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一瞬だけ首を傾げた鳴海がゆっくりと口を開く。
「……水嶋様とはお会いにならないのですか?」
「恭介さんとは学校でお会いしておりますし、休日はあの方もお忙しいですから、四六時中一緒に居るわけではございませんわ」
「婚約者同士ですのに、意外です」
「恭介さんには恭介さんの人付き合いというものがございますもの。私が口を出すべき問題ではございません」
そう椿が口にすると、鳴海は顎に手を当てて、うーんとうなり始めてしまう。
「朝比奈様は、学校でもあまり水嶋様とお話ししていないように感じるのですが……。一、二年の頃は立花さんがいつも側にいらしたので仕方ない面もありましたが、今は全くと言っていいほど彼女は水嶋様に近寄ってはいないじゃないですか。遠慮なさる必要はないのでは?」
「先程も申し上げましたが、彼には彼の人付き合いがございますから、四六時中私が側に居たら、周りの方々が遠慮して恭介さんに近寄れなくなってしまいますもの。それにサロン棟でよく杏奈さんや佐伯君達を交えてお話しておりますし問題はございません」
鳴海の口振りから察するに、どうやら椿が恭介のことを好きだと彼女は勘違いしているようである。
本当の婚約者ではないことを鳴海に伝えようかとも思ったが、この場では人が多すぎる。
とりあえず、椿が恭介を好きだという部分だけ訂正することにした。
「鳴海さんは私が恭介さんのことをお慕いしていると思ってらっしゃるの?」
「違うのですか? 婚約者ですのに」
「同い年のイトコ同士ですから、仲がよろしくて当たり前ですわ。それに恋愛感情があるかと問われれば、ございません。もし、鳴海さんが恭介さんをお慕いしているということであれば、遠慮なさらずアタックして下さいね! 婚約の話など後からどうとでもできますから」
力強く椿が口にすると、鳴海は目を丸くして「な、なんてことを仰るのですか!」と慌て始める。
「私が水嶋様を好きになるなんてこと有り得ませんし、私じゃ相応しくありませんよ」
「身内自慢に取られてしまうかもしれませんが、恭介さんは家柄も顔も頭もよろしいですし、性格も……まぁ、悪くはありませんわよ? 今はお慕いしている方はいらっしゃらないようなので、もしかしたらがあるかもしれませんよ」
「水嶋様の凄さはよく存じ上げております! だからこそ、私とは住んでいる世界が違う方なのだと思っているのです。雲の上の存在なんです。そのような方に憧れはしますが、恋心を抱くなんて……」
あまりの鳴海の慌てように、彼女は本当に恭介に対して恋心を抱いていないことを知り、椿はすぐに謝罪の言葉を口にする。
「そうですか……。変なことを申し上げてしまいごめんなさいね」
「あ、いえ。でも、朝比奈様が水嶋様に対して恋愛感情を持っていないと伺って驚きました。考えれば、上流階級の婚約というのは本人の意志など関係ありませんものね」
鳴海の勘違いは訂正することができたが、いずれ婚約の件についても二人きりになった時に話そう。
「そういえば、花火の時に朝比奈様の隣に座ってらした……グロスクロイツ、様でしたっけ? あの方も水嶋様とはタイプが違いますが、物凄くお綺麗な顔をしてらっしゃいましたね。朝比奈様と言葉を交わしておりましたが、親しいのでしょうか?」
「……まぁ、彼も朝比奈家とは親戚関係ですので、朝比奈家のパーティーによく出席なさっているんです。ですので、私ともお話ししているだけですわ」
と、話ながらも椿は、鳴海がレオンに一目惚れしていたらどうしようかと不安になった。
もし鳴海がレオンを好きならば、レオンが椿を好いていることを知られると友情にヒビが入ることになる。
折角出来た友人をなくしたくない椿は、意を決して鳴海に訊ねてみた。
「……鳴海さんは、レオン様が気になるの?」
「いえ、お綺麗な顔だという印象が強かっただけです。あと、朝比奈様とお似合いだなぁと思いまして。朝比奈様は水嶋様を好きだと思ってましたので、グロスクロイツ様とお似合いだと口にするのは失礼だと思ったんですけど、違うようなので」
「そ、そうですか」
どうやら椿の予想は外れていたようで、友情にヒビが入る結果にならずホッとする。
ホッとしたついでに、椿はレオンの話題を終わらせようと違う話を鳴海に振った。
