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もうすぐ始まる夏休みにウキウキしていた椿が休み時間に廊下を歩いていたところ、中庭で美緒が透子と一緒に居るところを彼女は目撃する。
何をしているのかと心配になり、椿はこっそりと二人に近づき会話に耳を傾けた。
「だから! 水嶋様と二人になって絵を描いたの? 花冠は!? ダンス練習の約束はしてるの? まさか二人で出掛けたりしたんじゃないでしょうね! どうなのよ!」
「あの、立花さん? どうしたんですか?」
「だから、あんたがイベントを起こしてるんじゃないでしょうねって聞いてるのよ! ずっと待ってたのに全然誘われないんだもん! おかしいと思っても仕方ないじゃない! あと一年もないのよ! 私は選ばれなきゃいけないの! 他の人とは違うの! 特別なんだから! 特別じゃなきゃいけないんだから!」
「お、落ち着いて下さい」
透子は必死に美緒を宥めているが、彼女は一向に興奮が冷めない。
このままだと危険かなと椿は思い、近くの窓から顔を出してこちらに背中を向けている美緒に声を掛ける。
「あら、立花さん。随分と楽しそうなお話をされておりましたわね? 私にも聞かせていただけます?」
振り向いた美緒は、声の主が椿だと気付いた途端に驚いた様子を見せていたが、邪魔されたことに苛立ったのか、彼女を睨みつけてきた。
「……あんたには関係ない!」
「そうですか。それは残念ですわ。ですが、今度騒ぎを起こしたらどうなるのかは、貴女のお父様から伺っているはずですが。貴女も椎葉さんと同じ結果にはなりたくないでしょう?」
中等部三年の事件のことを思い出した美緒は一気に体を硬直させる。
困ったような表情を浮かべた透子は美緒と椿を交互に見ていた。
「あの、朝比奈様。私は驚いただけで、立花さんから何もされてませんから。大丈夫です」
「……そうですの?」
「はい。立花さんも気になっただけですよね? イベント? が何のことなのか分からないんですけど、重要なことなんですか?」
「重要よ。……あんた、イベントが何か本当に分からないの?」
「ごめんなさい。全然分からないです」
透子の答えに納得したのか、美緒は落ち着きを取り戻し、安心したような表情でその場を後にした。
美緒が居なくなったのを確認した椿は手招きをして透子を呼び寄せる。
「夏目さん。本当に何もされてないのね」
「されてませんよ。あと朝比奈様、口調がくずれてますよ」
「誰も居ないから平気よ」
「前に誰が見てるかも分からないって言ってたじゃないですか」
確かにそんなことを言っていたな、と思い出した椿は、すぐにいつもの口調に戻した。
「……そうですわね。それと、今後は立花さんに呼ばれてもついていかない方がよろしくてよ」
「話を聞きたいだけで、危険はないですよ」
「貴女はまたそんなことを」
「それに、立花さん。なんか……」
言い掛けて透子は口を閉ざす。
どうしたの? と聞いた椿に対して、透子は何でもないですと口にして教室の方へと行ってしまった。
椿は廊下を歩きながら、先ほどの美緒の態度を思い返す。
あれは相当追い詰められていたようであった。イベントを起こしていると思ってるのに恭介からなんのアクションもないことに焦っている。
学園生活も残り八ヶ月なので、美緒は躍起になっているのだろう。
恭介と透子は校内では二人っきりにはなっていないことから、これ以上美緒の疑惑が彼女に向けられることはないと椿は思っていた。
美緒を何とかしなければと椿は思うが、ここがゲームだと思い込んでいる彼女を説得する言葉が思い浮かばない。
あの様子では卒業までに何らかの問題を起こしそうだと椿は思い、どうしようかと頭を悩ませる。
以降、透子が恭介に誘われてはいないということで安心した美緒は、彼女の監視を続けていたものの、手を出すような真似をすることはなかった。
美緒に入れ知恵をする人物が動くかとも思った椿だが、その様子もなかったことから安心しつつ一学期を終える。
終業式の日は、レオンが女子生徒に囲まれて非常に迷惑そうな表情を浮かべていたのを椿は遠目から確認していた。
キャーキャーと騒ぐ女子生徒達を一瞥しただけで、レオンは世話になった先生方に挨拶をして早々に学校から帰ったのである。
