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津坂一晴がまだ就学する前のことだった。「公園でも行ってきな」と家を放り出された一晴は、少し遠くまで足を伸ばして、ブランコのある公園へ向かった。少し広くて、たまにサッカーをしている小学生がいる。すると、ブランコの方までボールが飛んでくるので少し危険だ。
公園に入ると、どうやら小学生の姿はないようだった。しかし、ブランコの上に人影が見えた。夕日の逆光で、うまく顔が見えなかったが、自分と同じ年頃の子供のようだった。
その子供は、いつも一晴が座る方の、右側のブランコに座っていた。
仕方がないので、一晴は左側のブランコに座った。左側は、少し鎖が長くて、高さが低いのだ。
「どうしたの? 寂しそうだね」
右側の少年が声をかけてきた。「そっちのほうこそ」と一晴は言った。横から見れば、少年は暗い顔をしていた。太陽の光に、涙の跡が光っていた。
「俺、父さんがいなくなったんだ」
「ほんと? 俺も、昔、いなくなったことあるよ。今日は母さんに家を追い出されたの」
それが、津坂一晴と広瀬要の出会いであった。
話を聞くと、広瀬要はちょうど今しがた、父親が別の女とどこかへ出て行ったのだという。家で、母親の前で泣く訳にいかないので、こうして家の近くの公園に出てきたらしい。
一晴は、ふうんと言いながら聞いた。
自分は、父親がいつ出て行ったのかも、自分が泣いていたのかも、母親が悲しんでいたのかも覚えていない、と言った。
要も、ふうんと言いながら聞いた。
二人はすぐに仲良くなった。いつも、このブランコのある公園で遊んだ。右側のブランコは要のものになった。
二人でいると心が安らぐし、家にいなくても済むし、なにより、要の話を聞くのは楽しかった。要はいつも穏やかで明るく、よく冗談も言った。
「あのさあ、一晴」
「ん?」
「俺、雀になりたいんだ」突然そんなことを言った要に、少し面食らってしまった。
「雀? なんで」
「電線の上に行きたいと思って」
「電線。って、あれのこと?」
公園の入り口に近い道路を走る電線を指さした。生憎、今は雀はいないようだった。
「でもさあ、電線の上に行くなら、あいつじゃだめなの?」
「あいつって?」
「カラス」
「だめだよ。大きすぎるし、目立ちすぎるよ」
分かるような、分からないような。でもやっぱり、電線の上に行きたいという気持ちは、ちょっと分かるかも。
一晴はそう答えを出した。
やがて二人は小学生になったが、付き合いは変わらず、より仲良くなった。
二人が一番好きだったのは、自転車に乗ることだった。
小学三年生のある日、人の少ない河原の橋の下に捨てられている二台の自転車を見つけたことがきっかけだ。子供用のものであったが、サドルをぎりぎりまで上げれば、自分たちにも乗れそうだった。
これに乗ってみようと目を輝かせた一晴を、要が止めた。
まずは警察に届けなくちゃというのだ。それもそうか、と一晴は納得し、二人で鍵の壊れた自転車を引いて歩いた。タイヤは一定間隔でがくんと下がる感触がして、少し気持ち悪かった。
当時二人の家の家計において、自転車は高級品であったので、当然二人は所持していなかった。一晴の感じたがくんという感触は、タイヤのパンクが引き起こしたものであったが、当然二人はそれを知らない。
交番に届けると、お巡りさんが頭を撫でて褒めてくれた。三か月の間持ち主が現れなかったら、君たちに渡すよと言った。二人は飛び上がって喜び、ハイタッチをした。
それから三か月、二人は毎日顔を見合わせて笑顔を見せた。地図で自宅周辺を探しては、ここに行ってみようあそこへ行ってみようと胸を膨らませた。行きたい場所は、いつの間にか市内を飛びだし、県内も飛びだし、他県の山奥にまで広がっていた。
そうして三か月が過ぎ、自転車を手に入れた二人は、毎日のように練習をした。人の少ない河原で、道路の上を交代で補助しながら何日も何日も練習した。
体中に擦り傷を作った一晴は、家に帰るといつも母親に生ごみでも見るような顔をされたが、練習はやめなかった。
「わ! わ! 一晴、進めるっ、進めるよ!」
自転車に先に乗れるようになったのは要だった。
「すげぇ! 要、すげえよ!」
一晴は、後輪がパンクしたままの自転車でずっと手こずっていたが、要の三週間ほどあとにようやく少し進めるようになった。