「そういえば、鳴海さん。私と仲良くしていて、他の生徒から何か言われるとかございますか?」
「特にありませんよ。一年生の頃から仲良くしている友達も特に何も。むしろ朝比奈様に関することは全て私に押しつけることができてるんで、感謝すらされている感じですね」
「貴女が不利益を被っていないのなら、それでよろしいのですが」
他の生徒から嫌われ怖がられている椿と一緒にいたら、鳴海も同じように見られはしないかと思っていたが、便利屋のような扱いをされていると知り、安心した。
待遇としては良くはないが、鳴海が避けられる結果になっていないのならば、それでいい。
「確かに朝比奈様は近寄りがたい雰囲気ですし、ハッキリとした物言いをされますけど、少なくとも私には常識の範囲内としか思えません。面倒事に巻き込まれたくない気持ちは分かりますが、あまりに過剰に避けすぎではないでしょうか?」
「私を怒らせたら水嶋家と朝比奈家が出てくると思って避けているだけでしょうね。誰だって面倒事に巻き込まれたくはありませんのよ。それに、私を利用しようと近づいてくる人間が居ないので、助かっております」
「そうですか? 朝比奈様がよろしいのならば、私が口を出す問題ではありませんが」
「えぇ、構いません。それに鳴海さんのような方が側に居て下さって、私は本当に有り難いと思っておりますもの」
椿の言葉に鳴海は顔を赤くして下を向いてしまう。
「あ、ありがとうございます」
小声で呟いた鳴海に向かって、椿は穏やかな笑みを浮かべる。
その後、志信に時間ですと声を掛けられ、クラシックコンサートの会場へと向かい、鳴海と時間を過ごした。
いつか本場で聴いてみたいと思うくらいに終わった後も椿は興奮していた。
それは鳴海も同じだったようで、会場を後にして、夕食のお店に到着しても先程の演奏について話している。
「ブラームス、良かったですね」
「日本に居ながら、あのような素晴らしい演奏を聴けるなんて贅沢でしたわね」
「本当に! 私はあまりコンサートには足を運ばないのですが、朝比奈様はよく演奏を聴きに行かれるんですか?」
「頻繁にではありませんが、気が向いたらですね。鳴海さんはブラームスがお好きなのかしら?」
「ブラームスも好きですが、一番はチャイコフスキーですね」
ほぅ、と椿は脳内メモに鳴海の好きな作曲家をインプットする。
「朝比奈様は好きな作曲家はいらっしゃいます?」
「私はベートーベンですね。有名な曲ほど指揮者によって違いが出ますから、それが楽しみでもありますね」
「あぁ、確かにそれはありますね」
などと鳴海と話しながらご飯を食べ終えた。
食後のお茶を飲みながら、二学期にある修学旅行の話題になる。
「文化祭の後、すぐに修学旅行でしょう? 一応夏休み前にホテルの部屋や班決めは終わっておりますけれど」
「楽しみですね。あと同じ部屋ですので、よろしくお願いしますね」
「えぇ。迷惑を掛けないように気を付けますわ」
「いえ、私のほうも気を付けますね」
夏休み前に修学旅行の件で色々と話し合いがあり、椿は鳴海と一緒の部屋になることができた。
他の生徒は鳴海に椿を押しつけただけではあるのだが、本人達は望んでいたことだったので大した問題ではない。
また、自由行動の班であるが、椿は杏奈と二人で回ることが決まっている。
班と言っても生徒が一人にならないのならば問題はないという決まりになっており、クラス内で班を決めるという制約もない。
また、班ごとにSPも付くし、水嶋家のSPも椿に付くということで教師から何かを言われることもなかった。
全てに鳴海を付き合わせるのも悪いと思い、椿は無理を言って杏奈と同じ班になってもらったのである。
「カナダと言えば、有名なのはアイスホテルですよね」
「アイスホテルは一月からですので、泊まるのは無理でも一度拝見したかったのですが、残念ですわ」
「行き先はバンクーバーですものね。私はスタンレーパークに行きたかったのですが、スケジュールには組み込まれなくて本当に残念です」
「それを申し上げるなら、本当は私も植物園が良かったですわ」
鳴海と修学旅行の話で盛り上がり、まだまだ話し足りなかったが、遅くなると両親が心配するということもあって椿はお店の前で鳴海と別れる。
「夏休みもあとちょっとで終わりか」
車の後部座席で椿は景色を見ながらポツリと呟いたのだった。