるだろう」
ロマンスの声は変わらず穏やかだったが、その芯には獰猛な炎が唸りを上げているようだった。熱そうにも、冷たそうにも感じられるその炎は、エレジーを燃やそうとしていた。エレジーは反射的に恐怖を感じたが、すぐに思い直した。怖いのではなく、悲しいのだ。
ロマンスは、エレジーのペンダントを見たときから、何もかも分かっていたのだ。エレジーがロマンスの婚約者を食い殺したことも、エレジーがロマンスに惹かれたことも、全部分かったうえで、エレジーに優しく接していたのだ――歌えず、食事のとれないエレジーを弱らせるために。
「ルチアを殺したのは、きみだね」
ロマンスはじっとエレジーの反応を伺っていた。エレジーが涙を流すのを待っているのだ。
エレジーの頬を一筋の涙が落ちた。エレジーは生まれて初めて泣いた。涙は巻貝の内部のような虹色をしていた。
「ぼくのために泣いてくれるのかい?」
「私は悲しくて泣いているんじゃない。あなたを愛しているから泣くのよ」
エレジーはよろよろと起き上がると、ロマンスを正面から抱きしめた。ロマンスが慌てふためく間もなく、エレジーは最後の力を振り絞って羽ばたいた。
ヤマモモの天蓋を突き抜けて、島の上空へ飛び上がると、エレジーの唇から自然と歌がこぼれた。
見もあらぬ ひとの恋しき 一人寝の
照る月もなく 歌もなき わびしさに
迷い込む 夢の通ひ路 くらければ
めぐりあひて 見し吾が君ぞ つれなかりける
玉の緒の絶えゆく あぢきなきわれを
忘るな君よ 生きながらへて
エレジーは高揚していた。愛を高らかに叫ぶ歌声は、これまでになく大きく、朗々と響いた。遠くでほかのセイレーンたちが呆然としているのが見えたが、エレジーにはどうでもよかった。
愛を歌い上げるのは気持ちが良かった。腕の中のロマンスは、エレジーの歌を聴いて恍惚としていた。エレジーも恍惚としていた。歌の響きの中で、甘やかな痺れに身を浸す二人はひとつに溶け合っているかのようだった。
空は二人だけのものだった。身を切る風も、高みを行く雲も、水面に集まるイワシの群れも、二人の世界に侵入することはできなかった。歌を取り戻したエレジーの翼は、頭髪は、再びつやつやと輝いていた。エレジーの虹の涙がロマンスを濡らした。ロマンスは虹色の光を帯びて、エレジーに抱かれるままに手足を揺らしていた。
歌が最高潮を迎えると、しかし、ロマンスの様子は変わっていった。セイレーンの歌に魅了され、気が狂い始めたのだ。ロマンスはじたばたと暴れ出し、眼下の海へ向かって飛び降りようとする。エレジーは必死で彼を抑え込み、抱きすくめた。
いつかのかもめがエレジーに並んで羽ばたいていた。
(彼を離しなさい、エレジー。陸はすぐそこよ。彼を仕留めなければ、あなたは死んでしまうわ)
「私はロマンスを離さない。彼を生かしたまま、陸へ戻すわ」
(可哀想なエレジー)
かもめは悲哀の滲む声で鳴いた。
(彼に魅了されてしまったのね)
やがて渚は終わり、白い砂浜が続いたかと思うと、防砂林へと行き着いた。カラマツの枝に小舟の係留用の綱が引っ掛けられているのを見つけたエレジーは、暴れるロマンスの身体をカラマツの幹に縛り付けた。綱をきつく結びつけたエレジーは、海へ飛び込もうともがくロマンスの姿を眺めた。彼の身体はエレジーの涙を浴びて虹色に輝いていた。
「さようなら、ロマンス」
エレジーは首飾りを外して、ロマンスの首にかけてやった。ロマンスは唸り声を上げた。今は暴走しているが、じきにセイレーンの歌の影響は抜けるだろう。エレジーはロマンスを愛していたが、歌を聴かせる以外の愛情表現を知らなかった。だから、抱きしめることも、口づけることもしなかった。
エレジーはカラマツの防砂林を飛び去った。白浜を抜け、渚を過ぎ、沖合へ出たところで、エレジーの風切り羽根が抜け始めた。振り返れば、はらり、はらりと散っていく羽根が、白波に紛れていく。弧を描いて紺青の海へ落下しながら、エレジーは、海へ還れるなら、私は美しくなれるだろうかと自問した。