7
イーシャとルカ―に案内されるまま、私は森の中を延々と歩いていた。
もう、どれくらいの時間歩き続けているかわからない。体力だけは自信のある島育ちの私が弱音を吐きそうなほどには休みなく歩いている。
その間、イーシャはウォルフ族について教えてくれた。
ウォルフ族は、代々この森の王であるウォルフと暮らす一族である。
ウォルフと共に狩りをし、食事を分け合い、同じ場所で眠る。
イーシャが言ったように、まさに家族そのものだと思った。
大きさこそ違うけれど、見た目や行動からしてウォルフはペロと同じイヌ科の哺乳類動物であることは間違いなさそうだから、人間と相性が良いのも頷ける。
ウォルフ族の集落にはウォルフが三〇頭、人間が百人足らずで暮らしている。
イーシャの話に相槌を打ちながら聞いていた私は、一番知りたかったことを彼に尋ねた。
そもそも、ここはなんという国でどこの大陸に存在するのかと。
彼は歩みを止めて怪訝そうに返事をした。
「国? 大陸? なんだそれ」
イーシャは私を初めて見た時と同じような顔をした。
彼が嘘をついているようには見えなかった。だから、国も、大陸も、彼は本当に知らないのだ。
知らないのか、そもそも存在しないのか。どちらなのかはわからない。
この場所で目を覚ましたとき、本土なのか、それとも外国なのか。はたまた、あの光に包まれたことで現代ではない違う世界に飛ばされてしまったのか。この場所がどこであるかを考えた。
まさかありえないだろうけど、ここは現代とよく似た、全く別の世界だという説が色濃くなってきた。
もしも、現代の科学では証明することのできない不思議な力によって言霊の泉からこの世界に飛ばされてしまったのだとしたら。
私は、本当に現代に、島に帰れるのかな。
お父さん、お母さん、ペロ、島のみんながいる大好きな故郷に。
「真白、もうすぐだ。行くぞ」
「わっ」
未来への不安に押しつぶされそうだった私を、イーシャの手が現実へ引き戻した。
イーシャは私の右手を掴んで引っ張ると、前を歩いていたルカ―の背に飛び乗った。
「っ!」
「しっかり掴まっとけよー」
イーシャと私がルカ―に乗ると、ルカーは歩くスピードを上げた。
徐々に走り出し、風を切っていく。
木々の隙間を、器用に体をしならせて、駆けていく。
私は枝や葉に顔をぶつけないように、前傾姿勢にしてルカ―の毛に顔をうずめた。
目を開けていられのがやっとの速さだった。
後ろにいるイーシャが私の体を支えてくれていなければ、とっくに振り落とされていたと思う。
だから怖くなかった。
こんなに大きな動物に生身で乗せられているのに、一歩間違えば、振り落とされて死んでしまうかもしれないのに。
むしろ、ルカ―の背にいることが気持ちいいとさえ思えた。
楽しい。森の中を駆け抜ける動物になったようだ。なんて気持ちがいいんだろう。こんな体験、現代で暮らしていたらできない。
この場所にきて初めて楽しいと思えた。
さっきまでの不安な気持ちがスーッと消えてしまうほどに。
「真白、体を目一杯屈めろっ」
イーシャが叫ぶと、不意に木が不自然に連なる場所が現れた。
言われた通り、体をできる限り屈めてルカ―の背にへばりつくと、
ヒュッ。
と、風を切る音がしたかと思ったら、体に重力を感じなくなった。
恐る恐る薄目を開けてみると、空を飛んでいる鳥とすれ違った。
「っ!?」
私、浮いてる。と思っていたら、急激に心臓への負荷が大きくなる。
これ、落ちてる。
飛んでいたかと思えば落ちていく。
ぎゅっと目を閉じて、衝撃に耐える準備をした。
でもそれは、ルカ―のしなやかな肢体によって不要な準備となった。
「真白、もういいぞ」
イーシャの声に、ゆっくり目を明けると。
そこには、たくさんの人がいた。
イーシャと同じような縄文時代の人のような服を着た男の人、女の人、子どももいる。
その周辺には家らしきものも数十メートル間隔で点在している。
放射状に垂木をかけて樹皮で覆ったような、茅葺屋根。歴史の教科書で見たことある、いわゆる竪穴式住居だ。
