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『椿様、レオン様からお電話です』
休日の午前中に自室で勉強をしていた椿は、純子からの知らせを聞くと扉を開けて彼女から受話器を受け取る。
椿はレオンに携帯電話の番号を教えていないので、今もこうして家の電話に彼から電話が掛かってくるのだ。
「もしもし」
『椿か? 久しぶりだな。体調を崩したりしてないか?』
「早寝早起きを心掛けているし、ちゃんと運動もしてるから大丈夫よ。レオンこそ、こんな時間に電話を掛けてきて大丈夫なの? 睡眠不足になるわよ?」
『いつもはもっと早い時間に寝ているから大丈夫だ。……まぁ、俺の近況はどうでもいい。今日の本題は恭介のことだ』
「恭介の?」
『あぁ、気になる女が出来たんだろう?』
「……監視でもしてるの?」
『違う! 恭介が言ってたんだ。同い年の女子の誕生日プレゼントに何を送ったら喜ばれるのかって聞かれたら誰だってピンとくるだろう』
あぁ、なるほど、と椿は納得すると同時に、レオンがプレゼントに何を勧めたのかが気になった。
「それで、何て答えたの?」
『洋菓子の詰め合わせでも贈ったらどうだ? と答えたな』
「予想外にまともな答えだわ」
『相手は一般家庭の女だと恭介から聞いていたからな。大体、恭介が気に入っている相手なんだから、ブランド物やジュエリーを欲しがるような女じゃないことは分かる。だから日常で使えるようなものが良いんじゃないかと思ったんだが、誕生日が八月だって聞いて一般受けする手袋とマフラー、膝掛けは季節的に無理だし、タオルやハンカチのみだと味気ない。それに知り合って間もない間柄だから、洋菓子の詰め合わせと言ったんだが……』
「それで、恭介の返事は?」
『椿がプレゼントされて喜ぶものは聞いてない、と言われたな。全く人のアドバイスをなんだと思ってるんだ、あいつは』
真面目に答えてやったのにとレオンはブツブツ言っているが、椿もレオンと同意見である。
少なくとも彼は、与えられた情報から最適な答えを導き出している。
『だが最後には検討してみると言ってたから、変な物は贈らないだろう。近いうちにあいつに向かって指を指して爆笑する準備をしておかないとな』
「爆笑する準備?」
『ああ、俺と恭介との間で話したことだ。気にしないで欲しい』
「そう?」
何か引っかかるものを椿は感じたが、秘密の話だとしたら聞くのは悪いだろうと思い、詳しく聞くことはしなかった。
『それから、今年は夏に日本へ行けなくなった』
「あら、そうなの? 家庭の事情?」
『そんな感じだ。色々と準備があってね』
「大変ね。まぁ頑張って」
そうか、今年は食べ物の贈り物が無いのか、と椿は少しだけ残念な気持ちになる。
『じゃあ、そろそろ切るぞ』
「はいはーい。元気でね」
『お前もな。あとドイツから恭介とその女が上手く行くことを祈っているよ。かなり切実にな』
「あー、はい。そうね。それじゃ」
『また来月電話する。またな』
電話を切った椿は、曖昧にしてきたレオンとの関係をハッキリさせなければならない時期が近づいてきていることに気が付いた。
恭介が透子と付き合い、それが周知されれば、必然的に椿はフリーとなる。
そうなった場合、これまでレオンと必要以上に親しくすることを避けてきた椿は、彼ときちんと向き合わなければならない。
だが、今は恭介と透子のことだ。二人が上手く行かなければどうにもならないのだ。
椿がこうして気に掛けている真っ最中に、またもや恭介が彼女を餌に透子を誘ったようで、いつの間にか水嶋家と朝比奈家+透子で花火大会に行くことになっていたことを図書当番中に透子本人から知らされた。
話を聞いた椿は図書当番中であったが、恭介の胸ぐらを掴んで揺さぶりたい衝動に駆られるがすんでのところで耐えたが、事前に知らせておいて欲しいと彼女は切実に思う。
帰宅後に椿は他にも人が居れば透子も緊張せずに済むだろうと思い、彼女の部活仲間である杏奈を誘って参加してもらった。
ちなみに鳴海にも声を掛けたのだが、家族旅行があるから行けないと断られていた。
