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ブルーアワーの君  作者: 凪司工房
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4.ブルーアワーの君


 その空気はしんと張り詰めたあの日のものと全く同じだった。タツヤは自転車に乗り、丘の上の交差点へと勢いを付けて駆け上がる。息は荒く、それでも見上げた空が夜闇をおもむろに取り払い、紺色から徐々に青へと変化していくグラデーションを見せてくれているのを目にすると、立ち上がってのペダリングにも無限に力を入れられそうな気になれる。

 ――今日こそはこの光景を収める。

 その心意気で自転車から慌てて飛び降り、そのまま脇のガードレールに車体を預け、腰のポーチからデジタル一眼レフを取り出す。電源がオンになる数秒すら待てない。今すぐにでもシャッターを切り、この青く染まった街並みを収めたい。その欲望が、タツヤの背中を一瞬照らしたヘッドライトに気づくのを遅らせた。

 音には気づかなかった。エンジンではなくモータによる駆動音はこの朝の静寂の空気を乱すには弱く、レンズカバーが開いた機械音の方がタツヤにとってはよほど耳障(みみざわ)りなものだったからだ。

 シルバーのセダンはブレーキ音を立てることなく容赦ない速度でタツヤの体を吹き飛ばすと、彼の体は五メートルも宙を舞い、そのままガードレールを超えてコンクリートブロックで固められた法面に落下した。

 その落下する人影を、タツヤは交差点からぼんやりと見つめていた。車はガードレールを自転車ごとひしゃげさせて十メートルほど先で停止すると、数秒のちに再び動き出し、何事もなかったかのように走り去ってしまった。そこに救急車が到着したのはおよそ三十分後のことで、病院に到着した時には既に心停止状態だったと新聞記事には記載されていた。


「これが、真実……」

「ああ、そうだ」


 隣に座った男は彼の手帳に挟んだ記事の切り抜きを見せながら、ブルーアワーの空に小さく浮かんだまま静止している雲を見上げる。


「当て逃げの犯人は捕まったそうだ。飲酒運転に加えて免許停止中という状況で気が動転して逃げ出したと供述したらしいが、ブレーキ痕もなく速度もいくら超過していたんだろうな」

「運が悪かった、ということですかね」

「さあな」


 男は立ち上がると、地面に落ちた一眼レフを拾い上げる。それはボディが割れ、中の部品のいくつかが紛失してしまっていた。


「通常霊というのは何か、あるいは誰かに対して恨みを持った精神がこの世とあの世の境目で漂い続ける。ただし君のように事故で何の心の準備もなく突然訪れた死に対しては恨みといったものは生まれず、それどころか自分が死んだことが認識できないまま、この不可思議な境目の世界を生き続けることになる」

「僕は、生きていたんですか。それとも、死んでいたんですか」


 同じ日常を繰り返し、疑問こそ感じながらも、毎朝の新聞配達だけは欠かさずに続けていたことを思い出す。


「自分が過ごしている日常が生のものか死のものかなんて、誰も区別することはできない。ただ一つ明確に差があるとすれば、そこに喜びや悲しみといった感情があるかどうかだろう。君は新聞配達が好きか?」

「はい。生きがい、と言ってもいいかも知れないものでした」


 もう過去形で話すしかないことが、少しだけ悲しかった。


「霊は恐いものだ、という認識があるかも知れないが、本来それは誰もが持っている精神の一つの形だ。不幸があって肉体と分離し、その後昇華されることなくこの境目の世界に取り込まれてしまっているだけで、彼ら自身が行っている多くは自分たちが生きてきた人生そのものなんだ。それも一番幸せだった頃のことを何度も繰り返している。それをオレは彼らなりの幸せな状態というやつではないかと思っている」

