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中等部最後である二月のテストが終わり、赤点の無かった椿は無事に高等部への進学が決定する。
他のメンバーも全員が高等部へ進学することが決まり、椿達はサロン棟の個室で喜び合った。
そのサロン棟で聞いた話であるが、千弦と一緒に行動していた小松が外部の学校に進学するのが決まったという。
美緒を恐れて学校生活が苦痛になってしまったから、というのが理由らしいと千弦が悲しげに話していた。
「こればかりは本人が決めることですから、私がずっと守りますだなんて無責任なことは申せませんもの」
という千弦の言葉が印象的であった。
そんなサロン棟での会話からしばらくして、ついに中等部の卒業式がやってくる。
三学期の後半は恭介と篠崎のどちらが答辞を読むのかで良く揉めている姿を見ていたが、最終的にジャンケンで勝った方がやるということに決まったらしい。
恭介が「やはり日頃の行いが良いから天が僕に味方したんだな」と妙に誇らしげだったので、彼が勝ったのだと椿は察した。
卒業式はさすがに人数が人数なので、卒業証書を取りに行くことはせずにその場に立ち上がるだけだったので楽なものであった。
卒業生や在校生のすすり泣く声をBGMに卒業式は終わり、校門前の広場には卒業生と保護者がごった返している。
例の如く椿の母親は出席していないので、彼女の隣に居るのは父親のみである。
その父親も伯父と何やら楽しげに話していた。
「朝比奈様」
椿がやることもなく、ボーッと立っていると鳴海が声を掛けてきた。
「あら、鳴海さん。卒業おめでとう、は同級生ですしおかしいでしょうか」
「いえ。お互いに卒業おめでとうございます。高等部でも同じクラスになれるといいですね」
「高等部は十クラスになりますでしょう? 同じクラスとは言わないまでも、隣のクラスになれたらいいですね」
「えぇ、本当に。……あ、友達が呼んでいるので私はこれで」
「ではまた来月、入学式でお会いしましょう」
鳴海と挨拶を交わした椿は再び暇になり、そうだ杏奈に話があるし、ついでに写真を撮ろうと思いつき、彼女を探す。
背の高く目立つ杏奈を椿はすぐに見つけたが、彼女は部活仲間や後輩に囲まれていたため椿は遠慮して声を掛けるのは止めておこうと背を向ける。
椿が移動しようしたら、制服の裾を誰かに引っ張られ、彼女は足を止めた。
振り返ると久慈川と彼の幼馴染みの名取が揃って立っていた。
「あの? どうかなさったのかしら?」
「……卒業、おめでとうござい、ます」
「高等部でも頑張って下さい」
「……ありがとうございます。二人も中等部でも頑張って下さいね。私は一足先に高等部でお待ちしておりますわ」
社交辞令であろうが椿に話し掛けてきてくれたことが彼女は嬉しかった。
「これ、前に言ってた絵」
そう言って久慈川が抱えていた一枚のキャンバスを椿に差し出してきた。
小さめのキャンバスを久慈川から受け取り、描かれていた絵を見る。
「まぁ、ありがとうございます。これは文化祭の時に約束しておりました空の絵ですわね。……本当に素晴らしいですわ。帰宅したらすぐに部屋に飾らせて頂きますわね。こちらの雲の形は金魚でしょうか?」
「うん。当たり、です」
「当たって良かったです。素敵な絵をありがとうございます」
「……どういたしまして。あと先輩」
いつもと違い、やけにしっかりと久慈川が椿を見てきたので、彼女は首を傾げつつ「何かしら?」と口にした。
「いつになったら蛍って呼んでくれるんですか?」
久慈川は唇を突き出していじけている。
そういえば、仲良くなったら下の名前で呼ぶと約束していたな、と椿は思い出した。
