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 六月になり、冬休みの沖縄旅行で約束した通り、朝比奈家の女性陣三人でオペラに行くことになった。

 樹は未就学児ということもあり、行くことはできないので、父親と留守番することになっている。

 女性陣で楽しんでおいで、と父親が言ってくれたこともあり、女性陣だけのお出掛けに椿は内心ワクワクしていた。


 護衛として志信と佳純、そして本家の方から使用人が二名来てくれて、計四名が付くことになっている。

 さすがに、前のように菫が自発的にどこかへ行くようなことは無いと思うが、念には念を、ということだ。

 

「オペラなんて久しぶりね」


 支度を終えた母親が、本当に嬉しそうに口にしている。

 結婚記念日などでは、父親と二人で出掛けたりしていたのだが、去年は菫の受験もあって、自粛していたのだ。

 

「来年は樹の受験がありますから、今年の内にたくさん観ておきましょうね」

「それもそうね。でも、いつか家族全員で観劇したいものだわ」

「樹が小学生になったら叶いますよ」


 母親と話をしている内に、椿と菫の支度も終わり、父親と樹に挨拶をして女性陣は劇場へと向かった。

 初めてのオペラを楽しみにしているのか、菫はとても興奮気味である。

 オペラに行くと決まってから今日までの間に、上演予定の作品のレコードを何度も何度も繰り返し聴いていた。


「今やってるオペラは時間が比較的短いし、幕間も一回だけだから、菫も楽しめると思うわ」

「何度も何度もききましたので、もう覚えちゃいました。それにお父さまからもお話を伺っております」

「あら、お父様からストーリーの説明があったのね」


 菫は大きく頷き、父親から聞いたのであろう話を椿に得意げに教えてくれる。

 椿も相槌をうちながら菫の話を最後まで聞いたのだった。


 話している内に車は会場へと到着し、護衛と共に中に入る。

 定刻通りに始まり、椿は舞台を見ながらも横目で菫の様子を窺っていた。

 いくら上流階級の子供といえど、三時間近く座って見ているのはさすがに苦痛ではないだろうかと思ったからである。

 だが、菫は退屈そうな素振りも見せずに食い入るように舞台を見ている。

 飽きるのではないかとの椿の考えは取り越し苦労であったようだ。

 それよりも、会場内に入ってから椿は、今日はやけに子供が多いと感じていた。

 上演中に騒がないところをみると、ある程度の躾はされている子供なのかもしれない。

 まぁ、落ち着いて観られるのならばいいか、と椿は客の中に子供が多いことは頭の隅へと追いやった。

 

 こうして一幕が終わり、幕間となる。

 椿達は客が少なくなってから移動したので、ロビーの椅子はすでに子供と女性で埋まっていた。

 ゆっくりと移動していると、どこからか母親に向かって声をかけてくる女性が現れた。


「まぁ、やっぱり。会場内から遠目で見ていて百合子さんかしらと思ってたのよ」

「あら、もしかして真知子さん? まぁ、お久しぶりですわ。お元気でいらして?」

「えぇ、百合子さんもお元気そうで何よりだわ。それにしても、海外から十二年ぶりに戻ってきてオペラを観に来たら百合子さんと再会できるなんて、信じられないわね」

「私もですわ。恵美里さんから、御主人の転勤で海外に行かれていたと伺っておりましたのよ? いつお戻りになったの?」


 真知子と呼ばれた女性は「つい一週間前よ」などと言いながら母親と世間話を始めてしまった。

 合間に椿と菫も自己紹介をする。母親からも女性を紹介してもらった結果、女性は音羽真知子おとわまちこといって母親の学生時代からの友人なのだそうだ。

 真知子の夫は総合商社としても有名で百貨店なども経営している音羽家当主のイトコに当たる男性だという。

 彼は、音羽家が経営している会社に入らず、他社へと就職して、結婚後すぐに海外支社に転勤となり、妻の真知子も付いていくことになり、今年ようやく十二年ぶりに日本へと帰国したらしい。


