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レオンと同じクラスになって早一ヶ月。
椿が思っていた通り、レオンは彼女に話し掛けることはおろか目を向けることすらしてこなかった。
あまりに椿を避けているレオンに、他のクラスの生徒はやっぱりグロスクロイツ様は朝比奈様が嫌いなんだと確信したようで、恭介と仲が良いから話しかけたら彼女から口出しされるかもと思っていた生徒達は安心して彼に話し掛けるようになった。
休み時間の度に話し掛けられているレオンを大変だなと椿は見つめていた。
だが、椿はレオンに助け船を出すよりも先にやるべきことがある。
護谷との関係向上の件だ。
始業式の日から椿は、たまに放課後に保健室へと向かい護谷と話をしている。
内容は他愛もない世間話が大半だ。
この日も、放課後に何も用事がなかった椿は生徒が居ないことを確認した後で保健室へと入っていた。
中に居た護谷は訪問者が椿だと知ると、困ったような笑みを浮かべている。
「椿様も物好きですね。また来たんですか?」
「物好きだから来ました。忙しいのであれば日を改めますし、お仕事の邪魔はしません」
「……別に構いませんよ。それで、今日は一体どういうお話ですか?」
断られなかったことにホッとした椿は、近くの椅子に腰を下ろした。
「そうですね……。じゃあ、志信さんや佳純さんの話はどうでしょうか?」
「志信兄さん達の?」
「ええ。護谷先生は二人のことを子供の頃から御存じなのでしょう? 幼少時の思い出話など聞かせて頂ければと思いまして」
肘掛けに腕を乗せて頬杖をついた護谷は探るような目で椿を見つめ、考え込んだ後で口を開く。
「俺と志信兄さんは三つ違いなのは御存じですよね? それで、使用人一族の子供達の中では年が近いこともあって色々と世話になってましたよ。志信兄さんは昔から落ち着いていて、やんちゃする他の子供を叱りつけてましたね。典型的な朝比奈家の使用人って感じです。昔から俺の先を歩いていて、俺が手間取っている間にどんどん先に進むんです。悔しく思うどころか、尊敬すらしていました」
「志信さんは昔からあのように落ち着いた雰囲気だったのですね。仕事上そうしているとばかり思っていました」
「基本はそうですね。涼しい顔をしているでしょう? でも結構熱い人ですよ。大声を出すこともありますしね」
「それは、私も見たことがありますね」
お菓子を食べているのがバレたときのことを椿が思い返していると、意外だったのか護谷が目を見開いている。
「……護谷先生?」
「志信兄さんが椿様の前で大声を出したんですか?」
「ええ。原因は私でしたから、仕方がなかったんですけど」
どういう理由で大声を出したのかは興味がなかったようで、護谷は何度も「仕事中にあの志信兄さんが」と呟いていた。
ややあって、ようやく落ち着いたようで護谷の表情はいつも通りに戻っていた。
「護谷先」
「じゃあ、今度はこっちから質問してもいいですか?」
話を切られた形ではあったが、護谷が椿に興味を持って質問をしてきたのが珍しいと思い、彼女はどうぞと声に出した。
「椿様はレオン様の件をどのように考えているのですか?」
「え!?」
「朝比奈家の使用人の間では有名な話ですよ。そもそもレオン様の態度がバレバレですしね」
「バレバレですか……。護谷先生はそれを聞いてどうするんですか? レオン様はお祖母様の親族ですから気にしてるんですか?」
「いいえ、純粋な興味です」
「興味ですか?」
「はい。婚約者である水嶋様を夏目さんに譲ってしまったでしょう? だからレオン様を選ぶのかと気になったんですよ」
さすが朝比奈家の使用人。すでに恭介と透子が付き合っていることを彼は知っている。
きっと独自の情報網があるということだが、個人の感情までは護谷も読めないからこそ椿への質問ということだ。
彼の信頼を得たいのならば嘘をつくのは避けた方がいいと椿は判断した。
