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初等部の一大行事である修学旅行も終わり、6年生はどこか気が抜けたような雰囲気が漂っていた。

残す大きな行事と言えば、紅葉狩りくらいで、後は内部進学のテストがあるだけであった。

普段のテストの結果と素行で問題が無ければ、内部進学のテストも余裕で合格出来る。

更に内部進学のテストも簡単なものだと言われているのが、生徒達の気の緩みに拍車をかけているようだった。


「残す行事は紅葉狩りぐらいかー」


食堂の個室で恒例のお茶会をしていた椿は、佐伯が持って来たお菓子をつまみながらしみじみと呟いた。


「そうね。一大イベントの修学旅行が終わったからね」

「飛騨牛、美味しかったな。あと団子とジェラートとシュークリーム」

「食べ物の思い出しか無いのかよ!」


すぐさま恭介からツッコミが入る。

こうして年々、恭介の反応が早くなっていくツッコミに椿は内心満足していた。


椿が恒例のお茶会として、個室を利用するようになり早1年が過ぎた。

毎回毎回、杏奈を連れて来ているので、椿が恭介と佐伯をたらし込んでいると言う下衆の勘繰りをされる事は無かったが、やはり杏奈の方に女子生徒の嫉妬が向いてしまっていた。

どこかに呼び出される事態にまではなっていなかったが、通りすがりに何か言われたりはしているようであった。

だが、椿に心配をかけさせない為か、杏奈は何を言われているのかを言う事は無かった。

そもそも、椿は杏奈が女子生徒達から何か言われている事に気付いていなかった。

いつも通りに椿に接して来ていた為、気付けなかった。

千弦から話を聞いた時は、女子生徒達の嫉妬に椿は憤りを感じていたが、自分の撒いた種でもあるのでむやみに彼女達を攻撃する事は出来なかった。

なので、わざと椿は嫌がる杏奈を無理やり個室へと連れて行くフリをして、杏奈に拒否権などないのだと言う事を女子生徒達に知らしめた。

その甲斐あって、杏奈は女子生徒達からお小言を言われる事は無くなり、むしろ同情されるようになっていた。

人と言うのは全く勝手なものだと椿は呆れてしまう。


椿の行動もあっただろうが、内部進学のテストが近づいていた事もあり、女子生徒達は問題を起こす事を恐れたのもある。

受験と言えば、佐伯はどうなのだろうかと疑問に思い、椿は口を開いた。


「ところで、佐伯君は内部進学なのよね?」

「その予定だよ。苦労して鳳峰に入ったのにまた受験するなんてごめんだもん」


最高学年と言う事で、2学期に入り修学旅行も終わった事から徐々に中等部の話が教師から出てきていた。

外部の学校を受験する生徒はほとんどいないので、ほぼ全員が内部進学になる。

家庭の事情や家業の関係で外部受験をする生徒も少なからず居るので、全員ではなく、ほぼ全員である

佐伯はゲーム通りであれば、このまま高等部卒業までは鳳峰に通う事になっている。

ただ、幼少期からゲームの設定とは違う部分が多々あった為、椿は佐伯がもしかしたら外部受験をするのでは?と不安に思い聞いてみたのだ。


折角出来た恭介の友達をここでなくしてなるものか。


そんな椿の気持ちなど知らない恭介が椿に向かって口を開く。


「中等部に上がれば人数が倍以上になるからな。ボロを出さない様に気を付けろよ」

「楽勝楽勝」

「それよりお前、それ何個目だ?いい加減にしないと太るぞ」


お菓子に手を伸ばそうとした椿に向かい、恭介が口を出してきた。

太る、と言う単語を聞いた椿はすぐに恭介を睨み付ける。

己の失言に気付いた恭介は一瞬だけヤベッと言う顔をしたが、すぐに表情を戻して、何事も無かったかのようにスナック菓子に手を伸ばす。

尚も椿は微動だにせずに恭介を睨みつけている。

そんな椿を佐伯が宥め始めた。


「まぁまぁ。恭介君も悪気があった訳じゃないんだし。気心知れた朝比奈さんに対して、つい気が緩んじゃって口から出ちゃったんだよ」

「そうだ、貴臣もっと言ってやれ」


味方を得た恭介の態度が大きくなる。

恭介の態度に腹が立ったが、それよりも椿には気になる事があった。


「恭介はまず失言した事を謝罪しろ。と言うか、いつの間に下の名前で呼び合う仲になったの?私初耳なんだけど」


そう、いつの間にか恭介と佐伯はお互いを下の名前で呼び合うようになっていた。

修学旅行の前までは確かお互いに苗字で呼んでいたはずだと椿は記憶していた。

