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カーテンコール・後

 さああ、と風が中庭を吹き抜けていき、枯葉が擦れ合う音がする。

 泰介と仁科はベンチの一つに並んで座り、漠然と時を過ごしていた。

 五時間目の授業は、結局そのままサボってしまった。何となく喧嘩の後を引き摺ってしまい、授業に出る気になれなかった。

 言い訳だと、どこかで気付いている。葵が倒れた事も、尾を引いているのだろう。

「吉野」

 不意に、仁科が泰介を呼んだ。

「なんだよ」

 泰介は顔も見ずに、ぶっきらぼうに返事をする。

「お前って、佐伯と付き合うようになったのか?」

「……。そうだけど」

「へえ?」

 仁科の声が、無感動なものから心持ち明るいものへ変わった。

 揶揄されるかと思っていたので、泰介は少し驚く。

「てっきり、むかつくからかい方してくるかと思ったぜ」

 泰介が仁科を見ると、仁科もこちらを向いた。目が合って初めて、仁科の目にからかいのニュアンスが浮かぶ。

「なんか、前より距離が近くなったって気がしたから」

「……」

 そんな言い方をされては、反応に困る。泰介が髪に手をやりながら空を振り仰ぐと、両脇を五階建ての校舎に囲われた秋の空は、相変わらず柔らかな青色を頭上に薄く延べ広げていた。傾き始めた日の光が、微かなオレンジ味を雲へと添える。一日の終わりが、近づき始める色だと思う。

 互いに会話もなくぼんやりと風に吹かれていると、何とはなしに、泰介は仁科の横顔へ目を向けた。

 もうオレンジ色ではない、仁科の髪。その髪がさらりと揺れて、頬のガーゼを掠めていく。

 泰介が、殴った痕だ。

 ――あの教室に踏み込んで、仁科を力任せに殴り飛ばした後。

 仁科はひどく驚いた様子で抵抗もなく泰介を見上げていたが、やがて近づいてきた葵を見ると、顔色を変えた。

 葵は膝をついて仁科と目線を合わせ、仁科もその葵と見つめ合い、二人はしばらく無言だった。

 そして永劫のように感じられる長い沈黙の果てに、仁科が言ったのは謝罪だった。

 ――佐伯。悪かった。

 色のない唇を動かして、やっとの事でそれだけを言った仁科を、葵はじっと見つめ、少し躊躇い、やがて肩を支えるように抱きしめた。仁科は身じろぎしたが、葵が動かないのを見ると、そのまま葵の肩へ頭を埋めるように乗せて、こちらも動かなくなった。

 仁科はそれからも、何度か謝罪の言葉を口にした。葵はその言葉に対して、何も言わなかった。ただそこに座り続け、仁科の言葉を聞き続けた。

 もしかしたら、仁科は泣いていたのかもしれない。それを隠す為に、葵はそこにいたのかもしれない。そして仁科の謝罪の言葉が途切れると、「なんで、そんなに優しいの」と、葵は囁くように言った。

 やがてすっかり日が落ちて、教室に夜の気配が仄青く満ち始めた頃に、葵はぽつりぽつりと、自分の出生について語り始めた。泰介が、葵に話したものだった。

 それを最後まで聞き終えた後で、ようやく顔を上げた仁科が、今度は自分の過去を話し始めた。宮崎侑と自分の関係について、初めて仁科が、口にした。

 棚橋円佳に会いに行った事も、仁科はその時に認めた。あの手紙は実際には葵の鞄に入れられたのではなく、葵が席を立った待合に、気づけば置かれていたらしい。それを仁科が鞄へ入れたという。

 ただ、棚橋円佳と何の話をしたのかだけは、仁科は口を割らなかった。

「吉野。病院抜け出した所為で家族にめちゃくちゃ怒られただろ。よく今回は髪刈られないで済んだな」

「うるせえよ」

 泰介は苦々しさから顔を歪めた。

 学校を出る時に病院と母へ連絡を入れたが、その時点から既に泰介は凄まじい叱られ方をされていた。中でも母の怒りは尋常ではなく、点滴を勝手に抜いて病院を飛び出した事に対する激昂は壮絶なものだった。これほど母を激怒させたのはおそらく中学二年の立ち回り以来だろう。葵と仁科が付き添っていなければ、泰介の髪は再び刈られたに違いない。

