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卒業式が終わり、椿は春休みに突入していた。

中等部の制服の採寸も中等部で必要な物も全て買い揃えており、後は入学式を待つのみであった。


春休みの間、椿は水嶋家に行って恭介とオセロを嗜んだり、朝比奈本家で椿と杏奈の卒業おめでとうパーティーに出席したりと有意義な春休みを過ごしている。


春休みのある日、読書をしていた椿が休憩がてらリビングまでやって来ると、椅子に座った母親に年若い使用人がマニキュアを塗っている真っ最中の場面に出くわした。

真剣な眼差しで母親の爪にマニキュアを塗っている使用人は集中しているようで、椿がリビングに来た事に気付いていない様子であった。

代わりにマニキュアを塗られている母親の方が先に椿に気が付き声を掛けてきた。


「あら、椿ちゃん。読書はもう終わったのかしら?」

「いえ、文字を読んでいて疲れたので休憩しようとリビングに来たのですが……」


そう言って椿は母親の手元に視線を向ける。

椿の言いたい事を察したのか、母親が笑みを浮かべながら説明を始める。


「この間、学生時代の友人達とお会いした時に爪のケアの話になってね。その流れで最近のネイル事情の話題が出て、ちょっと興味が湧いちゃったのよ」

「珍しいですね。お母様はあまり派手な物は好まれないと思っていました」

「お母様……椿ちゃんのお祖母様に禁止されてましたもの。華美な物は確かに好んではいないけれど、興味が無かった訳ではないのよ?」


椿の祖母の事を語った母親は少しだけ憂いを帯びた瞳をしていた。

色々な人から話を聞いてきた椿は、水嶋の祖母が厳しい人であったと言うイメージを持っていた。

厳しい人であった分、実の母親に対して多少の苦手意識を持っているのかもしれないと、先ほどの母親の瞳を見て椿は感じた。


「それに、派手な爪をしていたって外に出なければ問題ないでしょう?家で楽しむ分には大丈夫だと思うの。それに就寝前には落としてもらうから平気よ」


母親は力強く自分ルールを力説している。

親族以外の人間が朝比奈家に訪ねて来る事などほとんどなく、約束も無しに訪ねて来る者もいない。

業者などは使用人が応対するので朝比奈家の人間と顔を合わせる事もない。

なので、ネイルをしていたとしても問題はないのだ。


「お父様にはお見せにならないのですか?」


きっとあの父親の事だから、そんな楽しそうな事を見逃してしまったら目に見えてへこんでしまうだろうと思い、椿が母親に訊ねる。


「勿論お見せするわ。でも渋い顔をなさらないかしら?」

「むしろ嬉々としてデザインを考えそうな気がします」


そして数日中に全ての手配を終えて母親にネイルを施す姿が想像出来てしまう。

絵付けもする分、父親は手先がとても器用なので、母親にネイルを施す事など簡単である。

さらに、朝比奈陶器の新事業としてネイルシールを作り一儲けし、ネイルサロンの経営に乗り出すところまでを椿は想像した。

あの父親、と言うよりは朝比奈家ならばやりかねないと言うところが恐ろしいところである。


「終わりました」


それまで黙々と作業をしていた使用人の手が止まり、完成を告げた。

自分の手に施されたネイルに母親は目を奪われている。