修学旅行の最中に何かあったのか、いつの間にか2人は下の名前で呼び合っていた事に、椿は驚いた。


「別に、苗字で呼ぶことに違和感があったから下の名前で呼び始めただけだ」


なんとなく気恥ずかしいのか、そっぽを向いた恭介が言い訳を口にする。


「そっかー。仲良くなれて良かったね」

「他の奴よりかは、一緒に居て不快さを感じないだけだ」

「また、そう言う回りくどい言い方して」


素直じゃない恭介に椿は注意をしたが、佐伯がニコニコと笑って椿を止めた為、それ以上は口を出さなかった。

佐伯なりに恭介を理解しているのだと、今の彼の行動で分かってしまった。

きちんと恭介の内面を見てくれる友人が現れ、椿は良かったと心から感じる。


そして、安心したついでに、椿はクッキーに手を伸ばした。

すると、恭介が立ち上がり、椿に注意をし始める。


「だから4等分したら1人5枚なんだよ!お前はもう6枚目だから食べるな!」

「細かっ!小姑みたいに細かい!」

「お前が大雑把過ぎるんだ!大体、この間だってフライドポテトを半数以上食べていたじゃないか」

「大皿に盛られた物は先とか後とか関係ないの!文句あるなら先に食べれば良いでしょ!」

「遠慮って言葉を辞書で引け!」

「せせこましいと言う言葉を辞書で引く事をおすすめするわ!」


この、いとこ同士の言い合いは今に始まった事では無い。

大雑把な椿に対して、細かい事を気にする恭介が口を出し、言い合いが始まるのだ。

椿と恭介の姿を見た佐伯は肩をすくめ、杏奈は首を横に振り、『また始まった…』と呆れている。

それぐらいに頻繁に、椿と恭介はこうした言い合いをしているのだ。

聞いている方がどうでも良いと思う事で、この2人は簡単に言い合いを始めてしまう。

ケンカするほど仲が良いとは言うが、2人は引く事をあまりしない為、いつも言い合いが長引くのだ。

あの時はこうだった、いや、あの時もだ、と言う会話から最終的に、お互いの黒歴史暴露大会にまで発展するのがいつもの事である。

そして、いつもの事だからと、杏奈と佐伯は楽観視していた。だが、4人は忘れていたのだ。

ここが学校であると言う事を。


徐々にヒートアップしていく2人のやり取りに気を取られ、佐伯も杏奈も個室のドアをノックする音に気付けなかった。

更に、鍵をかけ忘れていた為、ノックをした人物はあっさりと個室のドアを開いてしまった。

その人物は、個室の中で繰り広げられていた事態を目の当たりにし、目を大きく見開いて驚いていた。

そして、その人物の発した言葉を聞いた4人がようやく、個室に誰か入って来た事を知ったのだった。


「…騒がしいと思えば、何をなさってますの?」


第三者の声が聞こえた事で、全員が正気に返り、同時に一瞬だけ固まった。

4人が一斉にドアの方を振り向くと、驚いて目を丸くしている藤堂千弦がそこに突っ立って居た。

見たところ、千弦はまだ混乱している様子であった。


ピンチの時に限り頭の回転が速くなる椿は、すぐに恭介に目配せをした。

恭介も椿が何を言わんとしているのか察したのか、千弦に近づいて行く。

先ほどまでの言い合いの事は綺麗さっぱり無かった事にして、椿と恭介は協力していた。

そして、恭介が千弦の両手を取り、自分の胸元にまで持っていく。

突然、恭介に手を握られ距離が近づき、千弦の頭は沸騰寸前であった。


「み、水嶋様!?」

「驚かせてしまってすまない」

「え?いえ、そんな…」


千弦が恭介に夢中になっている隙に、椿は気配を殺しドアに近づくと、ドアの鍵をゆっくりと音を出さない様に気を付けながら閉めた。


一連の動作を見ていた杏奈は、こいつら、こう言う時に限って意思疎通がスムーズになるよねと、いとこ同士の連係プレイに感心していた。


そして鍵を閉めた椿は再び恭介に目配せし、目的を達成した事を知った恭介はそっと千弦の手から自分の手を離した。

そして、近くのソファに腰を下ろし、何事も無かったかのように優雅に紅茶の入ったカップに口を付けた。

椿は千弦の背中を軽く押し、ソファに座るように促した。

まだ混乱している様子の千弦は、勧められるまま静かにソファに座る。


「って、流されましたけど、私、何の説明も受けておりませんわ!」


ソファに腰を下ろした千弦はようやく冷静になれたのか、先ほどの椿と恭介の件にツッコミを入れた。


