75 琴枝美波という人間
父親が医者という裕福な家庭で育った琴枝美波が己の異常性に気付いたのは幼稚園の年長の時である。
幼稚園で仲良くしていた友達Aが友達Bのことを嫌いだと美波にこっそりと打ち明けてきたのだ。
美波はそれを聞いて、特に深く考えずにBにAが貴女を嫌っているんだって、と教えてしまう。
友達だと思っていたAが自分の悪口を言っていたと聞き、Bは憤慨し、その日からAを無視し始めた。
無視されたAも最初の内はBに理由を尋ねたり、機嫌をとったりとしていたが、態度の変わらない彼女を見て次第に本人に文句を言うようになっていく。
最終的に顔を合わせればケンカを始めるようになってしまった二人に周囲は困惑し、ケンカする度に先生が仲裁に入っていた。
美波は二人が揉める様子を見て興奮し、もっと揉めてしまえと思っている己に気が付いたのである。
だが、二人のケンカは長くは続かなかった。先生がAとBにケンカしている理由を聞いたことで、原因が美波の余計な一言であったことがばれてしまったからである。
ケンカの原因となったのが美波だと知ったAとBは結託し、彼女を責め立てた。
幼稚園の先生や親からも注意され、美波は反省しているような態度を取っていたが、心の中では『次はもっと上手くやろう』という思いしか持っていなかったのである。
けれど、幼稚園時代は美波のやったことが広まってしまい、他人同士を揉めさせることができず、非常につまらないものであった。
転機が訪れたのは、白桜女学院大学附属小学校に入学する前である。
父親が務める病院の跡取り息子の令嬢である立花美緒という少女が美波と同じ学校に通うのだと両親から教えられた。
友達を作るのが苦手な子供らしく、美波に彼女と仲良くしてやってくれないか? と頼まれたのだ。
母親は美緒の母親の実家が経営しているホテルで働いており、彼女と同じ年の娘がいるということで、世話係に美波が選ばれたのである。
美緒の世話を押しつけられたら他人の揉め事を見る時間が減るじゃないかと美波は思い、最初は面倒だと思っていた。
だが、入学前のある日、美波は親戚の集まりである話を耳にする。
「立花院長の息子さんとご結婚なさった奈緒子さんの娘さん、確か美緒さんと仰ったかしら。白桜女学院の付属小学校に入学なさるのですって」
「まぁ、不義の子でも合格できるのね」
「ちょっと、口が悪いわよ。でも、最初は鳳峰学園の初等部を受験なさる予定だったみたいよ。さすがにご実家の秋月家と立花家がお止めしたらしいけど」
「立花先生も貧乏くじを引かされてお可哀想にね」
大人達の蔑んだような笑い声を陰からこっそりと聞きながら、美波は話題の人物が自分がお世話しなければならない少女であることに気が付くが、ふーん、そうなんだー、という感想しか持てなかった。
そして、親戚の集まりから数日後、美波は美緒と対面を果たす。
ホテルのレストランの個室で初めて会った美緒はつんけんしたした態度で、非常に機嫌が悪いように見受けられた。
開口一番に「言っとくけど、恭介様に手を出したら許さないからね」や「私が恭介様のお嫁さんになるんだから。邪魔したら潰してやる」と言われ、心当たりのない美波は唖然とするしかなかった。
大人達はそんな美緒の機嫌を取るのに必死で、帰りの車の中で両親が疲れ切った顔をしていたのが今でも印象に残っている。
だが、疲れ切っている両親とは反対に美波は口元が緩むのを抑えきれなかった。
第一印象だけであるが、あの子はおそらく相当なバカである。
いいおもちゃを見つけたかもしれない、と美波は笑みを浮かべた。
顔合わせからしばらくして小学校に入学した美緒は美波の予想を裏切らない行動をし始める。
医者の子供が多いことや美緒の祖父が権力を持っていることもあって、彼女はすぐに学年グループのトップになって好き放題し始めたのだ。
