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 今日はまだ土曜日だったが、電車の中はけっこう空いていた。途中までは少し混んでいて、万穂も千佳子も立って過ごしていたが、一つ大きな駅を通り過ぎると、人がほとんどいなくなる。急に広くなった車内を珍しそうに千佳子が見渡していた。


 浅戸駅に到着した。


 今日は、万穂はいつも横に一つで結んでいる髪の毛をストレートに下ろしていて、千佳子は横二つで結んでいる髪をポニーテールにしている。


 髪型を変えただけだが、気持ちばかりの変装までしてここに乗り込んできたのは、ここが一晴の地元だからだ。一晴は、自分の住む場所に知り合いが来ることをとても嫌うのだ。


 以前、冗談半分で「次のデートは一晴の地元にしない?」と訊いたときに見た一晴の怖い顔を万穂は忘れたことはない。


「悪いけど、それだけは本当に無理だから」


 万穂はぶんぶんと勢いをつけて頭が取れそうなほど頷いた。もし一晴の地元でデート出来るならば、一晴がここまで使う交通費が無駄にならずに済むのに、と考えたことも内緒だった。まさかあんなに怒るとは。少し思い出しただけで、万穂はまたゾッとした。


 そうまで言われているにも関わらず、今日こうして乗り出したのは、ひとえに千佳子のためといっていい。


 先日、美咲から「千佳子の兄のお母さん」の話を聞いたとき、迷った末、万穂は千佳子にその話をしてみたのだ。すると千佳子は迷いなく「会いに行きたい」といった。おそらくだが、千佳子は女性に会いたいという気持ちはもちろんあるが、それよりも自分の兄のことを知りたいという気持ちが強いのではないだろうか。


 そういう訳で、美咲を通じてなんとか女性に連絡をとってみたところ、こんなふうな回答を得た。


『それなら、再来週の土曜日はどうでしょう。ちょうど、近所の学校で運動会があるんです。全然知らない学校の運動会ではつまらないかもしれませんが、ぜひ見に来てください』


 きっとその運動会に千佳子の兄が出ているのだろう。小学校ということは、千佳子の兄は、小学五年生か六年生。もしかしたら、四年生の双子の兄ということもありえるかも。


 万穂と千佳子は、そんなふうに期待をしながら、車内でも何度も顔を見合わせ、意味もなく笑ったりした。


 待ち合わせ場所は、浅戸市立浅戸小学校、正門前。「運動会」と「せいもん」の二つの大きな看板が出ているからすぐに分かりますよと教えられた。


 待ち合わせをするのはいいが、せっかくの運動会なのに息子の姿を見なくてもいいのだろうか。自分たちに構っていても。


 少し申し訳なく思ったが、日時を指定してきたのは向こうなので、その罪悪感は無用なのだろう。


「千佳子ちゃん、あれみたいだね」


「うわっ、綺麗な学校」


「ほんと。浅戸市ってお金持ちなんだねぇ」


 薄いオレンジやベージュが多く使われた、明るい印象の学校だった。少し離れたこの位置からでも、運動会の楽し気な音楽が聞こえてくる。


「もしかして、もう始まってるのかも。急ごう」


 正門前で待たせている女性のことを考え、大股で、跳ねるように歩いた。そういえば、女性の名前を聞いていなかったということを今更ながら思い出した。


 大丈夫だろうか、またしても漠然とした不安。


「あの、すみません」


 ようやくたどり着いた門のそばで、立っていた女性に声をかける。


 門のそばには思ったより人がいて、どの人に声をかけるべきか少し迷ったが、心配はいらなかった。千佳子が「あの人」と教えてくれたのだ。一度会っただけのはずだが、凄い記憶力だと感心した。


女性は、少しやせ気味で、綺麗な黒髪が目立つ美人だった。真っ白なブラウス以外は全て黒で統一されていて、そのせいか余計に細長く見えた。


「西住さん、ね」


 女性はほほ笑んだ。万穂は、自分より少し背の高い女性を見上げて「そうです」と頷く。女性は笑顔を崩さず、校門を通ってグラウンドまで移動した。さすが、日陰はほとんどブルーシートで埋まっていた。


「あたしは、広瀬です。広瀬京子ひろせきょうこ


「広瀬さん」


 千佳子の前の苗字は「島田」だった。広瀬さんとは違う。やはり、親子ではないらしい。


「それで、どんな話を聞きたかったのかしら」


「あの、おに・・・・・・」


 千佳子が真っ先に言おうとするのを万穂が手で制した。驚いて千佳子が万穂を見る。万穂は真剣な、強い目をしていた。


「千佳子ちゃんが施設に行くことになった経緯を教えていただけますか」


 女性、改め広瀬は「ええ。あのときは何も話せなかったけど、今日は包み隠さず全部話します」と言った。


 万穂たちは、校舎の影に入った。幼稚園児くらいの子供たちが暇を持て余して遊んでいるほか、人は誰もいなかった。


「あなたのお父さんの名前は、島田圭しまだけいというのよ」


「島田」


 千佳子と同じ苗字だった。そして、広瀬さんとは違う苗字。離婚、という二文字を、万穂はぼんやりと頭に浮かべた。それはどうやら正解らしかった。


「あの人、あなたのお父さんは、あたしじゃない他の人と愛し合って、その人と一緒になるために家を出て行ったの」


「えっ・・・・・・」


「それで、あの人とあたしとの子供が、あなたのお兄ちゃん。あの人と新しいお母さんとの間で生まれた子供があなた」


「それって、ふ」不倫。言いかけた言葉を飲み込んだ。まがいなりにも千佳子の父親だ。そんな言い方はないだろう。だが、どうしても良い意味に言い換えることが出来ず、万穂はついに押し黙った。


「でも、ごめんなさい。あたしが知っているのはここまで。あなたが生まれたあと、どういう経緯で施設に行くことになったのか、そこは知らないの」


「そうですか」


 千佳子本人は、万穂が思ったよりもけろりとしていた。しかし、きっと頭では色々なことを考えているはずだった。


 それに、広瀬が千佳子とは血の繋がりがないのだとしたら、なぜ千佳子のことを気にかけ、「お金が出来たから引き取る」とまで言い出したのか。愛人の子供など、普通は憎いものではないのか。それはドラマの見過ぎなのだろうか。


 万穂はいくつかの疑問を思い浮かべ、それを掻き消した。


「ところで」と万穂は切り替える。「千佳子ちゃんのお兄さんは、ここにはいないんですね」


 千佳子が最も気になっていた話題。兄の存在だった。


 広瀬は、正門で二人のことを待っていたり、グラウンドが全く見えない校舎の影に来たり、その上、グラウンドをチラリとも見ようとしない。子供が運動会に出ている親の行動ではなかった。


 するとますます分からないのが、広瀬が二人をこの場所に呼び出した理由、だった。


「要は、――千佳子ちゃんのお兄ちゃんのことだけど、要は、四年生の運動会に出られなかったわ。五年生も、六年生も」


 だから、毎年欠かさずこの運動会を見に来るのだ、と広瀬は言った。要がこの運動会に出ていたらと想像して、と。するとやっぱり悲しくなってしまうから、どうして毎年こんなことをしているのか分からないけれども、どうしても来てしまうのだと。


「要はね――」広瀬は微笑んだ。冬に咲くスノードロップのような、静かで零れ落ちそうな笑顔だった。「死んだの」


 殺された、と。たった一人の親友にいじめられた挙句殺されたのだ、と。


 風鈴が風に揺れたときのような、儚く細いような広瀬の声が、長く、万穂の耳を支配していた。



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