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夏休みに入り、予定通り椿達はイギリスのコッツウォルズへと行くことになった。


父親と恭介と伯父、それにレオンとその家族が一緒である。

元はと言えば、恭介がレオンとのゲームに負けた結果、椿が巻き込まれる事になったのだ。


長い時間を飛行機内で過ごし、ようやく大地を踏みしめる事が出来る。

空港から車で移動し、ようやく1週間滞在するマナーハウスに到着する。


マナーハウスには既にグロスクロイツ家の人達が先に到着していたらしく、ロビーでお茶をしている姿が目に入る。

椿達がロビーに入ってきた事で、レオンの両親は立ち上がり、伯父と父親に向かって挨拶をする。


『お久しぶりです。今回はレオンの我が儘に付き合って頂いてありがとうございます』

『お久しぶりですね。私達の方も家族旅行は久しぶりですので、息子と過ごす機会を与えてくれて感謝していますよ』


親達の会話はさておき、今回の首謀者であるレオンの姿がロビーに見当たらず、椿は周囲を見回した。

恭介も、レオンが居ないことに気付いたのか、視線だけを動かしてレオンを探している。


「……居ないわね」

「何を置いても椿に挨拶しに来ると思っていたんだが……。どこに行ったんだか」


全く姿を現さないレオンを心配しつつ、椿達はスタッフからマナーハウス内の案内をされる。

貸し切りの為に他の宿泊客はおらず、静かなものである。

スタッフから一通り部屋の案内をされ、ロビーに戻ると椿は帽子を被り、父親に庭の散歩に行くと告げた。


「誰か付けようか?」

「敷地内からは出ませんし、グロスクロイツと水嶋、朝比奈の護衛がそこかしこに居ますもの。平気です」


父親からの提案を椿は断り、裏庭へと向かう。


綺麗に切りそろえられた生垣や色鮮やかな草花達やハーブを眺めながら、舗装された道をゆっくりと歩いていく。

本場のイングリッシュガーデンは、やはり違う、と感動しながら歩いていると、ある木の根元に座り込んでいる人間を見つけてしまう。

椿からは、その人物の後ろ姿しか見えなかったが、金髪の人間と言う事は分かったので、座り込んでいる人間はレオンだと判断出来る。

近づいていくと彼の手元には本があり、どうやら時間を忘れて庭で読書をしていたらしい。


椿はレオンに話しかけるかどうかを悩んでいると、彼は本を読み終えたのか本を閉じて立ち上がるとマナーハウスの建っている方向へと体を向けた。

そう、椿の居る方向である。


下に向けていた視線を上げたレオンとバッチリ視線が合わさる。

レオンと実際に会うのは去年の夏以来であるが、この1年で随分と背が伸びたものだ。

出会った頃は同じ目線だったのが懐かしいものである。

などと考えていると、彼は椿の方へ、世の女性が蕩けそうな笑みを浮かべながら近寄って来た。


「なんだ。迎えに来てくれたのか?」

「いいえ、全く、ちっとも。散歩の途中で見つけただけです。えぇ。探しになど来ておりませんとも」


椿は偶然見つけたのだと主張したが、レオンには届いていない。


「出迎えに行かなくて悪かった。」

「気にしてないわ。それよりも、私をゲームの景品にするのは止めてくれる?」


今後も罰ゲームの景品にされてはたまらないと、椿は文句を口にした。

あくまで遊びとしてゲームをしている恭介と、本気でゲームをしているレオンとでは、恭介の分が悪すぎる。


「椿が俺と交流を持ちさえすれば、やらなかった」


しれっとした顔で口にするレオンを見て椿は、全くこいつは、と言う気持ちになる。

相変わらず椿はレオンからの手紙の返事もほとんど出していないし、電話も塩対応なので、そのことを言っているのだろう。


「そう言えば、歩いて30分の所に大きなマーケットのある村があるが、行くか?」

「そこは何が有名なの?」


思ったほど移動の疲れが無かった為、早めにお土産を買っておいた方が良いかもしれないと思い、聞いてみた。


「アンティークものを扱っている店が多いな。後はジャムやら食べ物関係のものがある。……あと、車の移動になるが、オーガニックファームの店があって、ホームメイドスイーツも置いてあるところがあったな」

