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最初の図書当番の後、遠足も終えてしばらく経ったある日の休日。
椿は前に約束していた鳴海とのお出掛けのため、昼食後に着替えて髪のセットを佳純にやってもらっていた。
「……高等部はどうですか? 何か変わったことはございましたか?」
「佳純さんが聞いてくるなんて珍しいね」
「護谷の人間が椿様に対して失礼なことをしていたと伺ったもので」
「あぁ、別にいいんじゃない? 人の考え方なんてそれぞれなんだし、最低限の仕事をちゃんとしてくれればそれでいいよ」
学校内だけのことだったので報告が遅れていたこともあるのだろうが、杏奈と椿に対する護谷晃の態度の差が他の使用人に漏れたということだ。それで佳純の耳に入ったのである。
「仕事をきちんとということであれば、相手によって態度に差をつけるなどあってはならないことです。護谷家には厳重注意をしておきました」
佳純は表情にこそ出していないが、口調が妙に刺々しい。
これは相当怒っていると椿は察した。
「別にそこまでしなくていいんじゃない? 使用人と言えども人間なんだし、仕事を全くしていないって訳でもないんだから」
「椿様はお優しすぎます。これはそのような問題ではありません。朝比奈家のご令嬢に対する態度がなっていないことが問題なのです」
頑なに佳純は護谷の態度はダメだと譲らない。
椿は、母親の連れ子である自分に対する使用人の態度が他の朝比奈家の人と若干違っていたとしても、それは仕方のないことだと思っていたので、佳純の言い分に納得がいかない。
朝比奈家の使用人は確かに完璧超人ではあるが、機械ではない。感情のある人間だ。
「私は別にどうとも思ってないんだけどね。大体学校でしか関わりが無いんだから」
「それでもです」
こればかりは佳純も譲る気が無いのか、話は平行線のままである。
椿にしてみれば、自分が継子という負い目も多少はあるので、護谷に対してあまり強く言うのもどうなのだろうかと思っていた。
佳純達のように分け隔て無い対応をしてくれるのであれば話は別であるが、護谷のように自分が認めた相手にしか仕えないような人は、椿が強く言ったところで余計な反発心を抱かせてしまうだけである。
無理矢理にでも言うことを聞かせるような手段を椿は取りたくないため、このままの距離感がある意味ではちょうど良いのだ。
「……佳純さん、ほどほどにね」
「畏まりました」
両方が妥協しなければこの話は終わらないと分かっているので、椿はその言葉だけを口にして、以降はヘアセットが終わるまで黙り込んでいた。
少しして佳純から完成しました、という声が掛かり、椿は彼女に礼を言い、志信を伴って鳴海との待ち合わせ場所に向かったのである。
鳴海との待ち合わせ場所に椿が到着すると既に彼女は来ており、近くのベンチに腰掛けて待っている状態であった。
椿は早足で鳴海に近寄り、待たせてしまっていた彼女に挨拶をする。
「ごきげんよう、鳴海さん」
「ごきげんよう、朝比奈様」
「お待たせしてしまったかしら?」
「いえ、待ったと言ってもほんの数分ですから、大丈夫です」
「そうですか。それを伺って安心しました。それではお店に参りましょうか」
鳴海と合流した椿は店に入り、店員によって個室へと案内される。
頼んだ飲み物とスイーツが用意されるまで鳴海は一言も喋らず、何やら思い詰めたような顔をしていた。
注文したものが全て揃ったあたりで、鳴海は話そうとしては止める、という行動を何度も繰り返していた。
見かねた椿は他に人が居ると話しにくいのかもしれないと気を使って、志信に外に出て貰うように頼んだ。
志信が退出し、二人きりになったことでようやく鳴海が話し始める。
「……朝比奈様は透子をどう思っていますか?」
