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ホワイトデーの日、椿はサロン棟で恭介や佐伯達からお返しを貰い、いっぱいに入った紙袋を片手に帰宅する。
荷物を部屋に置いて、着替えた椿がリビングへ行こうと廊下を歩いていると、ちょうど菫が正面から彼女の方に向かって歩いてきていた。
だが、菫は下を向いて歩いており、落ち込んでいると一目瞭然であった。
「菫。学校で何かあったの?」
「!? ね、姉様……」
考え事をしながら歩いていたようで菫は、急に話し掛けられ驚いている。
顔を上げた菫の目は潤んでおり、目元も赤い。
泣いていたと気付いた椿の機嫌は一気に悪くなる。
「あの、何でもないのです! ちょっと目にゴミが入っただけで」
「落ち込んでいるように見えたけど?」
「姉様の気のせいです。……失礼します」
「ちょっと、菫」
引き留める椿の声も聞かずに、菫は足早に自分の部屋へと入っていった。
さすがに菫の部屋に押し入るわけには行かなかった椿は、彼女を迎えに行った佳純に話を聞くことにした。
「ということで、菫に何かあったの?」
「何かならございました」
「な、何!? 苛められたとか!」
「椿様、落ち着いて下さいませ。心配なさらずとも菫様は苛められてなどおりません」
椿は苛めではないと知り、ひとまずホッとする。
では何が原因なのかと佳純をジッと見て、話すように促した。
「……切っ掛けは、倖一様が菫様を『朝比奈』と名字でお呼びしたことです。これまで菫様を名前で呼び捨てにしておいででしたので、それで菫様がなぜ名字で? と問い掛けました所、恥ずかしいからと答えられて。あの頃の年ですと、そうおかしなことはございませんが、どうにもそれだけが理由だとは思えなかったのです」
「倖一君が嘘を言ってると?」
「どことなく不自然さはございました。その上、中学校に進学すると忙しくなるので会う頻度も減らしたいと仰ったのです。菫様はそれにショックを受けて、あのような状態になってしまわれました」
「なんだか急な話ね」
ここ最近は倖一と会っていなかった椿は、彼の変化に戸惑いを隠せない。
少なくとも、バレンタインの時の菫はいつものように倖一の話を嬉しそうに話していたので、あの時点では倖一の態度に何ら変化はなかったはずである。
急な倖一の変化に、これでは彼はまるで菫を遠ざけようとしているみたいではないか、と椿は感じた。
けれど、何の為に? と彼女は首を傾げる。
「それと倖一様ですが、別れ際に沈痛な面持ちで菫様に向かって深々と頭を下げておいででした。菫様は落ち込んでいたので、ご覧になってはいなかったのですが」
申し訳ないと思っているのならば、尚更倖一の態度に椿は納得がいかない。
「……椿様。これはあくまでも仮定の話なのですが」
「いいよ。話して」
「もしかしたら、倖一様はご両親から倉橋家と百合子様の件を聞かされたのではないでしょうか? しっかりとしたご両親ですから、小学校を卒業したということでお話ししたとしてもおかしくはございません」
確かに一番可能性が高い話だと椿もすんなり納得した。
それなら、倖一の行動にも納得ができるが、何も知らない菫が可哀想だと椿は思っているが、彼女はまだ幼く、理由を話すことはできない。
「このことをお父様達には?」
「これからお話し致します」
「そう、ならお父様達の判断に任せるわ」
菫を慰めて余計なことを椿が言ってしまう可能性も否定できなかったことから、彼女はフォローを両親にお願いすることにした。
それからしばらくの間、菫は落ち込んだままであったが、両親が賢明にフォローしたお蔭で何とか自分の気持ちとの折り合いをつけたようである。
彼女は「倖一様も頑張っておられるのだから、私も倖一様に相応しい淑女にならなくては」とこれまで以上に勉強や習い事に励むようになった。
どういったフォローを両親がしたのか、妙に気になった椿であった。
そして、春休みが終わり、始業式の日にいつものように早めに家を出た椿は、人がまばらな内にクラス分けを見ておいた。
二年生の時とは違い、残念ながら友人とは同じクラスにはなれなかった椿であったが、男子の所にレオンの名前があるのを見つける。
これまでの椿に対する態度を考えて、レオンは同じクラスであっても彼女に話し掛けてくることはないだろうと思っていた。
少なくともレオンとは一学期までの付き合いとなるので、椿はさほど心配はしていない。
他のクラスへと目を向けた椿は、透子が千弦と同じクラスになっているのを見て、何かあったらきっと彼女が上手くフォローしてくれるだろうと安心したのだった。
その他の面々のクラスを確認した椿は、カフェテリアへ向かい時間を潰すことにする。
下駄箱で靴を履き替えた椿は、カフェテリアへと向かう廊下に蛍が壁にもたれてチョコンと座っている姿を見つけた。
「蛍君? もう登校しておりましたの?」
「あ、朝比奈先輩。おはようございます」
「おはようございます。高等部でお会いするのは初めてですわね。入学おめでとうございます」