村だ。とても小さな村。
この森に、本当に、人が住んでいたんだ。
みんな、興味深そうな顔で私を見つめていた。
「悪いな。集落に外の人間を入れることなんてないから珍しいんだよ」
「いえ、大丈夫です」
イーシャは私を隠すように前に立つと、ウォルフ族の人たちに「お前ら、それぞれの持ち場に戻れ」と少し強い口調で言い放つ。
大人たちはイーシャに従うように渋々去っていったけど、子どもたちはそれでは納得してくれなかった。
イーシャの足元に近寄ってきて「イーシャばっかりずるいぞー!」、「もっと見せてー」、「私たちだって話したい!」と、不満げイーシャに詰め寄る。
「ずるいってなんだよ。見せ物じゃねぇんだぞ」
イーシャがあしらうも、イーシャの足元でイーシャを取り囲むように小さく抗議を続ける。
「ねえねえっ、お姉さんはどこからきたの?」
「どうしてそんなに髪がサラサラなの? 柔らかそう」
「肌が真っ白! きれー!」
「何を食べてるの? どうしてそんなに細い体なの?」
「その服はなにでできてるの?」
ついには、イーシャを無視して私に詰め寄ってくる好奇心のおばけたち。
その瞳に他意はなく、純粋に私という新種の人間に対する興味を抑えきれないようだった。
どんな世界の子どもも一緒なんだと思ったら、安心して、緊張がほどけていく。
だけど、大勢の子どもたちに囲まれて身動きができない。見かねたイーシャが、「おい、お前ら。いい加減にしろ」と語気を強めたところに、
「これ、お前たち」
イーシャよりもさらに力強く、でも、とても優しい声が聞こえた。
その声に真っ先に反応したのはイーシャだった。
「族長、こいつらどうにかしてくださいよ」
「はっはっは。まったく困った子らだ」
イーシャに族長と呼ばれた老齢の男性は、「さあ、家に戻ってお父さんとお母さんの仕事を手伝いなさい」と、子どもたちに告げる。
子どもたちは、面白くなさそうにするものの「はーい」と素直に返事をして、大人たちのもとに戻っていった。
まさに鶴の一声だ。
「すまなかったね」
「いえっ」
男性は私に向き直ると、申し訳なさそうに笑う。
白髪に、白いひげ、深いシワを刻んだ目元。首から上だけを見れば、還暦はとっくに過ぎているように見えるのに、声のハリ、ピンと伸びた背筋、そして服の上からでもはっきりとわかる筋骨隆々な体は、高齢男性どころか三〇代、四〇代にも見える。
もしも仙人といわれる人がこの世に存在するとしたら、この人のことを言うんじゃないだろうか。
「私がウォルフ族の長、ファリドだ」
やっぱり。この人がウォルフ族の長。
森の王者であるウォルフ三〇頭と、百人近い人をまとめあげている人。
ファリドさんから放たれる気は、樹齢何百年もの大木のようだった。
そこにいるだけで安心できてしまう大きな包容力を感じると同時に、底知れぬ恐怖も覚える。
そうじゃないと言われても、彼が長であることは誰の目にも明らかだ。
「初めまして。中森真白です」
汗ばむ手を前で重ねて、私は敬服した。
「……中森、真白」
ファリドさんは私の名前をゆっくり噛みしめるようにくり返した。
もしかしたらこの世界には名字がないのかもしれない。
「私の住む世界では真白と呼ばれています」
「そうか。そうか……では、真白でよいな」
「はい」
この世界ではあまりない名前なのか、ファリドさんは「真白か」とつぶやくように名前を唱える。
そして、私の顔をじっと見つめてきた。
一瞬、心臓が縮みかけたけど、ファリドさんの目が孫を見つめるかのように優しかったから、すぐに鼓動は落ち着いた。
「ここでは落ち着いて話もできない。私の家に来なさい。話はそれからだ」
「はい」
歩き始めた私たちを「族長」というイーシャの声が止めた。
まるで通せんぼをするように、ファリドさんと私の行く先に立つ。
「俺も一緒に行きます」
そしていつの間にか、イーシャの隣にルカーも来て、自分もと言わんばかりに族長を見つめている。
「イーシャ、ルカ―もお前たちはここまでだ。よくここまで真白を連れてきてくれたな。ゆっくり休むといい」
