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「えっ、今はゆうやけこやけ流れないの?」
「うん。違う曲に変わってる」
「えええっ、そんなあ。どんどん変わっていっちゃうなぁ」
一晴の助言の通り、万穂は家に帰ってから千佳子に話しかけてみた。千佳子は万穂の言葉を聞いて、「宿題の音楽ならもう変わった」と教えてくれたのだ。
「ね、今、どんな曲?」
「タイトルは分からないし、歌詞もない。みんな『宿題の曲』って呼んでる」
「そうなんだぁ。ちょっと歌ってみてくれる?」
「えっ」
千佳子は戸惑ってきょろきょろと辺りを見回した。この部屋は広いから、確かに歌うと少し響きそうだった。誰も聞いてないからさ、と万穂はさらに促す。
千佳子は少し呼吸を整えると、「フンフン」と鼻歌でゆっくりと歌い出した。
「やっぱり知らない曲だ。それより、千佳子ちゃん歌うまいねえ!」
えっ、と千佳子は俯く。「そんなことない」
千佳子のその姿があまりに愛らしく、万穂は思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、指をぴくぴく震わせるにとどめた。今そんなことをしたら確実に怖がられる。もしくは嫌われる。
「でも、私、ゆうやけこやけも覚えてる。一年生のときまでは、それだったから」
「あ、そうなんだ! 私さ、今日たまたまあの曲聞いて、懐かしくなっちゃってさ」
「・・・・・・私は、あの歌、嫌い」
千佳子の声は低かった。万穂は驚いて声が出ない。「確かに、あれが流れると宿題しなきゃいけなくなるもんね」と軽口を叩くことも出来なかった。千佳子は神妙な顔つきをしていた。
一晴の優しい笑顔が思い浮かぶ。「俺はむしろ、万穂の妹の気持ちの方が分かるけど」思い出した記憶の中の一晴の表情が、複雑に歪んだ。
帰る家があっても、帰る場所があるとは限らない。一晴は言った。もしかしたら、千佳子もそうだったのだろうか。もしかしたら、今もそうなのだろうか。もしかしたら、そんなことが本当にあるのだろうか。もしかしたら、もしかしなくても、それって、とてもとても辛いことなんじゃないだろうか。
「そう、なんだ。理由を聞いてもいい?」
「・・・・・・あれが流れると、施設に帰らなきゃならないから」
頭が回らなかった。たとえば、雀は猿の仲間なんだ、と言われでもしたような、びっくりだった。
「帰りたくなかったんだ」
「えっ、あ、施設が嫌いだったんじゃないよ」
千佳子は慌てて取り繕った。
「施設よりも外が好きだったの。好きだったし、外にいなきゃいけなかったし」
「いけなかった・・・・・・?」
「仲良しの友達が、いたから。毎日遊んでて、それで」
万穂はやっと笑顔になった。そういう気持ち分かる、と千佳子に返した。
万穂がまだ学校で馴染んでいて、施設の外にもたくさんの友達がいた頃、音楽が鳴る時間になれば、皆はまだ遊んでいても自分は帰らなければならなかった。いわゆる門限というやつだが、そんなときに同じ歌ばかりを聞けば憂鬱にもなるというものだ。
「それじゃあ、もしかして、千佳子ちゃん、前の学校に、施設に戻りたい?」
これを言うのは、NGだと分かっていた。とても勇気がいることだった。しかし、万穂は言った。言わなければ、きっといつまでも何も変わらない。
「本当は、ほんとは」
千佳子は、俯いた。小さな声でぼそっと呟き、次に、しっかりと万穂の方を見た。
「帰りたい」
言い終えて、ギュッと瞑った目の端から水滴が弾けた。
我慢しきれず、万穂は千佳子の小さくて細い体を抱きしめた。こんなに小さいのだ、小学生なんて。私たちは、万穂と家族を、友達を、引き離してしまった。
しかし、万穂の腕の中で次に呟いた千佳子の言葉に、ハッと真顔になった。
「だって、帰らなきゃ。私がいなくなったら」