自転車は、家に置いておくと母親が勝手に売却してしまう可能性があったため、基本的に要の家に置いた。
一晴と要は、自転車に乗れるようになったら、毎日、放課後は町内の至る所を走った。風を切って走るのは爽快だったし、知らない土地に行くのはわくわくした。
しかし、楽しいときはそう長くは続かない。
ある日の放課後、家の近くのスーパーを通りかかったときであった。その女性とすれ違ったとき、一晴はハッとし、青ざめた。
「要、要! どうしよう」
それは母であった。迂闊に近所を走ったことを後悔すること、ここからどう逃げるか、ばれていたらどう弁解するか、一晴の頭にいくつもの事柄が一気に流れ込む。それらを考えながら、とにかくハンドルを切った。
案の定、母には問い詰められた。
「あの自転車はどういうこと?」
「かな、えっと、友達の、自転車で」
「友達って要くんでしょ? 一人っ子じゃない。どうして二つも自転車をもってるの?」
「あの、要が、知り合いから二つを譲り受けて、あの、それで」
母の顔がふっと優しくなった。
「下手な嘘つかなくていいの。家に置けばいいじゃない」
一晴は驚いた。それはもう、驚いた。天地がひっくり返って考えうる限り全ての動物が暴走して考えうる限り全ての災害が同時に起こっても足りないくらい驚いた。
「なんで・・・・・・?」
感情を表すならば、嬉しい、というよりも、困惑した、のほうが正解だった。しかし、その言葉に浮かれてしまったのは事実であった。
喜んで要の家から自転車を運び込んできた一晴は、翌日の放課後、家に帰ってきて目を見張った。自転車は、無くなっていた。あっさりと、当然のことのように、無くなっていた。
適当なことを言って、騙して、自転車を手に入れて、そして売ったのだ。
一晴は絶望した。
帰って来た母親に、呆然としながらも尋ねた。「もしかして、俺の自転車、売ったの?」
母親は、少し高そうなケーキの箱を一晴の目の前にぶら下げる。
「自転車って安いのね。こんなくらいにしかならなかったわ。まあ、ぼろかったし、仕方ないけど」
悪びれもせず、あっけからんと、むしろ、少し不満げに。一晴は、自転車と交換されたケーキを見て、涙が出そうになるのを必死にこらえた。要になんと言えばいいのだろう、そんなことを考えながら、家を飛びだした。
自転車を拾った河原まで、必死に走った。息が切れたので、その場で寝転んだ。いつもなら、風を切って走るのは気持ちいいはずなのに、もやもやした気持ちは少しも晴れなかった。
一晴は、あの人をもう二度と信じるまいと心に誓った。
「要は、いいよなぁ」
一晴は、誰にともなくそう呟いた。要は、親に自転車を売られたりしない。要は、親に疎まれもしないし、自分より可愛がられるわがままな弟もいない。出会った頃は、同じ境遇の同じ立場だと思っていたが、要と自分はやはり、何かが違うのだと思った。
その頃からであった。
一晴と要の間で、何かが変わり始めたのは。
母親の男遊びがますます激しくなり、機嫌が悪くなると人を殴る弟にも少しずつ力がついてきた。
学校では、小さな学校だったためか、連続して要と同じクラスになれて、それなりに楽しく過ごしている、と思っていた。しかし、何かがずれていた。一晴と要の間には、越えられない壁があった。
要とは、一緒に自転車を乗ることは出来なくなったが、それでもほとんど毎日のように一緒に遊んだ。家にいるのも嫌で、要に対して引け目を感じることもあったが、一緒にいるのは楽しかった。きっと、同じ境遇なのに幸せそうな要に嫉妬しているのだ、と自分を納得させた。
「なあ、一晴よお」
一晴が教室でそう声をかけられたのは、突然だった。クラスでも影響力のある男子グループの一人が、椅子に座ったまま話しかけてきたのだ。終業後、ランドセルを背負って帰ろうとしていた一晴は、引き留められて「なに?」と返した。
「要って、なんか調子のってね?」
調子に乗っている。その言葉の意味がよく分からなかった。要はいつも一生懸命で、優しくて、態度が大きいということもない。
そして、すぐに気付いた。この男子も要に嫉妬しているのだ。おそらくは、要の人気に。要は、スタイルが良かった。頭が良くて、足が速かった。おまけに、話も面白くて、誰にでも優しかった。女子から人気が出るのも、納得のいくことだった。一晴ならそう分かるが、この男子にはそれが分からなかったらしい。
「やっぱ、調子乗ってるよな。ちょっとさ、こう、思い知らせてやるべきだぜ」
