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翌日から、万穂と一晴はついに一言も口を聞かなくなった。そればかりではない。これまで人当たりの良かった一晴は存在感がうって変わり、硬い表情に冷たい瞳、そっけない態度が目立ち、周りの生徒は以前にもまして勝手な憶測を立てるようになっていた。
変わったのは一晴だけではない。明るく、いつも皆の真ん中にいた万穂は、最近では常に暗く、何かを考え込んでいた。そんな万穂を見て、また色々な噂が出回った。
事態が動いたのは、六月に入ってからだった。
雨の日は歩いて登下校をする万穂は、いつもより早く家を出ていた。すっかり葉桜に変わった枝垂桜の木の下を通り、爽やかなはずの坂は滑らないように気を付けながら静かに下る。
いつも一晴と鉢合わせていた通りに、その日もいた。雨の日は時間がずれるので、たいてい一晴とは時間がずれていたはずだが、珍しいこともあるものだ。
「万穂」
一晴に話しかけられ、万穂は戸惑う。
「話があるんだけど」
始業までにはまだ二十分以上あった。一晴は傘を差したまま、万穂を中庭まで連れていく。暗く、酷い雨のためか、誰にも見られてはいないようだ。
「話は二つある。一つ目。桜ちゃんのことは、これからも少し気を付けろ。けど、常に心配していることはない。千佳子ちゃんに、自分の生活を楽しんでいいんだよと伝えてくれ」
万穂は予想外の台詞に面食らった。口調も少し乱暴になった気がする。
しかし、納得できないわけではなかった。そういえば一晴は、自分が何を隠していたとしても、千佳子のことを心から心配していた。
「二つ目。千佳子ちゃんの父親の居場所を個人的に調べた。時間がかかって悪かった。今更俺が関わるのは違うから、万穂が訪ねろよ」
一晴はそう言って手帳の一ページを切り取ったメモを渡してきた。雨に濡れないよう、さっと。俺が関わるのは違う、その声は、以前の優しく柔らかな一晴の声だった。
一晴は「それだけだから」と言い残し、その場を去った。降り続く雨から体を覆う傘の下、握りしめたメモには、電話番号が走り書きされていた。何をどう調べたのか、万穂には分からなかった。
それに、「別れよう」と言った万穂にあっさり「そうだね」と答えた一晴が、なぜこんなことをしてくれたのかすら分からない。
あれから何度も考えたが、どうしても今まで見て接してきた一晴と、話にきくいじめをした一晴が結びつかないのだ。だから、何かの間違いなんじゃないかという気持ちがぬぐえない。現在の一晴の態度を見るに、いじめが間違いではないということは確かなのに、だ。
万穂はその場所で始業のチャイムを聞いた。授業が始まっても、記憶の中のいくつもの一晴が笑う。思えば、万穂は一晴の悲しい顔も怒った顔もみたことはなかった。一晴は悲しいときも怒ったときも笑っていた。
帰ってから、万穂は隣の部屋の千佳子がまだ帰ってきていないことを確認して、携帯で電話をかけた。
「もしもし、あの私」
「ああ、西住さん、ですね」
「え、なぜ」知っているのですか、と万穂は言う。
「津坂さんから聞いていました。知らない携帯番号から若い女性の声がしたら、きっとそれは西住さんだから、と」
「ああ」
一晴は既にこの人と面識があるらしい。一体なぜ、どのように。ようやく千佳子の父親と話をしているというのに、一晴のことばかり考えてしまっていた。いけない、集中しなければ。
「私、聞きたいんです。そして出来ることなら千佳子ちゃんに聞かせてあげたいんです。千佳子ちゃんがなぜ施設に行かなくちゃいけなかったのか」
万穂と千佳子の父親は「分かりました」といった。日時を調節して、そちらに伺う、というのだ。万穂は承諾し、万穂と千佳子、それに礼美も合わせて話を聞くことを決めた。
いつの間にか隣に千佳子が帰ってきていて、万穂が電話を切るとそっと引き戸を開けて覗いてきていた。
「千佳子ちゃん」
「私の、お父さんの話をするのね」
万穂は微笑んだ。「うん」
万穂は電話越しに千佳子の父親と話して驚いていた。京子を裏切って不倫をして、そうまでして余所で作った子供をあっさり捨てたのだ。どんな酷い人間なんだろうと想像して電話をした。
すると、口調は丁寧で、こちらを気遣ってくれて、安心させるようにゆっくりと喋る男性だった。なんとなく、一晴を思い出させた。
もしかしたら、本当に酷い男というのはそういうものなのかもしれない。万穂はチクリと胸を痛めた。
当日、約束の時間の十分前にその人は来た。手土産に、有名な和菓子屋のようかんを持ってきた。それ以外に小さな紙袋も持っている。
声から想像していた通りの風貌だった。背は高く、少し長めの髪がさらさらで、中年男性特有の男臭さがない。
その男性こそ、島田圭、千佳子の父親であった。




