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 レオンが帰国した数日後、椿は菫からあるお願いをされていた。


「姉さま!あさって、倖一さまの剣道のしあいがあるのですが、ご一緒していただけませんか?」


 その菫の申し出に、椿は即答できずに悩んでしまう。


「……ダメ、ですか?」


 ションボリと肩を落とした菫が弱々しく呟いた。

 椿が、あ、しくじった! とあたふたしている間に母親が菫に声を掛ける。


「でしたら、お母様と一緒に参りましょうか」

「ほんとうですか!?」


 母親の申し出に菫は嬉しそうな顔をしているが、側で聞いていた椿は更に慌て始める。

 朝比奈家と倉橋家、事情を知らない子供同士が交流を持ったところで周囲は軽く嫌みを言う程度で終わりだろうが、そこに親が絡んでくると途端に厄介になるのだ。

 まだ娘の椿が相手方と接触をした方が、穏便に済む。

 倉橋の件の当事者である母親が表に出てしまえば、外野は好き放題に色々なことを裏で言うに決まっているが、その話が、朝比奈家や水嶋家の耳に入ることは決して無い。

 外野の悪意に晒されるのは常に倖一達家族の方なのだ。

 強者ではなく、弱者の方にそう言った声は言いやすいし、伝わりやすい。


 このようなこともあって、椿は倉橋家と交流を持つのに難色を示していた訳だ。

 母親が菫と試合を見に行ってしまうとなると、倖一家族にとってよくない事態に陥ってしまうため、慌てて椿は声を上げる。


「お、お母様。私が菫と参ります! 剣道に興味があったんです!」

「まぁ、椿ちゃんが剣道に興味があったなんて初めて伺ったわ」

「急に興味が湧いてきたんですよ! それに夏休みで暇ですし! 特に予定もありませんし!」


 前のめりになりながら、椿が訴えかけると、彼女の勢いに押されたのか、母親はあっさりと引いてくれる。


「でしたら、椿ちゃんにお任せしようかしら?」

「えぇ。任せて下さい。志信さんを伴って参りますから心配はいりませんよ」

「きちんと、志信君に話を通しておくのよ? 椿ちゃんは大事な事を後回しにする癖があるのだから」


 的を射た母親の言葉に、椿は苦笑いしか返せない。

 だが、出掛けることを志信に伝えるのならば早い方がいいだろうと、すぐに椿はソファから立ち上がると、早足でリビングを後にした。

 この時間であれば、志信はキッチンで料理人の直孝の手伝いで夕食の下ごしらえをしているか、車の整備か洗浄をしているはずである。

 まずは、近いキッチンへと椿は足を向けた。


 キッチンの入口から中を覗き込んだが、料理人の直孝しか見当たらない。


「シェフ、志信さんがどこに居るか知ってる?」


 椿に話しかけられた直孝は、作業の手を止める。


「志信ですか? 出掛けたとは聞いていないので、屋敷内には居ると思いますが」

「そう。ありがとう」


 どうやら父親である直孝も志信が居る場所を知らないようだ。

 キッチンに居ないとなると、車庫付近かなと思い、椿は玄関から出て車庫へと向かう。

 椿の予想通り、志信は車庫の前で車を磨いていた。

 

「何かご用ですか?」

「志信さん、明後日なんだけど、菫と倖一君の剣道の試合を見に行くことになってね。車を出して欲しいのよ。頼めるかしら?」

「車を使用する用事は何も入っておりませんので、問題はございません。一応、本家の使用人も数名連れて参りましょうか?」

「そうね。人が多い場所だろうし、お願いするわ」


 椿は詳しい場所と時間を志信に伝え、後のことを彼に任せた。


 そして当日。

 やけに気合いが入っている菫を連れて、椿達は試合が行われている会場へと向かう。

 小花柄のノースリーブの白いワンピースに薄いピンク色のサマーニットカーディガンを羽織った菫はとても可愛いが、その気合いがたった一人のためのものだと思うと椿は面白くない。

 車内では、倖一とのことを嬉しそうに話す菫に相槌を打ちながら過ごし、車は会場へと到着する。

 

