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そのまま何事もなく十月に入り、文化祭が近づいてきた頃。
椿は昼休みに図書室へ行こうと廊下を歩いていたところ、千弦と杏奈に呼び止められた。
「お二人揃ってどうなさったの?」
「いいからこっち」
杏奈に手を引かれて空き教室へと連れて行かれた椿は、千弦から彼女の携帯の画面を見せられる。
「これは、メール? 私が見ていいの?」
「下までご覧下さい」
言われるまま、椿はボタンを押して画面を下に動かした。
メールには『夏目透子は水嶋様と二人で会っている』という文章と、二人が仲睦まじそうに話している写真が載せられていた。
「ついに、ばれたか」
「案外落ち着いておりますのね」
「いずれはばれると思ってましたから。それで、夏目さんは?」
「綾子さんや結香さんに一緒に居てもらってます」
「それなら安心ね。でも二人で会ってるってだけで、まだ付き合ってることまではばれてないみたいね」
「たまたま写真に収めたのでしょうね」
付き合っているまではばれていないことに椿は安堵しつつ、女子生徒達の嫌がらせが透子に向かうことを彼女は心配していた。
今は千弦の友人達が側に居てくれるので何とかなるかもしれないが、ずっとは一緒に居られない。
「……私が夏目さんの側にいたら他の生徒は手出しできないよね? 私が直々に動いている訳だから」
「逆に椿さんが動いているから自分達も手を出しても良いということになりませんか?」
「そこは余計な手出しをするなと私が言えば止まるでしょ? 細々とした嫌がらせはなくならないだろうけど」
「問題は立花さんじゃないの?」
杏奈の言葉に椿と千弦は互いに顔を見合わせた。
他の女子生徒の動きを把握できたとしても、美緒の動きを把握することは難しい。
彼女の動きは予想できないのだ。それに美緒に入れ知恵しているであろう人物のこともある。
「できる限り私が夏目さんの側にいることにする。そうすれば取り巻きの人達が必死になって立花さんを止めるだろうし。体育の授業とかは同じクラスの人に任せるしかないんだけど」
「でしたら、授業中などできる限り私が夏目さんの側におりますわ。あと私も普段から夏目さんや椿さんと一緒に居るようにします。表向きは椿さんを止めている状態に見えるでしょう?」
「私も夏目さんと同じクラスの友達に気を付けて見てくれるように頼んでみるわ」
こうして三人の話し合いは終わり、翌日から椿と千弦は透子の側に暇があれば行くようになったのである。
透子は純粋に喜んでいたが、椿達が側に居る理由を知って申し訳なさそうにしていた。
「外で会っていたことはばれましたが、付き合っていることまではばれてませんから、そこは大丈夫ですわ」
「でも、メールが出回ってから嫌がらせとかされてませんから、朝比奈様の考えすぎではないですか?」
「千弦さんや周防さんが側にいらしたから、手出しができなかっただけでしょう。それに今は私が居りますし。私が夏目さんを監視して、率先して嫌がらせしていると見られているから、彼女達も余計な手出しができないだけですわ」
実際に他の生徒は透子に手を出していない。むしろ、もっと手酷くやってもらおうと椿を止めている千弦を引き剥がそうと躍起になっているくらいだ。
「そうだとしたら、朝比奈様にも藤堂様にも周防さんにも申し訳ないです。特に朝比奈様は自分が悪く言われるにも拘わらず私を守ってくれていますから」
「だって、ここで夏目さんが恭介さんから手を引かれると私が困るんですもの。未来の嫁の座は私が守ります」
「よよよ嫁って! 私、そんなつもりは」
顔を真っ赤にさせた透子が身を乗り出しているのを見ながら、椿は無表情で彼女に向かって親指を立てた。
「恭介さんの覚悟が決まれば、逃げられませんわよ?」
「何が逃げられないっていうのよ」
透子との会話を邪魔された椿は、いきなり現れた美緒に冷ややかな視線を送る。
