鈴の音ひとつ、振り返り。
――わたしは子どもの頃、山で迷子になったことがある。
小学校に入るか入らないかの頃のことだ。祖父母の住む田舎に遊びに行った折り、なれない獣道に迷い込んでしまったらしいのだが、なぜかそのときの記憶は曖昧なようで、そのくせ一つだけ鮮明に覚えていることがある。
それはだれのものかわからないけれど、優しくておおきな手の温もり……。
泣いている自分を一生懸命あやして、人里のほうまで連れてきてくれた人が、いたはずなのだ。
でも、わたしを発見した大人たちは、そんな人影をついぞ見ていない、と存在を否定した。きっと怖くて、そんな風に思いこんだのだろうと。
だから、それは夢なのかもしれないと、今は思うようになっていた。
混乱した幼子がみた、混乱した記憶。幻のようにはかないもの。
だけれど夢にしてはひどくリアリティがあったのも事実で、だからわたしにはいまだに時々後ろを振り向く癖がある。なんだか、誰かが後ろにいるような、そんな気がして。
後ろにいるといってもストーカーめいたものではない。どちらかというと優しい眼差しで見つめてくれている、そんな気配。その気配が妙に懐かしいような気もして、ついつい振り返って確認しようとしてしまう。けれど実際にはそこにだれもおらず、わたしはただ間抜けな笑みをほんのり浮かべるだけなのだけれど。
そんなわたしも、気付けばもう高校に入学する時期になっていた。
高校受験は、順当に第一志望の私立に合格した。家からは少しばかり遠いけれど、自然が豊かで周囲からの評判も上々な大学付属だ。バリバリの進学校でないぶん、のびのびした教育や、熱心な部活動に定評のある学校だった。
今日はその学校の合格者向け説明会の日で、わたしはその学校、「涼杜学院」を訪れていた。歴史のある学校でもあるので、どこかレトロな校舎なのだが、それがまた自然の多い周辺の風景にきれいにとけ込んでいる。
もともとわたしがこの学校を志望校に決めたのはこの校舎にもあった。
何となく胸の奥に懐かしさのこみ上げてくるこの学校は、最初に案内パンフレットを見たときから気になっていたのだ。むろん、学校の教育レベルや、見た目に反してしっかり今時の技術を融合させた校舎内、と言うのも関心が高かったし、かなりリベラルな教育方針をとっているのもわたしには嬉しかったのだけれど。
だけれど、この校舎の写真を見たときに胸の奥に去来した感情をわたしはどう説明すればいいのだろうか。懐かしさ、愛しさ、そして呼びかけを受けているような、そんな不思議な気持ちになったのだ。
そう、かえっておいで、と。
そう言われているような気がしたのだ。
……説明会は、午後の二時からと言うことだったけれど、わたしは正午過ぎにはこの学校にたどり着いていて。
せっかくの機会だし、ぼんやりとまだ静寂に包まれている校舎内を一人で歩いていた。周囲にはだれもおらず、心地の良い静けさに包まれるのが、なんだか心地よい。早春だが風はほんのりあたたかで、近いうちの春の訪れを想起させられて、わたしの気分も足取りも、なんとはなしに浮き足立つ。涼杜の桜並木は近在では有名で、入学式のころにはそれを見られるかな、と胸がいっそうときめいた。
と、
ちりん。
鈴の音がした。
わたしは思わず振り向いて周囲を見回すけれど、とくに変わった様子は見られない。
そう思った瞬間――眩暈に襲われた。くらり、世界が一瞬揺れて、そしてまるで世界というパレットに朱色のインクをほんの一滴落としたような違和感が私を覆い、そしてふっと気が付くと、わたしはどこにいるかわからない、そんな錯覚を覚えた。
「――おい」
と、突然そんな声がして、わたしは慌てて振り返る。高くも低くもない、どこか優しげな、そんな声。
そしてどちらかといえば、どこかで聞き覚えのあるような――。
振りかえった私の目の前にいたのは、激しく時代錯誤な雰囲気の、ヒト……だと思われる存在だった。ここでどうして私が言葉をなんとなく濁したかというと、そのヒトにはふさふさの、それこそ犬かなにかのような尻尾が四本、ついていたからだ。
