第38話 秒速6000km
「工学的な面はわからんが」
と志乃田は切り出した。
小林はいつも突拍子もないことを言い出すし、ときにはやらかしもする。
不定形でときに世間の良識や常識からはみ出すことのあるそれを、なんとか枠に納めるようアイディアの見てくれを整えていくのが志乃田が己に課した役割でもある。
「力学的にはかなり無茶なことを言ってないか」
「うん?」と小林が眠そうな目で答えるのに、志乃田は軽く舌打ちしたくなった。
こいつ、徹夜の興奮がそろそろ去りかけてるな。
まともに返答がかえってくる間に聞き出せることは聞き出してしまう必要がある。
「どこへ飛ばすかはおいておくとしても、キューブサットからそれだけ腕を伸ばしたら軸がずれて制御なんてしようがないだろう?おまけにそれだけ高速で回転するケーブルをどうやって衛星に固定するんだ」
作用と反作用は宇宙でも普遍の物理法則だ。
宇宙空間では地面に踏ん張るわけにはいかないから、ある物体を動かそうと思えばその物体から動かされることになる。
つまり、キューブサットからケーブルを伸ばしてチップサットを回転させて放り投げようとすれば、キューブサットそれ自体も動かされることになる。
ケーブルの接点にかかる力も大変なことになるし、それを受けるために頑丈に作れば重くなってしまう。
それくらいの欠点は小林くらいの技術者なら徹夜していてもわかりそうなものだが。
いや・・・待てよ。
志乃田はでんでん太鼓を再び見た。
太鼓には腕が2本ある。
「反対側にもケーブルを伸ばして力を打ち消すのか」
「正解!固定なんかしたら、せっかくの重量も運動量も勿体ないじゃない!」
もったいない。
まことに日本人らしい言葉であると同時に、技術者としての小林の姿勢が集約された言葉でもある。
宇宙開発の例えとして「大海を渡る」イメージで語られることは多いが、小林はどちらかというと「高山への登山」のイメージとして捉えている。
山を登り始めると、裾野では豊かな植生があり、動物がいる。
ところがずっと山を登っていくと、ある地点から樹木が消える。これを森林限界という。
それでもさらに登り続けると、やがて背の低い植物も姿を消す。
そこから先は荒涼とした岩と万年雪の荒野が広がる。
地球の山は、そこで終わり。
けれども、もし山の頂が地球大気のずっと上まで続いていたら?
もしも自分が自由に空を飛ぶことができて、その上まで行くことができたとしたら?
きっとそこでは何もかもが貴重に違いない。
空気も水も、大地も何もかもが。
そうしたイメージは常に小林の中にある。
それは体が弱くて山歩きに向かない小林の中で理想化されたものかもしれない。
それでも、小林は常にそのイメージを追ってドローンを作り、飛ばしてきたのだ。
小林が構想した仕組みは、そうした原体験の延長にあり、ある意味で回転し続けるドローンのプロペラのようなものかもしれなかった。
具体的な仕組みとしては、キューブサットから切手衛星が先っぽについたケーブルをゆっくりと回転させながらするすると遠心力を利用するかたちで両腕のケーブル伸ばしていくことになる。
このとき、ゆっくりと回転させつづけるのがポイントで、宇宙では摩擦が働かないために加速にはケーブル強度と動力の許す限り、いくらでも時間をかけられるわけだ。
「動力は太陽電池で補充できるから、理論上はジャイロスコープに使ってるモーターの回転速度まであげられるよ」
小林の短すぎる説明から、腕の長さが数キロメートルのケーブルが宇宙空間で毎秒数千回転する光景を想像しようとして、志乃田は断念した。
代わりに、暗算で計算を始める。ケーブルの長さを仮に2kmとする。
円の直径は2πkmになる。1秒間に1000回転すれば、移動距離はその1000倍だ。
つまり、最終的に切手衛星がでんでん太鼓から受けとる速度は、少なくとも秒速6280km以上!
理論上のものとはいえ、この数字がどれだけとんでもない数字なのか。
志乃田は脳内で記憶している幾つかの数字と比較して目眩がしてきた。
地球からの脱出速度に必要な速度(第一宇宙速度という)は、秒速7.9キロ。地球の重力圏を降りきって飛び出す速度(第二宇宙速度という)は、秒速11.2キロ)、太陽の重力圏を降りきるのに必要な速度(第三宇宙速度という)は、秒速16.7キロ)である。
秒速6000km以上、という数値がどれだけ馬鹿げた数値か理解できるだろう。
「そんなバカなことができるわけが・・・」
言いかけて、志乃田は沈黙した。
小林の構想は原理が単純だが、単純すぎて何を言うべきかわからなかったのだ。
原理は単純明快。衛星が両の腕をブンブン回して小さな衛星を投げる、それだけである。
力学的には極めて単純。単純すぎて口を挟む余地がない。
もしこの衛星が、理論上の10分の1、いや100分の1でも性能を発揮できたとしたら、観測技術の常識が引っくり返るだろう。
なにしろ、仮に秒速60kmも初速で出せたとしたら、遠距離観測の所用期間が半減する。
期間が半減するということは、運用コストと故障確率が半減する、ということである。
これだけの速度が出せれば、惑星を利用したスイング・バイなど不要で、直接に目的の観測軌道を狙うことだって夢じゃない。
いや、黄道面から垂直に、つまり太陽系の天頂方向に探査機を飛ばすこともできるかもしれない。
探査機が一つでダメなら、複数の探査機を組み合わせる方法もある。
一瞬のうちにそこまで考えた志乃田は、ふと気がついて小林に訊ねた。
「それで、どうやって狙い通りの軌道に投げるんだ。切り離しのタイミングはかなりシビアになるよな」
軌道計算はシビアな学問である。推進力の限られる衛星の超長距離の航法は、最初に打ち出す角度にかかっていると言っても過言ではない。
「そこはシミュレーション中だけど、無線で切り離すか、いっそケーブルごと千切っちゃう手もあるね。切手衛星の方に太陽電池をつけて電荷をかけてテザー推進できるようにするとか。そうすれば姿勢制御の問題も解決するし」
小林の回答は楽観的だったが、軌道計算はどちらかと言えば志乃田の専門分野でもある。
それよりも回答の中に、聞き流せないことばがあった。
「超小型テザー推進衛星・・・そんなもの作れるのか?」
部品リストの中には、そうした部品はなかったように記憶していた。
「理論上はね」
と、小林は肩をすくめて答えた。
つまり、現時点では作れないないということだ。だんだんと話が怪しくなってきた。
いやな予感がしつつも、志乃田は続けて小林に別の疑問を投げかけた。
「衛星は2つあるだろ?1つを狙い通りの軌道に投入したら、もう1つはどうなる?」
「2つ考え方があるね。1つは、2つとも有用な軌道に投入できるようなタイミングを見計らう」
「できなくはないが難しいな。もう1つは?」
「片方の衛星は諦めて、あさっての方向に投げ飛ばす。宇宙の彼方か、それとも地球の大気に突入させるかはわかんないけど」
「ダメじゃねえか!」
「そうは言っても切手衛星は安いからね。そういう割りきり方もあるってこと。とりあえずケーブルを千切れるまで回してみたいよね。何とか手にはいんないかなあ・・・」
さっきまで運動量すら「もったいない」と言っていた口でまるで反対のことを言ってのけた小林は、椅子の上で膝を抱えながら差し入れのゼリーをずずっとすすった。
一挙に正解にたどり着くわけでなく、試行錯誤しながら進むのです