美緒の態度は気に入らないが、逆らえない状況にある生徒達はストレスがたまっていた。
その鬱憤を晴らしてあげなくてはと思い、三年生になったある時に美波は行動を開始する。
割と物事をハッキリという生徒がいるグループの生徒達の動向を探って、彼女達の内の一人がトイレの個室に入っているタイミングを狙い、美波は声を変えて言ったのだ。
「立花美緒は父親と血が繋がってない」
その子以外誰も居ないのを確認した上で、美波は口にし、急いでトイレから立ち去る。
個室に入っている生徒はすぐに美波を追いかけてくることはできず、誰が言ったのかも分からない状況を作り出すことができた。
数日後、美波の思惑通りにその生徒が所属しているグループと美緒が衝突する。
美緒の隣に居た美波は、その揉め事を最前列で目にすることができて満足していた。
逆上しそうな美緒を適当に止めながら、美波はこれほど上手くいくとはと、ひっそりとほくそ笑む。
だが、美波が予想しなかったことが、さらに数日後に起こる。
美緒に文句を言っていた生徒の父親が降格させられたというのだ。
親から叱られたという生徒は教室内で泣いており、友人に慰められていた。
「私に逆らうから、そんな目に遭うのよ」
泣いている生徒を見下ろしながら美緒は冷ややかに笑っていた。
美緒に逆らったら父親や祖父の権力を使ってやり返されるということを、この時全員が思い知ったのである。
この日から、表面上は美緒に反抗する生徒は居なくなり、皆が彼女の機嫌を損ねないようにとビクビクしていた中、美波だけは喜びに溢れていた。
扱いやすそうな人間だとは思っていたが、ここまで美波を楽しませてくれるとは思っていなかった。
しかも、絶対に逆らえないような権力も持っていることから、美緒が失脚することなどありえない。
美緒の側に居る限り、特等席で揉めているところを美波は見ることができるのだ。
けれど、やりすぎて幼稚園の時のようになっても困る。
あくまでも周囲を誘導しなければならない。そうでないと面白くないし、つまらない。
長く楽しみたいのであれば、調子に乗ってはいけない。
それに揉め事が起こればそれでいい。
美波はただ、池の中に石を投げ込むだけである。投げ込んだ石がどうなろうと、どのような波紋を広げようと広がりさえすればどうでもいいのである。
広がり方など気にしない、それを見るのが好きなのだ。
長い期間、遊べそうなおもちゃを手に入れて、美波はとても満足していた。
遊び疲れて美波が飽きたら、美緒から手を引けばいいだけの話である。その後、失脚しようが、彼女がどうなろうが美波の知ったことではない。
美緒というおもちゃを手に入れた美波の小学校生活は非常に充実していたのである。
だが、美緒が鳳峰学園中等部に入学が決まったと聞き、美波は非常に焦った。
なぜなら、中等部には美緒の異母姉であり、家同士の因縁がある朝比奈椿が在籍しているからだ。
椿の性格を全て知っている訳ではないが、彼女のせいで美緒の権力が通用しなくなり大きな顔ができなくなるのではないかと心配していたのである。
迎えた入学式の朝、一足先に美緒が学校へと行ってしまい、美波は慌てて彼女の後を追いかける。
揉め事の種になる異母姉の朝比奈椿と彼女のイトコであり、美緒が執着している水嶋恭介が中等部に居るのだ。
ファーストコンタクトで美緒に失敗されては困ると美波は学校まで急いだ。
学校に到着すると、すでに美緒と椿、恭介のファーストコンタクトは終わって結果として美緒が失敗したと知り、美波は肩を落とす。
だが、置いていかれた美緒が恭介の後を追おうとしているのを見て、やり過ぎだと判断した美波は彼女に近づいて止める。
「なんで、なんで私に話し掛けないのよ!」
「美緒様、落ち着いて下さい。きっと水嶋様は美緒様があまりに可愛らしい方だったので照れていらっしゃるんですよ」