ついでに言えば、頭にはぴょこんと可愛らしい耳が一対、人間の耳とは別にくっついている。はじめは作り物の耳のようにも思ったが、その耳がぴくぴくと動いているのを見て、わたしはその考えを改めざるを得なかった。
ふかふかの毛で覆われたその耳は、ビロードのようにも見えて、なんだかとてもさわりごこちが良さそうで、思わず気持ちがうずうずしてしまったけれど。それでもそれを押さえ込んで、
「……だれ?」
わたしは、一瞬ひるんで見せてから、そう問いかける。実際心のなかでは結構怯えていた。ひるみもするのも当たり前だ、人間とはあきらかにちがうものが頭に、そして背後についているのだから。
ついでに言えば、そのヒトの格好というのは、神社の神主さんや、平安時代の絵巻物に出てくるような格好をしていたのだ。大きくて印象的な吊り目は、ほんの少し金色がかっていて、フシギな感じだ。目尻はほんのりと朱色に染められている。身長はわたしよりも高い、大人の男のヒトって言う感じだ。だけれど、その金色がかった瞳と、ちらりと見える八重歯のせいか、妙に子どもっぽくも感じられて、そのくせそのアンバランスな感じが妙に似合っているヒトだった。
「……お前、サヤカ、だろう?」
驚いた。サヤカ、というのはたしかにわたしの名前だ。漢字で書くと、「清香」。……どうしてこのヒトは、わたしの名前を知っているのだろう?
「あなた、いったいだれ? 何でわたしの名前を知ってるの?」
思わず問い詰めてしまった私の気持ちも察して欲しい。
その男のヒトは、はは、と笑った。目がすうっと細くなって、まるでネコか何か、動物のようだ。いや、耳や尻尾がある時点で、既にニンゲンじゃないのだろうけれど。とくにふさふさの尻尾は、思わず撫でたくなる感じだ。ふっくらとしていて、黄土色がかっていて……いわゆるきつね色、と言う方が適切なのかも知れないけれど、わたしはあいにくホンモノの狐を間近で見たことがない。ただ、そのふさふさぶりは、本当にさわりごこちが良さそうで、見ているだけでなんだかうずうずする。時々楽しそうに揺れるのが、一層ドキドキした。もともと動物の尻尾とか、そう言うふわふわふさふさしたモノは大好きなのだ。
そんなわたしの思いはともかく、その男のヒトは、実に嬉しそうにわたしに言ったのだ。
「ずーっと前に、お前、山で迷ったことあるだろう」
声が出なかった。わたしはこくりと頷かざるを得なかった。確かに、それは事実だったから。
それはまだ、小学校に入るかどうかの頃のことだろう。確かに迷子になって、でも何事もなく発見された――そう聞いている。わたしには細かい記憶がないのだ。幼かったことと、疲れ果てていたこと、その両方で記憶の一部がすっ飛んでしまっているのだ。
覚えているのは大きくてあたたかな手の温もりだけ。
でも、何でこのヒトは、それを知っているのだろう? わたしが不思議そうにしていると、そのヒトは、意外すぎる言葉を告げた。
「あのとき、お前さんな。迷い込んできたんだよ、おれの所へ」
わたしは思わずぽかんと口を開けた。祖父母の家と、この学校では余りに離れすぎている。こんな所にまで迷ってくるだなんて、子どもの足でなくても到底考えられないことだ。
すると、そのヒトはわたしの怪訝そうな表情に気が付いたのだろう。また、楽しそうに微笑んで言うのだ。
「……ああ、無論ここの学舎にって意味じゃないぞ。空間という奴は案外ねじれて思いがけないところ同士が繋がっている。そんな場所のひとつがココにもあるって言うだけだ」
なんだか、SFなんだかオカルトなんだか判らないことを言われてしまった。空間がねじれているとか、まるで漫画か小説に出てきそうな設定だと思ってしまったのは、事実だ。
「ウソはついていないぞ。おれはウソというものをいうことができない質なんだ。そう言う誓いを立てているものでね」
そう言うと、そのヒトは照れくさそうに頬をポリポリと掻いてみせる。その仕草がどこか子どもっぽくて、なんだか可愛らしいなあ、と思ってしまった。
ただ、次の言葉にわたしの思考回路は硬直した。
「その時にな。お前、おれの嫁になるって言ったんだ」
――は?
