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できる限り神経を研ぎ澄まして、自分以外の音、気配を逃さないように、森の中を探索した。
トチ、ブナ、モミ、カツラ、現代にも存在する種類の木がたくさんある。
でも、スギやヒノキなどの針葉樹が少ない。ほとんどないかもしれない。
近代化が進んでいる首都圏の多くは人工林なんだと父が言っていた。
人工林は、木材を確保するために人が苗木を植えて育てている森林。成長の早い針葉樹が多いのも特徴だ。
私たちの島にある森は天然林。自然を保護するためにある程度人の手は入っているけど、基本的には自然の力に任せて維持している森。
まだ暗くて辺りの様子がわからなかったから、私はてっきりここも天然林だと思っていたけど。
「すごい……」
真っ直ぐ生えている木もあれば好き勝手に生えている木もある。
大きな岩や小さな岩、倒れて重なる大木に、抹茶の粉を上から振りかけたような緑色の苔。
高木と低木、苔や雑草などがきれいに配置された複層林は、人工林では見られない森の理想形とされている。
写真や映像でしか見たことないけど、ここは、ほとんど人の手が加えられていない原生林によく似ている。
植物学者の父と遺伝学者の母が飛び上がって喜びそうな森だ。
「あっ……これ」
苔に、楕円状の窪みが二つある。等間隔で続く跡。
多分、鹿だ。
この森なら、鹿も、猪も、熊も、きつねやたぬき、豊かな森にしか生息しないふくろう、絶滅危惧種と呼ばれる希少な生き物たちがいたってなにも不思議じゃない。
ついさっき命の危機を脱して、先もどうなるか全くわからない状況なのに、
「すごい……」
もっとこの場所を知りたい。見たい。
抑えようのない好奇心が私の心を震わせる。
自然オタクの両親にはほとほと呆れていたつもりだったけど、いつの間にか私自身もすっかり自然の魅力に取りつかれていたようだ。
食料の確保は難なくないことはわかった。
あとは水、そして寝床になりそうな場所を探そう。
雨風がしのげれば岩場でも木の下でも、今だったらどこでも平気だ。
足元に気を付けながらさらに先へと進んでいくと、段々と肌にまとう空気がしっとりしてきたのがわかった。
池か、泉か、山があれば川。これだけの場所ならば、大なり小なりいくつも水場があるだろう。
水のことを考えていたら急に喉が渇いてきた。
「っ……」
この地で目覚めてから何も口にしていないのだから当然といえば当然だ。
どこだろう。
空気がしめってきているからそう遠くないはずなんだけど。
水を欲するあまり、自然と歩みが早くなる。
無駄に体力を消耗しない方がいいのに、ついには小走りしてしまう。
「あっ!」
木々だけだった景色に不自然な空間が見えた。
間違いない、水場だ。
これだけの場所にある水だ。不純物をろ過する必要も、煮沸して殺菌する必要もない。
本来ならどんな場所でも水道水以外の水は浄水と殺菌をしなきゃいけないんだけど、生きるか死ぬかの瀬戸際でそんなことも言ってられない。
もう、さっきから、喉が渇いて、からからで仕方ないのだ。
森林を駆け抜けると、そこには、
「……っ」
透き通るエメラルドグリーンがきらめいていた。
透明度が高すぎて、池の底がはっきりと見える。
テニスコート一面ほどの池の上を覆うように生えている木々や葉が水面に映って、まるで一枚の絵を見ているようだった。
「……」
水場を見つけたら、思いきり顔を突っ込んで喉の渇きを潤そうと思っていたのに。
大自然がつくりだした神秘に魅せられて、その場で立ち尽くしたまま動けない。
なんて、美しいんだろう。
綺麗、美しい、なんて言葉すら陳腐に思えてしまうほどに。
夢見心地の私の意識を現実に戻したのは、「がさっ」という物音だった。
「っ?」
今確かに池の右側で、何かが動く音がした。