「区の大会なだけあって、会場は普通の総合体育館なのね」

「施設内に冷房はあると思いますが、水分補給はこまめにとって下さい」


 志信の言葉に、椿は素直に分かったと返事をして、菫達と会場内へと入る。

 会場内は区の記念大会ということもあって、割と観客が多い。

 二階の観客席へと向かった椿達は、端の方の空いている席に座って階下で行われている剣道の試合に目を向けた。

 現在、会場では小学校低学年と高学年の団体試合が行われている。


「確か、あの子小学校三年生よね。だったら、今試合やってたりするのかしら?」

「倖一さまは副しょうをまかされておいでのようです」

「今、次鋒だっけ? ならまだなのね」


 会場内のアナウンスを聞いて、椿は倖一の出番がまだであると知る。

 さすがに遠いのでどこにいるのかまでは分からない。


「菫様、恐らくあちらにいらっしゃるのが倖一様かと」


 菫の隣に座っている志信が指を指している方向をみるが、椿には判別がつかない。


「本当だわ。防具をつけておられる倖一さまもすてきです」


 だから椿には判別がつかないのだ。菫はどこを見て倖一だと分かったのか。

 大体、この距離で倖一を判別できる志信もすごいが、それを聞いてすぐに倖一だと気付く菫も中々のものだと椿は思う。

 恋の力は偉大なりと思いながら、椿はボーッと試合の様子を眺めていた。


「あ、姉様! 次が倖一さまのしあいですよ」


 ボーッと見ていた椿の腕を掴んだ菫が知らせてくる。

 どれどれと思い、椿は菫が指を指す方向に視線を向ける。


「右と左のどっち?」

「左です!」


 防具を着けていると本当に全く分からないな、と椿は左の方の少年を眺める。

 試合が始まり、竹刀での激しい打ち合いに思わず椿は息を呑む。

 椿の想像では、互いに打ち込む隙を計るものだと思っていたので、こんなに動くものだったとは意外であった。

 それは菫も同じだったようで、微動だにすることもなく試合に見入っている。


 結果としていえば、二本先取した倖一の勝利であった。

 素人目から見ても、倖一の腕は大したものだというのが分かる。


「……すごく、すてきでした」

「そうね」


 悔しいが菫の言う通りだ。

 椿は、そうね、以外の言葉を発することができずに黙り込んでしまう。

 志信はすぐに椿の変化に気付いたようで、それとなく菫に話題を振る。


「今の試合が準決勝のようです。出発が遅れましたが、試合に間に合って良かったですね」

「はい! でも私は倖一さまが勝つと思っておりましたから、間に合うと信じてました」

「さすが、菫様は見る目がお有りですね」


 菫と志信が話している間に準決勝は終わり、倖一の所属する道場が決勝へと駒を進めた。

 同じ体育館の別のコートでも同時に試合が行われていたので、少しの休憩を挟んですぐに決勝が始まる。


「忙しいわね」

「時間内に終わらせなければなりませんからね。それにこの後も中学生の部がありますから、仕方ありません」

「ふーん」


 椿の視線の先では、中堅戦が終わり、倖一の所属する道場は二勝一敗という結果になっていた。

 副将戦で勝てば倖一の所属する道場が優勝が確実となる。

 倖一の感じるプレッシャーはかなりのものだろうが、彼の足取りは軽く、動作も落ち着いたものであった。

 少しも緊張などしていないことが見てとれる。二勝している分、自分が負けても大将がいるという余裕があるのかもしれない。

 反対に、対戦相手は少しばかり落ち着かない様子を見せていた。負けたら後がない、という点が対戦相手にかなりのプレッシャーを与えているのだろう。

 この時点で勝負は決まったようなものである。


 結果として、相手に一本取られたものの、倖一が連続で二本先取して勝利を収めた。

 あの短い時間で一本取るのだから凄いものだと、椿は感心する。


 その後の大将戦も勝利を収め、倖一の所属する道場が優勝した。

 倖一は同じチームの子供達と優勝を喜び合っている。遠目だから多分あの子が倖一のはずであると予想しているだけであるが。

 

 椿は隣に座っている菫の様子はどんなものだろうかと思い、隣に視線を向けると、菫は倖一の姿にうっとりと見入っている。

 一瞬だけ声を掛けようかと悩んだが、そっとしておくことにした。

 