「良し、行こう」


考えるまでもなく、椿は即答した。

すぐにレオンとロビーに向かい、そこで話をしていた大人達へ出掛ける事を告げる。

付き添いとして、父親が着いてくる事になり、護衛を連れて村のマーケットまで徒歩で向かう事になった。

その際に、部屋に居た恭介も呼んで4人+護衛複数名とのお出かけになる。


「のどかなところね」


自然豊かで時間がゆっくりと流れているような雰囲気の中を歩いていると、日々の疲れが癒やされるような気がする。


「有名な村や町だと人も多いが、ここは比較的、あまり観光客がいないから静かなんだよ。だから、コッツウォルズに来る時は、あそこのマナーハウスに泊まる事にしてるんだ」

「グロスクロイツ家が贔屓にしているところだったのね」


だから貸切が可能だったのか、と椿は納得する。


「レオ、明日は馬に乗って村を散策するんだろう?朝から行くのか?」

「いや、午後にする予定だ。午前中はゆっくりしたいんだ」

「それもそうだな」


前を歩いている男二人の会話を聞いて、椿は目を見開く。

旅行に乗り気ではなかった椿は、詳しい予定を聞いていなかったのだ。


「乗馬?今、乗馬って言った?」


既に別の話題を話していたレオンと恭介は、椿の問い掛けに立ち止まり振り返る。


「言って無かったか?明日は馬に乗って散策するんだよ」

「聞いてない。それに私、馬に乗った事無いわよ?」


乗馬未経験だと聞き、レオンは驚き、椿に聞き返す。


「え?乗馬の経験が無いのか?」

「無いわ」


椿の返答を聞いたレオンは、頭に手を置いて、なんてこったいと言う様なジェスチャーをしている。


「……まぁ、事前にインストラクターから教えてもらえるし、歩く程度であれば出来るだろう」

「最悪、自転車にでも乗って後ろから着いてこい」

「何よ、その間抜けな絵面は。絶対嫌だからね」

「だったら、頑張って乗れるようになるんだな」


半笑いの恭介の足を椿は思わず踏んづけようと足を動かした。

動きを察知した恭介はすぐに足をサッと移動させ、椿の足から逃れる。


「チッ」

「舌打ちやめろ」


と、言う様なやり取りをしている間に、村まで到着する。

はちみつ色の石造りの建物が並ぶ、村のメインストリート。


「ここまで来ると観光客の姿がチラホラ見えるわね」

「マナーハウスのある場所は他の村に移動する大通りとは反対の場所にあるから、宿泊客と地元の人間しか来ないんだ」

「へぇ」


道理で人気がなく静かなはずだ。

大通りからも離れているので、夜は静かそうである。


「あら、アンティークショップ」


軒先に飾られた食器類を見て、椿は思わず足を止める。

椿が足を止めた事で、他の人も立ち止まった。


「見ていくかい?」


その父親の一言で、椿は店に入る事を決めた。

中に入ると、店内には食器類の他にキッチングッズが所狭しと並べられている。

ふと目に入った白地に青色の模様が入ったティーセットの前で椿が足を止めた。

後ろを歩いていた父親は、椿の視線の先にあるティーセットを見て足を止めた理由を察したのか、彼女に話しかけてくる。


「あ、そのティーセットいいよね。やっぱり、白地に青って品の良い組み合わせだと思わない?」

「なぜか、高級感を醸し出していますよね。気にはなるのですが、家には朝比奈陶器の食器がすでにありますし」


気に入ったとしても他所の会社の物を使うのは、少しばかり抵抗がある。


「でも、自分が気に入った食器を使うのも良いものだよ。見るだけで幸せな気分になれるからね」

「……それもありますね」

「じゃ、これにする?」


その問いに、椿は軽く頷いて「えぇ」と口にした。

すぐに父親は店員を呼び、ティーセットを購入する旨を伝える。

他にも、父親はワイングラスや大皿を購入して店を後にした。


店の外に出ると、レオンに肩を軽く叩かれる。

