雲丹亀玄静 その7
玄静にとって超えられない壁だった優秀な兄は、三塔学院に入学してからも噂になった。
今年の新入生にとんでもないやつがいるらしい。なんでも将棋の腕はプロ顔負けのレベル。土の波動術は教師を圧倒する腕前を持ちながら同時に人当たりの良さも持っている。
一年生で将棋部の部長になるんじゃないか。最年少で生徒会長になるのでは。
そういった噂が耳に入るたびに玄静の心は踊った。
━━━兄さん、頑張っているな。
自分の尊敬する兄が学院で活躍している。うれしかったし誇らしかった。
そうしてはや数ヶ月後、夏休みを利用して兄が帰省してきた。
「ただいま〜」
「おかえり、にいちゃん」
大荷物を背負い疲れ切った兄を出迎える。
「学園生活はどう? 楽しい?」
「そりゃあもう。超……楽しいよ」
数ヶ月ぶりに会う兄の近況に耳を傾ける。
白義は寮での生活や、授業内容、膨大な宿題や部活について教えてくれた。何気ない感じで兄は話しているが、玄静は興味津々で聞いていた。
「将棋部なんでしょ。すごい噂されてるよ」
「ああ。みんなレベルが高いんだ。負けてられない━━━いや、俺は上級生にだって負けない! 最年少で部長に選ばれてみせる!」
グッと力を込めてガッツポーズをとる兄は、相変わらずカッコ良かった。
もっと兄の話を聞きたかった玄静は、親にねだって端末を買ってもらい、兄と連絡先を交換した。
こうしていつでも兄と連絡を取り合えるようになり、玄静は毎日のように兄と一日の出来事を報告しあった。
今日は防御を褒められた。うっかり禁じ手を使ってしまい怒られた。
調子が良かったのか圧勝できた。一手のミスで負けてしまった。
そうこうしているうち、気づけばあっという間に一年がすぎた。
「ねえ、卒業したらプロに挑戦できるんでしょ? なるの?」
夏休みに再び戻ってきた兄に玄静はいつも通り期待の眼差しを向ける。
「そうだな。プロ棋士を目指してるわけじゃないからなー。部長になってから考えるよ」
「そっか。最年少の部長って四年生の人だっけ」
「ああ」
「じゃあ、来年は部長だね!」
「……ああ、そうだな!」
どこまでも無邪気に。純粋に。玄静は白義をすごい人と信じて疑わなかった。
カッコ良くて、頭が良くて。なんでも教えてくれる兄ちゃん。
周囲の評判も良く、親戚からママ友、自分の友達に至るまで口を揃えてこう言うのだ。
「君のお兄さんは頭がいいんだね」
「頭の良さは現当主に勝るとも劣らない」
「さすが雲丹亀家の嫡男だ」
玄静にとってはまさしく、ヒーローそのものだったのだ。
でも、今になって思う。
僕たち兄弟の歯車はこの時から壊れてしまったのだと。
変化が現れたのは兄が三塔学院へと戻った次の日だった。将棋と波動術を教えてくれた家庭教師がいきなりクビになった。
その代わりとして登場したのは、なんと雲丹亀家の当主である祖父だった。
「今日から私がお前の面倒を見る」
そう告げられたのは玄静の二十年弱における人生の中で最大の衝撃だった。そもそも面と向かい合ったのも初めてか
もしれない。
齢八十の重みを感じさせる蓄えられた髭と顔のシワが目立つ。目つきは優しく慈愛を感じられるものの、表情がほとんど動かないので何を考えているのか読めない。
いつも当主の仕事に精を出して忙しそうにしている祖父。無駄な会話を好まず、滅多に口を開かない祖父。玄静を含め家族と家族らしい会話はなく、子供の頃は近寄りがたい存在だった祖父。
自分には否定する権利も理由を問う権利もない。そう判断した玄静は祖父と対局した。
若い頃は”賢者”と渾名された知恵は健在で、将棋の腕は兄とは比較にならない。攻め手はことごとく返され、防御に徹すれば意図しないタイミングと方向から攻撃が来る。祖父には心を見透かす能力があるのではないかと何度も疑った。
あまりにも強すぎるので負けてもちっとも悔しくなかった。
そう、負けるのは別にいい。
唯一の気がかりは、なぜ祖父が自分に構うのかという点だった。
雲丹亀家の当主になるのは兄だ。自分ではない。
そう考えているから余計に、祖父が忙しい時間を自分に割く意味が理解できない。兄に構う方が雲丹亀家のためになるというのに。
訳もわからずコテンパンにされ続けた玄静は三日で音を上げ、白義に相談した。
「はっはっは」
「なんで笑うの?」
「ああ、ごめんごめん。珍しく嫌そうにしてるからさ」
一息ついて白義は、気にするな、とアドバイスした。
「あれはじいちゃんなりのコミュニケーションなんだ。俺だってボコボコにされたさ」
「兄さんも?」
「もちろん。父さんだって教わったと思うぞ」
今まで何故兄に将棋で勝てなかったのか、玄静は理解できた。
上手い人から教わればそれだけ上手くなる。当然の理屈だった。
「負けても不貞腐れるなよ。むしろチャンスだと思った方がいい」
