弱音と水嶋家での一コマ
大学のカフェテリア内でひとり座っていた椿は、大きなため息を吐き出した。
その姿を遠目で見ていた千弦は、肩を落としている彼女の許へと近寄り、声をかける。
「何か、悩んでいらっしゃるの?」
「千弦さん……」
顔を上げた椿の顔は、それはもう悲壮そのものであった。
いつもの彼女らしくない表情に、これはただ事ではないと千弦は隣に腰を下ろす。
「私でよければ話を伺いますけれど。大学のことかしら? それとも交友関係のことですの?」
「どちらかというと交友関係のことよ」
「……友人ができないことを気に病んでいらっしゃるの?」
「違います」
三回生となった椿は、いまだに高等部以外の友人ができずにいた。
確かに、それに悩んでいたのも事実であるが、彼女が悩んでいたのはそれではない。
「なら、どうなさったというの? 貴女がそこまで落ち込むなんて」
「ぶっちゃけると、レオンのことよ」
「グロスクロイツ様のこと? 嫌だ、まだお付き合いをしていらっしゃらないの? あれだけお二人で出掛けておいて? 冗談ですわよね?」
信じられない、といったように驚いている千弦であるが、彼女の言った通りである。
お付き合いはおろか、告白もまともに受け取ってもらえていない状況なのだ。
「冗談でここまで落ち込まないし。ねえ、千弦さんは篠崎君と付き合っているんでしょう? 何かアドバイスはないの? 自分を好きだと思ってくれない男に、気付いてもらえる魔法の言葉とかない?」
「それは……相手の態度を拝見すれば分かるのでは? さすがにどれだけ鈍くても、お二人で出掛けていれば分かるはずですわ」
「それが、できないから悩んでいるのよ」
ああ、どうしよう、と椿は机に突っ伏した。
「千弦さんはさぁ、どうやって篠崎君と付き合ったの? いつ、両思いだって気付いたの?」
「ええ!? 私?」
「参考までに教えてよ。ヒントになるかもしれないし」
顔を真っ赤にして恥ずかしがっている千弦は、しばらくの間黙っていたが、言う気になったのか口を開く。
「りょ、両思いだと分かったのは、高等部の二年生になってからですわね。篠崎君から休日に誘われることが多くなっていたので、それでもしかして? と思ったのが最初ですわ。出掛けた際に、お揃いの物を買って下さったりして……。同じ持ち物を持っていると嬉しい気持ちになると仰っていたので」
「ご馳走さまです」
「もう! 椿さん! 茶化さないで下さいませ!」
肩を揺さぶられ、椿は身をよじる。
茶化す気は全くなかったが、それでも人の惚気話は聞いていて嬉しい反面、気恥ずかしいものもあった。
ゆっくりと体を起こした彼女は、頬杖をついて千弦に視線を向けた。
「……でも、お揃いの物かぁ。それなら私にもできそうだわ」
「今まで何をなさっていたのよ」
「手相を見ていたわ」
「……手相?」
意味が分からないといった表情を浮かべる千弦に、椿はこれまで自分が行ってきた行動を説明する。
話を聞き終えた彼女は呆れたような顔になっていた。
「不器用にもほどがありますわ」
「自覚があります」
「手を繋ぐのが恥ずかしいのなら、腕に触れるとか色々とやりようはあるでしょうに」
「ごもっともです」
「本当にグロスクロイツ様とお付き合いしたいと思っていらっしゃるの?」
「返す言葉もありません」
正論という名の剣でグサグサと刺され、椿は縮こまる。
至るところから見えない血が噴き出している錯覚に陥った。
「それで、グロスクロイツ様は今度はいつごろ日本にいらっしゃるご予定なのです?」
「大学が休みになる七月後半からね」
「あら、ではもうすぐですわね。年末年始以来なのではなくて?」