諸々の事情もあり、レオンは終業式から一週間も経たない内にドイツへと帰国することになっている。
その見送りに椿と杏奈、恭介と透子が空港まで来ていた。
「レオン様、この一年間どうでしたか?」
「貴重な一年だった。できればずっと残っていたかったよ」
「ご両親に無理をいって一年間だけという約束だったのでしょう?」
「それでも名残惜しいんだ。……本当に楽しかった。創立記念パーティーで椿と踊れなかったのは残念だったが、同じ学校に通えたことで、これからも希望を持って生きていける」
「それは大袈裟すぎない!?」
同じ学校に通っただけでそんな効果は得られないだろうと椿は反論する。
「それぐらい俺にとっては嬉しかったんだよ。これから椿の居ない生活に戻るのが嫌で嫌で仕方が無いんだから」
「同じ学校に通っても、レオは椿と話もしなかっただろ? 本当に楽しかったのか?」
「当たり前だ。同じ校舎に椿が居て生活しているんだぞ? 幸せに思って当然だろう。遠目からでも椿の姿を見られるだけで十分だったんだ」
「……こいつ、お前が思うほどいい女じゃないと思うんだが」
こいつと言われ、恭介に指を指された椿は彼の手をはたき落とした。
同時にレオンと透子が恭介に向かって反論し始める。
「この馬鹿! お前は椿の魅力を何も分かってない。なぜ近くに居るのに分からないんだ。理解不能だ。お前の目は曇ってる」
「恭介君ってば、なんてことを言うんですか! 朝比奈様は優しくて面倒見が良くて美人で笑顔が可愛くてしっかりしてるんですけど、でもちょっとお茶目なところのある素晴らしい人ですよ! むしろ朝比奈様を好きにならない方がおかしいです!」
「何で僕の味方が誰も居ないんだよ! せめて透子は僕側だろ!?」
「朝比奈様に関しては引きませんよ!」
待て! ケンカの原因になりたくない! っていうか、彼氏よりも好感度が高いってどういうことだよ! なんで夏目さんが私をフォローしてんだ!
口を突っ込むタイミングを完全に失ってしまった椿は口に出さずに心で突っ込みを入れる。
「恭介、お前よりも夏目の方が椿の魅力を分かっているみたいだな。その点において、お前は良い女を選んだとも言える」
「ありがとうございます、グロスクロイツ様。グロスクロイツ様も中々いい目をお持ちですよ!」
透子は良い笑顔でサムズアップし、レオンも無言でそれに応えた。
「当事者置いてけぼりで盛り上がるの止めて……!」
「大丈夫ですよ、朝比奈様! 私は朝比奈様の良いところいっぱい知ってますからね!」
「そうだ。恭介の言うことなんか気にするな」
「気にしてないわよ! 全然気にしてないから! 何でそんなに好感度高い訳!? ふぐぅ!」
椿が大声を出したところ、隣に居た杏奈に思いっきり脇腹を突かれてしまい、椿は情けない声をあげる。
「椿、擬態がとけてるわよ」
「……もっとマシな気付かせ方、ございませんの?」
「あんた興奮してたじゃない」
「だって、レオン様はともかくとして、夏目さんが」
「好感度上げる会話を椿がしてたからでしょ? 自分でやってんだから仕方ないわよ」
「そんな会話しておりません」
「ってことだけど夏目さん、どう?」
好感度を上げる会話をした覚えのない椿は透子を見つめるが、彼女はキラキラした眼差しをこちらへ向けてくる。
「何度も朝比奈様から優しくしてもらいましたし、助けてもらいましたし、確かに憧れの気持ちは増したと思います」
「ほら見なさいよ」
そんな馬鹿な、と椿は肩を落とした。
「まあ、夏目さんの好感度が高いのはもう諦めるのね」
ポンっと杏奈に肩を叩かれ、椿は遠くを見つめる。
「ほら、遠くを見るのはいいけど、ちゃんとレオンに挨拶しなくていいの? もう時間でしょ?」
杏奈に言われて椿は我に返り、レオンに向き直る。
「一年間、私も楽しかったです。長期間一緒に居たことで、レオン様に対する印象が随分と変わりましたもの。また日本にいらして下さいね」
「椿の中で俺の印象が良い印象に変わっていることを願っているよ。またパーティーで会うこともあるだろうが、話をしてくれると嬉しい」
「話くらいいくらでもしますわ」
「ありがとう。それじゃあ」
レオンは手を上げて、搭乗口へと向かって行く。
こうして一年間の留学を終え、レオンはドイツへと帰国した。
その後の夏休みは家族旅行でハワイに行ったり、杏奈や千弦と出掛けたりと椿はこれでもかと夏を満喫して過ごしたのだった。