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翌週、今日も透子を守り切った……と安心した椿が朝比奈家の車に乗り込んだところ、今から水嶋家に向かうと志信に告げられた。
「恭介の家に? どうして?」
「申し訳ございません。本当に先ほど電話で知らされたばかりで、詳しいことは旦那様からは伺っていないのです。ただ、大変焦っておいででした」
「お父様が?」
父親が焦って水嶋家に向かえと言ったということは、恐らく、多分、確実に祖父に恭介と透子のことがばれたのだ。
どうやって祖父を説得しようかと考えている間に車は水嶋家に到着し、動揺を隠しきれていない使用人に案内され、リビングへと椿は通された。
「だから! 親父が恭介と椿の婚約話は余計な虫が付かないように言ったことだと説明すればいいだけの話じゃないのか!」
「お前は何も分かってない! 婚約の話が出て十年以上経ってる状況で、椿が恭介の婚約者だと周囲は疑ってもない。今更、嘘だったと言ったところで周囲が納得するか! 恭介に捨てられたとと言われて笑われるのは椿だ! 秋月の娘の時だってそうだった!」
「当事者が違うと言ってるんだから、他人の意見なんて撥ねつければいいだけだ! 親父が言えば収まるだろ!」
「周囲の声にどれだけの威力があるのかは、私が一番よく分かっておる! 奴らはいつも弱い方を攻撃する。あの時は私が八重を守ったが、今回は違う。椿を守ってやれる人間は私以外に居ない。椿の幸せは恭介と人生を共にすることだ。あれだけ仲良くしているのに、横からどこぞの馬の骨に騙されおって。水嶋の後継者が情けない」
「椿は朝比奈家が守るに決まってるだろう! 親父が手を出すことじゃない。それに」
「黙れ! 元はと言えば、お前が私に報告しなかったのが原因だろうが! さっさと知っておれば、その娘を離すこともできたというのに……」
部屋に入った瞬間、目と耳に飛び込んできた修羅場に椿は動けず、棒立ちになっていた。
祖父と伯父の剣幕に圧倒されたのもあるし、大の男の大声に怯んでしまったのである。
部屋には帰宅したばかりの恭介も居たのだが、彼も椿と同じ理由で棒立ちになっていた。
棒立ちになっていた椿に気付いたのは、祖父と伯父を止めようとして間に入っていた瀬川であった。
彼は椿を見つけると、祖父に耳打ちして彼女が来たことを知らせる。
祖父の視線により、伯父も椿が到着したことを知り、二人の頭は少し冷静になったようだ。
「大声に驚いただろう? 済まなかったな」
「……いえ」
苦笑している伯父に対して、椿はそれ以上の言葉が出てこない。
祖父は、そんな椿を見て、今回の件で傷ついていると思ったのか、優しげな笑みを彼女に向けてきた。
「椿、心配することは何もない。お前のことは私が守ってやるからな。いくら恭介とあの娘が想い合っていたとしても、私が引きはがして椿の元に恭介を戻してやるから安心しなさい」
迷いなく言い切ったことで、このままでは本当に祖父は実行に移してしまうと思い、椿は慌てる。
「お、お祖父様。私は恭介さんに対して恋愛感情など持っておりません。ですから」
「あの娘に遠慮しているのか? 大丈夫だ。お前が身を引く必要はない。恭介とあの娘とのことに気付いてやれずに済まなかった」
「いえ、ですから。私も恭介さんも婚約は嘘であるという認識でこれまで過ごして参りましたので、私は恭介さんと結婚するつもりはないのです」
「春生や百合子にそう言い聞かされておったのか……可哀想に。大丈夫だ。お前が恭介を諦める必要はどこにもない」
祖父に優しく頭を撫でられたが、椿は内心『人の話を聞けよ! ジジイ!』と憤っていた。
伯父は伯父で孫娘である椿の言葉を聞けば納得するだろうと思って、彼女を呼んだのに全く聞く耳を持たない己の父親に対して苛立ちを感じている。
恭介も透子を認めていない祖父の発言に顔を顰めていた。
「親父……。椿の話を聞いてくれ」
「私は椿の話をちゃんと聞いている。椿の気持ちを無視しているのはお前らだろうが」
「それは椿の嘘偽りのない本心だ」
「馬鹿を言うな! 椿は育った環境のせいで自分の意見を押し通すようなことができんのだ。椿のように控え目で大人しくて心の優しい娘はいつも損をする。八重もそうだった。お前の方こそ、恭介を説得せよ。庶民の娘など恭介にとっては害悪でしかない」
吐き捨てるような祖父の言葉を聞いた伯父は、サッと表情を変えた。
「……貴方は昔『家柄ではなく人柄で相手を判断せよ』と言っていた。恭介はその通りに人柄で彼女を選んだ。そこは誇りに思ってもいいのでは?」
