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夏休みが終わり、学園内は十月にある文化祭のことで大いに盛り上がっていた。
文化祭の後で修学旅行のある三年生は、接客のない展示をするクラスが多く、椿のクラスも例に漏れず写真を使ってモザイクアートを展示することになっている。
四月からの行事中に撮った写真を使用しているので、写真の選別で毎日、放課後に話し合いや作成をしている。一応、真珠の耳飾りの少女のモザイクアートにすることは決まっていた。
椿も似た色の写真をまとめてみたりと手伝っている。
こういう場面で仕切ってくれる人が一人でも居ると、椿のように右に習えが染みついている人間は楽で良い。
椿のクラスでいえば、篠崎が仕切ってくれる人に当てはまる。
彼は的確に誰がどこを担当するのかを割り振ってくれたお陰で、作業は物凄くスムーズに進んだ。
こうしてクラスの出し物であるモザイクアートは文化祭までに余裕をもって完成した訳である。
文化祭当日は、特に受付などで教室内に居なければならないということもなく、椿は丸一日フリーであった。
事前に杏奈に声を掛けていたので、彼女が受付をしている美術室まで向かう。
一応、鳴海と一緒に回ろうかと思ったのだが、彼女は他の友人と回ることが決まっていたらしく、本当に申し訳なさそうな顔をされてしまったので、椿は諦めた訳だ。
廊下を人の流れに沿ってゆっくりと歩き、椿は美術室に到着して扉を開ける。
「杏奈さん、参りまし……」
た。と言おうとした椿は目の前に広がる光景に言葉を失った。
椿の目の前に前髪パッツンショートのウィッグを被った白雪姫のコスプレをした久慈川が居たからである。
「あ、朝比奈先輩」
「どう? よく似合ってると思わない? クラスで童話喫茶するから白雪姫の恰好をしているのよね」
「……はい」
久慈川は中性的な顔をしているし、まだ身長もさほど高くないので、完璧にアリだ。
いや、アリじゃない。そういうことじゃない、と椿は頭を振る。
「ちょっと、なんで黙ったままな訳? 蛍君の女装姿似合ってるでしょ?」
「本当ですよね! 蛍君すっごく可愛いです」
「俺、最初に蛍だって気付かなくて見惚れてたもんな」
なんか部員がナチュラルに下の名前で呼んでる!
いつの間にか交友を深めていた美術部員と久慈川に椿は言葉が出ない。
黙ったままの椿であったが、杏奈を含めた美術部員達は久慈川の女装姿で大いに盛り上がっていた。
置いてけぼりの椿はその光景をただ眺めていることしか出来ない。
すると、美術部員の輪から抜けてきた久慈川が椿の前にやってくる。
「……どう、ですか?」
久慈川は無表情で手を広げて一回転する。
「とてもお似合いですわ。久慈川君はお嫌かもしれませんが、可愛らしいと思います」
椿の言葉に久慈川は満足げに頷いた。
どうやら彼にとって"可愛い"という言葉は禁句ではなかったようである。
「ところで、久慈川君も文化祭の展示用に作品を描いたのですか?」
「うん」
「まぁ、どちらの作品でしょうか?」
「こっち……です……」
そっと椿の腕を握った久慈川が自分の作品の前に彼女を連れて行った。
「これ、です」
「……これは、海ですか?」
「……海の中です」
透き通った海の中で珊瑚やイルカが描かれている絵を見て、椿は口を開けて眺めていた。
とてもじゃないが中学生が描いた絵には見えない。
「……素晴らしいですね。透き通った海が本当に綺麗で、見ていて飽きません。久慈川君、貴方本当に凄いですわね。先生はコンクールに出品しようと仰らなかったの?」
「……だから、コンクールに出品する予定です」
「でしょうね。家に飾りたいくらいですわ」
絵から目が離せず、椿はボーっと見ている。
「気に入ったのなら、先輩にあげる」
久慈川から唐突に言われた言葉に椿は固まった。
「先輩、この絵を気に入ってくれたんですよね? だからあげる」
「ちょ、ちょっとお待ちになって。コンクールに出品予定ではありませんの?」