わたしは今度こそ、開いた口が塞がらなくなってしまった。
この、よく分からない、人かどうかすらもわからないヒトに、お嫁さんになる、ですって?
「いい加減なこと、突然――」
「いい加減じゃないさ。おれはウソをつけない。そしてお前のその、左耳の傷が、その証だ。……それは、おれがつけたんだから」
言われてわたしは、目を丸くした。わたしは普段、左の耳をかくして生活している。なぜかと言えば、小さい頃にどうしてか忘れたけれど怪我をして、耳たぶの一部が少し切れてしまっているのだ。もちろん今も、それはきちんとかくしているというのに、どうしてこの人は知っているのだろう。
「……あなた、誰なの?」
わたしの声は、酷く震えていた。と、そのヒトはぽん、とわたしの頭に優しく手を置いて、ゆっくりと撫でる。その温かさが、なんだか妙に心地よくて、不思議と懐かしくも感じられて――わたしははっとした。
迷子になった時の、あの曖昧な記憶の中にある、手。
よく分からない。判らないけれど、いまこの瞬間、それを間違いなく思い出していたのだ。
あの手の主は、もしかしてこのヒトだったのだろうか?
きちんと思い出せないもどかしさを抱えたまま、わたしはそのヒトを見上げる。――何とも言えない、優しげな瞳をしているのがわかって、わたしは急に恥ずかしくなった。
それは、言葉で言えば慈愛とか、そう言うものなのだろうか。
とても素直な、あたたかな感情が伝わってきて、わたしは顔を赤くしていた。
そのヒトの後ろを、わたしはゆっくりとついていく。
ゆらりゆらりと揺らめく尻尾は、わたしの心をうずうずさせる。よく分からないけれど、やはり好奇心が疼くのだ。
「……その尻尾、やっぱりホンモノだよね?」
「もちろん」
「よかったら、さわっても、いい?」
おそるおそる尋ねてみると、そのヒトは尻尾を一本、ゆらりとわたしの目の前に寄せてきた。わたしはそれに、おそるおそる触れてみる。ふさふさでつやつやの尻尾は思っていたとおりビロードかなにかのようで、さわりごこち抜群なのだ。
もふもふもふもふ。
触っているだけで、なんだか顔がにこにこしてくる。そのヒトもまんざらではないようで、嬉しそうに耳をぺたんとさせていた。なんだか近所の柴犬を思い出して、つい口元がほころぶ。ついその感想を口に出してみた。
「うわぁ……ふっかふか……」
「だろう? 手入れを欠かしたことはないからな。触りたいだけ触ればいい」
まんざらでもなさそうな顔で、そのヒトはそう笑う。他の尻尾――もちろんふっさふさだ――もどこか楽しそうにゆらゆら揺れていて、本人も嬉しそうだ。このもふもふな尻尾にうずもれてみたいと思ったけれど、それはこのヒトが困惑するかも知れないから、なんとか我慢して、一本の尻尾をひたすらもふもふすることにした。
触れれば触れるほど、あたたかくて柔らかくて、そしてホンモノだという実感がわいてくる。つくりものの尻尾なんかではこんなさわりごこちもありえないだろうから、なんだかとても不思議な気分だ。でもこのふかふかを独占しているのかと思うと、なんだか少しだけ、顔がにやけてくる。
と、そのヒトはわたしの気持ちをくみ取ったのか、苦笑を浮かべてわたしの頭にそっとなにかを乗せてくれた。
ちち、っと鳴き声がして、頭の上を動き回り、やがてするすると肩に降りてくたそれは、小さなリスだった。これまた尻尾がふっさふさで、軽く触れてみるとまたちちっと鳴いてぴょんぴょんと跳びはねる。人に慣れているのだろうか、そっと手のひらにのせて頬ずりしてみると、身体も柔らかい毛に覆われていてふわふわで、またもや嬉しそうにちちっと鳴いた。