「自分なりの幸せな状態……そうかも知れませんね」


 三月十三日を何十回と繰り返したあの日々を思い起こすと、確かにタツヤの内側には温かいものが生まれた。


「けど、彼女にとっては、アカネさんにとってはどうだったんでしょうか」

「それは直接彼女と話すがいい」

「どうやって?」

「自分の死に気づいたお前は間もなくこの世界から完全に消滅する。それまでの僅かな間……それこそ五分間だ。オレの体を貸してやる。オレを通して、彼女と話せばいい」


 男の言っている意味は理解できなかったが「お願いします」と深々頭を下げると、彼は「五分だけだ」と念押しをして、短い祝詞を唱えた。



    ◆



「タツヤ君?」


 からりと軽快に転がる彼女の声でそう呼ばれたのは、一体どれくらいぶりなのだろう。目覚めると一眼レフを首から下げたアカネがシルエットになって立っていた。


「あの、僕」


 空は紺色から青へと変化し、遠くの山には朝(もや)が掛かっている。彼女はそこにカメラを向けて(しばら)く待ってシャッターを切る。


「ブルーアワーは朝と夜の境目だから、こんな不思議なこともあるんだ。本当にあなたがタツヤ君なんだね」


 一歩二歩と、こちら側に近づいた彼女の顔はあの頃のような張りのいい肌ではなく、随分(ずいぶん)(しわ)が多くなり、白髪も増え、もうとても新聞屋の娘さんなんて呼べるような年齢ではなくなっていることが分かった。それでもその柔らかな笑顔は当時のままで、大きな黒目がタツヤをしっかりと見つめている。


「アカネさんがブルーアワーの君だったんですね。僕は、なんだか色々と大切なことを忘れてしまっていたようです」

「あの日、わたしは時間通りにあなたが戻ってこないことをおかしいと思ったけれど綺麗なブルーアワーだったからまたがんばって写真を撮っているんだろうなと思ってて。それで電話を掛けるのが遅れてしまったの。でもね、あと五分。たったの五分早くあなたに電話を掛けていれば助かったかも知れない。ううん。一分でも二分でも早く気づけていれば、救急車が呼べていれば、あなたの人生はまだ続いていたかも知れない。その後悔をずっと抱えながらわたしはここに来て、写真を撮ってた。そこに、あなたが写るような気がして」


 見下ろす街並みに、徐々に明るさが満ちる。東の空の下から淡いオレンジの侵食が始まっていた。放っておけばいつまででも悔恨の情を吐露し続ける彼女の右肩に手を置くと、タツヤはゆっくりと首を左右に振る。


「一度だけ、写ったんですよね? 僕はいつもあと五分早く起きれたらちゃんとカメラの準備を終えてから新聞配達ができて、それでちゃんとブルーアワーもゴールデンアワーも、何だったらモルゲンロートだってちゃんと写真に収められる。そんな風に思ってたんですよ。けど結局一度としてあと五分早く起きる、なんてことはできませんでした。きっと人生って、そういう永遠にやってこないあと五分の後悔をいくつも抱えながら、それでもやってきたその瞬間瞬間を生きていくしかないんですよ。人生にもしもはないんです。だからこそ人生って面白いし、難しいし、一つ一つの選択肢をどうなんだろうって悩みながら選んで生きていくんです」


 何か言いかけたアカネはその言葉を呑み込むと一言「ありがとう」と声に出す。瞳は潤み、そこからマスカラ混じりの雫が滑り落ちそうになっていた。


「アカネさん、見てくださいよ。この素晴らしいブルーアワーを」


 タツヤは泣きそうな彼女から目を逸らすと、あと僅かで終わってしまう奇跡の時間に意識を向けた。既に東の山の稜線は淡いピンクに染まり、山はその薄く掛かった靄の向こう側でしっかりと存在感をこの世界に現してきている。色とりどりな屋根が昇りつつある太陽の光を感じ、街は朝の息吹を始めていた。もう、時間がない。


「タツヤ君?」

「奇跡の青の時間は、すぐに終わります。だからこそ貴重で、けれどまた夕方になれば、あるいは明日の朝になれば、その奇跡にまた巡り会えるんです。僕は結局最後までその奇跡の瞬間を写真に収められなかったけれど、でも一番欲しかったものは、今ここに、ちゃんと(もら)えましたから」


 涙を浮かべている彼女にカメラを向けると「笑ってください」と声を掛け、それからシャッターを切る。


「アカネさんは、歳を取っても本当に綺麗で素敵で、僕が一番好きな笑顔を持っている女性だ。今日、いや、ずっと出会ってくれて、ありがとうございました。僕はあなたが、大好きでした」

「何を言ってるの。こんなおばさんにそんなお世辞……タツヤ君?」


 気づくとアカネの隣には肩で息をする髭面の男の姿しかなかった。


「あの」

「あなたのブルーアワーの君には、会えましたかな?」


 街は朝の光に包まれ、空はすっかり澄み渡った薄い青に塗りつぶされ、そこに小さな雲をいくつか浮かべていた。もう、夜は明けてしまったのだ。


「はい」


 アカネはそれだけ答えると、立ち上がり、改めてカメラを交差点へと向けた。彼の事故後、新設された信号機が赤から青へと変わり、草刈り機を詰んだ軽トラックが走っていく。撮影した写真にはもう何も写らない。そこにはただ日常の街並みだけが、切り取られていた。(了)

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