 お互いの紹介を終えた母親達は再び世間話へと戻ってしまう。

 大人同士の世間話ほど、子供にとって退屈なものはない。

 実際に菫はつまらなさそうに周囲をキョロキョロと見渡している。

 他の人がいては、菫もオペラの感想など話しにくかろうと思い、椿は盛り上がっている母親達に声をかける。


「お母様、私と菫はあちらで飲み物をいただきますので」

「あら、そう? 不破、よろしくね」


 母親は、すぐ近くに居た志信に声を掛けた。


「畏まりました」


 朝比奈本家の使用人を一人だけ母親に付けて、残った三人の使用人を引き連れ、椿と菫はその場から離れる。

 背後では「まぁ、一番上のお嬢さん中等部の二年生なの? 年の流れは残酷ね」などの声が聞こえた。どちらかといえば真知子は恵美里のように竹を割ったような性格の女性らしい。


「あぁ、不破。ちょっとお化粧室に参りますわ」


 すぐ隣を歩いていた佳純に椿は声を掛けた。


「畏まりました。志信、菫様を頼みます」

「はい」


 菫を志信と本家の使用人に託して、椿は佳純を連れてお手洗いへと向かう。

 途中、心配になって菫のいる方向を何度か振り返ると、「椿様、志信達が付いておりますので心配は要りません」と冷静な声で言われてしまった。


「空いている椅子があればよろしかったのに」

「本家の者に取っておいてもらえばよかったですね。申し訳ありません」

「いえ、予想よりも子供が多かったのですから仕方ありませんわ」


 椿は、佳純達使用人を責めた訳ではないので、慌てて否定をするが、彼女の表情は全く変わらない。落ち込んでいるのか何とも思っていないのかの判別がつかないのだ。

 相変わらずのポーカーフェイスっぷりである。


 お手洗いから出た椿は、外で待っていた佳純と共に菫達がいた場所へと戻ろうと移動を始める。

 だが、先ほどの場所には菫達はおらず、椿は周囲を見渡した。


「移動したのでしょうか?」

「端の方へ移動されたのかもしれませんね。一緒にいる使用人は背が高いので、すぐに見つかると思うのですが」


 椿と同じく周囲を見渡していた佳純はすぐに使用人を見つけたのか「あ、あちらですね」と声を上げた。

 椿が佳純の視線の先を辿ると、確かに本家の使用人の姿が見える。

 ただ、少しだけ使用人の様子がおかしいことに気が付き、佳純と顔を見合わせた。


「何かあったのでしょうか?」

「奥様のところまでお連れした後で様子を見て参ります」

「私も参ります。周囲が焦っているようには見えませんから、そう危険なことでもないのでしょう」

「いえ、椿様は奥様と一緒に居て下さい」

「あそこに菫が居るかもしれないのでしょう? 一人にしておくことなど出来ません」


 二人はちょっとした押し問答の末、折れた佳純が先導する形となり、椿達は菫がいる方へと向かった。

 人混みを抜けて菫の元へ行くと、志信が椿と同じくらいの年の女の子に対して話し掛けている姿が目に入る。

 傍らには青ざめた顔をしている菫の姿があり、椿はここで何かがあったことをすぐに把握した。

 椿が来たことに気付いた菫は青ざめた顔をこちらに向ける。


「ね、姉さま……」


 泣きそうになりながら蚊の鳴くような声を上げた菫の元に椿は歩み寄る。

 菫の手には、椿がお手洗いに行く前には持っていなかった飲み物のグラスがあり、その

中身が異様に減っていることに気が付いた。

 これは椿の予想が当たっていれば、菫が飲み物をこぼしたということになる。


「一体、何が?」


 一応確認のために近くにいた朝比奈本家の使用人へと問いかける。


「……その、ロビー内を走っていたお子様が菫様にぶつかってしまいまして、持っていた飲み物をあちらの方のお召し物にかけてしまったのです」

「そう」

 