「すごく綺麗だわ。手先が器用なのね」

「気に入っていただけたようで何よりでございます」

「見て頂戴、椿ちゃん」


嬉しそうに母親が椿に向かって手を見せてくる。

そこには綺麗にマニキュアが塗られ、スワロフスキーのラインストーンが上品にデコられていた。

母親のイメージにピッタリな大人可愛いデザインであった。


「綺麗ですね」


思わず感嘆の言葉が口から出て、マジマジと椿は母親の指先を見つめた。


「お気に召したのであれば、椿様もいかがですか?」

「え?いいの!?」


即座に椿は使用人に向かい手を差し出した。

その姿を見た母親は椅子から降りて、椿をそこに誘導した。

椿は椅子に座り、手を台に置く。


「どういったデザインに致しましょうか?」

「おまかせで!」

「畏まりました」


以降、黙々と作業をする使用人と自分の手元を眺めながら、椿は完成をワクワクしながら待っていた。

それにしても、使用人の手先は本当に器用だと椿はネイルを施している様を見て思う。


「器用なものね」

「友人がネイリストをしているもので」

「へぇー」


と、一瞬納得しかけた椿であったが、使用人の言葉のおかしさに気付き即座に口を開いた。


「って、一瞬納得しかけたけど、友人がネイリストってだけで貴女の腕前とは全く関係ないじゃない!」

「さすが椿様ですね。すぐお分かりになるとは……」

「さすがも何もすぐ分かるわよ!」


椿のツッコミにも全く動じず、使用人は黙々と手を動かしている。


「……で、どこで習ったの?」

「ネイリストの友人の練習台になっていたら、いつの間にか覚えてました」

「朝比奈の使用人一族の面々、本当にスペック高いよね」


椿は1人何役もこなす朝比奈家の他の使用人を思い出していた。


「使用人の数が圧倒的に少ないので、1人に割り振られる仕事量が多いと言うだけです」


淡々とした声で使用人は口にする。

その仕事量をこなす事がすごいのだが、朝比奈家の使用人達にとってはそれが普通なのだ。

一族で朝比奈家に仕えている為、物心ついた頃から無意識の内にそれが普通であると刷り込まれている訳である。

出来る事が多ければ多いほど、朝比奈家の役に立てる。

それだけの思いで使用人同士が切磋琢磨し合っているのだ。


「終わりました」


使用人の声で我に返った椿は己の手を見て感動で打ち震えた。


「すごい!」


赤と緑と黄色のマニキュアを使用し、椿の花が爪にペイントされていた。

部分的に金箔も散らされており豪華である。


「やはり椿様と言えば花言葉も含めてこれしかないと思いまして」

「ありがとう!さすが佳純かすみさん!いい仕事するわね」


椿が褒めると、使用人の表情の変化はないものの、どこか嬉しそうな雰囲気を醸し出していた。

ちなみに、朝比奈家では1対1の時は使用人を苗字で呼ぶが、使用人が複数その場にいる場合は下の名前で呼んでいる。

と言うのも、苗字が一緒なので誰を呼んでいるのか分からないからだ。


「そう言えば椿様、3日後にご友人である藤堂様がお起こしになると聞いておりますが」

「あ、そうだった。午後から来る予定になってるの。1階のリビングに通して頂戴ね。あと、給仕をお願いするわ。紅茶はアールグレイにして。でも本人に何を飲むか聞いてね。デザートは後でシェフにお願いしておかなくっちゃ」

