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「待ってよイーシャ、そんなに早く走られたら追いつけないよ」
気弱そうな声とともに、もう一人男の人が現れた。
ふっくらとした体つき、色白な肌、糸目、穏やかな雰囲気。
新たに姿を現した男性があまりにも桜ちゃんとよく似ていたから、こんな状況なのに、懐かしさを覚てえて鼻の奥がツンとした。
遅れてやってきた彼は、微動だにしない仲間を不思議そうに見上げた後、その視線の先にいる私を見つけたようだった。
「えっ! なんで女の子がいるの!? まさか、シナー……?」
「オレグ……戻れ」
「えっ?」
「族長に伝えろ」
「えっ、でも」
「いいから。早く行けっ」
「あ、うんっ」
視線を私から一切外すことなく、目の前の彼はオレグと呼ばれた男の人に命令をした。
感情が読めないとても低い声で。
得体の知れない私を危ない存在だと判断したのだろう。当然だと思う。
私だって彼らが島に現れたら、すぐに大人、もしくは警察を呼ぶだろうから。
だってこんな、歴史の授業でしか見たことないような縄文人かと見紛う格好で獲物を狩る人間。常識的に考えて、危険人物だ。
だけど、この場所ではデニムにパーカーという私の格好の方がおかしいのだろう。
そうしている間に、鹿の親子が逃げていく。
せっかくの獲物が。と思ったけれど、あんなにも長い矢が刺さったままなら遅かれ早かれ彼の仲間に見つかるはずだ。
彼らが獲物を逃すことはないだろう。
鹿の親子がいなくなったことで、本当の二人きりになってしまった。
池を挟んで、視線を交わしたまま、時だけが過ぎていく。
きっと、自分よりもずっと大きな獣を前にしたときはこんな感じなのだろうと思う。
何か余計なことすれば、きっと私は殺される。本能がそう告げている。
だから、私はただひたすらに待った。彼の時が動くことを。
そして、それはやってきた。
「名前は」
凛とした声。
もっと高圧的な声を出されるかと思っていたのに、警戒心など感じさせない落ち着いた声だった。
「真白」
私は、彼らが住む場所を壊そうとしているわけじゃない。
四人を見つけて、自分が住む島に帰りたいだけ。それだけ。
だから、彼に対して私がひるむ理由なんてない。
私は彼から目を逸らすことなく、しっかり、はっきりと答えた。
彼はさっきよりも目を細めて、私への尋問を続けた。
「真白は、どこからどうやってここに来たんだ」
それは、できれば聞かれたくなかった。
彼が納得する返事を私はできないから。
唯一の救いは言葉が通じることだ。私が住む島とこの場所に住む人は同じ言葉を使っている。
それともここは異世界かどこかで、飛ばされてきたときに言葉が通じるようにでもなっているのだろうか。
何が事実なのかはわからないけど、言葉が通じる人間ならば、まだ救いはあると信じたい。
「多分、本当のことを言っても、あなたは、あなたたちは信じてくれないと思う」
私だったら、きっと信じられない。
泉に入って起きたらここに飛ばされていたなんて。見た目からして怪しいのに、余計に信用されなくなるくらいなら言いたくない。
素直な気持ちを、彼に伝えた。
「信じる信じないかは話を聞いてから決める。だから、本当のことだけを話せ」
「……わかった」
彼に言われた通り、私は事実を話すことにした。
私はこことは違う島で暮らしていたこと。
言霊の泉のこと、言霊の泉に入ってここへ飛ばされたこと。
残りの四人がここにいるなら探して、島へ帰る方法を見つけたいこと。
本当のことだけを、彼に話した。
彼は一切表情を変えることなく、最後まで私の話を聞いてくれた。
にわかに信じられない話を、怪訝そうにするわけでも、横やりをいれるわけでもなく、最後まで。
「これで全部。でも、信じてもらえなくて当然だと思います」
「ああ、そうだな。お前の話は信用できない」
わかってはいたけど。もう、これまでかな。
諦めるのは早いかもしれないけど、こんな森の番人のような男の人とやり合っても万が一にも私に勝ち目はないし、今から森の中に逃げることもできない。
これ以上説得しても、信用を得ることはできないことは明白だ。
絶対に生きるなんて意気込んだのに。
その気持ちは嘘じゃなかった。絶対に生き抜いて、自分の元いた場所に帰るんだって、思っていた。
ここまで結構頑張ったつもりだったけど。
茉莉花、朔ちゃん、大賀、桜ちゃん。どうか、無事でいて。絶対に助かって。
私は、死を覚悟した。
「だけど、ルカ―はお前を信じろって言うんだよなぁ」
