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一晴は、小学校の正門前に立っていた。立って、肩を落としていた。ああ、駄目だった、と、そう落ち込んでいた。
要なら、好きな女の子を傷つけたりしない。また間違えてしまった。
どうすればいいのだろう。
一晴はゆっくりと歩き出した。向かっているのは、何度も通った要の家だ。
『心配しなくても、許してくれるわけないから』
万穂の言葉が頭の中で響く。
そういえば、一晴は似たようなことを千佳子の父親に言っていた。自分の発言を思い出しながら、足はもうずっと覚えている道を辿る。
新しい建物は建っていないようだが、いくつか取り壊された建物があるようで、この町並みには何かが足りないような気がした。何が足りないのかはもう分からなかった。
要の家の前で、一晴はしばし立ち竦んだ。ここまで来て何をするつもりなのか。自問した。答えは出なかったが、インターホンを押した。
突然押しかけてきて迷惑だと言われたら帰ろう。今更現れて何のつもりだと殴られても受け入れよう。包丁で心臓を一刺しにされて死んだっていい。
インターホンからは、弱々しい声が聞こえた。
「はい」
一晴は、はっきりと喋った。
「津坂と申します。津坂一晴と」
電話口の相手は黙った。やがて、寝起きのような掠れた声で「どうぞ」と言った。上がってください、と言った。
家は綺麗だった。部屋の面積は広くはないが、物が少ないので広々としていた。見覚えのある景色だったが、自分の記憶の中より何もかもが小さかった。要の母親は、京子さんは、こんなにも小さかったのか。
「要は、こっちです」
一晴は、静かに和室に入った。四畳半ほどの和室の一角に、仏壇が置かれている。要の写真が置いてあった。笑顔で、誰かと肩を組んでいる。
一晴はその写真に覚えがあるはずだった。昔、要へのいじめが始まる少し前、まだ二人の仲が良かった頃、ここで、肩を組んで要と撮った写真だった。一晴もその写真を持っていたが、要が死んだあと、要が流された場所にその写真を破り捨てた。
「・・・・・・これじゃあ、ここで、要を見るたびに、俺のことまで思い出しちまうんじゃありませんか」
仏壇の前に座る前に問いかけた。京子は何も答えない。部屋の隅には埃が溜まっているようだが、仏壇だけはとても綺麗だった。
一晴はろうそくに火をつけ、線香の先にも赤い火をまとわせる。少し振って火を消し、煙だけになった線香を立てた。
静かに手を合わせる。外に雪でも降っているのかと思うくらい、全ての音がどこかに吸い込まれたように静かだった。ただ、静かだった。
やがて、一晴が静かに震え始めた。肩だけではなく、瞼も震え、睫毛の先までためられた水が膝に落ちる。それを合図に、一斉に涙が落ちた。堰を切ったように、瞼の裏にこれまでずっと溜められていたダムが決壊し、滝のように溢れ出した。
小学三年生に、あるいはもっと若く、赤ん坊に戻ったように、大口を開けて泣いた。人前でみっともなく、殺人者らしく、無様に。
「うあああ──」
声がろうそくの火を揺らした。それ以外は何も動かなかった。一晴が時間を止めて、世界中の全てが動かなくなったようだった。
声が途切れたあと、一晴は、がくりと項垂れた。手の平で一度顔を覆う。が、その手もすぐ力なくだらりと肩と同じ位置にぶら下げ、床につける。
「要、ごめんなあ」
奥に立つ京子がハッとした。袖口を握りしめる。当然、一晴はそれに気付かない。
「痛かったよなぁ、苦しかったよなぁ、悲しかったよなあ! 当たり前だぜ、俺なら痛えもん。俺、お前が羨ましかったんだ。俺と同じだと思ってたのに、お前の方が幸せそうに楽しそうに見えて、俺よりもずっと先を歩いているように見えたんだよ」