 何故そんな真似をしたのかと散々訊かれたが、泰介は理由に関しては一貫して黙り通した。そして、ただ謝った。

 母は何事か追及したそうな顔を崩さないままだったが、幼馴染の葵が付き添いで来た事も功を奏したのか、最後は無理やり諦めたような顔で、無事でよかった、と投げやりに告げられた。

 悪い事をしたとは、思う。

 それでも、後悔だけはしていなかった。

「……吉野」

 見つめた横顔の、唇が動いた。

「あの時は、余裕なかったから訊きそびれたけど。なんで俺が、あの教室にいるって分かった?」

 訊かれるとは思っていたが、必要以上に答えてやる気はなかった。泰介は憮然と言い放つ。

「何だっていいだろ。別に。なんとなくだよ」

「曖昧な事を嫌う、吉野らしくないことだな」

「うるせえよ」

「……まあ、いいけど。別に」

 仁科は不思議そうに泰介を覗き込んでいたが、やがてこちらから目を逸らしたらしい。ふ、と吐息に似た笑い声が漏れ聞こえた。

「昏睡状態だったはずの奴がいきなり飛び込んできたから、びっくりしたってだけさ。言いたくないなら、別にいい」

「……お前の事なのに、いいのか? そんなんで」

 仁科の追及が存外に緩いものだったので、面食らった泰介は思わず訊き返す。だが仁科は薄い笑みをその美貌へ浮かべただけで、やはり頓着しないらしい。空を仰ぐようにベンチへもたれた。

「いいんだ。別に。……吉野」

「だから。なんだよ」

「お前って、変な奴だな」

「……はあっ!?」

 頭に血が上った泰介だが、それを言う仁科の表情は不思議なほどに穏やかで、揶揄も皮肉もそこにはなかった。純粋な興味の感情だけが、やはり薄く浮かんでいた。

「お前が教室に殴りこんできて、めちゃくちゃ罵倒されて、佐伯まで連れて来られて。わけが分からな過ぎて、頭真っ白になった。そうなってみたら……今まで考えてきたこと全部、馬鹿らしくなった」

「なんだよ。俺の所為かよ」

「髪が黒くなった事も含めて」

 仁科は保健室の方角へ目を向けると、「吉野」と不意に改まった声で泰介を呼んだ。

「吉野は、俺に……佐伯の生みの親と何話したか、訊いただろ」

「……。俺は。今でも知りたいって思ってる」

「お前は、聞いたら駄目だ」

 はっきりと、仁科は言った。

「聞くな。吉野」

「仁科」

「お前、聞いたら多分駄目になる」

「……」

 納得したわけではなかった。咄嗟に文句が口をついて出ようとしたが、それが喉の奥でつっかえたように止まってしまう。

 真剣の眼差しの仁科と、目が合ったからだ。

 〝ゲーム〟の渦中でさえ、仁科がこれほど真っ直ぐに泰介を見た事はなかった。それほどまでにこの時の仁科の目は、固い意志を感じさせるものだった。

「……。約束、できねーぞ。それ」

「でも俺は、お前には知って欲しくない」

「……知らないで、生きていけるわけでもないだろ。多分。……分かんねえけど」

 泰介は、言葉を選びながらそう言った。

 今の仁科の言い方で、察しがついた。恐らくは、宮崎侑の事だけではないのだ。

 葵の事も、あるのだろう。

 だがそれなら尚更、泰介はいずれ耳にするはずなのだ。それを自分から誰かに訊くか、他人の言葉から偶然耳にするかの違いがあるだけに決まっている。

 いつか、必ず泰介は知るだろう。

 たとえ仁科が、どんなに心を砕いても。

「気持ちだけ、受け取っとく。……仁科。お前を見てるから、俺は駄目になんかなんねーよ」

「なんだ、人を駄目呼ばわりして」

「先に俺の事駄目になるとか言いやがったのお前だろ」

「まあ、確かにそうなんだろうな。格好悪いとこあれだけお前らに見られたら、もう色々どうでもよくなった」

「……」

 泰介は、仁科を見た。

 憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で、空を見上げる仁科の目が、空の光を淡く映す。

 そんな時、さく、さく、と背後で下草を踏みしめる音がした。

「あ? ……敬?」

 敬だった。隣には葵もいて、とろんとした目をしてはいたが、先程よりは顔色がいい。そんな葵に付き添うように歩く敬は、泰介と仁科に目を留めると、気恥ずかしそうに笑った。