子どものころに見たアニメ映画のワンシーンを思い出して、わたしの顔がつい緩んでしまう。
「悪戯好きな子たちだな。……サヤカも含めて」
そう言うと、そのヒトは懐をごそごそと漁ってなにやら取り出した。綺麗な色のこんぺいとうだ。
「……食べてご覧、甘いから」
その時、そのヒトの眼が怪しく煌めいたのを、私は気づけなかった。わたしは言われるがままに、それを一粒口に含んでいた。
くらり、と立ちくらみがする。
目の前が、世界が、またほんのり緋色に染まる。
「食べたね」
そのヒトは嬉しそうに微笑んでいた。わたしは小さく首をかしげる。
「……サヤカは、ヨモツヘグイ、という言葉を知っているかい?」
問われて、わたしは首を横に振る。
「異界のものを口にしたら、元の世界へ帰れなくなるんだよ」
そう言うそのヒトの声は弾んでいて。
「……こんぺいとう、美味しかったろう?」
言われて、わたしははっとした。もしかしてこれは、そのヨモツヘグイ、と言う奴なのだろうか。そう思って戸惑っていると、
「……おかえり、おれのお嫁さん」
唐突にその青年は、そう、とても優しい声で言って笑った。そしてわたしの頭をそっと撫でる。
嫁、と言われた気もする。一瞬とんでもないと言おうとしたけれど、……そう言われると、昔からそうだった気も、する。感情が、じわじわと、書き換えられていく。
この場所に対する恐怖感ではなく、懐かしさへと。
このヒトに対する不信感ではなく、愛おしさへと。
「――騒がしい現世のことなんて、忘れていいんだよ」
そう言われて、わたしはまるで催眠術にかかったかのように眼を伏せていた。
「名前を呼んで、サヤカ。――おれの名前を。お前は知ってるはずだよ。どうか思い出して――」
乞われるように言われて、わたしは震える声で言葉を発した。まるでわたしの意思ではないかのように。
「――こう、ばい」
それは、ずっとずっと昔、聞いたような気がする単語。薫り高い、春の花。桜も好きだけれど、それよりも……ずっと好きだった花。
紅梅。
「よく言えました」
そのヒト――紅梅は嬉しそうな声を上げて、わたしの頭を優しく撫でた。ぱっと目を明けると、紅梅は酷く嬉しそうな眼で、わたしのことを見つめている。
わたしは声を震わせて、紅梅にしがみつく。まだ、うつしよのことを忘れきったわけではない。家族、学校、社会――それらの単語が、ぼんやりと脳裏をよぎる。
「……わたし、これからどうなるの?」
「どうって……お前は、おれの嫁だろう?」
そう言う紅梅は、なんだかとても楽しそうで。
その言葉は、わたしを酷く勇気づけてくれて。ああ、紅梅がいるのなら、こわくなんてない。紅梅は、わたしの唯一無二の旦那様なのだから。
「ほら、こんぺいとう。甘くておいしいよ。三粒食べれば、うつしよのことなど忘れてしまえるくらいに」
紅梅はそう言って、わたしの口にそれを二粒放り込んだ。甘い。甘くてほろほろととろけて、そしてわたしの記憶や感情も少しずつ塗り替えられていく。
いや、それまでのものが、少しずつ剥がれ落ちていく。
幼い頃に出逢った、狐の青年。彼は、迷子になって泣き虫になっていたわたしを、ふかふかの尻尾で包んでくれたり、たくさんたくさんあやしてくれたのだ。
それこそ、尻尾に埋もれて眠ったりもした。もふもふのふかふかで、最高級の寝床だと思ったくらいだ。
そんな彼の、金色の瞳、四本の尻尾。そして優しいまなざし。
わたしはそれをみて、純粋に素敵なヒトだと思ったのだ。
そして、そのヒト――紅梅に、あなたのお嫁さんになりたいと、そう言ったのだ。