 椿は菫にぶつかった子供に怒りを感じつつも、やはりそうだったのかと納得する。

 使用人や子供だけでは無理だと思い、椿は母親を呼んできてほしいと佳純に目配せし、意図に気付いた彼女はすぐにその場から離れていった。

 未だに青ざめている菫の頭をひと撫でして、椿は女の子の方へと向かった。


 女の子は志信の謝罪に対して腕や首を振って、大丈夫ですという言葉を連呼していた。

 椿が彼女のスカートを見たところ、さほど大きなシミにはなっておらず、こぼした飲み物が全てかかった訳ではなさそうであった。

 どの程度の被害なのかを確認した後で椿は視線を上げて女の子の顔を見る。

 パッチリとした二重の大きな目に太めの眉、活発そうな印象を与えるポニーテールの女の子、という感想を椿は持った。

 だが、椿は彼女をどこかで見たことがあるような気がした。もしかしたらどこかですれ違ったことがあるのかもしれない、などと思いながら、椿は女の子とまだ話をしている志信に声をかける。

 

「何を揉めておりますの?」


 未だに女の子と押し問答を続けている志信に椿は声を掛けた。

 彼は、動転していたのか、椿が側に寄ってきたことに気が付いていなかったらしく、あからさまに驚いていた。

 だが、すぐに表情を戻して椿に対して頭を下げたのである。


「このような目立つ場所で騒ぎを起こしてしまい申し訳ございません。実は、こちらのお嬢様にクリーニング代をお渡ししようとしているのですが、受け取っていただけなくて……それに名前も頑なに教えて頂けないのです」

「不破のせいでも、ましてや菫さんのせいでもございませんわ。このような場所で走り回るような躾のなってない子供を連れて来られているのが悪いのですから」


 椿の言葉を聞いた女の子は同意だと言わんばかりに大きく頷いている。


「そうですよ! むしろ通りがかった私の運が悪かっただけですから気にしないで下さい! それに、スカートのところにちょっとかかった程度だから平気です。さっき持っていたハンカチで拭いたので問題もないです。だからクリーニング代とか大げさにしなくても大丈夫です」

「それとこれとは話が別ですわ。それから、妹がご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした。たとえ、原因が別にあったとしても、妹が貴女に飲み物をかけてしまったことは変わりませんもの。ですので、クリーニング代を受け取っていただかないと、こちらとしても困るのです」

「え、えぇー……」


 お金を貰わなくて済むのではないかと思っていたのか、椿の話を聞いた女の子は落ち込んでいた。

 落ち込んでいる彼女には悪いが、これだけの人の前で騒ぎを起こして、どこから周囲に話が伝わるか考えただけでも椿は恐ろしくなってしまう。

 おまけに、女の子の親が来てくれるとも限らないし、このままクリーニング代も渡さずに別れたら後で噂好きの部外者達に何を言われるか分かったものではない。

 何としてでも、この女の子にクリーニング代を受け取ってもらわなければ、と思い椿は彼女に近寄り、小さめの声で話しかける。


「ひとつ伺いたいことがあるのですが、よろしいかしら?」

「え、あ、はい」

「……貴女は、上流階級の人間が何を大事にしているか御存じ?」


 唐突に椿から問われた女の子は首を捻りながら考えていたが、少しの間の後におずおずと答える。


「……お金、じゃないんですかね?」

「世間体と見栄」

「え?」

「普通のご家庭でもそうですが、上流階級の人達は特に世間体と見栄を大事にしておりますの。お金もそうですけれど、人の評判をとても気にするものなのです。これだけの人の前で騒ぎを起こせば、どこから誰の耳に入るか分かりません。仮に、このまま貴女と別れた場合、両親は『迷惑をかけた相手に責任も取らないような子供を育てた人間』だと陰で笑われてしまいます。お分かりいただけますかしら?」


 椿の言っている意味を理解したのか、女の子は黙り込んでしまう。

 そこへ佳純に呼ばれた椿の母親が慌てた様子でやってくる。

 同時に、女の子の母親と思われる女性もやってきたことで、ようやく事態は収まろうとしていた。


 親同士の話し合いになり、蚊帳の外になった子供達は大人しく成り行きを見守っていた。

 椿は、まだ青ざめたままの菫のフォローをした方が良いと思い、話しかけようとしたが、女の子に先を越されてしまう。

 彼女は中腰になり菫と視線を合わせて、笑顔を浮かべている。


「あなたは怪我しなかった?」

「……よろけただけなので大丈夫でした」

「良かった。それから、私に飲み物をかけたことは、本当に気にしないで大丈夫だからね。オレンジジュースだから、ほら、柑橘系の制汗剤だと思えば匂いも気にならないし」

「さすがにそれは無理があるかと」


 思わず椿が突っ込むと、女の子はこちらを見上げながら「ですよねー」と苦笑していた。

 