「それはあくまでも友人関係においてのこと。庶民の娘が水嶋家の嫁としてやっていけるものか」
吐き捨てるように言った祖父を伯父は悔しそうに手を握りしめながら睨んでいる。
「だから、全員を不幸にしても良いと言うのか……!」
「時間が経てば恭介も目が覚める。不幸になるのは庶民の娘だけだ。私は椿を八重と同じ目には合わせない。これは決定事項だ。会社はお前に譲ったが、家まで譲ったつもりはない。家長は今も私だ。反論は認めない」
いくら社長となったとはいえ、伯父に祖父以上の権力はない。
これ以上の説得はできないと彼は押し黙った。
「瀬川。今年の水嶋のパーティーで恭介と椿は正式に婚約したと発表する。準備せよ」
いきなりの言葉にその場にいた全員は目を丸くする。
「お祖父様!?」
「待って下さい!」
「大旦那様、それは……!」
「嘘の婚約だと言うのであれば、本当のことにすればよいだけのこと。これは椿のためだ」
いやいや、ちょっと待ってよ! 冗談じゃない! と椿は祖父に詰め寄った。
「お待ち下さい! 私は恭介さんと結婚など致しません! 婚約は嘘だったと発表して下さい!」
「そうです! 僕達は想い合ってなんていません!」
「恭介は黙っていなさい。椿……。これは椿のため。お前に八重がしたような苦労はさせん。大丈夫だ」
椿の話を全く聞こうとしない祖父の言い分に彼女は堪忍袋の緒がブチッと切れてしまった。
もう祖父にどう思われてもいいと椿は覚悟を決めた。
「だから! 私は恭介と結婚はしないって言ってるでしょうが! 年のせいで耳が遠くなってるんじゃないの!? いい加減にしてよ!」
「つ、椿?」
突然の椿の変わりように祖父は狼狽え、伯父と恭介は、あちゃーという顔を浮かべながらそっと視線を彼女から外した。
「大体、八重のように八重のようにって、周囲からあれこれ言われたのはお祖父様とお祖母様のせいでしょ! 言われても仕方のないことをしたのが悪いんじゃない! 何でまるで自分達が被害者だ、みたいな言い方をしてるのよ! どう考えても加害者でしょうが! 私にだって、どっちが悪かったのかの判断ができるのに、どうしてお祖父様は分からないのよ!」
孫娘から思ってもみなかったことを言われ、祖父は言葉に詰まっている。
その隙に椿は今まで言いたかったことをぶちまけた。
「自分の方から断っておいて、他の女との婚約が決まりそうになったらやっぱり私が、とか言って横取りする方が悪いに決まってるでしょ! あっさり落ちたお祖父様もお祖父様よ! それに相手に対して謝罪もせずに逃げるようにフランスに行ったら、そりゃ恨まれて当然よ。お祖父様達が後のフォローをしなかったせいで、お母様や私に被害がきたんじゃない! お祖父様達がちゃんと解決していれば、私達は苦労せずに済んだし、相手だっていつまでも引きずることもなかったのに。それに、私が捨てられたと笑われるって言って、秋月の娘がそうだったって言ってたけど、そう言われてたのを知ってて放置してたってこと? それって人としてどうなの? 何で庇ってあげなかったのよ。少なくとも周囲に説明する義務があるでしょ」
「おい椿、落ち着け。渾身のボディブローがクリティカルヒットして、お祖父様から魂が抜けてる」
愛する孫娘からボロクソに言われ、祖父の目が完全に死んでいたことに椿はようやく気が付いた。
「え!? あんなので!? 昔から言われ慣れてるでしょ?」
「それが、親父を奪ったお袋を非難する声はあったが、親父を非難する声はなかったんだ。フランスに居た頃はそういった声は聞こえてなかったし、帰ってきたらそれなりに偉くなってたから、親父が悪かったと面と向かって言う人が居なかったから、椿が初めてだと思う」
「嘘でしょ! 誰も指摘しなかったの!? 信じられない!」
「僕はお前が信じられないよ。もっと時間をかけてお祖父様を説得しようと思ってたのに、いきなりコーナーに追い込んでボコボコにする奴があるか」
「だって、こっちの話を聞かないわ、勝手なこと言い始めるわで頭にきて、つい。っていうか、私まだ言い終わってないんだけど」
「まだ言うつもりだったのか!? これ以上はお祖父様の心臓に負担がかかり過ぎるから止めろ! 病院送りにするつもりか!」
恭介に強く止められた椿は舌打ちをして分かったよ、と口にした。
「それにしたってお祖父様、打たれ弱すぎ。あれでよく社長をやれてたね」
「頼むから、もう黙ってくれ」
額に手を置いている恭介と、無言で椿の口を手で塞いだ伯父の目も死んでいた。
結局、祖父は魂が抜けた状態のまま水嶋家から出て行き、別宅へ向かったまま引きこもりとなった、と椿は後日聞かされる。
「遅れてきた反抗期?」
「お前のせいだよ! お前の!」