非常に申し訳なさそうに口にしていたので、誘った椿が気を使って大丈夫、平気だとフォローしたくらいである。
その他の面々も用事があったり、別場所で花火を見たりするということで、杏奈しか来れなかったのが残念な所である。
そんなこんなで一学期が終わり、高等部は夏休みへと入っていた。
夏休みに入った椿は、早々に課題を終わらせて家でゴロゴロしたり、菫や樹と遊んでもらっていたりして長期休みを満喫している。
相変わらず母親からは遊びに行かないのかと口うるさく言われてはいたのだが、椿がのらりくらりと躱している内に、恭介達と花火を見に行く日がやってくる。
着物に着替えた椿は、同じく着物を着ている家族達と一緒にホテルまで向かう。
少し早く到着したため、家族でホテルのラウンジへと行き、お茶していた伯父達と合流する。
少しして、ワンピース姿の杏奈と透子が到着し、椿達がどこに居るのかと周囲を見回している二人の元へ恭介が迎えに行き、全員が揃った。
透子が到着した時からソワソワして落ち着かない様子だった菫は、大人達が話をしているのを見ながらも我慢できなくなったのか、ためらいがちに彼女へと声を掛ける。
「……ごきげんよう、夏目様。あの、お久しぶりです」
「あ、こんにちは……じゃなかった。ごきげんよう。私のこと覚えてる?」
「もちろんです! もう一度お会いできて嬉しいです。お元気でしたか?」
「元気だよ。菫ちゃんも元気?」
「はい!」
笑顔で会話をし始める二人を椿はにこやかな笑みを浮かべながら見つめていたが、予約の時間が近づいていたこともあり、一行はレストランへと移動を始める。
さり気なく恭介が透子の隣を陣取っているのを見た椿は、ちゃっかりしてるなぁと呑気に思っていた。
伯父と両親が先導する形でラウンジを後にしようとしていた椿の耳に、同じくラウンジに居た上流階級に属すると思われる女性達の声が聞こえてくる。
「今の、水嶋社長でしょう? 後ろにいらっしゃるのはご長男様かしら?」
「そうでしょうね。水嶋社長とお顔が良く似ておりますもの。……ところで隣の方は御存じ?」
「さあ? 見覚えがございませんわね。最近名前が知られるようになった方のお嬢さんでは? 水嶋様も大変ね。ああいった方にすり寄られるのだから」
「見た目からしても釣り合っておりませんもの。先程の会話からして全く礼儀がなっておりませんわね。躾もされていないのに、水嶋様方とご一緒なさるなんて……」
「恥知らずもいいところですわ」
この声は透子にも聞こえていたようで、ラウンジから出た彼女は立ち止まり、手をギュッと握り下を向いてしまう。
勝手なことばかり言う女性達に対して憤りを感じた椿は透子をフォローしようとしたが、先に恭介の方が動いた。
「下を向くな」
「え?」
「あの手の人間は自分よりも立場が下の人間を好んで攻撃するんだ。よく知りもしない相手を、ああも悪く言える下らない人間の言うことを真に受ける必要は無い。と、僕が言っても夏目は真面目で優しいから、相手の汚い言葉に傷つくんだろうな。けど、これだけは覚えておいて欲しい。周囲が何を言おうと、僕は夏目のことを信頼しているし心から尊敬している。この僕が言ってるんだから、もっと自分に自信を持て。いいな」
真剣な表情で語る恭介を透子はしばし見つめていたが、やがて満面の笑みを浮かべて、しっかりとした声で「はい」と口にした。
「皆さん、立ち止まってどうなさったの?」
母親から声を掛けられ、椿達は母親達の元へと急いで向かう。
杏奈達と話をしながらホテル内のレストランへと到着し、個室に案内された。
「そういえば、朝比奈様のお父さんって彫りが深くて色素も薄いですけど、外国の方なんですか? 菫ちゃん達も色素が薄いですけど、朝比奈様は髪も目も黒いですよね」
のほほんと口にした透子の言葉に、椿は咄嗟に彼女の腕を掴んで家族達から離れた場所に連れて行く。
「あの、どうしたんですか?」
「いえ、うっかり失念しておりましたが、夏目さんに申し上げなければならないことに気付いただけですわ。もしかしたら既に耳にしているかもしれませんが、うちの母は私が四歳の時に離婚しておりまして、私が六歳の時に今の父と再婚したのです。つまり私と父に血の繋がりはございませんし、菫さんと樹さんは父親違いの弟妹ということになります」