「ううん。四月の連休のときに一日だけ来ていたわ。遠出はできなかったから、空港近辺で映画を見て、食事をしたのよ」
レオンは最終便でドイツに帰国したのだ。
ほぼ十二時間しか日本に滞在できなかったというのに、彼は非常に楽しそうにしていたのが椿の記憶に残っている。
「……それで、お付き合いしていらっしゃらないというのが信じられませんわね。ボヤボヤしていると他の女性に奪われてしまいますわよ? 以前もあったではありませんか」
「ああ、千弦さんと篠崎君が同席してくれたってやつね。その節は、ありがとう」
「どういたしまして……じゃありませんわ。グロスクロイツ様は未だに婚約者はおろか、お付き合いをしていらっしゃる女性もいないのですから、独身女性がこぞって寄ってきますわよ」
「……分かっているわよ! 分かっているけど、なんかこう……恥ずかしいっていうか」
改めてレオンに好きだと示すために積極的に動くのは恥ずかしい。
おまけに天の邪鬼なところが出てしまい、結果が惨敗に終わっているのを椿は情けなくも思っている。
「まあ、やっとやってきた椿さんの青春ですものね。恋に右往左往している椿さんを拝見しているのは微笑ましいですわ」
「勝者の余裕を感じる……!」
「勝ち負けではございませんでしょうに」
全くもう、などと千弦は言っているが、恋人がいる女性特有の余裕さが椿の傷を抉ってくる。
さすがにもう三年経って、いつまでも平行線のままではいられないと椿は、手を強く握った。
こうして七月に入り、レオンが日本に来る日がやってきた。
椿は、彼が水嶋家に挨拶に言っていると小耳に挟み、急いで水嶋家へと向かう。
使用人に案内され、彼がいるであろう部屋へと案内される。
「レオン? 入るわよ?」
ノックをしても返事がなかったので、椿は声をかけてそっと扉を開け、顔を覗き込んだ。
部屋はシンと静まり返り、本当にここにレオンがいるのかと疑問に思いながら、彼女は部屋に足を踏み入れる。
少し進んで辺りを見回すと、ソファーに長い足を投げ出して熟睡している彼を発見した。
休みに入ってすぐに飛行機に乗ってきたので疲れが溜まっているのかもしれない、と彼女は思いながら、足音を立てないようにゆっくりと近づく。
床に正座し、彼女はレオンの寝顔をマジマジと見つめていた。
(本当に綺麗な顔をしているわね。顔の大きさなんて私と同じくらいじゃないの? 睫毛も長いし、色も白いし。子供の頃は美少年って感じだったけど、順当に綺麗な男性になったわね。本当に、どうしてこんなに綺麗な人が私のことを好きになったのか)
はぁ、とため息を吐いた椿は、自分のどこが良いのかと悩み始める。
(普通、殴った相手を好きになったりしないよね。看病したことがあったとはいえ、レオンは変わっている。でも、今となったら過去に看病した私、グッジョブよね。それにしても、よく眠っているわ。よっぽど疲れていたのかな? ちょっとやそっとじゃ起きなさそう)
熟睡しているレオンを見ていた椿は、今なら恥ずかしいという気持ちもなく彼に触れられるのでは? と思い付く。
タイミング良く、彼は熟睡しているし、触ってたとしても起きないはずだ。
いつもは恥ずかしくて斜め上な言動をして台無しにしていたので、一度、予行練習をしておいた方が良いと正当化して、ゆっくりと彼女は手を伸ばす。
お腹の上に投げ出されている腕にそっと触れ、彼の反応を確かめると、規則正しい寝息が聞こえてくるのみ。
よし、起きない、と思った彼女は、やや大胆になり、彼の髪に手を伸ばした。
毛先をとって触れてみて、その柔らかさを堪能する。
(やっぱり日本人とは髪質が違うわ。どんな手入れをしたら、ここまで柔らかな髪になるんだろう。すごいサラサラ。すっごいサラサラ! 柔らかい!)
