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 特別なことはなにもない、普通の平日であった。昼休み。万穂と一晴のこう着状態が当たり前になり、お互い新しい日常を始めたころであった。


 この緊張を崩したのは、前回は一晴の方からであったが、今回は万穂の方からだ。


 窓際の自分の席に座って、ぼんやりと座っている一晴の前に、万穂が立った。


「一晴、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない」


「・・・・・・教えるもなにも、君はもう全部知ってるんじゃないの」


「知らないよ。一晴が何をして、どう考えて、どんなことをして、なんで今になって私を避け始めて、なんでそれでも私と千佳子ちゃんに協力してくれるのか、何もわかんないよ」


「俺には、君と一緒にいる資格がないと思った。だから離れた。それだけだよ」


「だったら、だったら始めから近付かなけりゃよかったじゃん! 私のことなんて無視してさ! 一晴の人格を変えちゃうくらい大きなものを、つい最近まで忘れてたってわけっ?」


 昼休みとは思えないほど、教室は静かだった。教室内のほとんどは雑談を続けながら、声を荒げる万穂の方へ、顔色一つ変えない一晴の方へと意識を向けている。


 万穂の友達などは、もはや誤魔化す気すらなかった。じっとこちらを見つめている。


「千佳子ちゃんのお兄ちゃんは、広瀬要という。俺たちと同い年の、同い年だったはずの、男の子だ。そしてそいつは、俺の、この世でたった一人の親友で、七年前、俺が殺した」


 一晴は、色のはげかけた教室の木目を見ながら、淡々と言った。ニュースを読み上げるキャスターより冷たい声だった。


「万穂の知ってることと同じだろ。満足した?」


「しない! 一晴は、一晴の気持ちを教えてくれない!」


 教室の中で、ぽつりぽつりと続いていた話し声が全て消えた。窓の外、電柱の上で歌っていた鳥たちも鳴き止んだ。誰も何も言わず、万穂の声があとに残った。


「あいつは、要は、とても気持ちがいい男だった。家は決して裕福ではなかったが、いつも笑っていて、イライラしても声を荒げることはなく、誰に対しても優しかった。不愛想で短気な俺とは正反対だった」


「え?」突然話はじめた一晴に驚く。話し方はゆっくりだが、声はやはり冷たかった。


「この高校で万穂と会って、万穂が施設育ちで辛いいじめも経験してきたと知った。そのとき、俺は、『要ならきっとこの子に惹かれるんだろうな』と思った。万穂は要にとって、きっと、とても魅力的な女の子だった」


「ちょっと待ってよ。それって、一晴自身は、私のこと好きじゃなかったってこと?」


「万穂が好きだったという俺も、俺じゃなくて、俺が演じた広瀬要だよ」


 言葉を失った。広瀬要を演じる、とはどういうことなのか。広瀬要のような振る舞いを真似したということか。じゃあ、あの一晴は、この一晴は、今ここにいる一晴は。


 要のように物事を考え、行動を決定していたということ。それが、要を演じるということだ。


「ごめんな」


 一晴は、機械のように落とした。空っぽになりかけの万穂の心に、ガツンと落ちた。心の器に、ひびが入ったような気がした。


「謝るのは、ここでそういうのは、なしでしょ、さすがにさ」


 万穂が言うと、一晴は少しだけ眉を顰めた。「泣くの?」


「泣かないよ!」


 反射的に万穂は叫び、きっと一晴を睨み付けた。


「じゃ、あの、浮気は? あの女の人は? “一晴”が好きな人なの?」


「浮気じゃねぇよ。ただの仕事だ。人殺しの俺を、監視して、更生させる仕事」


「え・・・・・・」


「もう満足した? もういいだろ?」


 万穂は黙った。訊きたいことは山ほどあった。どれから話すべきか迷った。どの話題なら一晴の心を繋ぎ止められるのか分からなかった。


 万穂が口をパクパクさせているうちに、一晴がそっぽを向いた。


「じゃ、この話は終わり。もう話しかけてくるなよ」


 万穂はぶんぶんと頭を横に振った。綺麗で細い髪が跳ねる。夢中で声を上げる。


「どうして? どうして私と千佳子ちゃんに協力したの? どうして、千佳子ちゃんのお父さんと、私たちを会わせてくれたの?」


 一晴は立ち上がった。にっこりと笑う。万穂の見慣れた一晴の笑顔。安心しかけた万穂はハッと気を持ち直した。これは「広瀬要」を演じているときの笑顔なのだ。


「昔、俺の親友が、世界で一人の親友が言ったんだ。『お前がこの先、何百人という人間を救ったとしても、お前は友達を殺した、人殺しなんだ』って」


 どういうこと、と訊こうとして、万穂は口をつぐんだ。二人の会話を、大きな予鈴の音が遮った。それを合図に、グラデーションを描くようにクラスの喧騒が取り戻されてきた。


 放課後、さっさと教室を出て行こうとする一晴を捕まえ、万穂は一方的に叫んだ。


「そう簡単に逃げられると思ったら大間違いだから! 私も千佳子ちゃんも、返してない恩がいっぱいあるんだから!」


 捨て台詞のように言った万穂の言葉を、一晴は結局最後まで無視をした。


 しかし一晴は、その数日後、すぐに「逃げられると思ったら大間違い」という万穂の言葉を思い出すことになる。



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