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今年のホワイトデーは、椿が食べ物に目がないことをよく知っている父親や伯父達は、有名店のスイーツセットを、朝比奈と水嶋の祖父からは、プリザーブドフラワーやアクセサリーなどをお返しとしてプレゼントされた。
バレンタインデーに来日したレオンは休みが合わなかったとのことで、今年も去年と同じくお返しが宅配で送られてきた。
中身は、前に椿がポロッと口にしたことがあったフランス菓子のカリソン詰め合わせである。
何気なく言ったことをよく覚えているものだと椿は感心する。
一方、中等部は3学期のテストが終わり、後は春休みを待つのみになっていた。
順位発表がされた日の放課後、篠崎はサロン棟の個室に入ろうとしていた恭介に声を掛けてくる。
恭介と一緒にサロン棟まで来た椿もその場に居たが、声を掛けられた恭介が立ち止まったので彼女も足を止めて2人のやりとりを見守った。
篠崎が何の用事があって話しかけてきたのかを良く分かっている恭介は、彼が本題に入る前に答えを口にする。
「僕は一位だった」
篠崎は聞いた瞬間に膝から崩れ落ち、床に手をついている。
「掃除しているとはいえ、汚いぞ」
「恭介さん、気になさる場所はそこではありませんわ」
見かねた椿が恭介にツッコミを入れる。
篠崎は今回のテストに並々ならぬ闘志を燃やしていたと聞く。
かなりの自信があったのだろう。なのに、あっさりと恭介に一位宣言をされたのだから、膝をつきたくなる気持ちも分かる。
椿達の会話を聞いていた篠崎は、勢いよく顔を上げる。
「俺はまだ諦めない!」
「なぜ、そこまでして僕に勝ちたがるんだ……。僕に勝ったところで得るものなんて何も無いだろうに」
額に手を当てて、恭介はため息を吐いた。
その様子を見た篠崎は、険しい顔のまま黙り込んでしまう。
「……良かったら理由を聞かせてもらえないだろうか? 理由も分からずにただ勝負を挑まれても、こちらとしては真剣に受け取ることができないんだ」
椿はここで、恭介の後押しをしようとして口を開きかけたが、それでは彼のためにはならないと思い、開きかけた口を閉じた。
代わりに、篠崎の目をジッと見て、理由を話すように促すだけに留めた。
恭介の言葉を聞いた篠塚は、口を固く閉ざしている。
「篠崎」
再度呼びかけた恭介の声にも篠崎は黙り込んだままであったが、先ほどからジッと見つめる椿の視線もあり、諦めたのか腹をくくったのか、少し間をおいた後にようやくその理由を話し始める。
「そりゃあ、何でも常に一番のお前には分からないだろうね。……そうだな、元々俺は、幼い頃から何をしても一番だったんだ。それが当たり前だと思っていたし、周囲が俺を天才だ、神童だと言っているのを聞いて、調子にのっていたのも事実だ。だが、鳳峰に入学して、その認識は間違っていたと水嶋に会って思い知らされたよ。だからと言って、俺は努力もせずに諦めるのはごめんなんだ。それに水嶋恭介という壁が目の前にあるのならば、乗り超えるのが男というものだろう?」
しっかりと恭介を見据える篠崎を見て、椿は彼を見くびっていたことを心の中で詫びた。
「だから俺は、水嶋に勝って壁を越えるんだ」
ハッキリと口にした篠崎に、恭介は少し考え込んでいたが、彼の中で答えが出たのか、顔を上げて篠崎と視線を合わせた。
「……だとしたら、篠崎はもう壁を越えている」
「え?」
恭介の言葉に不意を突かれたのか、篠崎は口をポカンと開けている。
「壁を乗り越える方法は、テストや勝負で僕に勝つことじゃない。正直に言うと僕は、篠崎をなめていた。僕に勝てるはずがないと見くびっていたんだ。誠実であろうとはしていたが、真剣じゃなかった。その時点で僕の負けだ」
「水嶋……」
「篠崎、済まなかった」
謝罪の言葉を口にした恭介は、その場で軽く頭を下げた。
恭介が軽くではあるが、頭を下げたことに篠崎はひどく驚いている。同時に椿も驚いた。
悪い、とか済まないとか恭介は滅多に口にしないし、謝罪で頭を下げる姿など椿は見たこともなかったからだ。
