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私は孤児だった。たぶん、お母さんに愛されなかったから捨てられたんだと思う。
私はあまり社交的ではなかったけど、施設にも学校にも、何人か友達がいた。その友達と遊ぶのが楽しくて、だから、友達なんて多くはいらないと思っていた。大事な何人かの友達が大事なだけだった。
中でも特別仲が良かったのは、桜ちゃんという女の子だった。ふくよかな体つきで、そのイメージのまま、穏やかで優しい性格の女の子だった。小学一年生のときに仲良しになった。
施設育ちの私に同情も偏見ももたず、ただ普通に仲良く接してくれた。桜ちゃんのお陰で私は絵を描くことが好きになり、何もない施設の中で楽しみを見つけた。施設で呼ばれる「チーちゃん」というあだ名は、桜ちゃんにもらったものだった。
悪夢が始まったのは、小学二年生の頃だった。
二クラスしかない私の学校は、クラス替えはあってないようなもので、桜ちゃんとまた同じクラスになれて嬉しかった。しかし、それが悲劇を呼んだ。
運動会のときのことだった。桜ちゃんは障害物競争に出場していた。リレー形式で、一人はたまいれ、一人は平均台、一人はボール運び、そんな具合に運動場を駆け回る競技だ。第二走者の桜ちゃんは平均台の担当だった。
「足を引っ張らない様にしなくちゃ」と眉を下げながら、桜ちゃんは放課後も一人で練習していた。私は施設の門限があって、桜ちゃんを一人置いて帰るたびに心が痛んだ。
迎えた当日、緊張のあまり足を滑らせた桜ちゃんは、たくさん練習した平均台に何度もつまづかされた。
平均台は一つではなく、高さや幅が違うものもあった。結局私たちは、他のチームに一周差をつけられて負けた。
この結果に誰よりも激怒したのは、アンカーを走った女の子だった。梨伊那ちゃんといい、成績もよく、運動神経も抜群で、おしゃれが大好きなきらきらした女の子だった。
あの運動会で、運動が大得意な梨伊那ちゃんがビリを飾ってしまったのが、本当に屈辱だったのだろう。
「最後まであきらめずにがんばってください!」というアナウンスが梨伊那ちゃんの奥歯を噛みしめさせた。
運動会が終わり、教室で皆で余韻に浸っているとき、梨伊那ちゃんは立ち上がり、桜ちゃんの頬を叩いた。
「デブなら運動会とか来ないでよ! 桜ちゃんじゃなかったら勝てたんだよ!」
梨伊那ちゃんは泣きながら叫んだ。慌てて先生が桜ちゃんをつかんだ。「わざとじゃないんだから。責めたって仕方ないでしょ」
桜ちゃんは俯いて小さな声で何度も謝っていた。平均台を練習する桜ちゃんの姿を思い出して、私は机の下で手を握っていた。「桜ちゃんは一生懸命練習してたんだ、責めないであげてよ」言おうと思ったのに、声は出なかった。
翌日から、桜ちゃんはクラスの皆に無視されるようになった。
「桜ちゃんと仲良くしないでよ」と梨伊那ちゃんが泣いたからだった。私にも声がかかった。桜ちゃんと話していると睨まれ、一人でいると無理やり他の女の子の輪に入れられた。今まで施設育ちだからと偏見されてきたから、皆の輪に入って盛り上がるなんていうことは初めてで、皆といるのが少し楽しくなってしまって、私も少しずつ桜ちゃんを無視するようになった。
でも、どうしても心が痛み、私と桜ちゃんは、放課後には今まで通り仲良く遊んだ。
「いつも教室ではごめんね」
謝っても謝り足りなかった。しかし、私はもう梨伊那ちゃんに逆らうのが怖かった。大丈夫、桜ちゃんはいじめられてる訳じゃない。私がいじめている訳じゃない。
私は自分に言い聞かせた。桜ちゃんも「千佳子ちゃんだけは大事な友達だよ」といつも言ってくれた。それが罪の意識をやわらげた。
小学三年生に上がるとき、私は「桜ちゃんと同じクラスになれなくてもいいから、どうか、桜ちゃんと梨伊那ちゃんが同じクラスになったりしませんように」と心の底からお願いした。私のお願いは聞き届けられなかった。私と桜ちゃんは同じクラスになれたが、桜ちゃんと梨伊那ちゃんも同じクラスになってしまった。
私は絶望した。
小学三年生になってから、桜ちゃんはついに「いじめ」を受けるようになった。
「桜が悪いんだよ。鈍くさいデブのくせに学校に来るから」
「邪魔なんだよ」
桜ちゃんは、順番に悪口を浴びせられるようになった。怪我をするような悪戯はしなかった。ばれるからだ。でも、ノートを隠したり、消しゴムを捨てたりされた。桜ちゃんの忘れ物は極端に増え、先生に呼び出されることも少なくなかった。それでも、桜ちゃんはいじめの事実を絶対に言わなかった。言ったらエスカレートすると分かっていたからだ。
ついに私が桜ちゃんの前に立った。