「敬、どうしたんだよ? まだ授業中だろ」

「サボっちゃった」

 あっさりと、敬は口にする。その台詞に泰介はぎょっとしたが、仁科は鷹揚に笑った。

「いいのか? 委員長。俺みたいな事して」

「うーん。まあ、たまには」

「狭山。片付け手伝ってくれてさんきゅ。悪かったな、後始末なんか手伝わせて」

「いいよ、そんなの。気にしないで」

 どことなく親しげに会話する二人に泰介がぽかんとしていると、葵がゆっくりと近づいてきて、嬉しそうに笑う。

「敬くんと仁科、仲良くなったみたい。仁科が名前、覚えてる」

「ああ。ちょっと、びっくりした」

 クラスの問題児と委員長というとんでもない組み合わせだが、根が真面目な者同士、意外と話が合うらしい。面食らったが、見ていてなかなか面白い。

「泰介。私、一人で帰れると思う。ごめんね、授業サボらせちゃったの?」

「サボりは別に、お前の所為じゃねえし。歩けんのか?」

「うん。……取り乱してごめんね。格好悪いとこ見せちゃった」

 すぐに、何を謝られたのか気づいた。

「あれくらい、普通だろ。それくらいで謝んな」

 軽くそう言ってやると、葵は寂しそうに笑った。

「さくらに、ひどいこと言っちゃったのに。……私、しばらくさくらのこと、許せないみたい」

「……。俺は、謝らねえからな」

 泰介は、言った。

「修学旅行の事くらいなら、ボイコットの件で一緒に詫びてやってもいいけど。その前に揉めた件あるだろ。あれをさくが後悔してないんだったら、付き合ってらんねえよ」

「……泰介って、本当にはっきりしてるよね」

 眩しいものでも見るかのように、葵が目を細める。そして再び敬と仁科へと視線を馳せると、穏やかに言った。

「ねえ。今日、思ってたんだけど。仁科、変わったよね」

「ああ? 何だよ、それ」

「だって」

 葵が、笑った。

「仁科、泰介にちょっとだけ、優しくなった」


     *


 呼び鈴を押して、しばし待つ。

 時刻は午前十時半。こんなにも早い時刻に佐伯家へ来るのは、初めての事かもしれない。はあい、と中から最早聞き慣れた声がして、泰介は少し緊張した。

 がちゃんと音を立てて扉が開くと、丈の長いTシャツにジーパン姿の女性が、中から姿を現す。

 佐伯蓮香が、姿を現す。

「いらっしゃい。吉野君」

「……どうも」

 蓮香に頭を下げる泰介だったが、蓮香の目は泰介など見てはおらず、泰介が提げたケーキボックスに釘付けだった。

「わあ、やった。ほんとにお菓子持ってきてくれたのね」

 まるで子供のように目を輝かせて喜ばれたので、二十代半ばというのは泰介が思うほどに大人ではないのかもしれない。うきうきとした蓮香に居間へ通されながら、泰介はそんな事を考えた。

 テーブルの席へ着くように言われ、泰介はそのまま着席する。台所に立った蓮香はそんな泰介を振り返ると、唐突に言った。

「吉野君。早くあたしに今日するつもりの質問を言いなさい」

「……はい?」

 要件は、既に蓮香へ伝えてあった。その上での言葉に泰介はたじろぐが、蓮香はそんな泰介を待っているのか、面倒臭そうに見下ろしてくる。やりにくいと感じながら、泰介は渋々答えた。