何だと思い、椿がレオンの方を見ると、彼女が向けた視線と同じ方向を指差して喋り始めた。


「あっちの方向に、オーガニックファームの店があるんだ」

「あぁ、さっき言ってたところね」

「先に行くか?それとも、もう少し見て回った後で行くか」


見て回っていると時間はあっという間に過ぎてしまいそうだし、田舎の閉店時間は早いのではないかと思い、椿は先にオーガニックファームに行くことを選んだ。


「先にオーガニックファームの方へ行きましょうか」


と、言う訳で車を手配して貰い、2台に別れてオーガニックファームの店へと向かった。


車を走らせてしばらくすると車はオーガニックファームに到着する。車から降りて、入口付近まで近づいたところで、木箱に入った野菜がいくつか目に入る。


「わぁ、野菜がたくさん」

「ファームだからな」

「ファームだしね」


思った以上に野菜があったから驚いただけだ。決してスイーツの店だと思っていた訳じゃ無いと思い、椿は訂正する。


「意味ぐらい分かってます。予想していたよりも種類が多かったので驚いただけです」


野菜が無いと思っていた訳では無いと父親と恭介に向かって言い訳をする。

だが、彼らは生暖かい目で椿を見つめてくるのみだ。


「中には野菜も果物もパンもケーキもあるから、ゆっくりと見ていいからね」


生暖かい目を向けながら父親は、椿の背中を押して店の中へと入って行く。


「全く、椿は食べ物の事になると変わる」


背後から聞こえた恭介の言葉に、椿は頬を膨らませる。

けれど、店内のホームメイドスイーツを目にした瞬間に、椿の機嫌はすぐに直った。


「スコーンとブラウニーだ」


一目散に向かっていく椿を見て、恭介が呆れたような視線を向けている。


「真っ先に飛びついていったな」

「椿ちゃんは色気よりも食い気でいいの」


ホームメイドスイーツ売り場では、護衛が椿の指定したスイーツを次々に袋に入れてくれる。

ようやく落ち着いた椿は、店内に入ってからレオンの姿を見ていないことに気付く。


「……そう言えばレオンは?」

「ご両親から頼まれてたとかで、チーズコーナーに籠もってるよ」


父親から教えられ、道理で姿を見ない訳であると納得した。

スイーツを購入した後、椿は店内を見て回り、気になった物をいくつかカゴに入れる。

父親が会計をしている時に、護衛と共にレオンが姿を現して、ようやく合流できた。


「随分と熱心にチーズを見てたのね」

「注文が細かいんだよ。特に母親の」


ややうんざりしたような口調と表情を見ると、本当に母親の注文は細かいのだろう。


「でも、買ったって事は、注文通りのチーズが見つかったって事よね」

「まぁな」


レオンはニヤッとした笑みを浮かべている。

そして、会計を済ませた後で荷物を先にマナーハウスへ持って行ってもらい、椿達は村の観光へと戻る。

村では、いくつかのお菓子やジャムなどを購入し、水辺を散歩しながらゆっくりとマナーハウスへと帰った。


夕食後、大人達はワインを飲みながら談笑をし始めていた。

暇になった椿達は、カードゲームをしようと別のテーブルに移動する。


「ポーカーでいいか?」

「「ポーカーだけはしない」」


息がピッタリと合った椿と恭介は、レオンの提案を拒否する。

何をするのか中々決めることが出来ず、最終的に椿の提案である七並べをする事になった。

七並べなど知らない恭介とレオンに、椿がルールを説明する。

ゲームでは、ハートのQを最後まで持っていた椿が、ハートのKを持っていた恭介をビリにしたり、逆に椿がビリになったりと、白熱した戦いが繰り広げられた。


カードゲームに興じていた三人であったが、就寝時間が迫っていたので、酒盛りしている大人達に挨拶して部屋へと戻っていき、1日目が終了する。



翌日の昼食後、2日目のメインイベントである乗馬をする為に、椿達は牧場まで移動する。

出掛ける前に、レオンの両親に仕事の打ち合わせだと言われ、父親が連れて行かれてしまった。