「おまえなんか友達じゃねーよ、死んじまえ」こういうんだよ、梨伊那ちゃんが私の耳元で囁いた。
「お、」
私は口が詰まって喋れなかった。泣きそうな桜ちゃんの顔から、目をそらすことが出来なかった。私はついに振り返った。
「これ以上、桜ちゃんをいじめないで。私の友達なの」
私が人生で一番勇気を振り絞った瞬間だった。困惑したような表情の桜ちゃんに「大丈夫だよ」なんて笑いかける余裕はなかった。私は泣きそうになっていた。実際、泣いていたかもしれない。
「はぁ?」
私は梨伊那ちゃんの逆鱗に触れた。翌日から、無視も、いじめも、ターゲットは全部私になった。私の代わりに桜ちゃんが梨伊那ちゃんのグループに入った。私は「裏切り者」と呼ばれた。でも、後悔はしていなかった。
桜ちゃんは、表面上では私を無視するし、悪口を言ったりするが、放課後になるといつも私に土下座でもしかねんばかりの勢いで謝って来た。それから、一緒に遊んだ。
始めは「これでいいんだ」と思っていた。これで桜ちゃんは守られる。罪悪感に襲われるより、ずっといい。
しかし、だんだん私は、その大事な友達である桜ちゃんを疑うようになっていた。教室で梨伊那ちゃんたちと一緒にいる桜ちゃんは、本当に楽しそうだった。私の悪口を言う桜ちゃんは、本当に私を憎んでいるように見えた。放課後いつも一緒にいる桜ちゃん、もしかしたらあっちが偽物なんじゃないか。私にはそんなふうに見えた。
桜ちゃんが初めから私を嫌っていたわけではない。それは断言できるけれども、もしかしたら、梨伊那ちゃんと一緒にいるうちに考えが変わってしまったかもしれない。私のことを嫌いになってしまったのかもしれない。「友達のフリしてあげているだけなのに」と笑われているかもしれない。
私は怖くて、桜ちゃんを遠ざけた。心を閉ざし、一人になった。
三年生の運動会の日、得点には直接関係ない徒競走の種目になった桜ちゃんは、それでも当日欠席し、足の速い梨伊那ちゃんが二回走った。
私はいじめに耐えながら、三年生が終わるのを待った。どうか来年こそは、梨伊那ちゃんと別々のクラスになりますように。それだけを祈っていた。
三年生がもうすぐ終わる、二月のこと。私は施設の美咲さんに、私が引き取られる家族の話をされた。もしお話がまとまったら、四年生の入学と同時に転校になるのよ、と美咲さんは言った。
私の新しいお母さんは、礼美さんと言った。礼美さんはほとんど毎日のように私のところへ来て、一緒に話した。
しかし、私は、いじめから逃れられると分かっても、どうしても礼美さんについて行きたくはなかった。なぜなら、私がいなくなったら、きっといじめの標的は桜ちゃんに戻ってしまうからだ。心を開かなければ、かわいくない子供ならばきっと礼美さんも「いらない」と思うだろう、そう考えて、礼美さんとは口もきかなかった。しかし、結局礼美さんは私を引き取ることに決めてしまった。
私が転校することになった、と先生が言ったとき、クラスには少なからず動揺が走った。施設育ちの私が転校なんてありえないと思っていたのだろう。梨伊那ちゃんには「逃げるんだ」と軽蔑したような目を向けられた。
その日の夜、施設の前に桜ちゃんが立っていた。桜ちゃんは門のところで泣いていた。鼻水を垂らして、それを拭うこともせず、大きく口を開けて泣いていた。施設の人が中に連れて、私と引き合わせた。私は桜ちゃんと目を合わせなかった。桜ちゃんに悪口を言われるのが、梨伊那ちゃんのように「逃げるんだ」と軽蔑されることが、怖かった。
「私、どうしても、謝りたかったの。チーちゃん、私のこと、嫌いになったよね。私は弱かったの。チーちゃんを守れなかったの。チーちゃんは私を守ってくれたのに!」
私は初めて桜ちゃんの顔を見た。既に目は晴れていて、鼻は真っ赤で、顔はぐしゃぐしゃで、お世辞にもかわいいとは言えない顔だったが、私は本当に安心した。
「私、チーちゃんがいなくなったら、一人でも戦うよ。チーちゃんみたいに頑張るから! だから、もし、もしよかったらさ、その、手紙を書くから受け取ってくれないかな」
「わ、わたしも、手紙、かくよ」
「ほんと? チーちゃんが手紙をくれるなら、私、がんばれる気がする。私、がんばって痩せるよ。勉強も頑張るし、運動は、出来るようになるか分からないけど、でも」
私は泣いた。桜ちゃんと離れるのが寂しくて、桜ちゃんを疑ったことを後悔して、桜ちゃんがいじめのターゲットに戻ることを恐れて、泣いた。
泣いても決まったことは変わらない。私は、桜ちゃんと色違いの青い箱に手紙をたくさん入れた。疑ってごめん、ずっと友達だよ。何枚にも渡る長い手紙を青い箱に詰めた。桜ちゃんからは、赤い箱をもらった。
私のより長いんじゃないかと思うくらい、たくさんの手紙が入っていた。そうして私は転校した。