夢中になって触れていると、眠っていたはずのレオンの眉が寄る。
それに気付く事もなく彼の髪を触っていたら、伸びてきた手に椿は腕を掴まれてしまう。
驚いて体を硬直させた椿は、かなりゆっくりとした動きで視線を動かすと、不機嫌そうな表情を浮かべていた彼と目が合った。
だが、寝惚けていた彼は、すぐ側にいるのが椿だと分かった瞬間に顔を真っ赤にさせる。
つられて彼女も顔が赤くなる。
「……え? 椿? 椿が俺に触っていたのか?」
「ち、ちがっ! 違うわよ! さささ触ってなんかないわ!」
「いや、俺が掴んでいるのは椿の腕なんだが」
「ね、寝苦しそうにしていたから、気になっただけよ!」
やはり、相手が起きていると椿は素直になれない。
彼女は自己嫌悪しながら、レオンから視線を逸らした。
彼も彼で、確実に嘘だと分かることを言われているのに、これまでのこともあって疑うこともなく、そうか、と呟く。
「さすがに眠くなってな。仮眠のつもりだったんだが、随分と寝てしまっていたようだ。起こしてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
「ところで、椿と会うのは明日の予定だっただろう? どうして水嶋家に来たんだ?」
「レオンが、水嶋家にいるって聞いたから……。挨拶を、そう挨拶をしておこうと思ったのよ! そう挨拶をね!」
素直にレオンに会いたかったと言えばいいのに、椿は天の邪鬼が顔を出してしまう。
言われたレオンは、どこか寂しそうな表情を浮かべた。
だが、それは一瞬のことで、すぐに表情を戻して起き上がる。
その際に、彼はまだ己が椿の腕を掴んでいることに気付いて慌てて手を離す。
「いきなり掴んで悪かった。驚いただろう」
「別に……」
驚いたのは驚いたが、レオンの手の温かさが伝わり、動揺してそれどころではなかった。
そっぽを向いた椿を見て、彼は愛おしそうに目を細める。
「そうか。気にしていないのなら良かった。……だが、あまり無理はするなよ?」
「無理って?」
不穏な空気を感じ取り、椿は訝しむような視線をレオンに向けるが、和やかに笑っているせいで感情が読み取れない。
「俺に気を使って会いに来ているのなら、無理はするなという話だ。俺は椿と時間を過ごせればそれでいいんだから」
つまり、レオンは椿がこうして予定にない訪問をするのは、彼女が無理をしているからなのだと思っているということだ。
それに気付いた彼女は、思いっきり不愉快そうな表情を浮かべる。
「私は別に無理なんてしていないわよ! 自分の意志でここに来たの! ……その、つまり……なんていうか。……レ、レオンに、会いたかったから」
会いたかったから、という部分は非常に小声ではあったが、それでも部屋が静かだったのでレオンにもバッチリ聞こえていた。
片手で口を覆った彼は、落ち着きなく視線をさ迷わせている。
「そ、そうか。ありがとう」
「……どういたしまして」
ぎこちない会話を交わす中、二人は怖ず怖ずと視線を絡ませる。
黙ったまま見つめ合い、レオンが椿の頭を優しく撫でて髪を手に取った。
なんとも良い雰囲気になったことで、椿は今なら告白しても行けるのではないかと思い始める。
「……あの、レオン」
「何だ?」
「あのね、私」
意を決して告白しようと口を開いた椿であったが、突然部屋の扉が開き、外から満面の笑みを浮かべる恭介が現れた。
「レオ! 聞いてくれ! 透子が僕のプロポーズを受け入れてくれた! って、椿? どうして椿がここにいるんだよ」
場の空気をぶち壊してくれた恭介に、椿は怒りがこみ上げてくる。
その勢いのまま立ち上がり、物凄い形相で彼を睨み付けた。
「馬鹿! 恭介の馬鹿! 馬鹿恭介! でも、おめでとう! 祝ってやるわよ、この野郎!」
怒ってはいたが、祝いの言葉も忘れないのが椿らしい。
結局、透子がプロポーズを受け入れてくれた話で椿の告白は有耶無耶になり、今回も失敗に終わったのであった。
ちなみに、序盤で挫けた彼女がレオンの滞在中に積極的に動けるはずもなく、三年目の夏を終えたのである。
11月10日にアリアンローズ様より「お前みたいなヒロインがいてたまるか!」の4巻が発売となります。
最終巻となる今回も加筆修正や番外編(ちょこっと未来の話)も書き下ろしておりますので、よろしくお願い致します!