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家を出ると、大きな枝垂桜が目に入る。隣の家のおじいさんの庭だ。その真下、この季節限定の桜の花びら絨毯を踏みながらまっすぐ進むと、今度は長い坂に差し掛かる。時間帯によってはここから綺麗な朝日が見える。ここを自転車で、ブレーキもかけずに駆け下りるのが気持ちいい。坂を下りきったら急カーブ。またもやブレーキなどかけずに左へ旋回する。風が吹かない日でも髪がなびく――。
万穂がこの通学路で、こうして毎朝の楽しみを感じるのは、二年目だ。高校生のときから自転車通学をはじめ、毎日通っているうちに、だんだん楽しくなってきた。家に帰るときが大変なことが難点だが、まあ坂の上に住んでいる以上仕方ないことだ。
自転車で走っていると、駅から歩いてくる友達とばったり会うこともある。そんなときは、自転車を降りて一緒に歩く。一年の間に通学時間を変えることなどほとんどないので、たいてい同じ場所で同じ友達に会うものだ。そして、同じ時間に同じ背中をみるものだ。
「おはよう、万穂!」
「おはよー」
万穂はここで、ようやく本日最初のブレーキをかけた。今朝は信号にひっかからなかったため、一度も止まっていない。こういう朝ほど爽やかに笑えることはない。万穂は自転車を降りて、友人の横を並んで歩き始めた。
「万穂、頭に桜ついてる」
はははと笑っておでこのあたりに指をさされた。
「げっ。でも、テントウムシとかじゃないだけ可愛いもんだよ」
「前はチョウチョもつけてたよね。ほんと万穂の頭って飽きないわぁ」
「それ褒めてる?」
そう笑いながら、左手で頭をさする。しばらくそうしていると、万穂の目の前に一枚花びらが舞った。そこから学校に着くまでにまた少し坂をのぼることになるが、話していればあっという間だ。
「じゃ、私は駐輪場行ってくるね」
校門をくぐると、万穂は友達と別れて自転車を押しながら駐輪場へ向かっていた。
ここから駐輪場までは少し距離があるが、自転車に再び跨ることはしなかった。歩いている生徒が多いので危険なうえ、自転車に乗ったところで大してスピードも出せないからだ。
そして万穂が一人になると、ずっと前を一定の距離を保ちながら歩いていた男子が歩みを止めた。万穂がそれに追いつくと、今度は同じ歩幅で歩きだす。隣を歩きながら、自転車を押す万穂の顔をチラリと見た。
「おはよう、万穂」
「うん、おはよ」
そう挨拶されると、万穂は顔を綻ばせて言った。
その男子の名前は津坂一晴という。万穂と同じ高校二年生の男子で、万穂の恋人である。
一晴は駅から歩いて学校まで来るので、本来は駐輪場に用はないのだが、せっかく会えたのだから、と雑談をしながら歩く。申し合わせたことはないが、同じ時間に同じ場所で偶然会うことが日課であった。
万穂と一晴が出会ったのは、高校一年生の頃だ。
入学当初から津坂一晴は、掴みどころがないと話題に上る人物だった。冗談もいうし、ふざければ付き合ってくれるし、紳士的で物腰は柔らかく、穏やかであったが、特定の親友というものはいないようだし、趣味も分からない。放課後は一番に教室を飛びだしどこかへ行くが、顔が悪いわけでもなく人気もあるのに浮いた話は一つも聞かない。ある一定以上は、仲良くなろうとしても知ろうとしても、ひらりひらりとかわされてしまうのだ。
そうは見えないが、とんでもない闇を抱えているのかもしれない、根拠のない同情の目を向けられることもしばしばあった。
そのため、夏休み明け、一晴と万穂が付き合い始めたという事実が分かると、勝手な憶測をおまけにしながら、瞬く間に噂は広まった。知らない人の頭の中で感動的な恋愛ドラマが繰り広げられているなんてことは珍しくないだろう。
告白は万穂からで、三日ほどあとにOKの返事をした一晴は、一つだけ条件をつけた。
「申し訳ないけど、デートにお金はかけられないよ」、「クリスマスも誕生日も大したプレゼントは贈れない」。
安上がりなお付き合い、それが条件だった。
それから、せっせと映画の試写会に応募する万穂や一晴の姿がたびたび見られるようになったという。