第18話 汝、自身を識れ
「……美術館に、向かうのか」
「はい。強盗達の狼藉は、私が止めます。
今この街でロゴス能力を使えるのは、私しかいませんので」
「…………。俺も──────」
俺も行かせてくれと言いかけて、俺は口を閉ざした。
駄目だ。俺に力の制御は出来ない。もし暴走した時、美術館はどうなる?
それに……彼女は1人で戦いたいはずだ。そんな彼女に協力を申し出るの事、それは──────。
「……どうなされましたか?」
「いや、何でもない。……俺は、避難しているから。
どうか……気をつけてな。醒遺物を……、この街を護ってくれ」
「言われずとも分かっておりますわ。任せてくださいまし」
違う。
俺が言いたいのは、こんな言葉じゃない。
けれど、これ以外に俺が言える言葉はない。
俺の言葉にディアドラは、自信に満ちた笑顔で答えた。
そのまま美術館の方角へ走りだす。そんな彼女の背を、俺はただ見送るしか出来なかった。
本当は俺も行きたかった。
だが、それは許される事ではない。
悔しいような、自己嫌悪のような、そんな説明できない感覚が俺の胸を支配する。
本当にこれでいいのか? いや、これでいいんだ。そう自分に繰り返し言い聞かせる。
俺は重苦しい自分の脚を何とか前に動かし、家へと向かって走りだした。
空はもう、夕暮れの赤色に染まっている。
ただ俺には、空を見上げる気分にはなれなかった。
助けたい。のに助ける力が無い。そもそも助けるという行為が間違っていたのか?
そんな今までの自分が否定されたかのような感覚を覚えながら、俺はただ下を向いて走る。
俺は無力だと突き付けられるような感覚。生きる理由すら見失いそうになるほど、胸が苦しい。
それを無理やり振り払うように、俺は全力で走った。
「あれ? 始?
どうしたのそんな急いで?」
「え──────。あ、姉ちゃん……?」
走っている途中、知った声が聞こえたので立ち止まる。
振り向くとそこには、俺の実姉─────長久詩遠が立っていた。
「今、帰り?」
「うん。今日のご飯はカレーにしようかなって、久々に」
「そ、そっか。良いじゃん」
「始もいま帰る所? どう? "やるべき事"は終わった?」
彼女の問いに俺の思考が固まる。
"やるべき事が出来た"……今日、俺が姉に対して言った言葉だ。
今振り返ると、余りにも唐突で無理がある言葉だ。普通何事か尋ねるだろう。
なのに姉ちゃんは何も聞かずに、ただ俺を見送ってくれた。
だがその結果は、何もできずに1日を無駄にしただけだ。
その事実に、自分の無力さが一層情けなくなる。なので俺は、目線を下におろしながら答えた。
自分の情けない表情を姉に見せたくないという、我ながら安っぽい意地だ。
「ああ……。うん。大丈夫……だよ。
全部、終わったから……これから家に、帰るところ」
「──────本当に?」
俺がどもりながら答えると、姉はじとーっとした目で俺の顔を覗き込んだ。
こう言う表情をするときは、決まって姉が俺の隠し事を見抜いた時だ。
嫌な予感がする。
「…………何だよ姉ちゃん。いきなりじっと見て」
「始、まだその"やるべき事"、終わってないでしょ?」
「…………え? あー……いや、その……」
予感は的中した。
……なんですぐわかるんだ。やっぱり長年親代わりをしていると、すぐばれるんだろうか。
正直に話したいが、生憎ロゴス能力の事は話せない。一体何をどう説明すれば……。
そう困惑していた時、姉側から会話が切り出された。
「隠さなくたっていいわよ。見れば分かるもん。
今の始、明らかに満足できてない……って顔だもん。
いつも誰かを手伝ったり、誰か手助けし終わった時、絶対そんな顔しないじゃん。
もっと満ち足りた顔してる」
「え? 俺、いつもそんな顔してた?」
「うん。してる」
知らなかった……。少し恥ずかしい。
確かに誰かを助けて感謝されるのは嬉しいが、それが表情に出ていたとは……。
非常に赤面ものというか、穴があったら入りたい話だ。
──────いや、待てよ?