「申し訳ございませんでした。ついつい久慈川君呼びに慣れてしまっていました」
「じゃあ、呼んでくれますか?」
「えぇ。勿論です。卒業祝い、ありがとうございました。蛍君」
名前を呼ばれ、久慈川は満足そうに微笑んだ。
そのまま椿は久慈川に「こっち」と腕を引かれて杏奈の元へと連れて行かれる
「先輩」
「あれ? 蛍君と椿さん? どうしたのよ」
「あっちで、待ってたから連れてきました」
久慈川の説明を聞いて杏奈は合点がいったのか彼にありがとうと伝えた。
「それじゃ、杏奈。私達は向こうに居るから」
それまで杏奈の近くに居た友人達が気を利かせてくれたのか杏奈と二人きりにしてくれた。
「なんだか申し訳ありません」
「いいのよ。どうせ高等部でも一緒なんだから。それで写真今回も撮るの?」
「あ、いえ。写真もなんですけど、春休みに朝比奈の祖父母にプレゼントを買いに行くことになってるじゃありませんか? あれ、最終的な日付を決めておりませんでしたでしょう? それで予定が埋まる前に確保しておこうと思いまして」
「あぁ、そういうことね。二週目か三週目って話だったわね。じゃあ、来週にしましょう。一日で決められるか分からないし」
杏奈と予定を合わせた後に二人で写真を撮り、椿は父親の元へと戻ろうとしたが、養護教諭の護谷に呼び止められた。
「私に何か様ですか? 護谷先生」
「えぇ。実は今月で中等部から移動になるんですよ。それで来月からは高等部の養護教諭になりますので、来月からもよろしくお願い致します、というご挨拶に伺いました」
「そうでしたか。それでは高等部の三年間もよろしくお願い致しますね」
「えぇ。椿様もあまり無茶をなさらないで下さいね。椿様が無茶をなさると杏奈様も手助けしようとなさいますから。さすがにお二人を守ることは俺でも無理ですので」
要は杏奈を巻き込むな、と彼は言いたいのだろう。
「私は杏奈さんを危険なことに巻き込むつもりはございませんわ。ですので、護谷先生にもご迷惑はお掛けしないと思いますので、ご安心下さい」
「そう願っております。それでは」
護谷は椿に移動の報告と釘を刺しにきただけだったのか、そのまま杏奈のところへと移動していった。
軽くため息をついた椿は護谷に背を向けて父親の元へと戻る。
「杏奈と写真は撮れた?」
椿が戻ってきたことにすぐに気付いた父親は笑顔で訊ねてくる。
「はい。それと来週、杏奈さんとお祖父様達へのプレゼントを買いに行くことになりましたので、不破に車を出して貰いたいのですが」
「うん。分かったよ。スケジュール調整しておくね」
「よろしくお願いします」
父親との会話を終えた椿が横に目をやると、恭介が女子生徒に詰め寄られ大変なことになっていた。
「水嶋様! ボタン下さい!」
「あ、私はネクタイでいいです!」
「ちょっと抜け駆けしないでちょうだい! 水嶋様! 私は袖のボタンで構いませんから」
肉食獣だ。肉食獣達が横に居る。
なんて恐ろしい戦場なんだ、と椿は巻き込まれないようにと父親の後ろに隠れようとした。
「あれ!? 助けてあげないの!?」
「今、あそこに行ったら、私が無事では済みません」
アドレナリン大放出の女子達の群れに突っ込みたくないのが椿の本音だ。
たとえ恭介が縋るような目で椿を見ていたとしても無理である。
「……済まないが、椿の許可がないと何もやれない」
唐突に聞こえたセリフに椿が父親の後ろから顔を出すと恭介と女子生徒達がこちらを見ている。
思わず口の端がひくついてしまったが、恭介のせいで椿まで巻き込まれることになってしまった。
「あの! 朝比奈様! お願いします! 家を没落させてもいいので水嶋様の制服のボタンを頂く許可を下さい!」