 小学校低学年と中学年の部が終わり、会場は中学生の部の試合が始まった。

 出場チームはそれほど多くはないので、そこまで時間もかからない。

 閉会式までは見られるかなと椿は思い、小学生よりも動きにキレのある中学生達の試合を眺めていた。


 途中で水分補給を挟みながら、閉会式まで見終わった椿達は帰ろうかと出口へと移動を始めると、出口付近で倖一と彼の母親に遭遇した。

 倖一はこちらに気付くと片手を上げて挨拶をしてくるが、母親の方は気まずそうに会釈をしていた。

 倖一の姿を見た菫は嬉しそうに彼に駆け寄ると、今日の試合の感想を口にし始める。


「とてもすばらしい、しあいでした! 倖一さまはお強いのですね! 息をするのも忘れて見入ってしまいました」

「ありがとな。俺よりも大将の奴のが強いんだけど。でも本当に見に来てくれたんだな。全国大会でもないのに」

「当たり前です! 倖一さまの初めてのしあいですよ!」


 椿は菫の頭に無いはずの耳としっぽが物凄い勢いで左右に振れている姿が見えるような気がする。

 そんな二人の様子を椿は眺めながら何度も目をこすっては見つめていた。

 楽しげに会話をしている菫と倖一を椿が見ていると、遠慮がちに倖一の母親が話し掛けてくる。


「あの……今、お時間よろしいでしょうか?」

「えぇ、大丈夫ですが」

「でしたら、あちらのベンチに座りながらでもよろしいですか?」

「はい」


 倖一の母親に勧められるまま、椿は近くのベンチに腰を下ろす。

 何やら、彼女は椿に聞きたいことがあるようだ。

 菫を志信に任せて、椿は倖一の母親から話し掛けられるのを待っていた。


「あの、ですね。椿さんのご両親は、菫さんが家の息子と仲良くしていることをどう思っていらっしゃるのか御存じかしら?」


 椿は倖一の母親から、いずれ聞かれることだろうと思っていたので、特に驚きはしなかった。

 両親がどう思っているのかを考えた椿は以前、似たようなことを父親に訊ねた時のことを思い出していた。


「むやみに反対して意固地になって倖一君に執着してしまったらどうしようもないからね。倖一君本人に問題はないし、彼のご両親も良い人達だから心配はしてないかな。まぁ、あそこの一家のみの話だけどね」


 と、父親は語っていたのである。

 つまり父親は、菫が母親と同じ道を辿る結果になるかもしれないことを危惧しているのだろう。

 反対されて倖一しか見えなくなり、思い詰めた挙げ句に駆け落ちされたらたまったものではない、ということである。

 倖一は、椿の実父のようなクズではないので、駆け落ちしたとしても菫を幸せにはしてくれるだろうが、親としては目の届くところに居て欲しい、という訳だ。

 このため、今は表だって反対していないのだろう。菫が適齢期になったらどうなるかは分からないが。

 けれど、あの父親や伯父が抜け道を用意していないはずがない。どちらに転んでも大丈夫なように準備はしているだろう。


 ということを椿は思い出しながら、倖一の母親へと説明を始める。

 

「……両親は、思うところはあるかもしれませんが、頭ごなしにダメだとか嫌だとか申してはいません。倉橋さんがどのような方なのかはこれまでのことで存じておりますから、両親は大丈夫だと判断しているのだと思います」

「そ、そうですか。それは大変ありがたいとは思います。ですが、椿さんはどうでしょうか?」

「私ですか? 私は特に何も。ただ、血筋のせいで、本人は人格者であるのに色眼鏡で見られてしまって大変だとは思っておりますが。ああ、これは倉橋社長と奥様にも言えることですけれど」

「……恨んではいない、ということでしょうか」


 愛人と共謀して椿の母親を騙して娘ごと軟禁して、会いにも来なかったのだ。恨まない方がおかしいと思っているのかもしれない。

 だが、椿にとって実父はすでにどうでもいい存在であり、恨む恨まないの話ではない。


「恨んではおりませんが、あの男がどうなろうが私には関係ございません。私にとっては、どうでもいい存在ですね。大体これまで一度もあの男にお会いしたことがありませんので、今更になって父親面して出てこられても困りますね」