「チャンス?」
「じいちゃんは相手の弱点を正確に捉えてそこを責める。つまり対局を振り返れば自分の弱点、思考パターンや癖が読
めるようになるんだ。広い視野を持ついい訓練になるぞ」
「ふーん」
実力差を考えれば、祖父ならそのくらいの芸当は余裕だろう。
玄静は将棋を指しているのは別に強くなりたいからではない。他にやることがないからやっているだけだ。雲丹亀家の生まれでなければ触れもしなかったかもしれない。
だから、強くなるためにはどうすればいいか、なんて考えたことがなかった。
「わかった。やってみる」
「おう。頑張れ。半年くらいしたら玄静も大会に出て他の人と対戦してみろ。自分の成長具合にびっくりするぞ」
「うーん。考えとく」
せっかくの提案を断るわけにもいかず、玄静はお茶を濁す。
「じゃあ、もう寝るよ。おやすみ兄ちゃん」
「ん。おやすみ」
その次の日から、玄静は兄のアドバイスに従って祖父と対局した。
ボコボコにされるのは相変わらずだが、確かに自分の弱点を意識して振り返ると祖父の指し手の意味が理解できるようになった。理解し、応用すれば自分の指し手の性質が変わったと自覚できる
兄との会話から一ヶ月後、ようやく努力の成果が訪れた。
「成長したな」
「え?」
「いいことだ」
初めて。
祖父が自分を見て笑った。
びっくりしすぎて何を言われたのか理解するのに数分かかった。
「このまま精進しなさい」
そう言い残して祖父は呆気に取られる玄静を残して部屋からさった。
褒められた。
それだけなのに、心が沸き立つ自分がいた。
「ははっ」
思わず笑いが溢れる。
何故兄があそこまで頑張るのか、少しだけわかった気がした。
渋っていた将棋の大会にも出場し、兄と同じように初出場で優勝を果たした経験は糧になった。
自分の思い通りに状況を動かせるのは、いい気分だった。
「兄さん、僕優勝したよ」
「そうか! おめでとう!」
優勝したその日のうちに報告すると、兄も我がことのように喜んでくれた。
興奮しっぱなしだった玄静は落ち着いてから、自分の本当に伝えたい気持ちを述べた。
「兄さんがコツを教えてくれたおかげで、じいちゃんと対局すると本当に上手くなったよ」
「気にするな。俺はお前の兄なんだぞ」
「あはは。それ、久しぶりに聞いたなあ」
一緒に過ごしていた頃は毎日のように聞かされていた口癖に安心感を覚える。
「兄さんは最近どう? もしかしてもう部長になった?」
今は五月。白義は進級して3年生になっている。
最年少で部長を目指す兄は今年中に部長にならなければならない。
「……もう少しかな。今年中には何とかなりそうだよ」
「そっか!」
「ただ━━━」
端末の向こう側で新羅が言いずらそうに口を濁す。
「ちょっと忙しくなるから、今年の夏休みはそっちに戻れそうにないんだ」
「えー!」
自分の成長を見てほしかった玄静は口をとがらせる。
「ごめんな。来年の夏には戻ってくるからさ」
「……ん。わかった」
抗議したいところだが、兄とて忙しいのだろう
「ところで、玄静は将来どうするか決めたか?」
「えー、まだわからないよ」
成長を実感できるようになったとはいえ、やりたいことや夢は見つかっていない。
現実的には、兄のように三塔学院に進んで白兎となるか、奨励会に入って将棋のプロを目指すかのどちらかだろう。
「そろそろ決めなきゃいけないよね」
「そうだな。せっかくだから奨励会に入ったらどうだ? 多分そのほうがおもしろいぞ」
「え? そうなんだ」
意外な申し出に玄静は困惑する。
皇王国において、将棋のプロになるには国家試験を受ける必要があり、試験を受けるためには事前にリーグ戦を突破しなければならない。そのリーグ戦は奨励会で三段を取得しているか、あるいは三塔学院将棋部で認定試験を突破すれば参加は可能だ。
奨励会と三塔学院将棋部、どちらが良いかと問われれば、どちらでもよいという答えになる。奨励会のほうが母体が大きいため必然的に出身者の数は多くなるものの、質の面では将棋部だって負けてはいない。
なのに白義は奨励会のほうが良いという。
━━━何だろう、この感じ。
胸にもやもやと違和感が募る。
どこがといわれると困ってしまうが、いつもの兄らしくない発言だと感じられた。
「ま、考えとくよ」
「ああ。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
違和感について考える暇もなく、電話は終った。
その日から兄はより一層忙しくなった。
日課だった電話はいつの間にか一週間に一回、一か月に一回と徐々に頻度を落とす。つながって会話ができたとしても、その声に混じった疲労はどんどん増えていく。
兄弟の関係性はとっくに変化していたのだと、この時に気づいておくべきだったのだ。