椿の態度を平常通りと受け取ったのか、美緒は全く動じない。
「あら、立花さん。盗み聞きですか?」
「私はそいつに話があったから来ただけよ。そしたら会話が聞こえてきたの。盗み聞きなんてしてない!」
椿に邪魔をされ、いらついた美緒が反論するが、彼女は興味がなさそうに、その反論を「そう」と流した。
「それで、夏目さんに何のお話が?」
「……あんただって写真の件で夏目に対して腹を立てているから一緒に居るんでしょ。だったら、私がそいつに何を言っても文句はないはずよ」
椿と美緒の目的は一致しているのだから邪魔をするはずがないと彼女は思っているが、とんだ間違いである。
透子が攻撃されると分かっているのに、椿がどうぞ、などと言うはずがない。
「立花さんは随分とせっかちですのね」
「はあ? どういうこと?」
「だって、今は私が独占しておりますのよ? なのに空気も読まずに横入りしてくるなんて失礼ですわ。……ああ、それとも私に協力して下さるのかしら? でしたら、夏目さんをお連れしてもよろしくてよ? 頃合いを見て恭介さんと一緒に参りますから、上手く動いて下さいませ」
「なっ!」
恭介からの印象を良くするための駒になれ、と言われ、美緒は言葉を失う。
透子を連れ出すのに苦戦している美緒は苦い顔をしていたが、対して椿はこれ以上ないくらいに笑顔である。
「あ、あの」
椿と美緒の会話を戸惑いながら見ていた透子が話し掛けてきたことで、二人は視線を彼女へ向ける。
「立花さんは水嶋様のことが好きだから、水嶋様と一緒に居た私に言いたいことがあるんですか?」
「そうよ! それに水嶋様は私のことが好きなんだから! ちょっと優しくされたからって勘違いするんじゃないわよ!」
「え!? そうなんですか!?」
「当たり前でしょ! あんたと違って、私はイベントを起こしてるんだから! 選ばれるのは私なんだから! あんたじゃない! 絶対に私なんだから!」
予想外な美緒に対する透子の問いに椿は、え? それを今聞くの? っていうか恭介の彼女である貴女が素で驚くんじゃないよ、と呆気にとられたせいで行動が遅れてしまった。
これ以上は別の意味で収拾がつかなくなると思い、椿は二人の会話に割って入る。
「立花さん、彼女は私の獲物です。私の番が終わった後にいくらでも好きなだけ夏目さんとお話しすればよろしいでしょう? ですので、私の邪魔をしないで下さるかしら」
「……あんたに任せてたらルートに入るかもしれないじゃない! なんでそいつを攻撃するのよ! フラグなんて立てないで大人しくしてて! これが最後のチャンスなんだから! 私の幸せの邪魔をしないで!」
椿の言葉に我に返るどころか、あまりにも必死な形相の美緒に、椿は何故そこまで恭介に固執するのかと不思議に思った。
「何を仰ろうとも、私は夏目さんの側から離れる気はございません。それでも私の邪魔をするおつもりなら、こちらにも考えがございますが?」
次に問題を起こせば、美緒は鳳峰学園を追われることになる。
そのことを思い出した彼女は、途端に勢いを失う。
「い、一対一なら、口出しはしないって言ったのに……!」
「貴女が人の獲物を横取りしようとなさるからですわ。大体、先ほどから私は邪魔をするな、と申しておりますのよ。これ以上、私の機嫌を損ねるおつもり?」
これ以上しつこくすると本気で椿が学園から追い出しにかかると思った美緒は、悔しそうに唇を噛みしめながら、二人を睨み付けて立ち去って行った。
「……すごい勢いでしたね」
「心配していた通りになったわね。私が居れば彼女は寄ってこないだろうけど、側に居ない時が心配ね。あまり一人にならないように、清香さんや千弦さんを頼るのよ?」
「分かりました」
と言いつつ、透子は立ち去った美緒の後ろ姿を心配そうに見つめていた。
この一件以降、美緒は椿が側に居る時は睨み付けてくるだけで、透子の側に寄ってくることはなくなった。