「いえ、俺も行きます」
「イーシャ、」
「真白を最初に見つけたのはルカーです。真白を信じたのもルカーです。そしてルカ―を信じたのは俺です。万が一何かあったとき、それは俺の責任ですから」
私が、ルカ―とイーシャ、そしてウォルフ族に危害を加えるようなことがあれば、ルカ―を信じた自分の責任だと言いたいのだろう。
もちろん私は、今もこれからもそんなことをするつもりはないけど、それは私の中の気持ちだけで彼らに対して何の証明にもならない。
それでも、あのとき私を始末せずに、自分たちの住処に連れてきてくれたのは、ルカ―が私を信じてくれたから。ルカ―が、彼らウォルフ族にとってそれだけ信頼を寄せる存在なのだと改めて認識させられた。
「イーシャ、お前の気持ちはわかった。だがな、私はお前よりずっとルカーを、ウォルフを信じてるんだぞ」
ファリドさんはイーシャとルカ―を交互に見て、言葉を紡ぐ。
「ウォルフは賢い生き物だ。言葉こそ喋らないものの、人間の言葉も気持ちがわかる。どんなに上手く隠しても、狡い気持ちを持っている人間とそうじゃない人間を嗅ぎ分ける。ルカ―はウォルフの中でも鼻が利くやつだ。イーシャ、それはお前が一番よくわかっているだろう」
「……はい。でも、」
それでも、イーシャは歯切れの悪い返事をする。
イーシャにとって私はそれほど信用がないのかな。
信用できないのは当然のことなのだけど、やっぱり少し寂しい。
すると、隣に立つファリドさんが私に顔を向け、イーシャやルカ―に聞こえないようにこう耳打ちしてくれた。
「あいつ、自分の責任などと真っ当なことを言っているがな、本当のところは真白のことが心配なだけだ」
「えっ」
「真白から大丈夫だと言ってくれれば大人しく引き下がる。頼めるか」
「……はい」
ファリドさんが言ったことは真実がどうかわからないけど、言われるがまま、イーシャとルカ―の傍まで駆け寄って、
「イーシャ、ルカ―、ここまで連れてきてくれたありがとう。私は大丈夫ですから」
私は、二人に一旦別れを告げた。
イーシャとルカ―はさっきの子どもたちと同じように不満げな顔を隠さない。
イーシャはうーんと唸り声をあげると、もう少し近寄ってと私を手招きした。
そして、私の頭の高さまでしゃがむと、
「族長に何かされそうになったら思いっきり叫べ。俺とルカ―がすぐに行く」
ファリドさんには聞こえないような小さな声で、そう言ってくれた。
「ありがとう」
「あと、族長にはああ言ったけど、お前のこと疑ったりしてないからな。勘違いするなよ」
「……はい。ありがとう」
ファリドさんが言った通り、私を一人きりにさせないために、あえてもっともらしいことを言ってくれただけなんだ。
イーシャ本人からも確認できて、心に芽生えた寂しい気持ちは完全に消えていった。
隣で黙って聞いていたルカ―も、自分もイーシャと同意見だと言いたいのか、私の頬を一舐めする。
私が二人の信頼を裏切らない限り、きっとイーシャとルカ―は私の味方でいてくれる。そう思わせてくれる二人に心から感謝せずにはいられない。
「もうよいか」
ファリドさんの呆れたような声がすぐ後ろで聞こえた。
いつの間に。足音はおろか、気配もしなかった。
ファリドさんは、イーシャとルカ―を一瞥するも、とくに何かいうわけでもなく「行こうか」と私を促した。
イーシャとルカ―を背に、私とファリドさんが歩き始めると、「い゛っ!」、「ワウゥッ!」という二つの小さな悲鳴が聞こえた。
気になってちらっと後ろを振り返ると、イーシャとルカーの足元にわりと大きめの小石が落ちていて、二人は頭を抱えていた。
「まったく失礼なやつだ。あの青二才め」
ぱっとファリドさんに顔を向けると、右手で小石を投げて遊んでいた。
いつの間に。そしてどこから。
意地悪そうな笑みを浮かべるファリドさん。
どうやら、イーシャの声は仙人には筒抜けだったようだ。
心の中でイーシャとルカ―に謝りつつ、絶対にファリドさんを敵に回してはいけないと、私は固く誓った。