予想もしていなかった質問に椿はしばし放心してしまう。
「ど、どうと仰いましても……。夏目さんは図書当番の時に少しお話ししましたが、明るくて物怖じしない方ですわね。人懐こいと申しますか……表情がコロコロと変わって面白い方だと思いましたわ」
「それだけ、ですか?」
「……それだけとは、どのような意味なのかしら?」
「入学式でのアクシデントは伺っております。それで、実は……最初の内はもしかしたら透子は水嶋様狙いで朝比奈様に近づこうとしてわざと転んだんじゃないかと思って、たまたま私が彼女と同じクラスで出席番号も前後だったこともあって探ろうとしてたんです」
「そのようなことを考えていらしたの?」
「勝手なことをして申し訳ございません」
椿に怒られるとでも思っているのか鳴海は見て分かるように落ち込んでいる。
勝手なことと鳴海は言っているが、結果として彼女のお蔭で上手く行ったのだから、椿は怒るどころか感謝しているくらいだ。
「最初は夏目さんを警戒してらしたのよね? でしたら、夏目さんがどの委員会に入る予定なのかと私が伺った時に正直に教えてくれたのは何故ですの?」
警戒していたのならば、敢えて嘘を椿に言えばいいだけの話である。
問われた鳴海は視線を泳がせて言いにくそうにしているが、ややあって固く閉ざしていた口を開いた。
「……それがですね。実は入学式の時から水嶋様の話題を透子に振ってみたりしてカマをかけてみたりしたのですが、物凄く食いつきが悪くてですね。逆に朝比奈様の情報には目を輝かせて色々と質問をしてくるので、あれ? と疑問に思ったんです。極めつけは透子から『朝比奈様ってどの委員会に入るんだろう?』と聞かれて……その時はまだ透子を警戒していましたので、朝比奈様の仰った委員会とは違う委員会だとを教えようと思ってあの日メールしたんです」
あの時のメールはそういう意図があったのか、と椿は鳴海のメールの返信が遅かった理由にようやく納得することが出来た。
「ですが、夏目さんは図書委員になりましたでしょう?」
「それは、返信されたメールを読んでみると、朝比奈様が全く彼女を警戒していらっしゃらなかったからです。朝比奈様は特定の人以外には心を許していないじゃないですか。なのに初対面である透子のことを気に掛けてましたので。ですので、最終決定権を朝比奈様に委ねようと思いまして」
「そのような理由でしたのね。確かに私は夏目さんに対して悪い感情は抱いておりませんし、彼女は恐らく恭介さん狙いだという訳ではないと思います」
むしろ恭介の方が透子狙いだと言っても良い。
「……そうですか?」
「えぇ」
「本当にですか?」
「誓って本当ですわ」
「それを伺って安心しました。実は入学式からずっと透子を見てきたんですけど、全然悪いところがないんですよね。良いところしか見つからなくて、本当は水嶋様狙いじゃなければ良いのにって思っていたんです」
第一印象があまり良く無かった鳴海が言うのだから、透子は相当性格の良い子なのだと知り、椿は自然と口元が緩む。
「きっと夏目さんは鳴海さんが思っていらっしゃるような方ですわ。だから、鳳峰学園の暗黙のルールとかを教えて差し上げてね。特に立花さんの件に関しては注意を促して下さいね」
椿は美緒の部分をより強調する。
今は大人しくしている美緒ではあるが、もう一人のヒロインである透子が恭介と親しくなったと聞けば絶対に何か行動を起こしてくるに違いない。
「暗黙のルールなどは、朝比奈様が透子に直接仰ればよろしいのでは?」
「何の後ろ盾もない夏目さんが評判の悪い私と仲良くしていると思われたら、面倒事を嫌がる他の生徒から避けられたりしてしまうかもしれませんもの。ただでさえ、恭介さんから連絡事項以外で話し掛けられた子、という噂が回っておりますし」
「それも伺いたいのですが、朝比奈様は仮に透子が水嶋様とどうにかなったとしても構わないのですか?」