「畏まりました」

「よろしくね」


用件を言うだけ言って椿はキッチンへと向かう。

勿論、三日後のデザートの要望を伝える為だ。

椿がキッチンへ行くと料理人は夕飯の仕込みをしている最中であった。


「椿様、いかがなさいました?」


椿に気が付いた料理人が仕込み中の手を止める。


「仕込み中にごめんなさいね。3日後に友人が家に来るのだけど、デザートを用意してもらいたいのよ。頼めるかしら?」

「お店の物でなくてよろしいのですか?」


いつも杏奈や恭介が訪ねてきた時は店のお菓子を買っていたので、料理人は純粋に疑問に思い椿に聞き返した。


「友人に家のシェフの腕前を自慢したいのよ」


椿の言葉を聞き、料理人は嬉しそうに口元をゆるめた。


「そう言う事でしたら、腕によりをかけてお作り致しますよ」

「ありがとう。じゃあ、ティラミスをお願いするわ」

「ティラミスですね。畏まりました。いらっしゃるのはお1人だけですか?」

「杏奈と恭介も来る予定になってるの。菫や樹も食べるかもしれないから少し多めに作ってもらえる?」


料理人は再び了承の言葉を口にし、それを聞いた椿はキッチンを後にした。


そして、千弦達が朝比奈家に遊びに来る日がやってきた。

子供は春休みとはいえ平日のこの日、会社員である父親は仕事に行かなければならない。

しかし、父親は車に乗り込むまで休んで千弦に挨拶すると言って聞かなかった。

結局、秘書と運転手によって強引に車に乗せられ父親は会社へと向かった。


父親が会社に行った数時間後、杏奈が一足早く朝比奈家に到着した。


「水嶋様は習い事が終わってから合流する予定だっけ?」

「そうよ。相変わらず忙しそうにしてるわ」


椿はいとこである恭介のここ最近のスケジュールを思い出し遠い目をする。

恭介から聞いた分刻みのスケジュールに椿は気が遠くなりそうだった。

それを難なくこなしている恭介はさすが水嶋の御曹司である。


「悪い顔してるわね。今度は何を企んでいるんだか」


杏奈に言われ、椿は自分の顔を鏡で見てみたが悪い顔をしているようには見えなかった。

何の事かと思い椿は杏奈に視線を向ける。


「藤堂さんと水嶋様を引き合わせる理由を私が分かって無いと思った?」

「あ、企みってそれか」

「全くもう。言っとくけど、藤堂さんは無理だと思うわよ」

「え!何で!?」


予想外の言葉に椿は立ち上がる。

杏奈はまぁまぁと言いながら椿をソファに押しとどめた。


「何でって言うか。藤堂さんの水嶋様への想いって憧れが大きいでしょ。普段の水嶋様を見る事で幻滅するんじゃない?」

「千弦さんがまさかそんな」

「12歳の女の子よ?恋に恋するお年頃よ?白馬の王子様を求めるメルヘン思考真っ最中の年頃よ?」


杏奈に畳み掛けられた事で言われてみればそうかもしれないと思い、椿は少々狼狽えた。

しかし、あの千弦であればきっとどんな恭介であろうとも受け入れてくれるはずと言う根拠のない自信を椿は持ち、胸を張って杏奈に向き直る。。


「千弦さんなら大丈夫よ」

「大丈夫じゃない方に青山のガトーショコラ」

「大丈夫な方に恵比寿のロールケーキ」


と言う賭けが2人の中で始まった。


午後になり、訪問予定時間の少し前に千弦が送迎車に乗りやって来た。