「……それは、初耳でした。うっかり失言する前に教えてくれて本当にありがとうございます」
「いえ、コメントに困ることを申し上げましたが、知らずに口にした場合ちょっと大変な空気になりますから」
もしかしたら事情が事情だけに軽々しく言えず誰からも聞いていない可能性があるんじゃないかと思ったのだが、案の定、透子は椿の家庭事情を知らなかったようである。
離れた場所で話していた透子と椿は、家族達に遅れてレストラン内の個室へと入り、それぞれ席へと座る。
「伯父様、今日は懐石料理なんですね」
「あぁ、フレンチにしようかと思ってたんだが、恭介が和食が良いと譲らなくてな」
「へぇ」
ニヤニヤとした笑みを浮かべた椿が恭介の顔を見てみると、彼は気まずそうに顔を逸らした。
前回、透子と美術館に行った時に彼女が正式なマナーが分からない、と言っていたことを覚えていたようである。
「それにしても、恭介から花火を見に行かないかと誘われた時は驚いたな」
「あ、いや」
「去年、出席した朝比奈家の花火クルージングが楽しかったのでしょうね。私も去年から恭介さんに花火のことを口うるさく申し上げておりましたから、今回のことを企画して下さったのでしょう」
どうせ椿にせがまれたからとか透子に説明したに違いないと踏んでいた彼女は、さり気なく恭介をフォローする。
「あぁ、椿が言っていたからか。恭介が言ってくるのは珍しいと思っていたんだが、それなら納得だな」
あっさりと納得した伯父を見て、彼の中で椿が恭介を振り回す存在だと認識されていることに、彼女は納得がいかない。
一方、恭介は真正面に座っている透子と話している真っ最中であった。
「夏目、夏休みはずっと部活なのか?」
「活動は自由ですけど、文化祭の作品制作があるので、ほとんど毎日学校に行ってます。他の部員も結構来てますよ。ね、八雲さん」
「そうね。文化祭で展示する作品を描いたら、人は減るとは思うけど。今のところは出席率が高いわね。あと、夏休みの後半は美術館で鑑賞活動もあるし」
「ルノワール展だったよね。私、楽しみなんだ。八雲さんも参加する?」
「勿論」
なるほど、透子は杏奈に対してはタメ口で話しているのか、と椿は関係ないことを考えていた。
それは恭介も同じだったようで、杏奈のことを羨ましそうに見ている。
杏奈は杏奈で椿と恭介の視線をどこ吹く風で流していた。
「私、鳳峰学園の文化祭を楽しみにしてるんだよね。校門から玄関までの通りに色んなお店が出たりするって先輩から聞いてるから」
「あと、グラウンドに脱出ゲームの施設とか、おもちゃの銃を持って化け物退治していくゲーム施設を設置するって聞いてるわね」
「……規模が違いすぎる」
「一応、クラスの出し物もあるから、接客がある出し物だとあまり見て回れないかもね」
「九月に話し合いがあるんだよね。何になるんだろう。でも二学期は色んな行事があるから楽しみ」
色んな行事と聞き、椿は『恋花』でルート確定の重要なイベントになっている行事を思い出した。
「確か……十一月に鳳峰学園の創立記念パーティーもございますわね。夏目さんはもう準備が終わっているのかしら? まだでしたら、私達で答えられることならお答えしますわ」
「え!? もう夏休みから準備を始めなきゃいけないんですか!」
「ドレスの用意や他のアクセサリーや小物などもございますし、早い方ですと去年から準備しておりますわね」
「去年から!? ……どうしよう、何も考えてませんでした」
「保護者の方には説明がされていると思いますが、外部生の方のために学校側がドレスや小物を用意して下さるので大丈夫ですわ。えーと……お母様、いつまでに申し込まなければいけないんでしたっけ?」
ゲーム内で透子も美緒も学校側からドレスを借りていたので、椿はそういったものがあることを知っていたが、いつまでに申し込むのかまでは知らなかった。
「確か、九月中ではなかったかしら? カタログの中からドレスや小物を選べる形式だったと思うわ。申し込み方法も用紙が配られる訳ではなくて、利用する生徒は担任の先生に申告して用紙を貰わなければならなかったんじゃないかしら?」
