ツンデ令嬢と朴念仁紳士(中編)
ナターリエが修にドイツ語を教え始めて一ヶ月。
彼女は当初、自分の部屋でドイツ語を教えようと思っていたのだが、修から丁重に断られた。
二人っきりだと周囲に色々と誤解されてしまい、あらぬ噂を立てられる。更に未婚のナターリエのこれからに影響してしまうと言われたのだ。
あらぬ噂を立てられるのは、むしろ歓迎しているナターリエだが、彼女を思う修の誠実さが好ましかった。
ということで、二人はグロスクロイツ家のリビングでドイツ語の勉強をすることになったのである。
少々、高飛車な物言いだが、きちんと教えているナターリエと真面目に聞いて、時折質問している修の姿を彼女の両親と弟は微笑ましい気持ちになりながら眺めていた。
そんなある日のこと。
「ドイツ語が随分と上達したわね。…………褒美として私をタリアと呼ぶ許可を出してあげるわ」
最初の頃よりも修との仲は近づいていたが、もっと仲良くなりたいと思っていたナターリエは、ずっと愛称で呼び合う機会を窺っていた。
多少、強引ではあったが、彼女は褒美という名目でそれを実行したのである。
「じゃあ、タリア」
「いきなり呼ぶんじゃないわよ!」
「どうしろって言うんだよ……」
ため息を吐いた修を見て、ナターリエは言葉に詰まる。
呼んでもいいと言ったが、彼女は心の準備ができていなかったのだ。
「……もっと、こう。なんていうか。色々話をして、じゃあ、愛称で呼ぶっていう流れになると思ったのよ」
「そうか。それは空気を読まずに悪かったね」
「べ、別に、私が勝手に思ってただけだし……」
修から顔を背けたナターリエは口を尖らせながら、指で髪をいじっている。
「でも、俺が君を愛称で呼ぶということは、君も俺を愛称で呼ぶということになるのか?」
「え!?」
愛称で呼ばせることは考えていたが、逆は考えていなかったナターリエは、都合の良い修の言葉に驚きつつも、口元が緩んでいた。
「ああ、嫌なら別に」
「嫌じゃないわよ! 貴方が私を愛称で呼んでいるのに、こっちが呼ばないのはおかしいじゃない」
若干、ナターリエはくいぎみに言ってしまい、修は目を見開いて驚いている。
ちょっとあからさまだったかもしれない、と彼女は後悔した。
「なら、サム」
「それは嫌」
見事な即答であった。
ナターリエは、修を愛称で呼びたいと思っていたが、その他大勢が呼んでいる愛称で呼ぶのは嫌なのだ。
自分だけしか呼ばない愛称がいいと彼女は思ったのである。
要は特別感が欲しいということ。
「友達にサムが何人か居るのよ。紛らわしいから、別の愛称にして欲しいの。なんなら、私が考えてあげてもいいけど?」
口からでまかせの即興の嘘であったが、修は疑うこともなくあっさりとナターリエの言葉を信じた。
「じゃあ、考えるわよ。……そうね、オサムだからオーサとかは安直かしら?」
「君が呼ぶんだから、お好きにどうぞ」
「私が考えるって言ったけど、協力ぐらいしなさいよ! でないと恥ずかしい名前で呼ぶわよ!」
「分かった、分かったよ」
どうどう、とナターリエを宥めながら、修もいくつかの候補を出すが、ナターリエはしっくりこないのか、中々決まらない。
「ねぇ、貴方の名前は日本語でどう書くの? 文字の見た目で決めてもいいかもと思ったから、書いてみてよ」
好きに呼べば良いと思っていた修であったが、ナターリエが納得してくれない限り終わらないと思い、大人しく紙に自分の名前を書いた。
「どうして、それでオサムと読むのよ。日本語って意味が分からない」
「どうしてと言われても、そう読むものなんだよ。まあ、いくつか別の読みもあるけど」
「はぁ!? 他の読み方もするの!? 日本語っておかしいわ!」
ありえない! とナターリエは首を横に振っている。
「……で、他にはどう読むのよ」
ナターリエは、ありえないと言ったが、興味がないわけではない。
修の国の言葉、それも彼の名前である。
知りたいと思ってもおかしくない。
修は、そんな彼女を見て穏やかに微笑むと、ローマ字で自分の名前の別の読み方を書いていく。
「いっぱいあるのね」
「まだあるけど、俺が知ってるのはこれだけだよ」
まだある、と聞いてナターリエは目を瞠った。
「それで、しっくりくる読みはあった?」
修に聞かれ、ナターリエは紙に書かれた文字に視線を戻した。
ひとつひとつに目を向けた彼女は、ある読みを見て動きを止めた。
「これは、シュウでいいのかしら?」
「そうだね。シュウと読む」
「こっちで、呼ぶ人はいる?」
「たまに間違えて読む人はいるけど、すぐにオサムと訂正しているから、ずっと呼ぶ人はいないね」
その話を聞いたナターリエはニンマリと微笑む。
「なら、これから貴方のことをシュウと呼ぶわ」
と、宣言し、彼女は修に向かって言葉を続ける。
「それから、私に日本語を教えてちょうだい」
「なぜ日本語を? 習得しても使う機会なんてないと思うけど」
「そ、それは……」
もっと修と一緒にいたいからだとは、恥ずかしくてナターリエは口にすることができない。
どうにか良い理由がないものかと、彼女は視線をさ迷わせていると、修の側にいた朝比奈家の使用人が目に入った。
(そうだわ! 彼を理由にすればいいのよ!)