「別に私は譲った訳ではありません。最初から熨斗をつけて誰かに押しつけたいと思ってましたから。あの二人は両思いですし、私にとっては渡りに船。ラッキーとしか思ってません。それと、恭介さんの件とレオン様の件は別です。誰かと恋をするような暇は私にはありませんので」
「俺には椿様の考えが理解できませんね。水嶋様を選ばず、レオン様も選ばず、他人から嫌われるように手回しして……一体貴女は何をしたいのか」
「何を、と言われても、私がしたいことは幼い頃から何ひとつとして変わってません。私はただ、母と恭介さんに幸せになって欲しいという理由で動いているだけですもの。ただの自己満足です」
護谷は椿の言葉を聞いて普通の令嬢の考えとの違いに首を傾げている。
「ですので、レオン様のことを考えるのは待ってもらっているんです。彼を選ぶか選ばないかは現時点では答えられません」
「そう。そこまではまだ考えられないってことですか。レオン様が不憫ですね」
罪悪感から椿は何も答えられずに苦笑する。
だが、恭介の話が出たこともあり、椿はこの際だからと護谷に美緒、そして美緒を唆している人物のことについても聞いてみることにした。
「……護谷先生は、立花さんとその周囲の生徒をどう見ていますか?」
護谷は頬杖をついたまま、胡散臭い笑みを浮かべている。
あれは美緒の情報を知っているが椿に話すことはない、と思っているに違いない。
「立花さんは中々に面白い子だと思いますよ? あれだけ周囲に部下を侍らせているのに、誰も彼女を尊敬していないのは滑稽だなと思います。でも、椿様が聞きたいのはこういう話ではありませんよね?」
椿が聞きたいのは美緒のことではなく、本命は唆している人物の話だ。
質問の意図を言い当てられ、椿は素直にはい、と答える。
「立花さんに情報を与えている方が居るのでは? と疑っているのです。ですので、護谷先生が御存じなら教えて頂きたいと思いまして」
「さあ、どうでしょうね。まあ、知っていたとしても椿様に教えられませんけどね。教えたら椿様は突っ込んでいくでしょう? そういうことは使用人に任せておけばいいんですよ」
ということは、美緒に情報を与えている人物は実在し、護谷はそれが誰かを知っている、ということだと椿は感じた。
もう少し詳しく話を聞こうとした椿であったが、もうこんな時間だからと護谷に言われ、彼女は仕方なく保健室から出て行った。
詳しく聞いたところで教えてはもらえなかっただろうけど、と思いながらも、椿は学校を後にしたのだった。
そして六月に入り、高等部最後の体育祭が始まる。
椿は学年競技を終え、休憩所スペースにて杏奈と二人で話をしていた。
「折角、同じクラスになったのに話し掛けないなんてレオは馬鹿よね」
「全て私に迷惑を掛けないようにというレオン様の配慮でしょう?」
半分以上飲んだカップをクルクルと回しながら、椿は口にする。
「……前から思ってたんだけど、なんか椿の態度が軟化してるような気がするんだけど」
「え?」
「前までは、レオとは何が何でも接触しないように! って感じだったのに、こっちが何か言ったらレオを庇うようになったじゃない」
「それは……レオン様が、私の事情を尊重してご自分の気持ちを押しつけないようにと変わられたので、他人の目がある場所で不用意な行動や発言をなさらないだろうと信用した結果ですわ。実際にレオン様はそのように行動されております」
椿の態度が軟化した最大の理由はコレである。
「ああ、前の態度はあからさま過ぎだったものね。で、好きになった?」
突然の問いに椿は言葉に詰まり杏奈を凝視した。
杏奈はどうなの? どうなの? と楽しそうに口にしている。
「どうって……。特に何も。現時点ではまだ何も考えられませんわ」
「"まだ"ね」
「人の揚げ足を取るのはお止め下さい。大体私は恋をしている暇などないのですから」
「そう思ってても、いつの間にか恋に落ちてるもんなのよ?」