一晴は一度、鼻をすすりあげた。しかし涙は拭かず、体は動かさない。自嘲するように歯を見せ、実はさ、と小さな声で囁いた。
「俺はずっと謝りたかった。感謝も伝えたかった。俺と友達になってくれてありがとうって。それで、俺、本当はもうちょっと、ちょっとでいいから、お前と、遊びたかったなあ──」
七年間、要のように要のようにとそれだけを考えて生きてきた。要に成り代わるような人生を歩んできた。それで七年間溜まった涙が、謝罪の言葉が、体中から溢れ出てていた。
高校二年生。十七歳になってようやく、いくら望んでも、自分は要にはなれないのだと悟った。要は今ここにいるからだ。自分の前に、仏壇の中に。この小さな箱の中に。
「夕飯、食べてく?」
京子さんが一晴の肩に手を乗せた。突然のことに声を失った一晴は、力なく振り向いた。これまで自分が泣き叫んでいたところも全て見られていたとようやく思い出し、気まずい顔をした。
「泣き疲れてお腹すいたでしょ」
「あ・・・・・・」
時計を見ると、もう七時を回っていた。墓からここまで戻ってくるのに、電車でもかなり時間がかかったが、こんなに時間が経っているとは思っていなかった。かなり腹も減っている。
京子の言葉に甘えて、というより、何も考える力がなかったので言われるままに、ごちそうしてもらうことにした。
夕食はもう出来ていたらしく、少し温めてすぐに出てきた。あまり使われていなさそうな男物の茶碗もある。今は京子の一人暮らしのため、おそらくは昔の夫、つまり要の父親の物だろうと察することが出来た。
「食べてください。あ、箸は、割り箸の方がいいかしら」
木でできた割り箸、プラスチックで出来たスプーンを渡された。メニューは、ビーフシチューと煮かぼちゃ、それから料理の名前はよく分からない肉だった。
一晴は、スプーンで一口、ゆっくりと口へ運んだ。舌で味を確かめ、思わずウワッと叫びそうになった。
美味しかったのだ。
ビーフシチューがうまいこと。煮かぼちゃがうまいこと。種類も分からぬ肉がうまいこと。それを食べているということ。
家族としての幸せがそこにあった。間違いなく、自分は今世界で最も幸せだと思った。
熱すぎるビーフシチューに息を吹きかける暇すらもったいなかった。一晴は、がつがつとご飯をかき込んでいく。
冷たく甘いかぼちゃで口を冷ました。それから、熱い白い白飯をよく噛んだ。肉汁で喉を潤した。
全てをたいらげ、スプーンを置いた。手を合わせる。
「ごちそうまでした」
声が震えそうになった。
食器を流し台の水に浸けてから、京子は再び一晴の前の席に座った。
「あたし、お金がないの。あの人と結婚して仕事をやめたから。でも、、あの人はあたしと要を置いて別の女と出て行った。でも、あたしは頑張れた。イチから仕事も探して、でも要には栄養のあるもの食べさせたかったし、家事も、人間関係だって。
要がいたから。要があたしの生きる意味だった。
でも、要は死んだ。殺された。要が家に初めて連れてきて、親友とまで言った唯一の友達に殺された」
「その通りです。俺が殺しました」
「あたし、許さないわ。どんな事情があったって。
何度も死のうと思ったけど、死ねなかった。要が最期に『生きて』って言ったのよ。だから死ななかった。どこか遠い場所で暮らしなおそうとも考えたけど、出来なかった。要のことをなかったことにしてやり直すなんてできない。
あたし許さない。要のことをいじめた奴も、その親も、見て見ぬふりした子供も、教師も、何より、何にも気付けなかったあたし自身を、絶対、絶対許さない」
許さないけど、と京子は言葉を詰まらせた。
「あなたがここに来たら渡そうと思ってた物があるの」
京子はそういうと、リビングの扉を出てどこかへ消えた。京子がいなくなってからの数分が永遠に感じられた。