「あの、本当にごめんなさい」

「うん、大丈夫。後は親同士が解決してくれるからね。それよりも、あなたはいくつなのかな?」

「小学校一年生です」

「一年生!? すごい礼儀正しいね。私が小一の頃なんて、モップにまたがって空飛ぼうとしてたのに。こういう場所で大人しくできるなんて、なかなかできることじゃないよ。偉いね」


 褒められたことで、少しだけだが菫の青ざめた顔が変化し始める。


「で、ですが、同じ学校のお友達も大人しいですから」

「じゃあ、皆良い子だ。でも、これだけ可愛くて礼儀正しい子、私も妹に欲しかったなー。うちはやんちゃな弟が一人いるだけだから妹に憧れがあるんだよね」

「あ、私も弟がおります!」

「あ、お揃いだね。年はいくつ離れてるの?」


 女の子は上手く会話を運んで、菫のフォローをしてくれた。

 椿では、ここまで上手くいかなかっただろう。女の子に感謝である。


 ここで、ようやく親同士の話し合いが終わったのか、椿達が母親に呼ばれたことで女の子との会話が終了する。

 菫と女の子は手を振り合って別れ、母親と一緒に出口まで動き始める。

 さすがに、この後もオペラを観るのは菫の気持ちを考えると無理だろうという判断だった。

 


透子とうこ、帰るわよ」

「はーい」

「間延びした声で答えないの」

「分かってるよー。もう」


 背後から聞こえた女の子と母親の会話を聞いた椿は立ち止まり、勢いよく振り返る。

 いや、まさかそんなことがあるはずがないと思いつつも、最初の印象のことを思い出して椿は青ざめた。

 だが、椿は彼女の名字を知らない。聞いていない。だから偶然あの女の子が夏目透子と同じ名前なだけかもしれない。でも……いや、だけど、等と椿は立ち止まり考え込んでしまう。

 突然立ち止まった椿に気付いた志信が声を掛けたことで、彼女はハッと我に返り「何でもありません……」と答え、青ざめた顔のまま帰宅したのであった。



一方、透子と呼ばれた女の子も立ち止まって後ろを振り返り、椿の後ろ姿を見てポツリと呟く。


「エリカ様って実在したんだ……」

「透子、何止まってるの?」

「何でもないよ」

「それにしても、近所の奥さんから貰ったチケットでこんなことになるなんてね」


 ビックリよね、と親子で話していると、透子の母親に女性が声をかけてきた。


夏目なつめさんの奥様」

「あら、音羽さんの奥様。帰国なさってたんですね」

「つい最近ね。折角オペラを観にいらしたのに残念でしたね」

「あら、見てたんですか? 大したことなかったのに、こちらが申し訳ないくらいですよ」


 先ほどの揉め事を真知子に見られていたことに気付き、透子の母親は居心地が悪くなる。


「仕方ありませんよ。相手が朝比奈陶器のご家族ですもの。受け取っていただけなかった場合は私も出ようかしらと思ってましたから」

「え? 朝比奈陶器の? まぁ、だからあんなに品の良い方々だったんですね」

「確か、上のお嬢さんは夏目さんのお嬢さんと同い年のはずです」

「随分と落ち着いたお嬢さんだから、娘よりも年上かと思ってましたけど、同じ年なんですね。うちの娘に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですよ」


 ほどなくして、大人同士の世間話は終わり、透子と母親はタクシーに乗り込む。

 シートに座って息を吐いた母親に向かってやや興奮を抑えきれない透子は質問を投げかける。


「お母さん、やっぱりああいう人達って鳳峰学園に通ってたりするのかな?」

「そうなんじゃない? だって朝比奈陶器の一族の方だもの」


 透子は「ふーん」と呟いて、窓の外の景色を眺め始めた。

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