「さすがに騙されてはくれなかったわね」

「当たり前でしょうよ!どうしてあれで騙されてくれると思えるのよ!」


椿の言葉に思わず杏奈が声を荒げてツッコミを入れる。

いくら恭介に手を握られ、至近距離で見つめられても、先ほどの件を忘れるくらいの衝撃は千弦に与えられなかった。

説明してくれるまで帰らないと言う雰囲気を醸し出しながら、千弦はソファに座っていた。


椿がチラリと佐伯に視線を向けると、彼は困ったように笑っているだけであった。

ここで、佐伯が首を横に振らないと言う事は、判断を椿に任せると言う事に他ならない。

千弦は真面目なので、どう転ぶのか椿には予測がつかなかった。

融通の利かないタイプではないとは思うが、鳳峰の生徒として~を持ち出される可能性もある。

などと椿が考えていると、恭介が皿に盛られているクッキーを千弦に勧めていた。

それを見た椿は思わず、無言で机に額を打ち付けていた。


「食べるか?」

「え?あの水嶋様、これは?」

「佐伯の会社の商品だ。僕たちは貴臣から意見を聞かせて欲しいと言われて、たまに試食に協力しているんだ」

「まぁ、そう言う理由でしたのね」


真実と嘘を織り交ぜ、それっぽい理由を恭介が言っているが、やはり人徳とでも言うのだろうか、千弦はあっさりと納得してしまった。

ここで、椿が同じように説明したとしても、疑いの眼差ししか向けられなかっただろう。

千弦の中で恭介が嘘を吐くはずがないと言う思い込みがあるのだ。


「校則にはお菓子の持ち込みを禁止すると明記されてはおりませんが、推奨もされておりませんわ」

「休みの日とか忙しくて、恭介君達とは中々会えないんだ。学校だと4人揃うから都合が良かったんだよね」

「その理由も分からなくはありませんが」


やはり、椿が危惧していた通り、千弦は学校内にお菓子を持ち込む事に難色を示した。

佐伯もきちんと説明はしているのだが、千弦を説得出来ない。

ならばと思い、椿は賭けに出る事にした。


「…千弦さんだって本当はちょっと食べてみたいとか思ってるくせに」


椿は口を尖らせ、肘で千弦を軽く押した。

言われた千弦は目を見開き、顔を真っ赤にさせ反論して来る。


「べ、別に!私は食べたいなどと申しておりませんわ!興味ございませんもの!」

「そっか、じゃあ、このクッキーは要らないって事で」


そう言って椿はクッキーの皿を千弦の前から退かそうとした。

途端に千弦が狼狽え始める。


「え!?」

「だって要らないんでしょ?恭介や杏奈だってまだ食べてないんだし、いつまでも千弦さんの目の前に置いておく訳に行かないもの」

「た、食べたいとは申しておりませんけれど、食べないとも申しておりませんわ!」

「もーどっちよ」


椿が退かそうとした皿に千弦の手が伸びて来て、ガシリと皿を掴んだ。

やはり、今まで口にした事の無いスナック菓子類を食べてみたいと言う好奇心が勝ったのだろう。

覚悟を決めたのか、千弦はニッコリと微笑み、椿と視線を合わせた。


「それに!意見は多い方がよろしいのではなくて?」

「あ、あぁそうそう。そうだね。まー1枚食べて感想を聞かせてよ」


先ほどの恭介の発言を思い出した椿は慌てて話を合わせた。

椿の言葉を聞き、千弦は少し間をおいてから皿に手を伸ばし、クッキーを1枚手に取り、少量を齧って口に入れた。

流石に食べ方が板についていて綺麗だと、椿はしばし見とれた。

口に入れた分を飲み込んだ後に、千弦が意外そうな声をあげた。


「あら、想像していたよりも美味しい」

「でしょう」

「ですが、少しパサついておりますわね。私はしっとりとしたクッキーが好みですので、それだけが残念ですわ」


佐伯は急いで鞄からノートとペンを出し、千弦の言葉を書き留めていく。

しかし、書き留めた言葉が彼の父親の耳に入る事は多分、いや、絶対にない。

佐伯と言い、恭介と言いノリが良いのは明らかに椿の影響と言える。


千弦はその後もクッキーを食べ、あーでもないこーでもないと佐伯に伝えていた。

一息ついたところで、椿は口を開く。


「千弦さん、出来ればこの事は誰にも言わないで頂きたいのだけど」


そう、遠慮がちに椿は千弦にお願いした。


「話をお聞きした限り、そう頻繁と言う訳でもありませんし、あと数か月で卒業ですのにわざわざ問題を起こすのは憚られますもの。それに、私がどうこう言った所で止めるつもりもないのでしょう?」