「全く問題ございません。私は一切気にしませんし、お二人の好きになさればよろしいと思っております。婚約の件に関しては修学旅行の時にお話しした通りですから」
椿の言葉に鳴海はどこかホッとしたような表情を見せている。
その様子から、椿はもしや透子の方も恭介に対して好感を持っているのでは!? と思い若干身を乗り出して口を開く。
「も、もしかして、夏目さんが恭介さんを気に掛けていらしたりしたのかしら?」
「いいえ、全く」
鳴海の言葉に椿は一気に興奮が冷めて無表情になり、椅子の背もたれに体を預ける。
大体、入学式の時や図書当番の時の透子の対応を見れば、それはないと分かっていたはずであった。
だが、鳴海の言葉に期待して、おっ! という気持ちになっただけである。
それだけだ。落ち込んでなんていないと椿は自分に言い聞かせていた。
椿の変化など知りもしないはずの鳴海であったが、何故か心配そうな表情を浮かべていることに気付き、彼女はどうかしたのだろうかと疑問を持つ。
椿の視線に気が付いた鳴海は、彼女と視線を合わせないまま喋り始めた。
「……ただ、もしも水嶋様とそうなった場合、いくら嘘だとしても朝比奈様が嫌な気持ちになったりするのではないかと心配なんです」
「心配なさらなくても、なりませんわよ」
即答したことで、鳴海は意外そうな表情を浮かべて椿を凝視していた。
嫌な気持ちになるどころか、むしろ椿は両者の背中を勢いよく押す側の人間である。
けれど話を聞いた限りでは、透子は恭介のことを何とも思っていないようで、椿はこの先どうしようかと頭を悩ませた。
これは相当、恭介が頑張らないといけないな、と椿はこの場には居ない彼にエールを送る。
それにしても、鳴海が入学式の件を気に掛けて透子と接していたとは驚きであった。
結果として友人となったので良かったが、椿のためだと鳴海は危ないことにまで首を突っ込みかねない。
「鳴海さん。今回のことは私のためを思っての行動だと思っております。今回は夏目さんが本当に良い方であったから何ともありませんでしたが、貴女が危ない目に遭ってしまう可能性だって考えられましたわ。私は自分のことは自分で解決出来ますし、朝比奈の使用人もおりますもの。鳴海さんが危険に晒されたら、それこそ鳴海さんを巻き込んでしまった自分を許せません。ですから、このようなことはこれきりだと約束して下さいますわね?」
真剣な椿の表情に鳴海は自分の行動が浅はかであったことに気付き、顔色を変えた。
「あ、朝比奈様」
「分かっております。私は鳴海さんを責めてはおりませんわ。お気持ちはとても嬉しいですし、私には勿体ないくらいの友人であると思っております。だからこそ、私は鳴海さんを危険に晒したくないのです。鳴海さんが心配されるお気持ちも理解しておりますが、どうか私の我儘を聞き届けて下さいませ」
「……いえ。朝比奈様のお側には守って下さる方がおりますもの。私が失念して先走ってしまっただけです。ご心配をお掛けして申し訳ございません。以後気を付けます」
鳴海の表情と言葉から、今後彼女が椿のためだと危ないことに首を突っ込むことはしないと思い、椿はホッとする。
「先月、鳴海さんからお誘い頂いた時はどうなさったのかと思いましたが、今日のお話は夏目さんのことでしたのね」
「はい。お忙しいところ申し訳ありませんでした」
「気になさらないで。私も彼女のことを気に掛けておりましたから、鳴海さんからお話を伺えてありがたいと思っておりますのよ?」
その後、椿は中等部二年生の時にあった透子との件を話して、なぜ彼女を気に掛けているのかを説明した。
椿の説明に鳴海は納得したようで、「出来る限りでフォローはします」と言ってくれたのである。
鳴海の用件は透子のことだけだったようで、椿と高等部の行事の話を少しして、解散となった。