玄関ホールに招き入れられた千弦を椿と杏奈が出迎える。


「いらっしゃい千弦さん」

「ごきげんよう椿さん、八雲さん。本日はお招きいただきありがとうございます」

「どういたしまして」


椿と千弦が挨拶を交わしていると、少し遅れて母親が玄関ホールにやって来た。

母親に気付いた千弦がその場で軽く会釈をする。


「ようこそ、お待ちしてましたのよ?」

「こちらこそ、心待ちにしておりました。お招きいただきありがとうございます」

「まぁ、嬉しい。どうぞゆっくりして行って頂戴ね」

「はい」


母親と千弦の挨拶も済み、椿達は母親と別れ1階のリビングへと向かった。

椿としては弟妹達も紹介したかったのだが、生憎と習い事で出掛けてしまっているのだ。


千弦をリビングまで案内し、ソファをすすめた。

ソファに座る前に千弦が「お口に合うか分かりませんけれど」と持っていた紙袋を椿に差し出した。

椿は紙袋を受け取ると、側に控えていた使用人に紙袋を手渡した。

勿論、後でティラミスと一緒に出すようにと一言添えて。


ソファに座った千弦は不躾にならない程度に部屋を見た。

東洋の調度品が多い藤堂家と違い、西洋の調度品で溢れている朝比奈家は新鮮で物珍しいものがあった。


「家は日本家屋ですから、洋館が羨ましいと思っておりますの」

「庭に池があって鯉が居て、和服のお祖父様が餌あげてるんだ」

「良く分かりましたわね」


庶民の思う引退した元政治家の通りじゃないか!と椿は顔を手で覆って横になりたかった。

紅茶を飲んだ千弦は手に持っているカップをしげしげと見つめていると、ある事に気が付いた。


「使用されている食器類は朝比奈陶器のものかしら?」

「えぇ、そうよ。千弦さんが使ってるのは、確か戦前に作られたカップじゃなかったかしら」

「え!?」


驚きの声を上げた千弦はそっとソーサーにカップを置いた。


「どうしたの?」

「戦前に作られた朝比奈陶器のカップは今やコレクターズアイテムとなっておりますのよ?」

「へぇ。破産した時は売り払ったら当面の生活費は大丈夫そうだね」

「自社製品を家で使ってて良かったわね」


全く価値を分かっていない2人の様子に千弦は呆れてしまう。


「縁起でも無い事を仰らないで頂戴」

「ごめんね。あり得ないからそう言う冗談も言えるんだけどさ」

「価値に重きを置かないからこそ朝比奈陶器の今があるとも言えるんだけどね」


椿は杏奈の言葉を肯定する様に頷いた。

そして千弦もその言葉を聞いてなぜだか納得してしまう。


「あ、来た来た」


そこへ使用人がティラミスと千弦の手土産である落雁を乗せたワゴンを押してリビングへとやってきたのを見て、椿は待ってましたと声を上げる。

使用人はそれぞれの前にティラミスを置き、空になったカップに紅茶を注ぐ。

テーブルの真ん中にミニチュア箪笥を置いた。

椿がミニチュア箪笥の引き出しを開けると中に色々な形を模した落雁が入っていた。

そのうちの1つを椿は手に取る。


「これは桜ね。あとは蝶々とウサギ」

「椿もあるわよ。あと薔薇も」

「藤堂家が贔屓にしている和菓子屋の落雁ですの。洋菓子も確かに美味しいのだけれど、やはり見て楽しめて、食べて美味しい職人技が際立つ和菓子は素晴らしいと思いますわ。季節によっても変わりますし」

