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 私が京子と結婚し、要を授かり、要が五歳になったころのことだ。後輩を飲みにつれていった居酒屋で、私と彼女は出会った。どういう成り行きだったかは忘れたが、彼女たちのグループと相席することになったからだ。


 黒くて綺麗な髪が京子に似ているな、と思っただけで、ほかに特別何かを感じたわけでもなかった。


 そこそこ盛り上がって、また飲みましょうという話になったはずだ。そこで、上司だった私と、相手方の代表だった彼女と連絡先を交換した。私個人としては、それっきりにするつもりだった。


 しかし、数週間後、彼女から連絡が来た。どうしても助けてほしい、頼れるのは私だけなのだという。私は妻に断って、彼女の元へ行った。私で助けになれるのなら、と思った。


「頼みがあるの」


 彼女は箱入り娘であった。名家のお嬢様で、父親は大きな会社の社長、母親は自身のブランドを立ち上げて成功している。娘である彼女の方はただのOLだったらしいが、最近は結婚を急かされているらしかった。


呼び出されてそうそう、そんな話をされて私は戸惑った。男を紹介しろとせがまれるのだろうか、しかし部下や友人を売るような真似はしたくない。あまり性格はよろしくないようだった。


「それでね、あたし、あなたのこと好きになっちゃった。結婚して」


 はあ? と口からこぼれた。当たり前の反応だ。誰が言われてもこうなると思う。


「結婚、といいましたか」


「そうよ。だって好きなんだもん」


 既婚者であることは、飲みの席では話さなかったかもしれない。記憶があいまいなのであまり覚えていないが、もしかしたら。しかし、私が独身だと思っているにせよ、いきなり結婚してとせがむのは、あまりにも失礼なのではないか。


 私は相手にも伝わるように眉を顰めたが、彼女の態度は変わらなかった。


「嬉しいお言葉ですが、私には愛する妻と子供がいます。結婚は出来ませんよ」


 私は笑顔で言った。もしかすると、本題に入る前に場を和ませようと言った冗談かもしれない。笑いを取ろうとするならば少し方向性がずれているが。


 私は、それで本題は? と言おうとした。言おうとしたが、言えなかった。


 彼女の目が、あまりにも怖すぎたからだ。


「出来ないって何? 妻と子供? 知ってるわよ、そんなこと。あなたはあたしと結婚するの。別れてよ」


「はっ?」


 彼女はにやにやと下品に笑いながら、ある物を取り出した。そこにあったのは、私の勤める会社のパンフレットと、私の履歴書、それから八千万の小切手だった。


「あなた、家族には隠してるみたいだけど、けっこうな借金があるみたいね」


 その通りだった。父親のギャンブル好きの血を引いたのか、若い頃は私自身もギャンブルにのめりこみ、結局一億円近くの借金を作っていた。しかし、良い会社に就職できて、ようやく一千万は返済が済んだところだった。このまま何とか返していくつもりだが、これから子供が大きくなるにつれどんどんお金が必要になる。既に毎月の返済額は、結婚前よりも落ち込んでいた。


「それから、この会社だけど、パパの会社の系列なのよね」


「まさか、脅すつもりですか」


「あら、無理に結婚しろなんて言ってるわけじゃないのよ。ただ、酷い断り方なんてされたら、パパがあなたの会社にあなたの悪口を言っちゃうかもって言ってるだけで」


 その言葉を脅しと言わずになんというのか。私は返答に困った。


「もし今会社に勤められなくなったら、あなたどうなっちゃうのかしら。膨らむ借金、小さな子供、専業主婦の奥さん、仕事を探してる間に抱えきれなくなりそうね。自殺でもしちゃう?」


「・・・・・・」


「もちろん、結婚するならこの八千万はあなたのものよ」


 少し考えさせてほしい、そういうのが精いっぱいだった。彼女は返答の期日を一週間後に決めた。


 なぜ私なんだ。


 何度も考えた。確かに、世間一般から見て顔は悪くないと思う。悪くないだけで、決して良いとは言わないが。態度が落ち着いていれば、大人に見えるのだろうか。それとも、既婚者だから。弱みを握っているから。


 京子に相談しようと思ったが、出来なかった。


 過去の所業が知れて愛想を尽かされるのが怖いというのもあったが、その可能性は薄い。それよりも、京子なら「八千万くらいの借金、私も働いて一緒に返そう」と言い出すだろうということが予想できたから言えなかったのだ。まだ三十も半ばの私にとって、いや、たとえ六十代の私にとっても、決して少ない額ではない。小さな子供もいる。京子にそんな苦労を背負わせるわけにはいかなかった。


 警察に頼んで法的措置を取ったところで、彼女は何度でも、どんな手を使ってでも私を脅しにかかるだろう。きっと、どんどん手口をエスカレートさせながら。


 京子や要を危険な目に遭わせるわけにはいかない。


 一週間後、私は彼女に電話をした。仕事帰り、「急な飲み会」と妻に嘘をつき、彼女をバーに呼び出した。


「分かりました。結婚でもなんでもしましょう。ただし、条件が三つあります」


 私は彼女の方を見ずに言った。私が提示した条件はこうだ。


 一つ。結婚までに三か月の猶予を与えること。妻に職を探してもらわなければならない。そのほかにも、準備がしたい。本当は一年はほしいくらいだったが、彼女が一年は長すぎるというので三か月で妥協した結果だ。妻にはどこまでも申し訳ないことをする。


