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 男性は、紙袋の中から手帳を取り出した。母子手帳であった。それをゆっくりと万穂の手に握らせた。


 「それから、これは君の通帳だ」と言って、もう一つの手帳も握らせる。千佳子は終始、落ち着いていた。男性に「ありがとう」という余裕すらあった。


「これまで、君のために貯めてきたお金だ。こんな父親のお金など受け取れないというのなら、それも構わない。ただ、いつか君が大人になって、どうしてもお金が必要になったとき、父親のこのお金のことを思い出してくれたら嬉しい。私はお金が無かったせいで、大切な人を三人も失ったのだから」


 彼は立ち上がった。明るいリビングをぐるりと見渡した。


「本当に良いお宅だ。千佳子はきっと幸せになれるでしょう。長い話を聞いてくださってありがとうございました」


 そうして、男は礼美の家をあとにした。千佳子がぱたぱたと駆けて行った。のんびりと出て行ったあの人には、すぐに追いつけるだろう。


優しい父親だった。素敵な父親だった。出生の何もかもが分からず、不安に満ちていた千佳子の救いになっただろう。


 千佳子はあの人とどんな話をするのだろう。久しぶりの、いや、初めての家族水入らずだ。千佳子はきっと楽しい話も、抱えていたいじめの話も、なんでも話すんじゃないだろうか。


「万穂?」


「いいなあ、千佳子ちゃん」


 礼美が笑って、万穂の頭を抱き寄せた。


 いいなあ。自分の親が分かって。それから、たった一人でも優しい親がいて。それに、愛されていたということを知ることが出来て。万穂自身は、自分にも大切な家族がたくさんいると思っていた。施設の兄弟たち、美咲さん、お母さん。


 しかし、あんな血の繋がりを見せられてしまったら。あんな深い愛情を見せられてしまったら。


「寂しいなぁ」


 万穂は礼美の腕に目元をこすりつけながら、少し笑った。


 万穂は、温かい礼美の腕の中で考えた。あれだけ拒絶されても、嫌な顔をされても、本当に浮気だったとしても、本当にいじめを犯していたとしても、それでもやっぱり、どうしたって、一晴が好きなのだと気付いた。一晴に会いたい、会ったら、一晴ならばなんて声をかけてくれるだろうか。そんなことばかりを考えていた。


 テレビも何もついていない、静かな明るい昼間、礼美の腕の中で、万穂は蝉の声を聞いた気がした。今年初めての、夏を告げる声だ。


 もうすぐ夏が訪れようとしていた。



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