「電話でも言いましたけど、質問がいくつかあって来ました」

「その内容を訊いてんのよ」

「……葵は、いないんですよね」

「いない。病院行かせた。ほら、さっさと言いなさい。あの子がいない間にしたい話もあるんでしょ? 時間、減るわよ」

「……宮崎侑と、棚橋円佳の事を訊きに来ました」

「……」

 蓮香は、あからさまに嫌そうな顔をした。

 そして泰介からくるりと背を向けると、そこへ準備していたであろうティーセットを脇へ退けた。そして透明なコップを二つ手に取って冷蔵庫から出した麦茶を注ぐと、どんっ、と泰介の前へ乱暴に置いた。

「……何の真似ですか」

 あまり好かれてはいないと思ったが、これほど嫌われる事をしただろうか。むっとしながら泰介は蓮香を見たが、蓮香の次の言葉で早合点だと理解する。

「紅茶とお茶菓子用意してたけど、やめた。今からもの凄く胸糞悪い話しなくちゃいけないみたいだから、甘いものなんか食べたら吐きたくなるわよ。あ、持ってきてくれたケーキは今晩佐伯家でおいしくいただくから安心して」

 配慮だったらしい。

 蓮香は泰介の対面へ座ると、片腕で頬杖をついた。そして麦茶を一気に煽ると、どんっ、と再び叩きつけるようにテーブルへ置き、

「最っ低の、屑だった!」

 と、荒んだ酔っ払いよろしく絶叫した。

 そして叫んだ直後、泰介を睨み付けてくる。

「吉野君、十七よね」

「……はあ」

「際どい話になるけど、本当に訊くつもりなの? セクハラみたいでこっちも嫌なんだけど」

「……」

 頷くしかない。ここで引き下がったら、何の為に来たのか分からなくなる。「そ。分かったわ。でもね、棚橋さんが仁科君に何吹き込んだのかは、言わないわよ」

「は?」

 泰介は面食らう。蓮香が知っている事に驚いたのだ。そして次の瞬間には、突き付けられた理不尽さに腹が立った。

 だが、それを言う蓮香の目は真剣だった。

 そこには泰介を苛立たせようとするような悪意は欠片も見当たらず、蓮香は本当に、本気で、泰介に訊くなと要求しているのだと分かった。

「……仁科本人にも、同じこと言われました。なんで俺が聞いちゃいけないんですか」

「傷つくからよ」

「誰がですか」

「あんたが」

「…………」

 泰介は蓮香を睨むが、蓮香が泰介の視線程度で動じるわけもなく、逆に睨み返された。

「同じ事で葵が傷ついて、仁科君も傷ついたのよ。吉野君まで傷つく事はないわ」

「葵も?」

 思わず訊き返した泰介に、蓮香は返事をしなかった。ただ、厳しい眼差しを一層強くした。

「聞くの、諦めて。言いたくない」

「……。訊かせて下さい」

「馬鹿ね。あんたって」

 一蹴された。

「仁科君の配慮、ちゃんと汲みなさいよ。あの子、あんたの事それくらい大事に思ってくれてるのよ。友達の善意くらい、素直に受け止めなさい」

「だったら尚更、俺は知りたいです」

 泰介は、頭を下げた。

「何が仁科をそこまで追い込んだのか、知りたいです。それに……他の誰かから人づてに聞くよりは、蓮香さんの口から訊いた方が、正しい事が分かると思う、から」

「……。後悔するわよ」

 重い溜息を、蓮香が吐く。不承不承ながら、一応了承してくれたらしい。

「この間、吉野君が退院してから、喫茶店で葵と待っててくれた時。あの時にあたしは初めて顔合わせたけど、想像してたよりもずっと最悪な大人だった」

 話しながら、蓮香は空のコップから手を離した。

「あの人、格好もメイクも派手だったでしょ。なんて格好で来るんだろうって、あたしもお父さんも驚いたわ。吉野君も想像ついてたと思うけど、水商売で生計立ててるみたいね。旦那さんはその繋がりで出会った人らしいわよ。元はお客さん。でもその人、そんなお金持ちってわけでもなさそうなのよね。うちのお父さんが言うには。むしろお金には困ってるんじゃないかって話」