「ありがとうございます! 忘れないように気を付けます」
「それと、創立記念パーティーではダンスがあるのだけど、これも学校側からレッスンの案内があるはずだから受けておいた方がいいわね」
ダンス、と聞いた透子は思いっきり顔を引き攣らせている。
透子は母親にもっと詳しい話を聞きたそうにしていたが、ここで花火大会が始まるという知らせをスタッフから聞いたため、子供達は個室の外のバルコニー部分へと移動を始める。
「お母様、ダンスレッスンは男子は男子、女子は女子で別々なのでしょうか?」
「えぇ。そうよ」
ゲーム内と同じくこちらでもレッスンは男女別なのだと知った椿はそのまま外に出て、透子へと近寄る。
「夏目さん。ダンスレッスンは男女別だそうです。身長差のある方と本番で踊ることになりますが、大丈夫ですか?」
「そうなんですか? 感覚が分からないと難しいかもしれませんけど、でも最悪の場合は壁の花でも」
「だったら僕が教えてやろうか?」
唐突に話に入ってきた恭介の言葉を聞いた透子と椿は同時に驚いた。
『恋花』内でも透子にダンスレッスンをするイベントはあるからこそ、椿も驚いたのだ。
「え? いや、私はすごく助かりますけど、水嶋様は忙しいでしょうし迷惑でしょう? それに私と踊ってくれる男子は居ないと思いますから、大丈夫ですよ」
「僕は下らない人間の言うことを真に受ける必要は無い、と言ったが、相手に文句を言わせないように自衛することも大事だ。ああいう人間は相手の失敗をこの上なく喜ぶ。そういった人間から身を守るためにもダンスに慣れておいて損はないだろう?」
透子は先程、女性達から言われたことを思い出したのか小難しい顔をして黙ってしまった。
だが、恭介の言う通りだと判断したのか、彼に向き直り「じゃあ、よろしくお願いします」と頭を下げる。
「椿、お前も来いよ」
「やはり私もですか」
「当たり前だろう。僕が夏目と二人きりになったら色々と五月蠅いことを言う輩がいるからな」
「分かっておりますわ。僭越ながらお手伝い致します」
椿も参加すると聞いた透子は途端に顔を綻ばせる。
「朝比奈様も教えてくれるんですね。よろしくお願いします」
「えぇ。こちらこそ」
「あと、聞きたいことがあるんですけど、どんなドレスを着ていけばいいんですか?」
「学校側が用意したドレスをカタログから選ぶということですから、間違ったものは載ってないはずです。お好きなデザインのものを選んで大丈夫でしょうね」
「……あの、やっぱり袖のないやつじゃないとダメなんですよね?」
「袖?」
「あの、えーと……そう、ストラップ! ストラップです! 私、ストラップのないドレスに対する信頼が全くないので、出来ればずり下がる心配のないドレスがいいなって思ってるんです」
ストラップのないドレスに対する信頼がない、という部分が恭介のツボにはまったらしく、彼は口を手で押さえて体を震わせている。
明らかに笑っている恭介を見た透子は彼の背中をバシッと叩き、「そんなに笑うことないじゃないですか!」と頬を膨らませて抗議していた。
「悪い。予想外の答えに我慢ができなかった」
笑いすぎですよ! などと話している二人を見ていた椿は、いつの間にか隣に杏奈が来ていたことに気が付く。
「いい雰囲気ね」
「でしょう? 何より恭介さんが幸せそうで本当に良かった。夏目さんも迷惑には思ってないようですし、そこは安心ですわね」
「で、ダンスレッスンはどこでするの?」
「学校の空き教室でしょうね。生徒が来ない場所なら心当たりがありますから、そう簡単に見つかりはしないと思います」
杏奈と椿が話している間に、花火大会が始まり、夜空に次々と花火が打ち上がる。
椿は合間にチラッと恭介と透子の様子を窺ってみるが、「今のすごかったですね」「煙がないと綺麗に見えて良いな」などと楽しそうに話をしている。
中々に良い雰囲気であるし、物凄くお似合いの二人だと椿は思っていた。
このまま上手く行って欲しいと切実に願うばかりだ。
花火と透子達を交互に見ている間に花火大会は終わり、ホテルの前で透子達と別れて椿達家族は帰宅となる。