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児童養護施設「すずらん」。ここは、乳幼児から高校三年生までの親を失った子供たちのより所となっている。
人口は八万人ほどの町の、駅から少し離れていて、電線も少なくなりかけている、そんな場所に位置する。クリーム色の外壁に、真っ白な屋根。二、三十年以上前から存在するが、未だにぴかぴかの白が保たれており、すずらんの名前に恥じない姿を見せている。
ここに、小学生の一人の少女が暮らしている。名を千佳子といい、千佳子は生まれてすぐここに来て、以来ずっとここで暮らしている。と、職員から聞いている。小学生になった今も、職員は千佳子にここへ来た理由を教えてくれない。大方、生みの親が自分を気に入らなくて捨てたんだろうと悲しい予想をしている。だから教えてくれないのだろう。
でも、施設には友達もいるし、楽しいからいいのだ。千佳子はここで生活できて嬉しいと思っていた。
「チーちゃん」
職員の一人から声をかけられた。美咲さんという女性だ。もう十年以上もここで働いている、施設の中でも古参らしいが、いつまでも若々しい。
「はーい」
チーちゃんという呼ばれ方をするのは千佳子だけなので、美咲の方に首だけを向けて、そのまま傾げた。ただし、立ち上がりもしないし手に握ったえんぴつを離すこともしなかった。今は宿題の漢字問題を解いているのだ。
「チーちゃんにお客さんがいるの」
「お客さん」
美咲の言葉を復唱しながら立ち上がった。宿題は中断しなければならないようだ。にこにことしている美咲の元へゆっくり歩いていくと、美咲は「こっちよ」と職員室の向こうへ顔を向けた。そこは、普段は絶対に入れない秘密の部屋だった。この部屋に友達が入っていくと、楽しそうに帰ってくるか、寂しそうに帰ってくるかのどちらかだった。何があるのか、その友達にも教えてはもらえない。
この向こうに行ったら、どんな様子だったのかを私だけは施設内の友達に話そうと決め、少しわくわくした。
扉の向こうにいたのは、見知らぬ女性だった。黒くて長い髪に、細い首が最初に目に入った。目が大きいが、頬がガリガリだ。よく見たら、体つきもガリガリだ。今にも折れてしまいそうに見えた。
美咲が、千佳子の耳に口を近付けて小さい声でいった。「千佳子ちゃんに会いに来たそうなの」
それじゃごゆっくり、女性に向けて不愛想な声で言ったあと、美咲は部屋の隅にある椅子に座った。そのとき、ここが面会室なのだと気付いた。面会室で誰かと会うということは、たいてい、里子に出されるということだ。なるほど、友達が話したがらない訳だ。里子に出ると話したら、施設の子に羨ましがられるかもしれない、寂しがらせてしまうかもしれない。
だから、里親が見つかって引き取られるとき、その友達はみんな一度はこの部屋に足を踏み入れていたのだ。
「目元が、要ともよく似ているわ・・・・・・」
女性が千佳子の頬に触れた。不思議と嫌な感じはしなかった。この人からは溢れそうなくらいの優しさを感じた。
「私のお母さんなの?」
千佳子に会いに来た、という美咲の言葉を思い出していた。自分に会いに来るということは、自分を迎えにきた本当のお母さんなのではないか。千佳子はそう思った。
「ごめんなさい、あたしはあなたのお母さんではないし、あなたのお母さんになることも出来ないのよ」
「違うんだ。じゃ、誰ですか」
「あたしは、・・・・・・あなたのお兄ちゃんのお母さんよ」
「それなのに、本当に私のお母さんじゃないの?」
兄の母なのに自分の母ではないということが理解できなかった。その後、きっと自分の子供と思えないほど嫌いだったんだなと悲しくなった。
「いつか、また会いに来るわね。あなたがもう少し大きくなったら、全部話すから・・・・・・」
千佳子は眉間に皺を寄せて、じっと女性を見た。不信感しかなかった。でも、この人から感じられるものは、今まで千佳子が感じたことのない『母の愛情』のような気がする。
「かなめくんっていうのが、私のお兄ちゃんなの?」
「そうね、それがあなたのお兄ちゃんよ」
そう言ってから、女性は目に涙をいっぱいためて、千佳子を抱きしめた。細い腕に、冷たい手だった。
「あなたは幸せになってね、幸せに生きるのよ。できることなら、あの子の分まで」
なぜ突然そんなことを言い出すのか分からなかった。施設暮らしの自分に同情したのかなと思ったが、それにしては、こんなに泣きそうになるだろうか。
やっぱり、この人は私のお母さんなんじゃないだろうか。それで、私はもしかすると、とっても愛されていたんじゃないだろうか――。
千佳子は思った。そして、なんとか声を絞り出し、「うん」とだけ女性に応えた。千佳子が小学一年生になったばかりの春のことだ。