「まさか」
言いながら椿は鼻で笑う。
確かに文化祭のときはドキドキはしたが、あれは緊張状態でいつもと違う状況だったからに過ぎない。
好きだと言うのなら椿はレオンを見てドキドキしなければならないし、目で彼を追わないといけない。
そういう行動を取っていないのだから、きっとレオンに恋をしていないのだ、と椿は思っている。
「いい加減に腹をくくればいいのに」
「今はそのときではございませんわ」
「何が、今はそのときじゃないんですか?」
何の気配も音もないまま、第三者の声が聞こえ、椿も杏奈も驚いてしまう。
声の主である蛍は、ビックリしている二人を見て不思議そうに首を傾げていた。
「蛍君? どうしてここに?」
「歩いてたら先輩達が見えたから」
「そうですのね。驚いてしまって申し訳ございません。どうぞ、お掛けになって」
蛍は近くの椅子に腰を下ろすとゆっくりと椿の方に視線を向けた。
「グロスクロイツ先輩は朝比奈先輩が好きなんですか?」
そこから聞かれていたとは思わず、椿は固まった。
固まった椿に変わり、杏奈が蛍に声を掛け説明をする。
「蛍君。それはちょっと秘密のお話だから、口にしないようにして欲しいんだけど」
「秘密?」
「そう、秘密。蛍君も名取さんに色々と言われたくないでしょう?」
名取に色々と言われるのは嫌だったようで、蛍は分かった、と言った後で人差し指を唇に当てる。
「秘密だね」
あまりに可愛らしい仕種に椿と杏奈は互いに目を合わせて大きく頷き合った。
二人が何を考えているのか知らない蛍は、話したいことを思い出したようで椿の腕を軽く叩いてくる。
「どうなさったの?」
「あのね、朝比奈先輩。今度美術室に来てください」
「美術室に? 部活中にですか?」
「はい」
「部外者の私が伺ったら邪魔なのでは?」
そうでしょ? と椿は美術部員である杏奈の顔を見る。
「短時間だけなら大丈夫よ」
「……でしたら、都合がつけばお邪魔させていただきますわ」
「待ってます」
結局、三人は話し込んでしまい、ろくに体育祭の競技を見てはいなかった。
気付いたら三年の色別リレーが始まっていた。
「アンカーは水嶋様と篠崎君。それに今年はレオね。で、椿は誰を応援する?」
「レ……じゃない。いえ、あの。初出場のレオン様を応援致しますわ」
「すごい誤魔化し方だけど、全く誤魔化されてないわね」
恥ずかしくてニヤニヤと楽しそうに笑っている杏奈の方を椿は見られない。
気付かぬ内に椿は随分とレオンに肩入れしてしまっていることに気付かされた。
「ほら、下見てないで。もうすぐアンカーよ。レオを応援するんでしょう?」
無言で椿がグラウンドへ目を向けると、レオン、恭介、篠崎と三人はほぼ横並びになっていた。
最終コーナーまで一位が決まらなかったが、最後の直線でレオンが一歩前を行きそのまま彼が一着でゴールテープを切った。
「ほぼ同着ね。あそこの三人は相変わらず化け物じみてるわ」
「全くですわ」
リレーが終わったことで昼休憩となり、椿と杏奈は蛍と別れてカフェテラスへと向かう。
途中で椿はレオンを見掛けたが、彼は珍しく白雪と会話をしている。
あの二人の接点はそこまでなかったはずだが、椿の目には随分と仲が良さそうに見えた。
「レオン様と白雪君って仲がよろしいのかしら?」
「さあ? 両方から話を聞いたことはないからわからないけど。なんで?」
「今、お二人が会話しておりましたので」
「連絡事項とかで用事があったんじゃないの?」
校内で二人が話しているのを見たことがなかったし、その理由が妥当だと思った椿は杏奈に急かされたこともあって、気になっていた考えを頭の片隅へと追いやった。
昼食を終えて午後の競技が始まり、椿は玉入れに出場し、彼女のチームが見事一位という結果で高等部最後の競技を終える。
後は杏奈と休憩所でまったりと過ごしながら、時折やってきた清香や千弦達と話をしつつ高等部の体育祭は幕を閉じた。