「そ、そうかしら」
「えぇ。きっとそうです。さあ、私達も教室へ向かいましょう」
単純でバカな美緒を宥めて背中を押し、美波は教室まで向かった。
入学式からしばらく経過し、美緒は恭介に近寄っていたが、同じように彼に近寄る烏丸蘭子という女子生徒が現れる。
彼女はことあるごとに美緒の邪魔をしていざこざを繰り返しては美波を喜ばせていた。
その最中である。
入学式の日から美緒とは話もしていなかった椿がこちらに話し掛けてきたのだ。
美波はその時の椿の態度や口調などから、彼女を敵に回すのは得策ではないと早々に判断する。
ただでさえ美緒はどうあがいても家の格からして違う椿に勝てないのだ。
椿がその気になってしまえば、美緒は学校を追い出されてしまう。
それは困る。まだ美波は美緒で遊びたい。
一定期間、美波は椿を観察したがカフェテリアの件以降、彼女は美緒が烏丸と言い合いをしても割って入ってくることはなかった。
椿の婚約者と言われている恭介に美緒が近寄っていくことにも文句を言っている様子は見せない。
このことから、椿は自分に火の粉が降りかからない限りは動かないのではないかと美波は予想した。
ならば、徹底的に椿を避ける必要がある。
彼女に気付かれないように陰でこっそりと揉め事を起こさなければならない。
椿に乱入させてはいけない。その一心で美波は上手く美緒を誘導していた。
だが、揉め事といっても、烏丸と恭介を取り合うのみというお決まりのパターンに美波は飽き始めていた。
何か決定的なことを烏丸がやらかしてくれたら、美緒を焚きつけられるのにと思っていた美波に吉報が入る。
烏丸が美緒の家庭環境について口にしたのである。
それを聞いた美波は烏丸はもう要らないと判断し、美緒の祖父に頼んでなんとかしてもらえばいいと彼女に烏丸の祖父や両親が医者であることを教えたのである。
美緒のことだから、必ず父親に泣きつき、泣きつかれた父親が自分の父親である彼女の祖父に頼むのは目に見えていた。
このまま烏丸と言い合いをしていても何の進展もないし同じことの繰り返しだ。
烏丸蘭子には退場してもらうことにする。
少しばかり時間は掛かったが、烏丸は彼女の祖父から注意を受けて美緒と仲良くするように言われたらしい。
夏休み明けから、烏丸は美緒のグループに所属するようになったので、上手くいったのだろう。
途中、同じグループの戸草が調子に乗って椿にケンカをふっかけたと聞いた時は肝を冷やしたが、彼女がやり込められた手口を聞いて、やはり朝比奈椿には関わらない方が良いと美波は改めて思い知ったのである。
さて、次は誰をターゲットにしようかと考えていたところに、椿と仲が良いとされる藤堂千弦が寄ってくる。
千弦は、美緒に風紀の乱れを頻繁に注意するようになるが、烏丸のように言い合いをするようなことはない。
また、千弦は椿と繋がりを持つ人物なので細心の注意を払い、適当なところで美緒を毎回止めていたのだが、美波は非常につまらないと思い始めていた。
加えて、美波が委員会の集まりに出ていたときに恭介が美緒をハッキリと拒絶してしまったのである。
まだ美緒で遊ぼうと思っていた美波は、千弦と恭介に対して余計なことをしやがってという感情しか持てなかった。
篠崎の件も重なり、しばらくは荒れていた美緒であったが、彼女と同じグループの大人しくて控えめな性格の子が恭介に連絡事項を伝えたと聞いた彼女は途端に逆上したのである。
その子を呼び出して「水嶋様に色目を使うな! 私から奪うつもりか!」と責め立てたのだ。
言われた子は涙目になりながらも、そんなことはしないと反論していたが、美波はその光景を見て、しばらくはこれで遊べるな、と考えていた。
大人しくて控えめな性格の子や明るくて素直でお人好しな性格の子を特に美緒は攻撃している。
