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プロローグ

 且元が腹を切ると言い出したとき、家中の主だった者はこぞってこれを止め立てしたが、その言い分はというと

「大坂の役から幾許も経ないこのような時節に切腹などおやめください。取り潰しということにもなりかねません」

 というものであった。

 改易を恐れて切腹を止め立てする者こそあれど、且元の苦衷を察した上で止め立てしようという者はない。腹を切って自裁したいという且元個人の願望よりも、家の存続が尊ばれる時代であり社会であってみれば、そのこと自体に不満はなかった。

 ただひとつ不満があるとしたら、こういった人々は且元が切腹しようという理由を、彼自身が永年尽くしてきた豊家の滅亡に殉じての行いだと誤解している点であった。 

 しかし、かかる誤解を解くために多弁を弄することすら、生きる気力を失ったいまとなっては億劫だ。事後の措置については家康に委ねるしかない。

 忠節というものにほとほと嫌気が差した自分が、その切腹の後始末を、愚直なまでに武家の法理に忠実だった家康に委ねなければならないとは、なんたる皮肉であろうか。


 且元は胸中に去来するそのような考えを隠しながら言った。

「わしが腹を切ったと聞いても大御所様が家を取り潰すことは万に一つもあるまい。安心せよ。

 しかしいみじくもそなた等が心配するとおり、幕閣のうちには我が自死を以て、家の取り潰しを議題にあげる者もあるやもしれぬ。そうなれば大御所様を煩わせることになるだろう。そうならぬよう御公儀には病死と届け出るがよい」

 

 そのようなことがあってしばらく後、且元は京都の自邸で腹を切った。介錯人を立てなかったのは、万が一検使が入って切腹が露顕したような場合に、家中から要らざる処分者を出さないための措置であった。


 一閃の気合いとともに脇差を腹に突き立てる且元。


 刃は深々とその腹に突き立てられ、なく溢れ出る血のために、みるみる板の間に血溜まりが拡がっていく。切ったそばから柔らかいはらわたがはみ出てきて、いかな鋭さをたたえる脇差であってもこれを返すに難渋するほどであった。


 自分の生涯は空虚そのものであったが、こうやって腹を切ってみると体中に血は巡り、はらわたというものがあるということを否応なく思い知らされる。

 人間とはまったく難儀な生き物である。

 腹の中も己が生涯と同様空っぽであったならば、こんなに苦しむこともなかったであろうに。


 且元が、いま現在我が身を襲っている痛みに全感覚を委ねようとしたのは、自らの一生を振り返る方が、切腹の痛みなどよりよっぽど苦しいと思われたためであった。

 しかしその思いとは裏腹に、うしおがわくように過去にまつわる想念が溢れ出る。

 自分は自分の信念に忠実であっただけなのに、どうしてこのようなことになってしまったのであろうかという思いと共に、且元は逝った。

 慶長二十年(一六一五)五月二十八日。享年六十であった。

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