ただの豚より甘い豚
私は子供の頃、『うる星やつら』の某エピソードを読んで、困惑した。「ダーリン」こと諸星あたるが、ラムちゃんの実家の行事に付き合わされてしまい、夕食のすき焼きを食べ損ねたのである。諸星家は、関東人である。この一家のすき焼きには牛肉が使われているのだが、めったに食べられないご馳走だという事になっていた。
道民の私は、子供心にも疑問に思った。豚すき焼き、おいしいのに。
私は実家を追い出されて以来、すき焼きを食べていない。母はすでに亡くなり、継父もいつの間にか亡くなっていた。
私は友人たちと共に、札幌市内のすき焼き屋に行った。その店では、イベリコ豚のすき焼きが売り物の一つだった。
「イベリコ豚って、脂が甘いんだよね」
どんぐりを食べて育った豚は、甘い。私は初めてイベリコ豚を食べ、その甘味に驚いた。日向子は、旨味がしみた野菜を咀嚼する。
「諸星家は、豚すき焼きのおいしさを知らない。損してるよ」
「内地では、鶏肉のすき焼きを食べる地域もあるんだって」
七海は、ビールのジョッキをあおる。
「まあ、何でもいいじゃん。おいしければ」
私たちは現地解散し、私は一人、夜のすすきのをぶらつく。私はふと、20年以上会っていない弟を思い出した。
弟は中学時代、競馬が好きになった。その頃の私は、ある雑誌の読者ページにイラストを投稿していた。弟は、競馬雑誌の表紙のトウカイテイオーに「コノヤロ! コノヤロ!」とデコピンしていた。
私はその頃、漫画家になりたいと思っていた。しかし、あの雑誌の人気常連さんだったあの人の足元にも及ばない。あの人は、今では世界的な人気漫画家だ。それに対して、私はしがない派遣社員でしかない。
「飛べない豚はただの豚、甘くない豚もただの豚」
私は「ただの豚」だった。
私は自宅に戻り、シャワーを浴びてラジオの電源を入れた。桑田佳祐の番組だ。
「札幌はぁ〜、霜降りぃ〜」
私の部屋の冷蔵庫には、缶入りのモヒートがある。私はそれを手にし、タブレットの電源を入れた。
「イベリコ豚の生ハムの原木」
一人暮らしでは、無理がある。第一、うちの冷蔵庫には入らない。
「思えば遠くへ来たもんだ」
私はモヒートをちびちびと飲む。テーブルには、積読本が5冊ある。そのうちの1冊は、あの人の新刊だ。
「あの人は2代目高橋留美子だなぁ」
そう、私が選びたかったけど、選ばれなかった道。その道を、あの人は歩いている。そうだ。彼女こそが、私がなりたかった人なんだ。決して、オタサーの姫気取りの勘違い人妻なんかではない。
どこかの勘違い女など、どうでもいい。私は私自身として生きていくだけ。
私自身に、乾杯。