「そうだねぇ。春は団子、夏は葛饅頭に冷やし善哉、秋は栗きんとんにどら焼き、冬はお汁粉、善哉に苺大福があるからね」


1年通して飽きが来ないと椿が言うと、杏奈と千弦が非常に冷めた目を椿に向けていた。


「花より団子ですわね」

「美味しい物を与えておけばずっと機嫌良いから楽ですよ」

「良く理解致しました」


杏奈と千弦の会話が聞こえていないのか、椿は食べるのが勿体ないと言いつつ落雁を食べ始めた。

そんな椿の姿を見て杏奈と千弦は互いに顔を見合わせ苦笑した後、2人して落雁に手を伸ばした。

メインのティラミスがあるので、3人は落雁をそれぞれ1つだけ食べるに留めた。

そして、椿がテーブルに置かれていたメインであるティラミスに口をつける。

ほぼ同時に千弦もティラミスを口に入れると、途端に千弦の表情が変わる。


「濃厚であまり苦くありませんわね。かと言って甘すぎる訳でもありませんし、どちらのお店の物なのかしら?」

「ふっふっふ。こちらのティラミス、なんと家の料理人が作りました」

「お店の物ではないの?朝比奈の使用人の噂は聞いておりましたけれど、噂以上ですのね」

「そうでしょうとも」


千弦の褒め言葉に椿は鼻がぐんぐん高くなっていく。


「藤堂さん。無駄に褒めると椿が調子に乗りますから、その辺で」

「今の時点で十分調子に乗っていると思いますけれど」


尤もな千弦の言葉に杏奈は肩を竦める。


と、そこへ習い事が終わった恭介がようやく顔を見せた。

どこか不満げな顔をしての登場である。


「……誰も出迎えに来ないとはどう言う事だ」


3人が話に夢中になっている最中に恭介が来てしまったのはタイミングが悪かったとしか言いようがない。

リビングでただ1人、千弦だけが罪悪感でいっぱいの顔をしているが、残りの2人はまるで気にしている様子が見られなかった。


「ごめん。ティラミス食べてた」

「心が全くこもってない謝罪をどうも」

「恭介も食べる?」

「頂こう」


出迎えに来なかった事に対してそれほど腹を立ててはいなかったのか、恭介は追求する事も無くあっさりと椿の言葉に頷いた。

上着を使用人に預け、恭介は椿の隣に腰を下ろす。


「恭介様、お飲み物はいかがなさいますか?」

「椿と同じ物で良い」


椿は飲み物を指定してはいたが、本人が希望するものを優先させるようにとも使用人に言っていた。

なので、恭介には椿達と同じアールグレイが注がれる。


「水嶋様、お忙しいところお呼び出しして申し訳ありません」


千弦が恭介に来てくれとお願いした訳ではないのだが、椿が気を利かせて呼んだ事は明白であった。


「別に。藤堂の為に来た訳じゃないから謝罪を受ける謂れはない。椿がどうしてもと言うから仕方なく来たんだ。仕方なくな」

「はいはい。感謝してますよ」


いつもの調子の恭介の言葉に椿は投げやりな態度で答えた。

この時点で、千弦は少しだけ首を傾げていた。

やはりいつもの水嶋様では無いような……と言う思いが心の中で芽生え始めていた。

バレンタインの時も千弦は思っていたが、恭介は椿が相手だとかなり砕けた口調になる。

人は大なり小なり取り繕って生きているものだと理解はしているが、それでも恭介は精神的に千弦よりも大人であると思っていた。


千弦の心境の変化に気付かない椿と恭介はいつものように会話を繰り広げて行く。

その様子を冷ややかな目で杏奈が見つめていた。

すると、恭介が来てからずっとソワソワしていた千弦が声を震わせながら口を開いた。


「あの、水嶋様が私と会話をしてくださるのは、やはり椿さんと私が友人同士であるからでしょうか?」


千弦の疑問は尤もであった。

初等部に入学してから千弦が恭介に話しかけた事はあっても、恭介の方から千弦に話しかけた事などほとんどない。

否、6年生になるまで全く無かったと言ってもいいだろう。

にもかかわらず6年生のある時期を境に恭介の方から千弦に話しかける事が増えたのだ。