ただ、透子が一人になるのを監視するようになっただけである。
何度か椿が居ないときに突撃していたようだが、すぐに取り巻き達に連れ戻されたと彼女は聞いていた。
同時に透子の教科書や靴が隠されたり、鞄を捨てられたりといった嫌がらせを彼女は受けるようになってしまう。
透子は大丈夫だと笑っていたが、椿は全く大丈夫ではない。
清香や千弦達の協力もあって、透子自身に危害が加えられる事態にはなっていないが、これではいたちごっこである。
そして、透子に対する嫌がらせに怒っているのは椿だけではない。
恭介は椿よりも怒っている。椿や千弦達に恭介まで出たら収拾がつかなくなり、透子に対する嫌がらせが更に増すから、と言われて我慢しているに過ぎない。
椿も恭介もピリピリしている中、文化祭の日に一気に事態が動いた。
高校生活最後の文化祭であったが、椿は無理を言ってクラスの出し物の当番を回避して、透子と朝から学園内を見て回っていた。
午前中は何事もなく過ぎていき、午後になって椿と透子がグラウンドへと移動している最中に二人は女子生徒達に呼び止められてしまう。
興奮した様子の女子生徒達を見た椿は、透子に文句を言いに来たのだなと分かり、彼女を人目のあるグラウンドへと連れて行こうとする。
だが、先に女子生徒達に囲まれてしまい、身動きが取れなくなってしまった。
「……私が居るのに夏目さんに何かなさるおつもりなのかしら?」
「関係ありませんよ。この際、朝比奈様から何をされたとしてもどうでもいいんです。私達は夏目さんが許せない。庶民の癖に水嶋様に取り入って……!」
いきり立った女子生徒は透子の髪を掴み、力一杯引っ張ると彼女は地面へと倒れ込んでしまった。
「夏目さん!」
倒れ込んだ透子に椿が駆け寄ると、頭上から女子生徒達の笑い声が聞こえてくる。
「朝比奈様、ここには水嶋様の目はありませんよ? 夏目さんを庇う演技などしなくてもよろしいのに」
「私達だって朝比奈様が目を瞑って下さるなら、水嶋様にわざわざ言うような真似はしません」
「朝比奈様ばっかりずるいですよ。私達だって腹に据えかねていたんです」
椿はふざけるな! と大声で叫びたかった。
だが、立ち上がりかけた椿の制服の裾を透子が引っ張り止める。
透子は立ち上がると、制服についた土を手で払って真っ直ぐに女子生徒達を見据えた。
「私は水嶋様に、恭介君に取り入ってません。私が恭介君の側に居ることは、朝比奈様も知っていたことですし、そもそも悪いことは何もしてません」
「水嶋様を下の名前で呼ぶなんて! 失礼にもほどがあるわ!」
「婚約者が居る男性に近寄って仲良くするのは悪いことでしょう!」
「開き直るなんて最低よ! 恥知らず!」
一人の女子生徒が手を大きく振りかぶる。
咄嗟に椿は透子の正面に立ち、女子生徒から彼女を庇った。
目を瞑った椿は叩かれる覚悟を決めるが、待てども待てども衝撃が来ない。
不思議に思った椿が目を開けると、女子生徒の振りかぶった手を掴んでいる恭介が立っていた。
息を切らせて女子生徒を睨み付けていた恭介であったが、視線を椿や透子へと向け、彼女達が無事なのを確認して表情を緩める。
「登場のタイミングがバッチリね。さすが」
「お前がついていながら、なぜこの状況になる」
「仕方ないでしょう? 馬鹿の思考は斜め上なんだから」
「だったら、もっと人目につく場所を通って移動しろ」
「私が居るのにちょっかいかけてくる馬鹿は居ないと思ってたのよ!」
恭介が来たこともであるが、椿の口調の変化に女子生徒達は目を丸くしている。
一体何が起こっているのか、彼女達には分からなかった。
「み、水嶋様。これは一体」
「朝比奈様も何を……」
女子生徒達の言葉に我に返った椿と恭介は、いつも通りの会話を繰り広げていたことに気付く。
気付いたところでどうしようもないと悟った恭介は、掴んでいた女子生徒の手を離して大きなため息を吐いた。