音の大きさからしてうさぎやきつねよりももっと大きな物体だと思う。
水場には熊や鹿の大きな動物も水を飲みにくるだろうから、安易に近づいて襲われでもしたら命はない。今は武器になるようなものもないから、近づかない方が賢明だ。
そんなことは嫌というほどわかっているのに、好奇心が上回る。
なるべく音を立てずに、ゆっくり、そっと、音のした方へ近づいた。
「……」
気配がする。それはまだ、そこにいる。
あともう少し。息を殺して、それを隠しているシダの大きな葉を手でよけた。
「グルルルルルルッッ」
そこには、灰褐色の体毛に覆われた巨大な獣が横たわっていた。
体は成人男性と同じくらいの大きさだ。目つきが鋭く、毛質はがさがさ。
虎のような大きさだけど、姿かたちはどう見ても犬だ。
だけど、うちで飼っている柴犬のペロとは目つきも毛並みも違う。
鋭い犬歯をむき出しにして威嚇してくるけど、そこから動こうとしないのは、後ろ脚と前脚の毛が赤く染まっているせいだろう。
どこかで脚を怪我して、もてる力を振り絞って水場まで歩いてきたのだろうか。
でも脚が痛くて、水場の目前で倒れてしまった。
「グルルルルルルッッ」
ペロも最初そうだった。
保護犬だったペロが初めてうちにきたときも、同じように威嚇してきて、触らせてくれなかった。
私はまだ五歳で、どうしていいかわからなくて、でも仲良くなりたくて、お母さんにどうやったらペロと仲良くなれるのか教えてもらった。
「ちょっと待ってて」
私は池に戻って池の水を両手ですくった。
手の中から水がこぼれ落ちないように、獣と少し距離を開けて手を差し出した。
「はい」
「グルルルルルルッッ」
獣は威嚇するだけ。
喉は乾いているはずなのに、水を飲んではくれない。
そうしているうちに、指のわずかな隙間から水がどんどん落ちて、やがて両手の中から水はなくなってしまった。
獣が水を飲んでくれるまで、何度も、何度も、何度も繰り返した。
どうしてここまでしてしまうのか自分でもわからない。
単純に犬が好きだから、うちに来た頃のペロと似ていたから、けがをしていたから、この場所にきて初めて出会った自分以外の生き物だったから。
どれも違う気がする。
「はい」
「グルルルルルルッッ」
単純に、助かってほしいから。
元気になってほしいから。
それがたとえ人間でもそうじゃなくても、弱っている生き物が自分の目の前にいたら助けたくなるのは人の性なのかもしれない。母だったらそう言う気がする。
「ちょっと待っててね」
一旦水は諦めて、私は森の中に入った。
犬は基本的に肉食だけど、野菜や果物、穀物も食べるから、栄養価が高くてすぐに食べられそうな果実を探した。
この場所の気候は温かい。湿度もそこまで高くないから、島と似たような植物があるはずだ。
あたりの木を見上げてみるとすぐに赤い実を豊富につけた木をみつけた。
細長いさくらんぼのような赤い実は、グミの実によく似ている。
その実を一つとって、ほんの少しだけかじった。
「やっぱり。グミだ」
甘酸っぱくて美味しい。
ほんの少しかじっただけだったのに、からからに乾いた体にグミの糖分と水分が染み渡っていくようだった。
グミを両手いっぱいにとって、パーカーのポケットに入れた。
その後も、野イチゴ、食べられそうな野草を摘んで、獣のもとへ戻った。
私が戻ると、「お前まだいたのか」とでも言いたげな顔で見られた。
そんな呆れたような顔をしなくても……。
「食べられそうなごはん、とってきたよ」
「……グ、グルルルルッッ」
一瞬間を置いてから唸り始める。
お腹が空いてるんだろうな。
「ここに置いておくから、食べていいよ」
「…………グルルッッ」
ポケットに詰め込んでいた木の実と野草を置いて、私はもう一度池に向かった。
さっきと同じように両手で水をすくって、こぼれないように獣のもとに戻った。