ある時期とは言わずもがな、千弦と椿が和解した後の事である。

そうであるはずだと言う思いとそうであって欲しくないと言う思いが千弦の中でせめぎ合っていた。

白黒ハッキリつけたい性格の千弦は、恭介本人からの言葉を聞きたかった。


「そうだ。僕は椿を信用しているからな。その椿が信頼を置いている相手であるなら間違いは無いと思っている。実際そうだった」

「そ、そうですか」


予想した通りの言葉に千弦は嬉しいようながっかりしたような複雑な気持ちになった。


「椿は向こう見ずな性格で勝気で好戦的な人間だから苦労をかけるがよろしく頼む」

「私の印象最悪だな!」

「それだけ聞くと、どんな脳筋野郎かと思うわね」


反射的に椿は恭介にツッコミを入れていた。習慣とは恐ろしいものである。

千弦は閉じていた目を開き、恭介に向かって穏やかに微笑んだ。


「私に出来る範囲でフォローは致します」


千弦の言葉は恭介の望んだ答えであったらしく、彼は力強く頷いた。

なんとなくこの空気に耐えられなかった椿が口を挟む。


「恭介、ティラミス食べないなら私もらうよ?」

「ふざけんな!出された分だけ食べろって何度も言ってるだろうが」

「これも出された分じゃん」

「僕にだろうが!」


そんな2人のやり取りを千弦はただ黙って見つめていた。

しばらくそんなやり取りが続き、恭介の迎えが来てしまった。


「結局、椿に注意するだけで終わったな」

「恭介が気にしなければいいだけの話なのにね。本当に細かい」

「そうさせてるのはお前だお前」


上着を着ながら尚も2人は言い合いをしていた。

長引きそうな雰囲気を察し、使用人が恭介を促し玄関まで案内する。


「お祖父様が顔を見せに来いって言ってたから、春休み中に顔出しに来いよ」

「家族で押しかけるわ」


決して祖父と2人きりにならない宣言を聞き、恭介はため息を吐いた。

恭介も椿が祖父を苦手としているのは気付いていた。

椿の性格から言って祖父のような人間は苦手な部類に入るのは明らかである。

恭介も祖父を前にすると緊張してしまうので気持ちは分からなくもなかった。


水嶋の運転手が後部座席のドアを開け、恭介が別れの挨拶をしようと椿達の方に体を向けた。

椿がまたねと口にし、杏奈は軽く会釈をする。


「本日はありがとうございました。また入学式でお会いできる事を楽しみにしております」


そう言うと、千弦は深々と頭を下げた。


「いや、良い気分転換になった」


じゃあと言って恭介は送迎車に乗り去って行った。

門を出て行った車を見つめながら千弦がポツリと呟いた。


「遠くで見ているだけで十分でしたわね」


その呟きに素早く反応したのは椿であった。


「今のどう言う意味!?恭介の事好きなんだよね!?」

「椿さん、落ち着いてくださいませ!」


椿のあまりの剣幕に千弦が後ずさる。


「言葉通りの意味ですわ。憧れは憧れのままで良いと言う事です」

「な、なんで?恭介は超お買い得物件だよ?」

「ご自分の婚約者でしょう?その様な言い方はお止めなさいな」

「婚約者じゃないよ。水嶋の祖父がそのようなものですって言って勝手に周囲が認識してるだけ」


唖然とした顔をして千弦は椿を見た。驚愕の事実であった。

確かに今まで本人達は婚約者同士だともそうでないとも言った事は無いと千弦はこれまでの記憶を思い返していた。

そこでも振り回されていたのかと千弦は脱力する。

そんな千弦の様子を椿はジッと見つめ続けた。

その姿に根負けしたのか、婚約者同士では無かった事実を聞いてどうでもよくなったのか、千弦が理由を話し始める。


「いくらお買い得物件であろうとも、度を超した椿コンプレックスはご免ですわ」


椿コンプレックス?と椿は頭に疑問符をつけて首を傾げた。

さらに千弦が言葉を続ける。


「貴女ですわ。水嶋様の行動の起点は基本的に貴女です。椿さんがこう言ったから、椿さんがこう行動したからが大半でしょう?マザコンならぬ椿コンですわよ。自覚しておられます?」