一晴は何も答えなかった。『思い知らせてやる』がどういう意味か、分からなかった訳ではないのに、だ。
要だって、ちょっとくらい苦しめばいいのだ、と。そう思った。
要が死んだのは、小学四年生の六月だった。ついに、もう止められないくらいにエスカレートしたいじめから、一晴は逃げ出せずにいた。
ただ、何があっても、決して要の自転車にだけは手を出さなかった。タイヤをパンクさせることも、サドルを盗むことも出来たが、それだけは決してさせなかった。
その日のことを、一晴は正確に覚えている。帰る前に少しだけ河原に寄ろうと思って、寄り道をしたのだ。風が強くて、雲の流れも速い日だった。
「一晴」
そこに、自転車に跨った要がいた。「要・・・・・・」いじめの仲間だった男子生徒抜きで、二人だけで話をするのは久しぶりだった。懐かしい感覚がした。今の自分は何か大切なことを忘れているとか、大切なものをなくしてしまったとか、そんな気がしていた。
「一晴、俺たち、昔、公園で会ってさ」
「・・・・・・」
「お互い父親がいないってんで、共感して仲良くなっちまってさ」
「・・・・・・」
「それがどうしたよ、こんな」
一晴は何も言えなかった。少し傾いた陽の、夕方にはまだ少し遠い眩しい光が二人を刺した。強すぎる風が二人の頬を叩いた。
「俺は知ってるよ。お前って、本当はこんなことをする奴じゃない。こんな小さな奴じゃない。俺、こう思うんだよ。お前はきっと、この先の人生できっと色んな人を救うことになるよ。感謝もされる。でも覚えておけよ。何度でも思い出せよ。お前は人殺しなんだ。お前がこの先、何百人という人間を救ったとしても、お前は友達を殺した、人殺しなんだ」
要は悪戯っぽく笑った。「ざまあみろ」要の笑顔は、随分と久しぶりに見た。もう何年も会っていない要に久しぶりに会った。
少し明るい陽の色は、要の瞳の中を照らした。要の目はこの空と同じ色をしていた。
そして、一晴が声を出す前に、要の「人殺し」という言葉の意味を理解することになる。要は、河原の道路の上から、一気に坂を駆け下っていった。その先にあるのは、もちろん川だ。決しては浅くはない川であった。
しばし呆然とした一晴は、すぐにハッとし、誰かを呼ばなければと走り出した。しかし、生憎この辺りには誰もいない。誰もいないから、一晴はこの場所を気に入っていたのだ。
焦って、かなり遠くの交番まで走ることになった。交番に駆け込んだ一晴は、ろれつの回らない口で、早口でつっかえながらなんとか状況を説明した。
結局、要は死んだ。水を大量に飲んでしまっていたらしい。確かに流れは速くなっていた。一晴は、そんな簡単なことしか知らされなかった。要の具体的な死因よりも大切なことは、いじめの実態だったからだ。
一晴は連日、警察と話をした。淡々と機械的に答えた。何も考える余裕はなかった。要が死んだという事実が、一晴の心を押し込め、小さくした。
要の死という最悪な結末によっていじめは終了した。そして、それによって一晴はようやく我に返った。要は「特別幸せ」だったのではない。要にも辛いことがあって、きっとたくさんあって、しかしそれを表に出さなかっただけだ。自分に見せなかっただけだ。一晴のように、不幸を言い訳に人を傷つけたりしなかった。
自分は弱かったのだ。そして、要は強かったのだ。
自分の生き方は間違っていたのだ。要の生き方が正解だったのだ。
一晴の保護観察処分が決まったとき、一晴はようやく、とんでもないことをしてしまったと思った。一晴はただ人殺しをしたのではない。「間違った方」が生きていて、「正しい方」が死んでしまったのだ。一晴は絶望した。何度目か絶望を繰り返した。
「ああ、そうか」
一晴は呟いた。この重大な失敗を取り戻すチャンスに気付いたからだ。
正しい方が死んで、間違った方が生き残ったのならば、間違いを正せばいい。当たり前のことだ。宿題をするときは、いつも間違いは直すようにと言われる。つまり、そう、要のように生きるべきだと考えたのだ。
一晴と要は友達だった。一晴は、要とずっと一緒に生きてきた。一晴は要のことをずっと見ていた。
出来るはずだ。生きられるはずだ。要のように。
こうして、要としての生活が始まった。一晴はいつでも要のことを考えていた。要なら何を勉強するだろうか、要なら誰を助けるだろうか、どんな趣味をもつだろうか、何が好物だろうか、どんな女の子を好きになるのだろうか──。