「僕には監視する役目がー!」と言い残して連れて行かれる様子を見る限り、レオン一家の策だったのではないかと疑わずにはいられない。

代わりに、保護者として伯父が着いてくる事になった。


車から降りた椿達の目に、牧場でスタッフと思われる人達が何かあったのか騒いでいるのが見えた。

その尋常では無い様子に、椿達は顔を見合わせる。

護衛の1人が様子を見てくると言って、スタッフの方へと向かって行った。


しばらくして、戻って来た護衛から、予約の際の不手際で予約人数を超える団体客が乗馬に行ってしまい、牧場には2頭の馬しか残っていないという事を伝えられた。

他にも馬がいると思い込んだスタッフの単純なミスである。


「他の牧場に行ってもいいが、バカンスの時期だから空きがあるかどうか微妙だな」

「団体客が戻ってくるのを待つか?」

「次の予約が入っているらしいから、難しいだろう」


レオンと恭介がウンウン唸っていると、スタッフの1人が椿達に近づいてきた。


『こちらの不手際で大変申し訳ありません』

『いや、別に構わない。それよりも2頭の種類を教えてくれ』

『1頭は中間種で、もう1頭は重種になります』

『重種か……。連れてきてくれるか?』


返事を聞いたスタッフがすぐに2頭の馬を連れてくる。

本当に2頭しかいない為、椿は周囲を見渡して自分が乗れる動物は居ないかを探した。

このままでは、自転車で後ろを着いていく事になりかねない。

そして、ある動物を見つけた事で、その動物を指さしながら恭介達に向かって口を開く。


「私はあの子にするわ」


椿が指さした動物を見て、恭介とレオンは呆れてしまう。


「椿……あれはポニーだ」


そう恭介が口にした通り、椿が指さしたのはポニーである。

あれぐらいの大きさであれば例え落ちたとしても痛くないだろうという判断であった。


「ポニーいいじゃないか。初心者に優しいくていいじゃないか」

「だからって、牧場内で乗るのと、散策する時に乗るのとでは大違いだろ」


椿が恭介と言い合いをしていると、痺れを切らしたレオンが割って入ってくる。


「椿は俺と馬に乗ればいいだろう?」

「君はいきなり何を言い出すのかね」

「重種だから2人乗りは出来るだろうが……。レオは2人乗り初めてだろ?大丈夫なのか?」

「椿とだったら身長差もあるし、前は見えるだろう。それにスタッフが引いてくれるらしいから危険は無いだろうし、常歩だから問題も無い」


レオンと2人乗りをする前提で話が進んでいる事に、椿は焦り始める。


「いや、最悪の場合は自転車で追いかけるから大丈夫だよ」

「俺達だけが乗馬を楽しむなんて出来るはずないだろう」


至極、真面目な顔をして言っているのを見て、彼が折れる気などない事を理解する。


「椿、レオは折れる気なんてないぞ。僕は2人乗りなんてした事ないから、やりたくない」


恭介は暗に、だからレオンと乗れと椿に言っている。

レオンに折れる気が無い以上、椿が妥協するしかない。幸いにも、椿の顔見知りの人は居ないだろうし、噂になる可能性も低い。

大きなため息を吐いた椿は、腹をくくってレオンと一緒に乗る事を了承する。

その後のレオンの喜びようと言ったらなかった。


乗馬の為に着替えを済ませた椿が馬のところへ行くと、既に着替えを済ませた2人が待っていた。


椿が乗る方の馬には2人乗り用の鞍が付けられている。


「ここの台に乗って馬に乗るの?」

「そうだ。前の方に乗ってくれると助かる」


椿は台に乗り、馬の背に乗る。

馬に乗ったはいいものの、地に足が着かない状態が落ち着かない。それにいつも以上に視線が高くなって、見晴らしは良いが、若干の怖さも感じる。

気を紛らわせようと目の前の馬のたてがみを軽く触っていると、後ろにレオンが乗ってきた。


「後ろから、前が見える?」

「よく見えているから大丈夫だ」