 ふと、疑問を覚えた。泰介は口を挟む。

「そんな人が、なんで葵を引き取るなんて言うんですか」

 それは葵自身も、〝ゲーム〟の最中に言っていた事だ。

 普通、お金のかかる高校生を今更引き取って、一緒に暮らそうとは言わないだろう、と。それには泰介も同じ考えでいたのだが、配偶者が裕福ではないと聞いて、奇妙な齟齬が生まれた。

 それでは――ますます、葵を引き取る事など、できない。

 そこへ思考が行きついた時、最悪の想像が、脳に過った。

「……」

 黙る。

 言葉を、失った。

 蓮香が席を立って、麦茶の入ったペットボトルをテーブルにどんと置いた。そして空けたコップになみなみと注ぐと、再び口をつける。それを乱暴にテーブルへ置いて、また頬杖をついた。

「あんた達さ、普段葵の容姿とか、あんまり話題にしないような朴念仁ばっかだし、葵自身あんまり自覚ないみたいよね。あの子格好も清楚にしてるから、忘れそうになるけど。葵は、あの宮崎侑と双子なのよ? 髪染めて、巻いて、メイクして、綺麗に飾ってたあの子と。生き方も性格も勿論まるで違う。だから分かりにくいってだけで、街歩いたら知らない人から時々声掛けられるくらいには、葵、その子と似てるのよ。……吉野君。今までに葵の事、かわいいとか綺麗とかって思った事、一度もないの?」

 蓮香は、一度言葉を切って息をつく。

「思った事、あるでしょ。これだけ長く、一緒にいるんだから」

 返事を、できなかった。

 頷く事は、先程の予想の肯定になる。

「あと一年経てば、十八歳になる。そうしたら、働ける。元がとても綺麗な子だから、すぐに儲けられる。磨けばどんどん今より綺麗になるだろうし、そうしたらもっと稼げる。十七だと風営法に引っかかるだろうけど、十八なら」

 どんっ! と、思わずテーブルに拳を叩きつけた。

「……。やめてもいいわよ。あたしだって気分悪い」

「……すみません。続けて下さい」

「……」

 泰介を試すように、あるいは気遣うように眺めてから、蓮香は続けた。

「食い物にする魂胆見え見えなのに、いざ話してみたら手応えとか全然感じないのよね、棚橋さんって。何だか自信なさそうに肩を窄めてて。言葉尻も震えてた。ま、こっちが最初から敵意剥き出しだった所為もあるんだろうけど。

 多分棚橋さん、養子縁組の事もあんまりよく分かってなかったと思う。もう葵とは親子関係切れてるのに、それをちゃんと分かってないみたいだった。自分が出て来れば葵はいつでも娘に戻るんだって信じてる話し方をしてたわ。お父さん、説明をし直してた。葵と面会する事自体は別に、違法でも何でもない。悪い事ではないわ。でもそれはしないって約束だったはずだし、何より葵は、うちの家族だもの。連れて行くなんて許さない」

「……」

「棚橋さんは何年も前の事だから忘れたっていう信じられない言い訳してたけど、多分忘れたんじゃなくて、当時はわけの分からないまま頷いてしまっただけなんだと思う。きちんと理解して行動してる和歌子お母さんや周囲の人達に流されて、言われるままに手続したんでしょうね。当時は散々説明を受けたはずなのに、それらの意味を芯から理解しようとしてなかった。ふわっと理解してただけだと思う。

 葵の進学の話を私達が突き付けると、ぽかんとしてた。考えてもなかったんだと思う。必要性、感じてないだろうから。あの子を働かせようって考えてるのだって、多分罪悪感、感じてない。悪い事だっていう意識、ないと思うわ。葵の気持ちを考えるとか、葵の意思の存在とか、進学とか、将来とか、そういう認識自体が、抜け落ちてる感じがする。……多分、あの人は。頭が悪い上に、善悪もきちんと把握できてない」

「……」

「吉野君」

 蓮香は不意に、居住まいを正した。

「葵があの女に会うの、迷ってた時。めちゃくちゃ怒って反対して、それでも葵が迷ってたら、せめて同行させろって言ったらしいわね。同じテーブルに同席させろって。葵にあたし、後で聞いた。吉野君が、失踪した時に」