「ネクタイなんて贅沢は言いませんから! せめてシャツを!」
「貴女さっきよりもグレードアップしてるじゃありませんか!」
ギャーギャーと椿に詰め寄る女子生徒達に彼女は頭を抱えた。
興奮している彼女達は冷静に考えることができないようである。普段は怖がっている椿に詰め寄るなど、こういう場面で無ければ無理だ。
さて、どうしたものか、と椿は考える。
ボタンのひとつや二つくらいくれてやれと思っているが、いかんせん人数が多すぎる。
貰えない生徒が出てくるのは確実であるし、ボタンを貰った生徒と乱闘などということも有り得る。
かといって、椿が啖呵を切ったところで収まるとも思えない。
ならば。
「恭介さん、記念に握手でもしてさしあげたら?」
椿の言葉に恭介は驚いたのか目を見開いて彼女を凝視している。
女子生徒達は握手と聞いて恭介と触れあえることに色めき立っている。
「では、貴女からこちらに並んで。次の方から一列に並んで下さい。時間の都合上お一人様一度限りとさせて頂きます」
最後尾はこちらですよーと言いながら椿は女子生徒達を一列に並べていく。
女子生徒達はキャーキャー言いながら恭介と握手をしている。
椿は二回目の握手が無いようにと最後尾に立ち、徐々に減っていく女子生徒達の列を眺めていた。
ようやく椿が恭介の前に辿り着いた時には彼は大変疲労しており、少しだけだが悪いことをしてしまったかなと反省した。本当に少しだけである。
恨みがましく椿を見てくる恭介の視線をかわした椿は味方である父親の元へとそそくさと移動した。
「お前……! お前……!」
「おとうさまーたすけてくださーい」
「恭介君、落ち着いて。握手だけで済んだんだから良かったじゃないか。昔、春生は理沙に身ぐるみ剥がされてたんだから」
「その話は止めてくれ……!」
伯父の悲痛な声を聞いた椿はそんなに恭介の母親はワイルドな人だったのかという感想を持つ。
「後に残された春生はあたかも追いはぎにあった後みたいな感じだったよね。今でも笑える」
「お前、恵美里さんに頼んで遠足の時の百合子の写真を譲って貰ってたことを百合子にバラすぞ」
「ちょっと! それは止めてよ! っていうか恵美里の奴、よりにもよって一番バラしちゃいけない人間にバラすなんて」
「それはもう満面の笑みで俺に教えてくれたぞ」
一気に攻守が逆転した二人を見て、椿は友達っていいなと純粋に思ったのだった。
「あの、父さん……」
遠慮がちに話し掛けた恭介を見て、伯父は彼が何を言いたいのか察したらしく穏やかな笑みを浮かべる。
「理沙の話は帰ってからたっぷり聞かせてやろう。記憶の中の理沙とは違うからきっと驚くだろうな」
「……っはい!」
嬉しそうな恭介を見て、椿も口元を緩める。
そのまま椿が周囲に視線を向けると、こちらを憎らしげに見ている美緒の姿を確認する。
彼女も父親だけが卒業式に出席していたようで、母親の姿はない。
椿が見ていることに気付いた美緒は彼女から勢いよく顔を背けどこかへと行ってしまう。
美緒の父親はそんな娘の態度に慌ててこちらに頭を下げて彼女の後を追って行った。
「椿ちゃん? どうしたの?」
父親に声を掛けられ、椿は彼を心配させないようにと笑顔を浮かべる。
「千弦さんを探していたんですが、人が多いので無理ですね」
「そっか。もうそろそろ出なくちゃいけないんだけど、どうする? 探してくる?」
「いえ、どうせ来月高等部の入学式でお会いするのですから、大丈夫です。それに写真は卒業式の前に撮りましたから平気です」
「そう。それならいいけど」
結局、最後まで千弦と遭遇することはできず、時間がきたことで椿達は学校を後にした。