千弦に横目で見られ、椿は苦笑するしかなかった。

全くその通りであったからだ。


「まったくもう…。私だったから良かったものの、気をつけて下さいませ。鍵をかけ忘れるなんて論外ですわ。見られたら問題になると言う事を自覚して行動して頂かないと」

「次からは気をつけるよ。でも見られたのが千弦さんで良かった。他の人だったら大騒ぎになってたもの」


アハハと笑う椿に千弦は呆れた視線を向けた。

しかし、恭介が済まなさそうな声と顔で話しかけると、千弦の態度が一変する。


「共犯者にしてしまって悪い」

「気にしないでくださいな!私が決めた事ですもの」


この違いである。


傷心の椿は泣き真似をして杏奈にもたれかかろうとしたが、普通に手で押し返されてしまった。

ひどい。


今まで碌に恭介と話をした事のない千弦だから、憧れの君から普通に話しかけられて舞い上がっている部分もあるのだろう。

顔を綻ばせ、頬を赤くして恭介と話している千弦は非常に愛らしかった。


「ところで千弦さん。次の集まりは3学期になると思うんだけど来る?」

「さっき藤堂さんが言ってたしっとりしたクッキーも持ってくるよ」


椿と佐伯の言葉に千弦は素直に頷いた。

こうしてまた、恒例のお茶会に1人、入会が決まった。


会がお開きになり、各々個室の片付けと言う名の証拠をもみ消す作業をし、個室を後にした。

ちなみに千弦がなぜ個室に来たのかと言えば、違う個室を利用していた千弦が、帰る途中に騒がしい部屋があった為に注意しようとしたから、と言うものであった。


椿は学校から帰った後、夕食を食べ、宿題と予習復習を自室でしていた。

すると扉がノックされ、椿が返事をすると使用人が電話の子機を片手に持ち部屋に入って来た。


「お電話です」

「どなたから?」

「水嶋春生様からです」


伯父からの電話と言う事で、椿は手を止めて使用人から子機を受け取った。

使用人が部屋を出て行ったのを見て、椿は保留を解除し、受話器に耳を当てる。


「もしもし」

『あぁ、椿か』

「えぇ。そうです。お久しぶりですね。お元気ですか?今日はどう言ったご用件でしょうか?」

『やけに事務的な言い方だな。まぁ良い』


伯父と2人で話をするのは久しぶりだったので、妙に事務的な物言いになってしまった。

何の用事だろうかと椿が思い、伯父からの続きの言葉を待っていた。

だが、伯父は言い難そうに口ごもっている。

重大な話なのかと椿は落ち着かない気持ちになる。

すると受話器の向こうから、深刻そうな伯父の声が聞こえた為、思わず椿は身構える。


『…その…実はだな。恭介が私の事を最近"父さん"と呼ぶようになったんだが、これは反抗期と言うものだろうか』

「切りますね」


さっきまでの緊張感を返せと思い、そう言って、椿は受話器を耳から離し、電話を切ろうとした。

受話器の向こうで焦った伯父の声が漏れ聞こえてきた為、椿は面倒臭がりながらも再び受話器に耳を当てた。


「何ですか」


自分でも驚くほど、興味が無いのが丸分かりな声を出してしまった。

だが、伯父は椿の口調を咎める事もせずに話し始める。


『本題はそれじゃない。それも問題だがそこじゃない。人の話は最後まで聞きなさい』

「でしたら先に本題を仰ってください」

『もっと会話を楽しもうとは思わないのか』


まさか伯父の口からそんな言葉が飛び出るとは微塵も思っていなかった椿は無言になってしまう。

無言になった椿に伯父は何かを察し、わざとらしく話題を変えてきた。


『ところで、椿はこのまま鳳峰の中等部に進むつもりか?』

「えぇ、そのつもりです」

『初等部の時は椿と恭介のメンタル面が心配だから一緒の学校に通わせたんだが、今の2人はもう大丈夫だろうし、椿の行きたい学校に行って構わないぞ』


伯父の言葉を聞き、ついに来たか、と椿は覚悟した。