良い案が思い浮かんだ、とナターリエは喋り始める。
「いつも、私の前で朝比奈家の使用人と日本語で話しているでしょう? 自分の知らない言語で話されると気になるのよ。秘密の話をしてるんじゃないのかってね。だから、日本語を理解したいのよ」
(どう? この完璧な理由。これなら教えてくれるわよね?)
ナターリエは得意気な顔をして修を見つめている。
彼は顎に手を当てて何かを考えていたが、やがて口を開いた。
「そういうことなら、日本語を教えるよ」
やった! とナターリエは心の中でガッツポーズをする。
「ただし、俺がドイツ語を習得するのが先」
「いいわよ。ドイツ語の授業が終わった後に、少しずつ教えてくれればいいから」
「ああ、なら、それで構わないよ」
交渉成立だとナターリエはニヤリと笑う。
以降、ナターリエはグロスクロイツ家だけでなく、外にも修を連れ出してドイツ語の授業をした。
グロスクロイツ家の令嬢と謎の東洋人の組み合わせは非常に目立ち、人目を引く。
社交界でも彼女達のことは噂になり始めていた。
思わぬ形で外堀を埋める結果になり、ナターリエは喜んだが、修の顔色は優れない。
「タリア。外に出掛けるのは止めよう」
「あら、どうして?」
「これ以上、噂になるのは君のためにならないからだよ」
「私のためになるか、ならないかを決めるのは私よ。シュウじゃないわ」
キッパリと言い放ったナターリエに、修はため息を吐いた。
「……君は、グロスクロイツ家の令嬢だ。釣り合いの取れた家に嫁ぐ身でもある。なのに、東洋の島国の男と噂になるのは」
「何よそれ!」
まるでナターリエに好意を抱いていないというような言葉に、彼女は苛立った。
「私が誰と結婚するかは私が決めることよ! シュウじゃないわ!」
「タリア!」
ナターリエは、その場から立ち去ろうとしたが、すぐに修に手首を掴まれ足を止める。
そのまま、グイッと手を引かれ、後ろから修に抱きしめられる形となった。
「ちょ、ちょっと! なにを」
「言い方が悪かったのは謝るよ。ごめん。だから逃げないでくれ」
修に抱きしめられている状態ということで、混乱していたナターリエは彼の落ち着いた声を聞いて冷静さを取り戻す。
「……逃げないわよ」
はぁ、と息を吐いた修がナターリエを抱きしめている腕を緩めた。
もう少し抱きしめられていたかったナターリエは、若干不機嫌そうな表情を浮かべて振り返る。
困ったような顔をした修を見て、彼女は口を尖らせた。
「シュウと噂になることで、私が困ることなんてないわ」
「何ものにも意志を左右されないところは君の良い所だと思うよ。だけどね、タリアがそう思っていても、東洋人は中々信用されない状況であることに変わりは無いんだよ」
話を聞いたナターリエはキッと修を睨み付けると、両手で彼の頬を挟んだ。
いきなりの行動に、修は驚いている。
「東洋人だろうが、なんだろうが関係ないわよ! 私はシュウを信用しているわ! 周りが何を言っても関係ない。だって私の意志で側にいるんだもの。それに私はシュウが誠実で情に厚くて仕事馬鹿で女心の分からない男だってことを良く知ってるわ!」
「後半の台詞が酷いね」
「事実じゃない! 話をしていても、八割は陶器の話だし、お世辞は言わないし、私を褒めてもくれないし。だからシュウはモテないのよ。モテても困るけど」
「困るの?」
聞き返されたことで、ナターリエは余計なことまで言ってしまったことに気付き、顔を真っ赤にさせた。
「別に困らないけど! あ、でも、ちょっとだけなら困るかも。ちょっとだけよ! ちょっと、ほんの少し」
必死に言い訳をするナターリエを見て、修は思わず笑い声を漏らした。
「何がおかしいのよ!」
「いや、可愛いなと思って」
(か、かわ、可愛い!? 可愛いって言った!?)
普段、そういう言葉を言わない修が言った破壊力に、彼女は言葉を発することができない。
「ああ、ごめん。変なことを言って悪かったね。忘れて」
(忘れるなんて勿体ないこと、できるわけないでしょう!)
「あと、俺を励ましてくれてありがとう。お世辞でも嬉しかったよ」
(お世辞なんかじゃないわよ! 事実よ)
そう言いたいのに、妙なプライドが邪魔をして言えない。
可愛げのない自分が恨めしい、とナターリエは思う。
「ドイツ語の件だけでも助かっているのに、タリアには助けられてばかりだね」
「……それは、こちらもよ」
あの馬鹿御曹司から助けてもらった恩返しは、これぐらいでは返しきれない。
何なら、父親に色々と便宜を図ってもらっても構わないとすら、彼女は思っている。
「それから。急に抱きしめて悪かったね。驚いただろう? その、あそこで、逃げられたら、もう俺に会ってくれないと思っていたから、つい」
「確かに驚いたけど、別に嫌ではなかったわ」
済ました顔をして、そっぽを向いたナターリエは何でもないという風を装って口にした。
心の中では、大興奮していたわけだが。
「なら良かった。……あと、嫌気が差したとかでなければ、これからもドイツ語を教えて貰えると助かるんだけど」
「ドイツ語くらいいくらでも教えてあげるわよ。でも、そうね。少しでも悪かったと思っているのなら、今度、オペラに付き合ってちょうだい」
「オペラに?」
「ええ。ラルフはオペラに興味がないみたいで、最近は誘っても付いてきてくれないのよ」
大嘘である。
ナターリエは単純に修とデートがしたかっただけだ。
「じゃあ、俺でよければ付き合うよ」
「決まりね」
上手くいったことに、ナターリエはこれ以上ないくらいの綺麗な笑みを浮かべた。
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