きっと紅梅は困惑したのだろう。まだ年端もいかぬ人間の幼子に、そんなことを言われて。だから、彼は十年待てとわたしに言った。十年待って、自分を忘れていなければ、迎え入れようと約束してくれた。
そして十年たって、わたしは彼の名前を覚えていた。
意識の底に沈んでいたその名前を、引きずり出せた。
――だから、わたしは紅梅のお嫁さんになるのだ。
うつしよの全てを投げ捨てて。
「……ね、お父さんやお母さんの記憶はどうなるの?」
わたしがこの世のモノではなくなると言うことは、きっといろいろな人の記憶からわたしがいなくなるものだと思うのだけれど――
そう問うたら、問題ない、と紅梅は笑顔を見せた。
「サヤカという娘は、十年前に行方不明になったまま――というふうに、上書きされるはずだ」
つまり、十年前からのわたしは存在しなかったことになるらしい。なんだか少し申し訳ない気もしたが、もうわたし自身の記憶もだいぶ曖昧だ。
「それよりもほら。サヤカ、向こうをご覧」
言われて見ると、そこにあったのは小さなお宮。……紅梅の住まいだと、すぐに判った。紅梅は、天狐。神様として崇められる存在だから。それに十年前も、ここに来たことがある。
「世界はふとしたことで繋がっているから、このくらいはお手の物だ。お前を迎えに来られたのも、こことの波長があっていたからだし」
一歩足を踏み出してみれば、可愛らしいもふもふの青銅色をした生き物――狛犬が近づいてくる。おかえりなさいと言わんばかりに足元を嬉しそうにくるくると回る狛犬をそっと撫でてやると、ふかふかのもふもふで、なんだかとても高級なぬいぐるみを撫でているように感じた。でもあたたかくて、血の通っているぬくもりがあって、確かにヒトでないモノ、架空の存在、そんなモノが当たり前に生きている場所なのだ、と実感する。
そんな、本来なら実在しない狛犬という生き物の、少しかたいけれどふさふさとしたたてがみを触っていると、子どもの頃に迷い込んだ時にもこの狛犬たちが迎え入れてくれたことを思い出す。そしてそんな経験は、なんだか本当にこの空間が心地よく感じさせてくれた。もう、この世界に馴染んでいる自分がいて、それがなんだかくすぐったい。
と、その瞬間――
チリン、と涼やかな音がした。
鈴の音。
鈴の音のする森――スズモリ。『涼杜』。
鈴は神様との交信の道具と、そう言えば聞いたことがある。だからこそ、紅梅の社と、この涼杜学院の波長があったのだろう。
紅梅は、幼子のように笑った。そして、言う。
「ねえ、おれのお嫁さん。永劫の時間を、ここでともに過ごしてくれますか」
わたしは――しっかりと頷いた。こんなに待ち望んでいたひとをひとりになんてできないし、それに何よりわたし自身、紅梅を忘れられなかったのを、今は自覚していた。お嫁さんになりたいと願った幼い日のことを、鮮明に思い出していた。
「ねえそれなら、紅梅、紅梅、わたしの旦那さん。誓いの口付けをちょうだい?」
そうしたらきっと、うつしよのことを全て捨ててこの世界に居られるから。紅梅も察してくれたんだろう、わたしの額にちょん、と唇を落としてくれた。
「正式なのは、婚礼の儀の時まで待って」
僅かに紅梅が頬を赤らめている。四本の尻尾も照れくさそうにぶわっと膨れあがっていて、ついそのもふもふっぷりを触りたくなるけれど、我慢した。紅梅だって我慢しているんだもの、わたしだってそのくらいの我慢はしなくちゃいけない。それでもなんだか嬉しくなって、わたしは紅梅の腕にしがみついた。
ああ、大切なわたしの紅梅。
ヒトの摂理を離れたこの場所で、一緒に暮らしていきましょう――。
もう、わたしは、振り向くことはない。