 二つ。妻と子供には決して手を出さないこと。私のことを引き合いに妻を脅すなんていうのはもちろん、私に許可を得ない状態での接触もしないと約束させた。


 三つ。毎月広瀬の家に子供の養育費を振り込ませること。要の成長だけが私の生きる希望だった。それを邪魔することは許さない。


 京子に離婚を切り出したとき、京子は泣いた。私も泣きたくなった。この状況を全部打ち明けて京子に縋りつきたかった。一緒に八千万を背負ってくれ、職探しに付き合ってくれ、それでも要をすくすく元気に育ててくれ、何度口走りそうになったか分からない。


 しかし、踏みとどまった。


 京子は泣きながら、なぜだ、と言った。「愛してくれていると思っていた」


「愛していた」


 私は、そう答えることしか出来なかった。今も愛している。もちろんだ。当たり前だ。


 京子の顔、要の顔、順に浮かんできた。眠る要の頬を撫でた。眠る京子の涙の跡をなぞった。


 丸二日、一晩中をかけて話し合った。慰謝料もたっぷりとってくれと私は言った。養育費も払う。出来るならばすぐにでもいい人を見つけてほしい。私は何度も何度も頭を下げた。


 京子は言った。二度と要と私の前に姿を現すな、と言った。私は了解した。


 三か月間の猶予期間の最後の週末、私は要と二人で釣りに出かけた。要はまだお父さんがいなくなることを知らなかった。


 私は要と一緒に遊んで、ようやく泣いた。元気に川の周りを駆け回る要を見て泣いた。要には色んな話をした。要がもう少し大きくなったら教えようと思っていたことを、全部話した。


 要はとぼけたような顔をして聞いていたが、きっと私が何を言いたいのかは伝わっていたように思う。頭の良い子供だった。妻に似たのだろう。


 そうして私と彼女は結婚した。一年も経たぬうちに子供を授かった。彼女は嬉しそうだった。私はどうしても彼女を愛することは出来なかったが、子供は可愛いと思った。


 しかし、事件はその後起こった。ある日、病院へ行った彼女は暗い顔つきで帰って来た。


「今日、エコーで性別が分かったのよ」


「いいことじゃないですか。どっちだったんですか」


「女の子よ」


「ああ、何をそんなに暗い顔を。私はどっちだっていいですよ」


「よくないわよ! 男の子じゃなきゃパパの会社を継げないじゃない!」


 彼女は一人娘だった。親戚中から「男の子じゃないんだ」と冷たい目を向けられたこともしばしばある。私たちはあまり子供が出来やすくはなかったから、この子が男の子ならと望んでいたのだろう。


「女の子でも会社は継げますよ。それに、兄弟を作ってあげてもいい」


 彼女は首を横に振った。悲壮な表情だ。


 思うに、彼女は親戚に認められなければならないのだ。彼女自身が「女の子」であったために、嫌な目で見られてきた。男の子の孫を、義父の会社を継げる孫を産まなければ、と、そうプレッシャーを感じていたのかもしれない。


 私から言わせてもらえば、時代遅れの一言に尽きる。そんなことで彼女を虐げる親戚も、そんなことで腹の中の子供を虐げる彼女自身も。


 私だけは娘を愛そう、何があっても。私はそう心に誓った。


 千佳子が生まれた。予定日より少し早かったが、ありがたいことに安産であった。


 ここまでは良かった。ああ、散々だったが、千佳子にとって何も悪いことはなかった。実のところ、私は、いくら「男の子がいい」とは言っても、生まれてしまえば可愛いがるものと思っていたのだ。実際、臨月になってからは落ち着いていた。母親の顔というものを見せることもあった。


 しかし、違ったのだ。彼女が落ち着いてみえたのは、「エコーに映っていないだけで男の子かもしれない」という現実逃避を心から信じたからであった。彼女に生まれてしまえば、などという甘い言葉は通用しなかった。


 彼女は生まれた娘を、千佳子を、決して愛さなかった。


 千佳子という名前は私がつけた。既に色々な困難を背負ってしまっている千佳子に、こんな困難などものともしないほどたくさんの幸を、幾千もの美しいものを手に入れてほしいと願って、私が名付けた。


 彼女は毎夜ヒステリーを起こした。どうしてどうして、と気が狂いそうになるほど叫び散らした。とてもではないが、私は彼女と子供をふたり家に残して仕事になど行けなかった。


 彼女は千佳子を殺すのではないかとすら思った。


「どこかへやってよ! こんな子供!」


 私が彼女と別れて、一人で千佳子を育てようかと考えた。


 しかし出来なかった。怒った彼女がどんな手段に、そう、たとえば京子や要を利用してでも報復を考えないとは言えなかった。


 彼女は、京子や要に手を出さないとは言ったが、それはあくまで、私が彼女の夫である、という前提のもとだ。


 私は悩んだ。しかし、結局決断した。千佳子とは一緒に暮らさない、という決断だ。千佳子はこのままこの家にいたら死んでしまう。私の力では千佳子と京子と要、みんなを守ることが出来ない。


 苦渋の決断、であった。しかし、自分勝手な決断、でもあった。


 結局、私は千佳子を捨てたことと同じなのである。


 考えうる限り最も温かい毛布を買った。名前と生年月日、体重、考えうる限り全ての情報を記した手紙と共に、私は千佳子を児童養護施設に預けに行った。


 私がそう簡単には会いに行けないくらい、遠くの施設だった。遠くにあって、綺麗であったから選んだ。それから、その施設が「すずらん」ということも、決め手の一つであった。


 すずらんは、彼女の、千佳子の母親の好きな花であった。



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