「……すみませんでした」

「ううん、違う。ありがとう」

 蓮香は、頭を下げた。

「一人で行かせないでくれて、ありがとう」

 泰介は首を横へ振ると、「頭、上げて下さい。蓮香さん」と抑えた声で言った。

「やっぱり、行かせないべきでした」

「もうそんなの言っても仕方ないわよ。結局仁科君が行っちゃったしね」

 顔を上げた蓮香が、疲れたように笑った。

「あたしとお父さんが、きちんと葵に話さなかったのがいけないって、分かってるのよ。でも、言いたくなかったのよね。ただでさえあの子引き取った時のごたごた酷かったらしいから。あたしは小っちゃかったから、全部後で聞いた話だけど」

「……なんで、宮崎侑と葵は、分かれたんですか」

 ずっと、それが疑問だった。訊ねると、蓮香はあっさり答えてくれた。

「あの人にとっても初めての子供だったからね。かわいくて、手放したくなかったのよ。でもさすがに二人も養育できないって分かってたみたい。一人は誰か引き取ってほしいって親戚たらい回し。犬猫みたいに扱ってる辺りが腹立つけど事実よ。宮崎のおうちってかなり遠縁の親戚なんだけど、こんな有様だから赤ん坊に同情しても、皆関わり合いにはなりたくなかったのね。ほとんど他人みたいなうちにまで話が回ってきた」

 握り締めた拳に、力がこもった。

「あのままだと施設に入れる事になったでしょうね。むしろそうするべきだっていう親戚の声がたくさんあったみたいだけど、うちの家族にしたい、って、和歌子お母さんが言ったのが始まり。うちでは誰も反対しなかった。親子の縁は完璧に切ってもらうっていう条件で、葵は私達の、家族になった」

 蓮香がこの時、初めて嬉しそうに笑った。

「あの子、初めて見た時。あたしまだ小学生だったの。かわいいって思った。お姉ちゃんになれるのが嬉しかった。吉野君。葵は、全然可哀そうなんかじゃないからね。そこ履き違えないでよ。皆、葵の事かわいいって思ってた。大好きって思って、うちに迎え入れたんだからね」

 言いながら、蓮香の目に涙が浮かんだ。

 蓮香はそれを、自分でも驚いたらしかった。可笑しそうに笑うと指を当てて擦り、話に戻った。

「それで、葵と侑は分かれたの。葵って名前はうちでつけた。吉野君、名前の関連性には気づいてたんでしょ?」

「はい」

 泰介は頷くと、蓮香の望むだろう答えを言った。

「古典です。『葵』は植物の蔦と、『逢ふ日』って言葉との掛詞で知られてるし、『蓮香』さんは……蓮の字を音読みしたら『レンカ』だから、恋愛ごとを歌う『恋歌』。おばさんは、そのままで『和歌子』」

「よくあたしの分かったわね。気づかれたの初めて」

 感心したように言った蓮香は、気持ちを切り替えるように、溜息を一つ吐いた。

「宮崎侑の過去、話すわ。これを話したら、仁科君が何言われたかも話す事になるけど、本当に訊くの?」

 内心で、決心が揺らいだ。それをおくびにも出さず、泰介は言う。

「訊かせて下さい」

「損な性格してるわね。あんたも」

 頑なに頷く泰介を、蓮香が笑った。

「仁科君の過去、途中まで見たでしょ。あたしはあの時〝宮崎侑〟を演じていたし、死者の枠だった所為なのか分からないけど、あの世界にある程度の干渉ができたのよね。あたしは吉野君がなかなか思い出してくれない事に苛立って、修学旅行の方へ飛ばしてしまった。だから吉野君は、あの子が荒れたところ、ちゃんと見てない」

「……」

「あの子、援助交際やってたの。仁科君と会うよりもずっと前から。仁科君はそれを知ってしまって、宮崎侑に幻滅する。それが直接のきっかけになったかどうかはさておき、あの子はどんどん荒れて、援交の頻度が増して、小火騒ぎ起こして、クラスメイトに怪我させて、硝子も割った。最後は謹慎処分を食らって、その謹慎中に退学処分が決定。公立の中学への転校が決まってたの」