対象に統一性はあるものの、なぜ美緒がそういった性格の子を選ぶのかは美波には分からなかった。
だが、今更美緒の考えを理解するのは無駄なことである。
楽しめればいいのだ。深く考える必要はないと思い、美波は特に美緒を注意することはしない。
一度、椿に見つかったときは肝が冷えた。
椿との直接対決はこれが初めてであったが、終始美緒は彼女に言い負かされ続けていたのである。
あの場を支配していたのは紛れもなく椿。
やはり美緒は椿に勝つことができないのだと思い知っただけであった。
何を考えて椿があの場に出てきたのかは美波は分からなかったが、美緒が大人しくしていれば見逃すと言っていたので、しばらくは鳴りを潜めていたほうが懸命であると考えた。
もしかしたら恭介がハッキリと拒絶したことで、椿は口を出せる状況になってしまったのだろうか。
だとしたら、かなり厄介である。
これまで以上に椿に見つからないように動かなければいけない。
美緒をなんとか宥めながら、美波はしばらくは大人しくしていた。
だが、自分達のグループ内での揉め事であれば、外に話が漏れないのではないかいうことに美波は気が付いたのである。
そうと決まれば美緒を焚きつけようと考え、美波は彼女に同じグループに所属する大人しくて控え目な性格で彼女が目の敵にしている「とうこ」と同じ名前の小松の存在を教えてみた。
案の定、美緒は無差別攻撃から個人攻撃へと移行する。
同じグループの他の生徒も美緒の攻撃対象になりたくないのか、一緒になって小松を責め立て始めた。
二学期が始まってそうそうに椿に見つかってしまったが、美緒の機転でなんとか切り抜けることができた。
けれど、話を聞いた千弦が再度、美緒に近づいてきたのである。
椿も椿で厄介であるが、千弦もまた美緒と相性が悪い相手だった。
邪魔ばかりする千弦を排除しようと美波は色々と考えを巡らせる。
美波の見立てでは、椿と千弦はあくまでも椿が上に立っている関係であると考えていた。
自分に火の粉が降りかからない限り椿は動かないとなれば、千弦が攻撃されても出てこないのではないかと思い、彼女の父親が政治家ということを利用させてもらう。
自然学校初日の朝にニュースを見ていて本当に良かったと思ったものである。
大地が汚職事件や違法献金などの知識が無かった美緒に分かりやすいように教えた時は本当に良い仕事をしてくれると美波は笑いそうになった。
話の最後に美波が駄目押しすると、美緒はすっかりその気になる。
本当に馬鹿は扱いやすい。
そして、千弦との対決で美緒は見事に彼女を言い負かしたのだ。
これで美緒が学年の女子グループのトップになった。その権力を使って好き放題できると美波は興奮する自分を抑えられない。
だが、ここで美波は計算ミスをして、美緒が椿に完膚なきまでに打ちのめされるという結果となる。
女子グループのトップになった美緒を使って色々とできると思っていたのに、折角手に入れた地位を椿と千弦に奪い取られてしまった。
また、取り巻きの生徒の中でも美緒に反発していた生徒達はこぞって千弦のために椿が動いた結果、彼女が負けたのだと言いふらしてしまう。
学年中に美緒が負けたということが知られてしまった訳である。
同時に、朝比奈椿を言いなりにできるのは藤堂千弦だけだと周知されてしまった。
手を出したら最後、椿が絶対に出てくることになる以上、もう千弦に手を出せない。
文化祭以降、美緒のグループはトップから転落する。
沈みゆく泥船にいつまでも乗っていられないと、グループ内の生徒が逃げだそうとしているが、小学校からの取り巻きや、親が医者で美緒に逆らえない生徒達は人数が少なくなると自分達に被害がくることを恐れて、彼女達が逃げられないように責め立て始めたのだ。
あちこちで起こる揉め事に、まぁ、これはこれで面白いからいいか、と美波は傍観することに決めたのであった。