「そんなことよりも、お前らは透子に何をしていた?」
「はい。夏目さんの髪を引っ張って地面に倒しました」
勢いよく手を挙げながら告げた椿に女子生徒達は慌て始める。
「それは! 夏目さんが水嶋様の迷惑も考えずに取り入ろうとするから……!」
見当違いな女子生徒の言い分に恭介は頭を抱えていた。
少しして、彼は椿と透子に向かって「ごめん」と呟いた後で女子生徒に視線を向ける。
一体何を言うつもりなのか、と椿は恭介を止めようとしたが、間に合わない。
「僕は透子に迷惑を掛けられたことは一度も無い。むしろ僕の方から話し掛けていたんだ。彼女のことを好きだったから。だから、僕が透子を迷惑だと思う訳がない。全部お前らの早とちりで勘違いだ。僕の邪魔をしないでくれ」
恭介の言葉に女子生徒達は顔を見合わせている。
何を言っているのか理解できない、という表情であった。
「……好き? 水嶋様が? 夏目さんを?」
「嘘ですよね? 嘘だと言って下さい!」
「水嶋様が何でこんな庶民を選ぶんですか!? 朝比奈様が居るじゃないですか!」
「黙れ。椿は関係ない。最初から僕に協力してくれていたんだ。椿が居なかったら僕は透子と接点を持つことはおろか、付き合うこともできなかったんだから」
付き合うことができなかったと聞いた女子生徒達は絶句している。
親しくしているとは思っていたが、すでに付き合っているとは思ってもいなかったようだ。
恭介から透子と交際していると宣言され、今度は椿が頭を抱える番であった。
「高等部卒業まで黙ってた方がいいのに……! 何でここでバラすのよ! 馬鹿!」
「透子が嫌がらせを受けているのに、僕が何もできないのは我慢できない。お前や藤堂達に任せっぱなしにはできないししたくない。僕が透子を守らなくてどうする? 僕は透子に泣いて欲しくない。笑っていて欲しいし、堂々と外を二人で歩きたいと思っている。黙って見ているのは嫌なんだよ」
切実な恭介の言葉に椿は何も言えずに口を固く結んだ。
「ちゃんとこの先のことも考えている。けど、それには椿の協力が必要なんだ。僕に手を貸してくれるか?」
「今更何を言ってるのよ。手なんて最初から貸してるじゃない。何なら足でも何でも貸すわよ。ブラック企業並みに酷使されても文句なんて言わないわ」
馬鹿じゃないの? と付け足すと、恭介は目を丸くした後で微笑みを浮かべる。
勝手に話が進んでしまい、置いてけぼりだった女子生徒達はようやく椿が恭介と透子を応援している立場だということを知った。
つまり、これまでのことは全て彼女の演技なのだとばれたのだ。
「信じられない……! 庶民のくせに朝比奈様まで丸め込んで!」
「黙れ。透子に対する侮辱は許さない。さっさとどっかに行け」
「そんな」
「それと、透子に何かするのなら、僕と椿を敵に回す覚悟をしろ」
女子生徒達は、さすがに恭介と椿を敵に回すのは無理だと思ったのか、悔しそうにしながらも立ち去って行った。
こうして、全校生徒に恭介と透子が付き合っていることがばれた訳である。
だが、なぜか椿が協力していることは広まってはいなかった。
噂としてはあったのだが、これまでの椿を見ていた生徒達は自分の目で見ていないこともあり、ガセネタだと思ったのが真相である。
全校生徒なので美緒にも知られた訳なのだが、それはもう酷い荒れようであった。
けれど、美緒は常に椿や恭介が側に居る状態の透子に近寄ることができず、憎しみのこもった眼差しでこちらを睨み付けるのみで害はない。
かわりに取り巻きの生徒達に当たり散らしている姿を椿は何度か目撃していた。
美緒が動いていない状況であったが、物を隠す程度であった透子への嫌がらせは陰湿なものへとエスカレートしている。
幸い、恭介や椿達が見つけ次第庇ったりしているのだが、半数以上の女子生徒が相手なのでまるで追いつかない状態だ。
そして、恭介と透子が付き合っているという情報は、椿の祖父である水嶋総一郎の耳にも入ることになる。