椿が声を掛けると、蛍は立ち上がり笑顔を浮かべながら嬉しそうに彼女の元へとやってくる。
「一年生のクラス分けは入学式で発表されておりますでしょう? こんな早くに登校せずともよろしかったのでは?」
「朝比奈先輩は今も朝早く学校にきてるって茜が言ってたから。お話しできるかなって」
「まあ、そうでしたの。でしたら、これからカフェテリアに向かおうかと思っているのですが、よろしければ蛍君もご一緒しませんか?」
椿が声を掛けると、いつものように蛍の表情に変化は見られなかったが、やや頬を紅潮させているところを見ると、喜んでいるようだ。
「うん。行く」
では、参りましょうかと椿が声を掛け、二人でカフェテリアへと向かった。
椿は蛍に何を飲むのかを聞き、彼の希望でミルクティーを二つ注文した後、テーブルへと向かい、持ってきたミルクティーを差し出した後で彼女も椅子へと腰を下ろす。
「蛍君は高等部でも美術部へ入部する予定ですの?」
「そのつもりです。中等部の時の先輩が全員居るって聞いたので、楽しみなんです」
「きっと、皆さんも蛍君が入部されるのを心待ちにしておりますわ。それに高等部からの部員の方もいらっしゃるし、仲良くできる方が増えるとよろしいですわね」
「……そうなると、いいなと思います」
前向きな蛍の言葉に椿も笑みを浮かべる。
それにしても、カップを両手で持って飲む蛍の姿は非常に可愛らしい、と全く関係のないことを椿は考えていた。
中等部の頃よりも背が高くなっているとはいえ、蛍の身長はまだ一七〇センチを超えていない。
椿の身近に居る男子は大抵一七〇センチ以上なので、彼女とそう視線の変わらない蛍が弟のように思えて可愛いのだ。
「……先輩、なにか失礼なこと考えてませんか?」
「いえ、蛍君は可愛らしい方だなと思っているだけですわ」
途端に蛍は視線を外して口を尖らせ「可愛くなんて、ないです」と呟いた。
どうやら十五歳になった彼は、可愛いと言われることが嫌になってしまったようである。
「十五歳の男の子に可愛いは禁句でしたわね。申し訳ありません」
「……別に怒ってないです。ただ、茜がいつまでも僕を子供扱いして可愛いとか言うから」
「幼馴染みなのでしょう? でしたら幼い頃の印象が残っているのではないのでは? 蛍君はこれから身長も伸びると思いますし、見た目が変われば可愛いとは言われなくなりますわ」
「伸びるかな?」
「伸びます」
椿は力強く断言した。
というのも『恋花』の蛍ルートのEDスチルが出た際、公式で一六〇センチと公表されていた透子よりも頭が高い位置にあったのを椿は見ている。
身長差を考えても、数年後の蛍は一七〇を超えているはずだ。
「カルシウム、マグネシウム、亜鉛、タンパク質などをとって、睡眠をたくさんとればよろしいのです。遺伝もございますが、きっと身長は伸びます」
「じゃあ、家に帰ったら使用人に頼んでみます」
その後、椿は蛍と身長を伸ばす為にできることを話し合っている間に時間が過ぎ、カフェテリアに生徒が来始めた辺りで彼と別れたのだった。
始業式が終わって放課後になり、椿が廊下を歩いていると保健室前の廊下から中庭を見つめている護谷の姿が目に入る。
一体何を見ているのかと思い、彼女は護谷の視線の先を辿るがそこには誰も人は居なかった。
再び椿が護谷に視線を戻すと、見られていることに気付いていたようで彼と目が合う。
胡散臭い笑顔を向けられた椿は、その場で軽く会釈をする。
「朝比奈さんはもう帰るの?」
他の生徒の手前、護谷は他の生徒に対する態度と同じように椿に接している。
椿は特に気にする様子もなく、はい、と頷いた。
「……護谷先生は何をしていらしたのですか?」
「そういう質問を俺にしてくるのって初めてじゃない? 珍しいね。どういう心境の変化? てっきり朝比奈さんは俺のことに興味なんてなくて、どうでもいいと考えているんだとばかり思ってたよ」
「別に興味がない訳ではありませんし、どうでもいいとも思っていません。それに、いずれ護谷先生とはゆっくりお話ししたいと思っていました」
「へぇ」
護谷は笑顔を浮かべているが、相変わらず目は全く笑っていない。
「話すって言ったってさ、何を話すの?」
「それは先生が一番良く御存じかと」
「ふ~ん。でもいいの? 志信兄さんも佳純姉さんも側に居ないよ?」
守ってくれる人が側に居ない状態だけどいいの? と護谷の目が言っている。
「これは私と護谷先生との話し合いですから。一対一でなければ無意味です」
「本当にどういう心境の変化なの?」
と、護谷に訊ねられたが、椿は単純に透子の相手のことを知らないままで判断するのはどうかという考えに影響を受けただけである。
護谷は朝比奈家の血縁者ではない椿を明らかに軽んじているし、彼女もそれを仕方がないで済ませていた。
けれど、仕方がないからで目を背けたままではいけないと、透子と過ごす中で思うようになったのである。
わかり合えないかもしれない、拒絶されるかもしれない、けれど椿という人間を知ってもらい、相手のことも知っていきたいと彼女は思ったのだ。