篠崎の方も、これまでの恭介の態度から、どこか人を見下したところがあると思って反発していた部分もあったのだろう。
恭介が謝罪し頭を下げたことで、篠崎は毒気を抜かれたのか、先ほどまでの真剣な表情はいつの間にか穏やかな表情へと変わっていた。
「いや、良いんだ。その言葉が聞けただけで十分だよ」
晴れ晴れとした顔をしている篠崎は、結局は一人相撲だったことを理解したのかもしれない。
篠崎の望んだ答えではなかったのかもしれないが、彼の中で満足のいく結果になったのだと思いたい。
恭介と篠崎は互いに視線を合わせながら、ガッチリと固い握手を交わした。
「篠崎、これからも僕と仲良くしてくれると嬉しい」
「これまでも仲良くしていたつもりはないんだけどね。……まぁ、いいよ。でも、いつか俺がテストで一番になってやるから覚悟しておいてくれよ」
「首席の座は、そう簡単に譲らない」
会話の後、恭介は篠崎に手続きをして個室に来るかどうかを聞いたが、彼は習い事があるとのことで帰ってしまった。
篠崎を見送った後に椿と恭介は個室へと入り、先に来ていた面々に今しがた起こったことを伝える。
「では、篠崎君とお友達になられたのですね。おめでとうございます」
「どうなることかと思ったけど、良かったね」
「あぁ。だが、友達を作るということは大変だな。今回の件で実感した」
「恭介の場合は特殊なんだってば」
恭介と篠崎の場合は、あれである。河川敷で殴り合ったら友情が芽生えた、というものに近い。
先に恭介が引いたので、篠崎も素直に手を差し出すことができたのだと椿は予想している。
頷きながら納得している椿に向かって、恭介が馬鹿にしたような笑みを浮かべながら口を開く。
「なんだ、椿。友達がいないからって僻むな」
「友達くらいいるわよ!失礼な奴め」
「八雲、藤堂、佐伯、レオン。以上の他に友達がいると言うのであれば反論を許可するが」
「っぐ」
改めて言われると、挙げられた人物以外に友達がいないことに気が付く。
言葉に詰まった椿を見て、恭介は勝ち誇った笑みを浮かべている。
「椿。友というのは良いものだ。お前にもきっと分かるときがくる」
「偉そうなこと言ってるけど、友達の数で言ったら、私と恭介は、どっこいどっこいなんだからね!」
篠崎という友達ができたことによって、気が大きくなっているのかもしれないが、数で言えば椿と大差はない。
「……」
「……」
椿は、口にした瞬間、これお互いに火傷するしかない結果になる、と気付いて口を閉ざしたが、恭介もその考えに行き着いたのか黙り込んでしまった。
「ノーガードの殴り合い」
「や、八雲さん!」
「思ってたとしても、それは言っちゃいけないよ!」
杏奈がポツリと呟いた失言に、場の空気が凍る。
「言い返したいけど、真のリア充をギャフンと言わせる言葉が思い浮かばない」
「安心しろ椿。僕もだ」
恭介に肩を軽く叩かれ、労られる。
その後、比較的友人が多い千弦や佐伯に慰められ微妙な気持ちになりながら個室での話は終わった。
数日後、長かった1年間が終わり春休みへと突入する。
春休みは、椿は家族旅行に行くでもなく、誰かとどこかへ行く約束もしないまま、のんびりと過ごしている。
そして、始業式を間近に控えた日。つまり、菫の入学式の日がやってきた。
真新しい制服に身を包んだ菫の初々しさと言ったらない。
菫も菫で、よほど嬉しいのか両親や椿だけでは飽き足らず、使用人達にも制服姿を見せては感想を貰っていた。
「姉さま! どうですか?」
両手を広げて椿に制服姿を見せてくる菫。
「とても似合っているわ。お姉さんぽくて素敵よ」
「本当ですか?」
「えぇ。本当よ」
椿の褒め言葉に嬉しくなった菫は、満面の笑みを浮かべている。
「菫ちゃん。そろそろ時間よ」
「あ、はい」
フォーマル服を着た両親に呼ばれ、菫はそちらへ向かっていった。
「純子さん。樹のことをよろしくね。入学式が終わったら食事に行くから着替えさせておいて」
「畏まりました」
父親は、純子にそう言うと、母親と菫が乗る車へと乗り込んで出発していった。
残された椿は、樹と午前中を過ごすことになる。
時間がきたら着替え始めないといけないので、それまでは自由時間だ。
「純子さん。樹は?」
「お庭で遊んでおられます」
