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第六話 且元が豊臣を見捨てた理由

 さてその方広寺鐘銘事件である。ここでは事件の経過を事細かには記さない。ただその当事者となった且元にスポットを当てるのみである。


「大御所様(家康)は貴殿にはお会いにならぬと仰せだ。どうすれば勘気が解けるか、御自身でようくお考えなされ」

 家康との面会を許されず、本多正純からそう告げられた且元には心当たりがありすぎるほどあった。


 豊臣家を存続させるうえで、武力闘争路線を放棄したこと自体を且元は誤りだとは思っていなかった。しかしその代替策としてとった寺社造営による豊臣の権威のテコ入れは、効果を発揮しすぎたという意味においては明らかに誤りであった。豊臣を存続させるためとはいえ、その権威を保持するために、駿府城修築の時期に木材徴発を重ねたやり方は、確かに家康に対する痛烈な当てつけと解釈されても仕方がないことであった。

 ただ、もし家康が既に豊臣を滅ぼす肚を固めていたとしたら、木材争論を契機に豊臣討伐の兵を起こしていてもおかしくなかったはずである。徳川がそれをしなかったのは、家康が必ずしも豊臣の滅亡と、なによりもそれに伴って起こるであろう争乱を望んでいなかったからに他ならぬ。且元とて、そういった家康の厚意を見越して当てつけがましい木材徴発に及んだのであった。


 紀州の木材争論はもう六年も前の話であった。

「どうしようもない連中だ」

 と苦虫をかみ潰しながらも、家康は六年は待ってくれたのである。且元にはその六年の間に、徳川と豊臣という「二つの公儀」問題をソフトランディングさせなければならないという使命があった。それが豊臣と徳川に両属してきた且元の任務だった。

 しかし且元は豊家の存続、つまり自らの過去を守ることに拘泥する余り、この解決を先送りにし続けたのである。その結果家康は今日、いよいよ本腰を入れて問題の解決を迫ってきたのであった。

「さあもうあとはないぞ市正。何のために今日まで両属が許されてきたか、分からぬ汝ではあるまい」

 且元には家康の声が聞こえてくるようであった。


 家康は同じころ大坂から派遣されてきた大蔵卿局おおくらきょうのつぼね等に対しては、鐘銘問題の「し」の字も出さず上機嫌で対応したと伝わる。且元と大蔵卿局、双方に対して異なる対応をすることで大坂方のミスリードを誘ったと言われるが、そんなに策略めいた話ではあるまい。家康は単純に、曾て方広寺大仏殿造営のために駿府城普請を牽制した且元に鬱憤を抱いていたのであり、他ならぬその方広寺の鐘銘を問題化することにより、豊臣による当てつけめいた寺社造営を今後にわたって止めさせようと考えていただけではなかろうか。

 そして豊臣家における寺社造営の総奉行は片桐且元だったのであり、大蔵卿局等ではなかった。対応の違いはつまるところ、責任者かそうでなかったか、という違いが反映されただけの話に過ぎない。女性の身であってみればあり得ない話ではあるが、仮に大蔵卿局が方広寺大仏殿造営の総奉行であったならば、家康の怒りの矛先は且元ではなく大蔵卿局に向いていたことだろう。


 家康が且元に対して望んだことは

「豊臣は権威を捨てて徳川に従属を表明すること」

 そして

「豊臣の滅亡と、それに伴う争乱を回避すること」

 であった。

 そしてこういった家康の望みは、豊臣の存立に尽くしてきた自分自身の過去を無意味なものにしないという点において、且元の望みと一致するものであった。


 問題解決のために大坂方に突き付けられた三箇条はつとに有名である。すなわち

「豊臣は大坂城を捨てて伊勢か大和に国替えすること」

 を第一条件に、

「秀頼の江戸への参勤」

「人質として茶々を関東に差し出すこと」

 の三つである。


 木材争論に象徴されるように、豊臣の権威はこのころまで徳川のそれに比肩するものであった。上方における家康の代理人、板倉勝重が調停に乗り出さねばならなかったことが豊臣の権威を示している。三箇条はその権威の放棄を意味するものであった。


 ここで改めて茶々や秀頼といった豊臣家の人々が、何を望んでいたか振り返っていただきたい。

「秀頼の関白任官」及び「今後にわたる大坂城の維持」である。


 前述のとおり朝廷独自の叙位任官は既に幕府の禁じるところであった。つまり「秀頼の関白任官」は実現可能性が絶望視されていたのであって、そうであればこそ大坂方の目標は「大坂城の維持」一本に絞り込まれており、譲れない最後の一線と理解されていたはずである。

 且元の腹案三箇条はこの目標と相容れないものであった。


 問題は鐘銘の犯諱という些末なものから、あれよあれよという間に豊臣の存立問題に発展していった。家康の策略の妙というよりは且元の対応の性急な点が目立つ。且元は三箇条が豊臣の人々にとって受け容れがたいものであると知悉していたにもかかわらず、何の根回しもなくこれを披露しているからである。

 鐘銘問題の本質は豊臣による公共事業の廃絶を狙った点にあった。且元はそのことを知り抜いており、軍事面は言うに及ばず、公儀性という面においても、豊臣の敗北を悟ったことだろう。

 公儀性を失った豊臣は、同時に大坂城を占有し続ける大義も失ったのである。大坂の明け渡しは不可避であった。それでも大坂に固執するなら滅ぼされるより仕方がない。

 この且元の焦りが性急な三箇条の披露につながったのであろう。そして大坂城中の衆議を得られなかった且元は失脚、大坂退城を余儀なくされる。


 且元の両属が破綻し、問題が豊臣と徳川の対立に発展した瞬間であった。

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