伯父がその話題を口に出すと言う事は、美緒が鳳峰を受験しようとしていると暗に言っているようなものであった。

母親は嫌でも美緒を通して美緒の母親の事を思い出して傷ついてしまう。だから伯父は美緒から椿を遠ざけたいのだろう。


「伯父様は子供が何を言うかと仰るかもしれませんが、私は恭介さんのことを弟の様に大事に思っています。母のことも大切です。ですので、私が鳳峰学園の中等部に行くことで結果として二人を守れると考えています」

『……つまり、君は鳳峰の中等部に進学すると、そう言うんだな』

「えぇ。母には心配を掛けて申し訳ないと思いますが、父が居りますし、他にも母を守ってくれる人がおりますから心配はしておりません」

『……恭介には居ない、と』

「おりますよ。ただ、それは学校外でと言う事です。校内では、そうですね。狼の中に投げ入れられた羊と言った方がよろしいかと。恭介さんの持っている手札が少なすぎるんですよ」


恭介の持っている手札は椿を除けば佐伯だけだ。

杏奈も居るには居るが、自ら動くような人ではないので人数に入れていない。

千弦に関しては、彼女だけだとどうしても弱いのだ。それに恭介がまだ千弦に対して心を許していない。

千弦は他の女子生徒の牽制にはなっても、美緒に対しての牽制にはならないのではないかと椿は考えていた。

美緒が素直に人の話を聞くタイプであれば、彼女の悪い話など椿の耳に入って来るはずがないからだ。


『本当にそれで良いんだな』

「えぇ」


念を押す伯父の言葉に被せる様にして、椿は肯定の言葉を口にした。


『分かった。困った事があれば言いなさい。どうしようも無くなった場合であれば水嶋の名前を出しても構わない』

「ありがとうございます。伯父様に直々にお願いする事はまず無いと思いますのでご安心を」


これで椿は、伯父様から許可が出ておりますものおほほほほ、を使えるようになった。

実際に伯父に何とかしてもらう事は無いし、椿も言いつけるような真似もしない。

ただ真実味を持たせる為に使うだけだ。

それで引いてくれる相手であれば良いのだが。


『百合子には私の方から説明しておく。……こんな事を頼めた義理ではないが、恭介を頼む』

「任せてください」


受話器の向こうに居る伯父に自信満々に椿は口にし、電話を切った。


絶対に何とか出来ると言う確証も無ければ、自信も椿には無い。

だが、ここで美緒と恭介にくっ付かれると椿は困ってしまうのだ。

仮に二人がくっ付いた場合、美緒の母親の実家である秋月家がしゃしゃり出てくる可能性が高い。

美緒を使って手段を問わずに水嶋の株を買い占めて経営権を奪われる、何ていう事になりかねない。

水嶋家を手中に収めた秋月家、及び美緒の母親が椿の母親の嫁ぎ先である朝比奈家にだって手を出して来るかもしれない。


また、椿と美緒の母親同士がぶつかり、椿の母親が泣かされる、という事態にもなるだろう。

これを椿は一番怖れていた。

椿は病んでいた母親を見ていた経験があるので、彼女が傷つき泣くような未来になるのは嫌なのだ。母親にはずっと笑っていて欲しいのである。

精神的に脆い面がある人だからこそ、追い詰められるような状況に置くことはできない。


椿は母親と恭介、二人を幸せにしたい。

恭介に関しては彼を幸せにしてくれる人であれば誰でもいいのだ。

けれど、少なくとも4歳の時に会った美緒は、相手に尽くすような人間には見えなかった。

故に椿は美緒の邪魔をしようとしているのだ。


美緒の性格が幼い頃から変わっておらず、椿が噂で聞いた通りであったのならば、恭介が彼女を選ぶ事はないと思っているが、一応用心しておくに越したことはない。

下準備は既に終わっている。

後は椿が上手く立ち回れるかだけである。

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