椿は、純子に「ありがとう」と伝え、庭へと向かう。
今年5歳になる樹は、好奇心が旺盛で体を動かすことが大好きな子である。
おそらく、庭で樹は佳純と体を動かしているのだろう。
そんなことを考えながら庭に行くと、椿の予想通りに樹は佳純とキャッチボールをしていた。
庭に現れた椿に気付いた樹が、ボールを手に持ったままこちらに走り寄ってくる。
「姉さま! 姉さまもキャッチボールしませんか?」
「あら、いいわね」
すぐに佳純と場所を交代し、椿は樹としばしキャッチボールを楽しんだ。
キャッチボールの後は、絵本を読んであげたり、樹からのリクエストでピアノを弾いたりと楽しい時間を過ごした。
椿は女の子ということもあり、菫の方を気にかけることが多い。
もちろん、樹のことも大事に思っているのだが、心のどこかで男の子は放任という思いがあり、両親に任せきりにしている。
だからこそ、こうして樹と2人で時間を過ごすことは珍しいことであった。
いつもは、両親のどちらかがいるか、菫も一緒にいるので、樹と2人というのは中々に新鮮なものがある。
樹も樹で、いつも菫と一緒にいる椿を独り占めできて嬉しいのか、テンションも高めで、あれやこれやと質問をしてきては楽しそうにしていた。
そうこうしている内に、準備をしなければならない時間になり、樹を純子に預けて椿も外出用の服に着替える。
パステルピンクのワンピースに白のカーディガンを羽織る。
佳純に頼んで、髪はハーフアップにしてもらい、椿の準備は終わった。
すでに両親達は学校を出発したらしく、あと30分もしない間に家に帰ってくることだろう。
準備が終わった椿は一階のリビングへと向かい、同じく準備が終わった樹と両親達が帰ってくるのを待っていた。
しばらくして、予定時刻通りに両親達が帰宅し、菫の着替えを待って食事へと出掛ける。
場所はホテルのフレンチレストランの個室で、外の景色を楽しみながらフランス料理を頂いた。
話題の中心は、入学式を終えたばかりの菫である。彼女は、学校の時計が大きかったことや、畑や田んぼがあったこと、食堂に個室があったことなどを、やや興奮しながら椿や樹に教えてくれる。
まだ、初等部のことを知らない樹は菫に対して様々な質問を投げかけたりしている。
「しょくどうにはどんなメニューがあるの?」
「メニューをじっくりとはいけんしたことがないから分からないのだけれど、姉さまから前にうかがったお話だと、毎月ちがった国のお料理が出るのですって」
答えてはみたものの、自信が無いのか、菫がチラリと視線を椿に向けて、合っているかどうかを目で訴えてきた。
「菫の言う通り、食堂では、日替わりランチというメニューがあるのだけど、その料理ジャンルは毎月変わるのよ。フレンチの月もあればイタリアンの月もあるし、中華の月もあるわ。私はお昼は良く日替わりランチを頂いていたわね」
「「へぇー」」
「もちろん、通常メニューにもフレンチやイタリアン、和食だってあるから、毎日悩んでいたものよ」
椿が事細かに食堂のことを語っている姿を、菫も樹も熱心に聞き入っている。
「いいなぁ。ぼくも早くしょとうぶににゅうがくしたいです」
「樹ならきっと合格できるわよ。しっかりと受け答えが出来ているし、ジッと椅子に座っていることも出来るしね」
褒められた樹は誇らしげな表情をしている。
体を動かすことが好きな子であっても、やはり上流階級出身の子供だ。幼い頃からTPOに応じた態度を身につけている。
「椿ちゃん。樹さんを油断させるようなことはやめてちょうだい。絶対なんてないのだから」
母親に注意され、椿は素直に「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。
特に樹はすぐに調子に乗るタイプなので、母親も心配しているようである。
「樹だって、そこら辺のことは分かってるさ。ね?」
すぐに父親がフォローを入れ、聞かれた樹も無言で頷いて肯定している。
「もう」と口にした母親はそれ以上、話を続けることはせずに食後のコーヒーを口に含んだ。
こうして、春休みの一大イベントである菫の入学式は終了となり、椿は2年生へと進級する。