レオンに早口で言われ、椿は不思議に思って後ろを振り向こうとする。


『見るな!』


レオンの手によって、椿は無理矢理前を向かされてしまう。


「ちょっと、ドイツ語分からないんだから、日本語で喋ってよ」

「後ろを振り向くな。俺が死ぬ」

「大げさだな!」

『想像以上に近い』


またもやドイツ語で言われ、意味が理解出来ない椿は、どうせろくでもない事を言ってるんだろうなと思い、聞こえないふりをした。


恭介もすぐに馬に乗り、村の散策へと出掛ける。

椿が何もしなくても、馬が動いているのは何とも不思議な気持ちである。


「視点が高いと、見え方も違うわね」

「そりゃそうだろう。それに、新たな発見も出来るから乗馬はいいぞ」


だから、椿も乗馬をしろとレオンから言われてしまう。

どうにも椿は、言葉が通じない動物に自分の命を預ける事に恐怖を感じてしまうのだ。


「2人乗りであれば、乗馬も良いかもしれないけど、自分1人だとどうしても無理ね」

「では、今度はドイツに来ると良い。いつも馬を走らせている場所があるんだが、あそこも景色は最高に良いからな」

「……機会があればね」


と、当たり障りのない会話をして、その話題を終わらした。


乗馬中は、蜂蜜色の家々を眺めたり、小さい川に馬ごと入ったりして1時間半のコースを終えた。


馬から下りた椿は、中々上手く地面に立つことが出来ない。若干フラフラとしてしまう。

長時間、馬に揺られていたのだから、初心者には仕方の無い事である。


「お尻と内ももが痛い」

「明日は筋肉痛だな。お風呂で揉みほぐしておけよ」

「湿布持ってくれば良かったな」


湿布が無いのは仕方ない、お風呂に入った時に良く揉みほぐしておくとしよう。


乗馬を終えた椿達は牧場を後にして、近くのカフェでお茶をしてからマナーハウスへと戻ってきた。

戻ってきたと同時に、レオンが彼の両親に呼ばれて席を外してしまう。

同時に、椿は恭介に呼ばれ、人気の無い廊下の隅に連れて行かれる。


「なに?」

「いや、そろそろレオにお前との事を話した方がいいんじゃないかと思ってな」

「今更?別に言わなくてもいいんじゃ無い?」

「だが、黙っていると罪悪感がすごいんだよ。ちゃんとお前と婚約している事になっていると話した方がいいんじゃないか」


いいんじゃないか、と言い終わる前に、何かが落ちたような鈍い音が廊下に響いた。

驚いた椿と恭介が音のした方へと顔を向けると、目を見開いて固まっているレオンが突っ立っている。

床に本があった事から、さっきの音は彼の手から本が落ちてしまった音なのだろう。

これから修羅場が始まろうとしているのに、椿は冷静にそんなことを考えてしまう。


互いに無言のまま、しばらく時間が過ぎたが、先に口を開いたのはレオンの方だった。


「……婚約者とはどういう事だ」


口調と目に、我慢しきれない怒りが見える。

椿は突然の事すぎて、彼に勘違いをさせたままでいさせようか、事実を述べようかを悩んでいた。

レオンは恭介の数少ない友人である。その友人を失ってしまうのはどうなのだろう。

だが、事実を言って、レオンに期待を持たせるのも悪いし、諦めてもらえるのであれば、言わない方が良いのではないか。


そう考えてしまい、椿は何も口にすることが出来ないでいた。

無言状態の椿と恭介を見て、否定されないと言う事はそうであると判断したのか、レオンの顔が怒りで歪んでいく。


「そうか、お前達は婚約者同士だった訳だな。そうやって陰で俺を笑っていたのか。随分と滑稽に映っていた事だろうよ!」


そう言い捨てるとレオンは、荒い足音を響かせながらその場から立ち去ってしまう。

椿も恭介も、何も言うこともレオンを追いかけることもできず、立ち竦んだままで彼を見送る事しかできなかった。

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