千弦の問いに椿は言葉に詰まってしまった。

よくよく考えてみるとそうだったかもしれないとこれまでの事を思い返していたのだ。

ふと、隣の杏奈を見ると彼女は呆れた眼差しを椿に向けてきていた。

どうやら杏奈も気付いていたらしく、気付いていなかったのは椿だけであった。


「常人ではない包容力と忍耐力が無いと水嶋様の相手は無理でしょうねー」

「会話の8割が椿さんの事ですもの。いつか爆発しますわね」

「「ご愁傷様」」


ハモったセリフに椿はガックリと肩を落とした。


千弦の恭介への想いは確かに恋であった。

だが、アイドルに恋をする様な感じで、画面越しに見ていた部分が大きかった。

憧れが大部分を占めていた分、王子様と思っていた恭介の素のギャップに少なからず衝撃を受けてしまった。

要は王子様フィルターが外れてしまったのである。

自分の想いが憧れである事に気付けたのは千弦にとっては良かった事なのかもしれない。

少なくともこれ以上友人に対して嫉妬心を抱かなくて済むのだから。


恭介を見送った後、椿達は再びリビングに戻ってきていた。

椿はソファに勢いよく座り、口を開いた。


「あー千弦さんに恭介を押し付けようと思ってたのに」

「貴女そんな事を考えておられたの?」

「だってピッタリだと思ったんだもん!千弦さんなら恭介を引っ張って行ってくれると思ったんだもん!」

「私は基本的に男性より出しゃばるマネは致しませんわ」


古き良き日本人女性のような性格である千弦の事を考えれば当然ではある。

ただ、椿は自身に対する態度と同じように千弦は男性に接するものと思い込んでいた。


「大体、私の好みのタイプは家の父親ですもの」

「あの、視線だけで熊を殺せそうな人相をしている人が!?」

「言う通りですけれど、人の父親ですわよ!」

「ごめん。なんか意外で」


素直に椿は謝罪の言葉を口にした。


「父は人相が悪いですけれど、誠実な方ですわ。リーダーシップに溢れて即決即断なところを尊敬しております」


人相が悪いのは娘も認めているのかと見当違いな事を椿は思っていた。


「ですので、お相手は父の様な方を望んでおりますの」

「昨今の日本男児には無理だと思う」

「さすがに視線だけで熊倒せる奴は日本中探してもいないんじゃない?」

「家の父だって視線だけで熊を倒す事は出来ませんわ!」


椿と杏奈は疑いの目で千弦を見ている。


「……多分」


勢いに押されたのか、千弦がか細い声を出した。

シーンと静まり返る中、突然リビングの扉がノックも無く開いた。

扉が開いた音がして、椿達は一斉に扉に視線を向ける。

すると、扉の影から習い事に行っていたはずの菫が顔を覗かせていた。


「姉さま……あ、ごめんなさい。お客さまがいたのですね」


先ほど、菫の乗った車は外で恭介の車とすれ違っていた。

誰が乗っているのかまでは菫に判断する事が出来ず、勝手に椿の友人であると思っていた。

なので、もう椿の友人が帰ったはずだと思い、リビングへとノックも無しに入ってきた訳である。


突然現れた色素が薄く、目鼻立ちのハッキリした美少女に千弦は見入ってしまっていた。


「あの、椿さん?そちらは」


気になった千弦が椿に問いかけると、椿は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。


「紹介しましょう!こちらは神が生み出した最高傑作にして、天より舞い降りた翼を持たぬ天使!あぁ、神はかくも美しき存在を現世に創り出すとは……」

「八雲さん通訳をお願いします」

「椿の妹の菫です」


リビングの扉の前に立っていた菫は緊張した様子ではあったが、椿の友人に対してきちんと挨拶せねばと思い、千弦に対して会釈をした。


「あさひな、すみれともうします。よろしくおねがいします」


その愛らしい姿に千弦の目尻が下がる。


「まぁ、可愛らしい。私は藤堂千弦と申しますの。よろしくお願い致します」

「はい!あ、あの、ちづるさんとお呼びしてもいいですか?」

「勿論ですわ。私も菫さんとお呼びしてもよろしくて?」

「はい!」


千弦が腰を屈めて菫と視線を合わせ、話し掛けている。

優しげな千弦の姿に菫の緊張がほぐれ、満面の笑みを浮かべている。


「菫、樹は?」


一緒に習い事に行っていた弟の樹の姿が見えず、椿は菫に訊ねる。


「いつきは車の中でねちゃって、ふわがいつきのおへやにはこんでました」

「残念。千弦さんに弟も紹介したかったのに」

「構いませんわ。次回のお楽しみに取っておきます」


それはつまりまた朝比奈家に遊びに来てくれると言う事かと理解し、椿は嬉しくなって笑みを浮かべた。

椿の反応を見て恥ずかしくなったのか、千弦はあからさまに椿から視線を逸らした。


その後、時間になり千弦が帰宅する事になった。

椿と杏奈は玄関まで見送りに出た。


「では入学式でお会いしましょう。何事も起こらなければいいわね」

「えぇ。入学式で。何事もね」


どこか諦めたように椿は乾いた笑いを出した。

心配そうに椿を見ていた千弦であったが、藤堂家の運転手に促され車に乗り込んだ。

窓を開け互いに手を振り千弦が朝比奈家を後にした。


残された椿はポンと肩を叩かれる。

叩かれた方を見ると不敵な笑みを浮かべた杏奈と目が合う。


「青山のガトーショコラ」


椿は違う意味で肩を落とす事になった。

試合にも勝負にも負けたのである。

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