「…………えっ?」
初めて彼の表情が崩れた。
そして、優しく、慈愛に満ちた声。
私を縛り付けるような視線がようやく外れて、彼はゆっくりと後ろを向く。
「あっ!」
すると、彼の背後から灰褐色の体毛に覆われた巨大な獣が姿を現した。
前脚と後ろ脚に巻いたはずの布は外れていて、傷跡はなくなっているようだった。
私の存在を確認すると、ニイッと犬歯を見せて、笑った。
そして、猫のように軽やかに跳んで、向かい側にいた私の隣にストンッと着地した。
「ワウッ」
その獣は、大きく長い舌で私の頬を容赦なく舐め上げる。
「わっ」
一舐めで顔がびちゃびちゃだ。
「ワウッ、ワウッ」
大きなしっぽをぶんぶん振って、何度も何度も私の顔や首を舐めてくる。
撫でてほしいのか、私のあごの下に頭を入れてすりすりする。
「そっか……元気になったんだね」
顔、頭、背中を優しく撫でると、満足そうに目を細める。
犬というより猫っぽい。
こんなに大きな体をしているのに、本当は甘えん坊なんだ。
ペロもそう。警戒心が強くて、意固地で、でも誰よりも甘えん坊だった。
もっと撫でてほしいのか、ゴロンッと体を倒して、お腹を見せてくる。
私はその場にしゃがんで、ペロにしてきたように、首、お腹、脚周りをさするように撫でてあげた。
「だらしない姿だなーおい。ルカ―、お前それでもウォルフ族か?」
「っ!」
いつの間にか、彼も向こう側からこっちへ跳び超えてきていたようで、私の背後に立っていた。
近くで見るとますます大きい。遠くから見たときは、身長が高いだけでどちらかといえば細身に見えたのに、近くで見ると、引き締まっているだけで細身なんかじゃない。
私は彼を見上げたまま固まっていた。
「お前だろ。ルカ―のこと助けてくれたの」
警戒心の消えた穏やかな顔で私を見下ろす。
「えっと……」
助けたというか、手当てをしただけで。今にして思えば、多分私が手を出さなくとも獣は無事だったと思う。
だから、はいそうですなんて彼の問いに頷くのはおこがましくて、言葉を濁した。
「見たことない布だからな、不思議だったんだ」
彼は私が着ているパーカーとデニムを物珍し気に見つめる。
「今思えば、余計なことだったかと……」
パーカーのすぐ下が下着だけだったことを思い出して、急に気恥ずかしくなった。
「謙遜するな」
「えっ……」
「傷を綺麗に洗ってくれたんだろ。ヨモギのしぼり汁を当ててくれてたおかげで傷口が化膿することなく、すぐに良くなった」
「……それは、良かったです。本当に」
近くで見た獣の前脚と後ろ脚は傷口なんてあったことが嘘のようにきれいになっていた。
もともとの回復力が人間とは違うのだろう。
「帰ってきたとき、さぞ腹が減ってるかと思ったら、そうでもなかった。お前が食べ物をとって、ルカ―に分け与えてくれたんだな」
「……」
「ワウッ!」
黙っている私の隣で、ルカーが返事をする。
「ありがとう」
「……いいえ」
向かい合っていた時は、彼の下三白眼が冷然さを際立たせているように見えたのに、今はその目が私に敵ではないと教えてくれる。
敵であると判断すれば、容赦はしないことを隠そうともしていなかったのに。今の彼からは親愛の気持ちが伝わってくる。
張り詰めていた緊張の糸がするりと緩んでいくようだった。
「さっきの話だけど、正直まだ信用できない。ウォルフ族のみんなも、きっと簡単には信用しないだろう」
「はい」
当然だ。
こんなおとぎ話を信用できる人の方が少ない。
「でも、俺はお前を信じる」
「えっ……」
予想外の言葉に、思わず彼を見上げた。
すると、彼はその場にしゃがみ込んで、私と目線を合わせる。
「ルカーは俺の相棒で俺たちの家族なんだ」
「家族……」
「そうだ。家族が信用しているやつを俺は疑わない」
まるで、俺たちは味方だと、言われたようだった。
いきなり知らない場所に飛ばされて、その日に死の恐怖を味わって、今まで優しい気持ちで愛でていたものを生きるために傷つけなければいけない決断を迫られて、いるかもわからない人間を九日間も待って。
ようやく、ようやく、人の温もりに出会えた。人の優しさに胸がぎゅっとする感覚が、とても懐かしい。
心が高ぶって、目元がじわっと熱くなるのなんとか抑えた。
安心するのはまだまだ早い。
「……ありがとう。その、」
信用してくれてありがとうと伝えようとして、彼の名前を知らないことに気が付いた。
彼も私の考えていることに気が付いたのか、「ああ」と思い出したように声を上げて、
「イーシャだ」
自分の名前を、私に告げた。
柔和なまなざしをそえて。