「申し訳ございませんでした」


 突然の謝罪に椿は倖一の母親に視線を向ける。

 彼女は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。


「……なぜ、貴女が謝罪なさるのですか? 同じ一族だから、という理由ならば謝罪など不要です。そもそも貴女方のせいではございませんでしょう?」

「いえ、同じ一族だからこそです。今は主人が倉橋家の長です。一族の者が取り返しのつかないことをしでかしたのですから、謝罪するのは当たり前のことです。これまでは椿さんと二人でお話しする機会がありませんでしたから、謝罪ができませんでした。菫さんに事情を説明していらっしゃらないのであれば、私が余計なことを申し上げてしまう可能性もありましたので、なおさら謝罪することもできずに」

「いえ、お気になさらないでください。あの男と倉橋社長とそのご家族は別だと思っておりますので。つぶれかけの会社を再建した手腕を父も水嶋の伯父も高く評価していらっしゃいます。それだけであの男とは全く違うまっとうな人格者であることを証明しておいでです」


 椿の言葉に倖一の母親は少しだけ安堵の表情を浮かべた。

 椿達に対して申し訳ないと思う気持ちが大半だろうが、自分の家族を守りたい気持ちもあったのかもしれない。

 このまま、菫が倖一と仲良くしていたら朝比奈家や水嶋家から睨まれてしまうと思っても無理はない。

 

「ですが、よくあの会社をあそこまで建て直せましたね。口出しも多かったことでしょうに」

「うちの主人は雇われ社長ですから、大した事は何も。新しいオーナーと社員の皆さんが頑張ってくれたお陰です」

「それでも大変でしたでしょう」


 特にプライドだけは高い元社長達の相手は、大変という言葉では言い表せないだろう。

 幸い、元社長達は倉橋の会社が潰れた後の責任を取りたくないこともあり、椿の母親との離婚後に倖一の父親に社長を押しつけ、全ての株、つまり経営権を別の企業に譲渡している。

 倖一の母親によると、偶然にも譲渡先の社長が現・倉橋社長の大学時代の後輩だったのだそうだ。

 その後輩は母親の友人である音羽真知子の親族であり、なんと音羽家当主本人なのだと聞かされ、椿は世間の狭さに驚いたのである。


「偶然にも主人の後輩ということで色々と勘ぐられたりもしたんですが、本家の方からの申し出だったことと、大学卒業後から一切連絡を取っていなかったので、それ以上は何も言われませんでした。実際、主人は何も知りませんでしたから。後輩の方が主人に助けられたことがあったとのことで、恩を返す意味も含めて手を貸すことを決めたそうです」


 こうして、オーナーとなった後輩が経営陣の交代を行い、毒を追い出したことで仕事がスムーズにいくようになり、倉橋社長の尽力もあって結果なんとかなったということであった。

 結局、倉橋社長に売ろうが別の会社に売ろうが本家の連中が危惧していた通りの結果となってしまった訳である。


「前の経営陣の皆様は、今は引退されていたり、窓際部署に転属だったりしておりますね」


 軽やかに口にしているが、恐らく椿の実父は窓際に追いやられているのだろう。

 

「ですので、朝比奈家や水嶋家の皆様にご迷惑をお掛けすることはないと思って下さい。彼らには何の権限もありませんから。それにこちらでもきちんと監視はしております。幸運にもオーナーが援助して下さっておりますので大丈夫です」

「それは……何と申しますか、お手数をお掛けして」

「いいえ。これは義務ですから」


 椿の実父達に下手なことをされて、水嶋家や朝比奈家の怒りを買いたくないから倉橋側も必死なのだろう。

 まともな人はいつも損をするのだな、と椿は彼女達に同情してしまう。


 長々と倖一の母親と話し込んでしまったが、時間も時間だったので倖一達とはお別れとなるが、菫は彼と次の約束を交わしていた。

 上手くいって欲しいと思う反面、やはり姉としては複雑である。


 帰りの車内で、椿は菫から倖一の母親と何を話していたのかを訊ねられた。


「ただの世間話よ」


 本当のことを言えるはずもなく、椿は曖昧な言葉を口にする。

 これ以上深く聞かれたくない椿は菫に倖一の話を振って話題を逸らした。

 菫は嬉しそうに今日の倖一のことを話し始め、椿は何度も彼女の言葉に相槌を打ったのだった。

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