「これまでの状況を単純に楽だからという理由で、私が目を背けていたのだと気付かされただけです」
「よく分からないけど、とりあえず俺と向かい合ってみようと思ったってのは理解したよ。それで? 俺を懐柔したいのかな?」
「そこまでは考えていません。話し合った結果、私がどういう人間なのか判断するのは先生の自由じゃないですか。こっちが強制することでもありませんし、全くの無意味です。それだと今までと何も変わりません」
「俺に認めてもらいたいってこと? でもそれは」
「私に朝比奈家の血が流れていないから無理、ですか?」
「……驚いたね。普通、それを知ってたら俺を怒るところだよ?」
護谷は本当に驚いたようで、まばたきの回数が先ほどよりも早くなっている。
ポーカーフェイスだと思っていたが、意外と感情が表に出るのだなと椿は冷静に分析していた。
その点でいえば、志信や佳純の方がよほど上手く感情を隠せている。
「連れ子という引け目がありましたから。そういう理由で護谷先生のような考えの使用人を怒ったら溝が深まるだけで何の解決にもなりませんし、次から話すら聞いてもらえなくなりますから」
「椿様って本当に十七歳ですか?」
護谷の口調が変わったことで、椿は自分の考えが合っていたことを知る。
「幼少時に色々とあったので、周囲の顔色を窺うのが癖になっているんです」
「ああ、そうでしたね。すっかり忘れてましたよ。……どこまで御存じなのか、考えただけで怖いですね」
「そんなことを言ってますけど、護谷先生はちっとも怖がってないじゃないですか。私に好かれようが嫌われようが先生はどうでもいいと思っているのでしょう? 先生は私に興味を持ってないのですから」
人の好き嫌いが激しく、好きな人に尽くし、それ以外には興味を持たないという部分が椿と護谷は共通している。
だからこそ、椿は彼の考えの一部が理解できるのだ。
「それは、椿様は俺にどうでもいいと思ってもらいたくないってことですか?」
「そうですね。少なくとも、私のことを知ってもらいたいという気持ちはあります。同時に護谷先生のことも知りたいと思ってますよ?」
「とんでもない愛の告白ですね」
「そうでしょうか? 他人と向かい合うのはそういうことだと思いますよ? 相手のことを知らなければ合うのか合わないのか分かりませんし、好きにはなれません。第一印象だけで相手を判断するのはどうなのかなって」
護谷が何を考えているのか椿には分からなかったが、彼は笑顔を消して真剣な表情になっていた。
「なんて偉そうなことを言ってますけど、私も知人から教えられたんですよね」
あはは、と椿は頭をかく。
「なるほど。夏目さんから影響を受けたのですね」
「その情報だけで夏目さんを導き出すなんて、さすが朝比奈家の使用人ですよね」
椿、もしくは杏奈の交友関係を調べたところで相手が言った言葉までは分からない。
だというのに、護谷は椿から得た少ない情報で相手がすぐに夏目だと当たりをつけたのだ。
「お褒めにあずかり光栄です」
誇らしげに口にする護谷を見て、椿は苦笑する。
「貴方にとっても朝比奈家の使用人という立場は誇るべきことなのですね」
「当たり前です。朝比奈様のお役に立つということが使命であり、我々の生きる理由のひとつですから」
「そう。お父様達が羨ましいですね。そのような使用人が居るというのは本当に幸せなことだと思います。朝比奈家の皆さんの人徳なのでしょうね」
「……椿様もいずれはそうなりたいと思ってますか?」
「主として認めてもらいたいとは思ってます。すぐには無理だと思いますし、色んな使用人と話をしていかなければならないので、道は長いですよ」
苦笑しつつ、椿はそう答えると、ポケットに入れてあった携帯電話が震えていることに気が付いた。
恐らく、絶対に志信だ、と椿は思い、あまり護谷と話をできなかったことを残念に感じながらも話を終わらせる。
「……ああ、もうこんな時間ですね。不破を待たせているので、失礼しますね。お話に付き合っていただき、ありがとうございました。それでは、失礼致します」
護谷に会釈をする。
少しは彼の印象が変わったことを彼女は願うばかりだ。
「朝比奈さん」
背を向けた途端に声を掛けられ、椿は足を止めて振り返る。
「なんですか?」
「志信兄さんに道場で毎回、俺に絡んでくるのやめてって伝えてくれる?」
「……はあ、分かりました」
志信が毎回絡みに行っているとは椿は初耳であったが、伝言を頼まれたのだからきちんと伝えなくては、と彼女はその後、迎えにきていた彼に伝言を伝える。
「晃に伝える必要はございませんが、無理ですね」
護谷からの伝言を聞いた志信の表情に変化はなく、スッパリと言い切った。
「……志信さんって護谷先生と仲が悪いの?」
椿の問いに志信はたっぷりと間を開けた後で口を開いた。
「…………悪くはございません。単純に奴が気に入らないだけです」
「それは仲が悪いって言うんじゃないの!? 何が違うの!?」
その椿の言葉に、志信は最後まで答えてくれなかった。