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新学期のこの時期、高校生の一日は早い。あれよあれよという間に放課後だ。
放課後、万穂が教室内に目当ての姿を探すと、既にいなくなっていた。相変わらず素早い。今日もバイトらしい。一晴には父がおらず、母のわずかな収入、兄のバイト代があって生活が成り立っているらしい。そこで、学校には黙ってアルバイトをしている。
そのこともあって家から遠いこの学校を選んだという。それにしたって、家から二時間というのは少し遠すぎではないかと自転車通学の万穂は思う。そんなに遠かったら、通学にかかるお金も馬鹿にならないのではと訊いてみると、「ほかにも事情があるんだ」と言われた。それ以上はなんとなく聞ける雰囲気ではなかった。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、自転車をゆっくりと漕いでいく。気付いたら家の前の坂にいて、慌てて立ち漕ぎを始めた。
「ただいま」
万穂の家は大きい。それに、家には穏やかで優しい母親と、寡黙だがやっぱり優しい父親がいる。万穂自身もそんな夫婦によく似ている。しかし、万穂と夫婦に血の繋がりはない。
万穂は生まれたとき家庭の貧困を理由に施設に預けられた。そして、小学校三年生のとき、今の家庭に引き取られたのだ。夫婦の愛情に包まれ、変な遠慮も覚えず、本当の親子のように過ごしている。
「おかえり、万穂。お客さんが来てるの」
ちょうどリビングから出てきた母親の礼美に声をかけられた。
「私の知ってる人?」
礼美がやけにニコニコしているので、疑問に思って万穂が訪ねた。すると、礼美は嬉しそうに頷く。「ふふふ、よく知っている人よ」
礼美がそういうので、この先にいる来客の顔がなんとなく想像できたが、予想と違うかもという保険のかける意味の気持ちも残しつつリビングを覗きこんだ。
「あ、やっぱり」
万穂は笑顔を浮かべ、その人に駆け寄った。
「万穂、久しぶりねえ、また背が伸びたんじゃない? もう高校生なのに」
「そっちこそ、また適当なこと言ってる。中学のときから変わってないよ」
万穂が施設にいたころの職員だった。もう若いとは言えないはずだが、いつでも若々しく、幼児のような笑顔をみせる、万穂の大好きな先生だった。
万穂が預けられたときから引き取られるときもずっと面倒を見てくれており、今でも一年に一度は必ず様子を見に来てくれている。
「うんうん、元気そうで何より。ところで勉強はちゃんと進んでる?」
「美咲さんに心配されなくても大丈夫だって」
「へえ、本当に? 礼美さんにきいたよ。物理、赤点ギリギリだったんだって」
「ちょ、お母さん、勝手に変なこと吹き込まないでほしいんだけど・・・・・・!」
礼美が用意してくれた紅茶とシフォンケーキを口に放りこみながら、職員の美咲と雑談をする。制服から着替えることもせず、鞄も放ってあった。いつもきっちりしている万穂の行動からは考えにくいことだが、美咲が来るときはいつもこうだ。
万穂にとって施設は、もう一つの帰る家だったのだから、鞄などどうでもよくなるくらい愛情が深いのも当然のことである。
「ところで、今日は万穂の成長を確認するのと、もう一つお話があって来たんだけど」
「もう一つ?」
「万穂も聞いているはずだけど、新しく引き取ってもらう子の話よ」
と、聞いて万穂には一つ思い当たる節があった。そういえば少し前に、礼美からこんな話をされたのだ。
「ねえ万穂、妹、欲しくない?」
「ん?」
「私、万穂のいた施設からもう一人、誰かを引き取ろうと思うの」
「ああ、いいんじゃない?」
万穂が即答したのには理由がある。
一つ目に、前からそんなことを言い出す兆候があったこと。出先から帰って来た礼美が神妙な顔つきで「とっても素敵な女の子がいたの」と話すのを聞いたことがあるのだ。
二つ目に、万穂自身、妹が出来るということに憧れがあったからだ。施設時代は大勢兄弟がいたが、今は一人っ子。そういう意味では、寂しさがあるのも事実だった。
そして最後に、礼美に引き取られれば絶対に幸せになれるという確信があったからだ。それは、万穂自身の経験から成り立つ確信で、万穂は礼美の家にきてからいいことがたくさんあった。単にこの家が裕福だからとかいう理由ではなく、もっと、心の底から最高だと思えるようになったのだ。
そんなことを思い出しながら、万穂は、あの話をしたあと準備を進めていたのだなと合点した。美咲の方へ向かって、「その子の話は少しだけ聞いています」
「実は、その子を迎えにきてもらう日程の調整をするためのお話もしにきたんです。あの、出所式とかをしたいものですから」
美咲はそう言いながら今度は礼美に目を向けた。
「あら、私はいつでも構いませんよ。迎えに行くとき、万穂も一緒に行く?」
「行きたい。久しぶりに施設の子に会いたいし・・・・・・」
カレンダーを見ながら少し話し合い、来週末の金曜と決めた。万穂の授業が終わった、夕方だ。
しばらく妹になる予定の子について話したりしているうちに、日が落ちてしまっていた。
「あ、いけない。今日は一度施設に戻らなきゃいけないんだった。すみません、そろそろ失礼します。じゃあね万穂、また来週」
「ええ、またいつでもいらしてください」
美咲が立ち上がると、礼美が小さく頭を下げた。万穂も「美咲さんまたね」と子供に戻ったかのように元気に手を振り、その後玄関先で美咲を見送る。軽く会釈をした美咲は、門前に停めてあった車に乗り込み、スピードを出して去っていった。坂を下って行ったので、すぐに車の姿は見えなくなった。
「ねえ万穂、千佳子の部屋考えなきゃね」
千佳子というのは、これから万穂の妹になる女の子の名前だ。礼美は、美咲が帰ると、万穂に向かってそんなことを言った。
「万穂の部屋の隣、物置みたいになってるから、あそこを片付けましょうか。それとも、二つの部屋を繋ぐドアを取っ払って、同じ部屋にする?」
「私と同じ部屋は可哀想だよ。ただでさえ知らない家に来るってストレスなんだから、一人の空間を作ってあげた方がいいんじゃないかな」
「あ、確かにそうね。でも、千佳子が万穂と一緒がいいって言ったらそうしましょうね」
楽しそうな礼美を見て、万穂も少しずつ来週が楽しみになってきた。