「姉ちゃん、俺"やるべき事"が人助けだなんて、言ったっけ?」
「分かるわよー。だって始があんなに必死になるのなんて、誰かを助けたいって時でしょ?」
「うぐ……」
「で、詳しくはわからないけど、何か最後まで出来ない何かがあった。
それでどうしようって迷っているか……もう諦めようって帰ろうとしていた、って所かな?」
「何で……そこまで分かるんだよ」
「そりゃあ、始のお姉ちゃんだもん。あと保護者」
姉はそう言うと、誇らしげに胸を張った。
全部お見通しって訳か。流石にロゴス能力の事までは分からないと見えるけど……ここまでとはな。
こうまで言われると、どう返せばいいか迷う。ただ、ここまでわかってくれているのなら逆に都合がいいと思えた。
下手なプライドが邪魔をして家に帰れなかったのが今日の事件の発端なのだから、何もかもを忘れてもう家に帰ればいい。
今美術館で起きているであろう騒ぎなんて、もう俺には関係ないんだ──────と。
そう全てを投げ出そうとした時、姉が人差し指を立てて口を開く。
「1つだけ、覚えていてほしい事があります」
「? 何……いきなり改まって。門限か何か?」
「それはあらかじめ決めてるでしょー。そうじゃなくて、言い忘れてたなって教訓!」
「教訓って……何さ」
「やりたい事があったらさ、途中で諦めずに最後までやった方が良いよ」
「────────────。」
言葉を失った俺に対し、姉は真正面に向き合って微笑んでくれた。
その微笑みは、無力感と自分への怒りに支配されていた俺の心に、温かく染み入るような感覚を覚えさせる笑顔だった。
…………昔も確か、こんな感じで姉の顔を見て安心した時があった気がした。奇しくもそれは、俺が初めて無力感を味わったあの日の事。
泣きじゃくる俺を必死で抱きかかえて、大丈夫だからと励ましてくれた。あの姿を思い出す、暖かい笑みだった。
「私も、いずれは個人の博物館とか美術館が欲しいから学芸員やってるんだけどね?
これがまた凄い大変でさー。展示品の並べ方もちゃんと色んな人に平等に見えるように気を遣わなきゃだし……。
あと展示品が痛まないように、空調とか湿度とか調光とか注意しなくちゃだし?
それでたまに後悔するんだよね。なんでこんな仕事選んだんだろ……って」
「後悔!? 姉ちゃんが? あんな楽しんでるのに?」
「うん。そうだよ。でも後悔以上に、学芸員すっごい楽しい。
見たことない秘宝とか見れたりする時とか、特にね!
で、何が言いたいかって言うとね? やりたい事やろうとしたら、そこには必ず壁があったりする。
でも、それを理由にやらないでいたら、多分……やるよりもっと後悔すると思う。
だから、始もちゃんと、やりたい事は貫いた方がいいと思うんだ」
「俺の……、やりたい事…………?」
「うん。もし迷いそうになったら……そうね。
"なんでそうしたかったのか"、を振り返ると良いかも?」
言われて俺は、何で人助けに拘ろうとしたのかを振り返る。
──────初めはただ、無力なのが嫌だった。両親を助けられなかった俺に、生きている価値はあるのかとすら思えた。
その反動なんだろうか。俺は誰かを助けたり、手伝ったりする事に拘るようになった。誰かに褒められたり、感謝されたりした時、俺は凄い嬉しかった。
…………そうだ。俺は……ただ自分の為。自分が誰かに認められたいから、誰かを助けようと──────。
いや。
違う。
それは違うと。
心の奥底で、誰かが叫んだような気がした。
「俺が誰かを……助けたかった、理由……?」
「確か……川で溺れてた子犬助けたとき、あったよねー。
家が焼けちゃって、何処のマンションに行こうかって話あってた時に、偶然川に犬が落ちててさー。
始ったら急に駆け出してさー。なりふり構わずに飛び込むんだもん。びっくりしちゃった」
「そんな事……あったっけ? いや……あったかも……」
「なにー? 夢中すぎて忘れてたの?」
姉が語る過去を聞いて、ようやく朧気ながら記憶が戻ってきた。
そうだ。俺は確かに、自分を顧みずに川の中に飛び込んで子犬を助けた事があった。
川で死にそうな声を上げている子犬の泣き声が、少し前の自分の泣き声と重なって、無我夢中で走りだしたのを覚えている。
あの時の俺は確かに、褒められたかったとか、感謝されたかったとかじゃない。あれは、確か──────。
「あの時はただ……子犬を、助けたかった。
苦しんでいて……命が失われそうで、嫌だったから」
「そう。それが始だよ。誰かが苦しんでいたり、困ってたりするのが嫌だから、助ける。
そう言うがむしゃらさが、お姉ちゃんは好きだなー。まぁ、がむしゃら過ぎて困ったるもするけどね」
「誰かが苦しむのが、嫌──……」
そう呟いた瞬間、俺の中で何かが噛み合ったような気がした。
絡まり合った紐がほどけるような、錆びついていたような歯車が動き出すような感覚。
身体中を……特に脚を縛っていた重苦しい感覚も消え去った。体中に力が溢れるような感覚もある。
直感で理解できる。今、俺の中にあるナニカが、長久始という人間と完全に合致した。
何が? そんな物、すぐにわかる。……俺に宿った、醒遺物の力だ。
だがしかし何故だ? 何故急に──────そう考えた時、ある言葉がよぎる。
ディアドラに聞いた、ロゴス能力の最も重要な要素についてだ。確か、"意志"と言っていたっけ。
『ロゴス能力は人間の"意志"で世界を変革する力。
つまり、持っている力の強さよりも、その力の持ち主の人間性こそが判断の際に優先されるのです』
『貴方の思う以上に、ロゴス能力は持ち主の"意志"に左右されるのです』
「まさか……、そういう事なのか?