「……別に、賞が欲しいわけじゃないからいいよ」
執着しない久慈川の物言いに椿は唖然とする。
彼は欲がなさ過ぎる。
「……一度、先生とご相談なさって下さい。私は確かにこの絵を気に入りましたけれど、コンクールで正当な評価をされるのを望んでおります。というか、私が皆さんに久慈川君の絵をご覧になって頂きたいのです。こんなにも素晴らしい絵があるのですよ、と知って頂きたいのです」
この絵が世の中に出ないなんて勿体ないと思い、椿は久慈川を説得した。
久慈川は椿に絵を受け取ってもらえなかったことで機嫌を損ねたようであったが、自分の絵を褒められたことは嬉しかったのか複雑そうである。
だが、久慈川の今の恰好を見ると美少女が口を尖らせているようにしか見えず、椿はむしろ可愛らしいとすら思ってしまう。
「受け取るのが嫌だと申している訳ではありませんのよ? ただ、勿体ないと思ってしまっただけですの」
椿はフォローをしてみるが、久慈川の態度に変化はない。
「だって、コンクールに出品したら戻ってこない」
「それは仕方ありませんわ。展示もありますし、他のコンクールに出品されても困りますしね」
「だから、先輩にあげられない」
視線を床に落として拗ねている久慈川に様子を見ていた杏奈が近寄る。
「だったら、新しい絵を描けばいいでしょ? あの絵に拘らなくてもいいじゃない。ね?」
「……でも、先輩が気に入ったのはあれだから」
「椿さん」
お前も諦めさせろ、と杏奈に視線を向けられ、椿も久慈川の説得に加わる。
「私が久慈川君の絵を拝見したのは今日が初めてなので、見惚れてしまっただけですわ。どうしてもあの絵が欲しいと申している訳ではございませんのよ。むしろ久慈川君が描いた他の絵も見たいと思っておりますの。ですから、あれはコンクールに出品して、他の絵が描けましたら私にも見せていただけますか?」
「そうよ。今更になってやっぱり止めた、は先生だって納得しないわ。それなら、他の絵を描いて椿にプレゼントしたらいいじゃない」
二人がかりの説得に視線を床に落としていた久慈川は控え目に頷いた。
椿と杏奈は互いに顔を見合わせて苦笑していると、久慈川が顔を上げる。
「……先輩は、何か好きなものありますか?」
「好きな物、ですか? ……強いて挙げるのであれば、空、でしょうか。ひとつとして同じものはない雲の形や、青く澄んだ空を眺めるのが好きですね」
「……空」
「えぇ。晴れた日に地面に寝転んで空を見上げていると楽しいですよ。いつの間にか時間が過ぎているのです」
あれは良い暇つぶしである。それに雲の形で色々と妄想するのも楽しい。
「……分かった」
コックリと頷いた久慈川はどことなく嬉しそうである。
「あ、蛍君。名取さんが来たけど」
扉の外から美術部員が久慈川に伝えた瞬間、口調とはまるで正反対な俊敏な動きをした彼は美術室のドアを閉めて鍵を掛けた。
彼の態度に椿は首を傾げる。
「く、久慈川君?」
『ちょっと蛍! どうして締めるのよ! 開けてよ!』
「やだ」
『白雪姫の恰好してるって蛍と同じクラスの子に聞いたのよ? 私にも見せてよ』
「やだ」
扉を隔てた会話に美術室に居た生徒達はどうしたのかと顔を見合わせている。
「蛍君、お客さんが入ってこられないから。嫌なら準備室から外に出なさい」
杏奈の言葉に頷いた久慈川が扉の前から移動する。
「そんなにお嫌でしたの?」
椿の横を通り過ぎる瞬間に久慈川へと問い掛ける。
彼は口を尖らせ「だって、こんなの全然かっこよくない」と呟いて準備室へと消えていった。
久慈川の言葉を聞いて、あぁ、彼は名取のことが好きなのかと理解した椿は彼に心の中でエールを送った。
準備室へと入ったのを確認した後で杏奈が美術室の鍵を開けて名取を招き入れる。
「あれ? 蛍は?」
「逃げたわよ」
「嘘!? おば様に写真とってくるって約束してるのに!」
慌てた名取はすぐに美術室から出て行った。
「さて、予想外に時間が掛かったけど、そろそろ行く?」
杏奈から話し掛けられ、当初の目的を思い出した椿は頷いて美術室を後にする。