これが、俺の"意志"だとでも……」
誰かが苦しむのが嫌だ。だから誰かを助けたい。
迷惑になるんじゃないかとか、自分が認められたいからなんじゃないかとか、そんな迷いは関係ない。
"ただ自分が助けたいから助ける"。……これが俺の意志、ロゴス能力を動かす、根幹だって言うのか?
振り返ればあの時、逃げようとした時不自然に足が重かった。
あれはつまり、俺の意志に反する行動をロゴス能力……醒遺物の力が抑制したってことなのか?
だが何故急に制御ができるように? 「誰かを助けたい」なんてずっと思っていた事だというのに。
それがこんな唐突に、ロゴス能力と噛み合う訳が──────。
『初めから何でも知っている奴なんかいないんだ。
神様じゃねぇんだから。自分も他人も、最初は何もわからない』
「……そっか。最初から分かっていた気でいたけど、俺なにも自分の事分かって無かったんだ」
脳裏を過ぎたのは、レイヴンの言葉だった。
確かに俺は何も知らなかったみたいだ。ディアドラの事も、そして俺の事も。
ディアドラは言っていた。"知は力"だと。ああ、これがそういう事なのか。
「なぁに? さっきからぶつぶつ言って」
「いや……何でもないよ、姉ちゃん。ちょっと考え纏めてただけ」
「そ。それじゃあどうする? このまま家に一緒に帰る?」
「いや、大丈夫。まだちょっと、やり残した事があったから」
「……そう。じゃ、晩御飯までには帰るのよ」
「オッケー。……ありがとう!!」
去り際に俺は、飛び切りの大声で姉ちゃんに感謝の言葉を叫んだ。
いつも心配かけてごめん。そしてそれと同じぐらいに、俺を育ててくれてありがとう。
何より──────。俺に"気付かせてくれて"ありがとう。姉ちゃんがいてくれたから俺、気付く事が出来た。
誰かに認められたいからじゃない。俺は、誰かが苦しむのが嫌だから助けたいんだ。
それは嘘偽りじゃない。心の底からの、俺の"意志"だ。
その意志を満たすためにも、まずは──────。
「ディアドラを助ける」
そう口に出して、俺は全力疾走で美術館に向かった。
今まで体験したことが無いぐらい、体が軽い。羽根でも生えたような気分だ。
だが懸念もあった。能力を物にしたとはいえ、俺と言う協力者が加わるという事をディアドラが拒む事だ。
彼女の過去を鑑みるに、協力者は出来れば欲しくないかもしれない。けどレイヴンは俺に彼女の友達になってほしいって……。
──────迷うのはやめよう。
自問自答はもうやめだ。どれだけ続けた所で、無意味なトートロジーが反響するだけ。
今は俺の意志に沿って行動して、醒遺物の力を使いこなし、強盗達を叩く。ただそれだけだ。
後の事を考えれば、やるべき事は多いかもしれない。本当なら家で待っている方が賢明な判断だ。
だがそれは、俺の意志じゃない。
"助ける"という言葉にしたなら、あとはそれを成すだけだ。
その強い意志を全身に駆け巡らせ、力へと変えてただ美術館への道を駆け抜ける。
風を全身に受けながら、ふと俺は空を見上げた。そこには鮮やかな夕焼け空が広がっていた。
その空はまるで──────迷いのない今の俺の心象を表しているかのようだった。