 それを聞いても、泰介はさほど驚かなかった。硝子を割った事は仁科から聞いていたので、その他の非行の数々も、どこかで予想がついていたのかもしれない。

「あの子は……侑は。葵と違って知っていたのよ。自分の事。双子だって事。もう一人同じような顔をした女の子がいる事。侑は、お母さんの事が大好きな子だった。当時は、宮崎円佳ね。母子二人のささやかな生活に、侑は幸せを感じて生きていたの。それが優越感から来てる幸せだって事にも気づかないくらいに、無邪気だった。あの子、葵を見下してたわ。大好きなお母さんに捨てられた自分の妹を蔑んで、大好きなお母さんに選んでもらえたって思って、生きてたの。――小学三年の頃までは」

 蓮香はお茶を、注ぎ足した。全然減らない泰介のコップの中身を一瞥してから、とん、とペットボトルを置く。

「佐伯和歌子が亡くなった時に、それが変わったの」

「!」

 唐突に挙がった名に、泰介は驚く。蓮香は母の顔を思い出しているのか、懐かしむように微笑んだ。

「吉野君、覚えてない? お葬式、来てくれたの」

「覚えてます。でも、すみません。うろ覚えの所が多いです」

「そんなもんでしょ。気にしないで」

 蓮香は穏やかに言ったが、表情をほんの少し、気難しげなものへ変えた。

「ただ、そのお葬式の日を境に、あんたと葵は激しく恨まれるようになったのよね」

「俺も?」

 泰介は戸惑う。だが同時にそれは、泰介が蓮香に訊かなければならない事柄の一つだった。

 泰介に自覚はなかったが、どうやら自分は宮崎侑に恨まれているらしい。それを〝ゲーム〟の渦中で聞いたが、泰介には思い当たる節がなかったのだ。

 葵を憎むのは、まだ理解できる。理解など本当はしたくないが、それでも憶測で呑みこむ事はできる。

 だが、泰介に関しては他人だった。理由など、皆目見当がつかない。

「……吉野君、忘れてるのね」

 蓮香が嘆息した。

「お葬式の最中に、けたけた笑ってるバカな女の子が一人いたのよ。覚えてない?」

「? すみません。忘れました」

「まあ、そんなもんよね」

 蓮香は特に顔色も変えず、再度同じ台詞を口にする。そして少しだけ、泰介に優しく笑いかけた。

「吉野君が、へらへら笑いながら葵に近づいてったその子を引き留めて叱り飛ばすのなんて。あんたからすれば、当たり前の事だもんね。正し過ぎて、当然過ぎて、記憶になんか残んないでしょうね。あたし、あんたのそういう所、嫌いじゃないわよ」

「……」

「それで、吉野君のご家族の方や葵が、あんたの名前を呼んだのよ。泰介、って。割って入った。他にもまだ葵の友達で吉野君を知ってる子達が、あんたの名前を呼んでたわ。……子供が子供恨む理由なんて、この程度で十分なのよ。分かってしまったの。あの子は。あたしやお父さんや葬儀の会場の人からお母さん共々摘まみ出されながら、分かったの。

 自分が見下してきた葵には、こういう馬鹿が付き添ってるんだって。あたしもいて、あんたもいて、お父さんもいて、自分よりもずっと人に囲まれて、愛されて、大事にされてる。身内だけじゃない。あんたは侑から見て明らかに他人。そんな人間まで惹きつけてる葵を見て、それでも自尊心を保とうとしたあの子は、お母さんに……宮崎円佳に、異常に執着するようになった」

「……」

「滑稽でしょ。でもそんなものなのよ。それからのあの子は、葵への憎悪で生きてきた。あんたも一緒に恨まれてるけどね、結局一番恨まれたのは葵よ」

 蓮香はお茶を一口流し込み、とん、と置く。もう乱暴な手つきではなかった。

「でも、侑が中学二年の夏。宮崎円佳は失踪した」

「は? 失踪っ?」

「子供残して、どっか行っちゃったの。理由は男。幸い一か月で侑の元へ帰ってきたわよ。男の人とうまくいかなくなったからっていう理由と、やっぱり侑が心配になったっていう理由の両方を言い訳に、戻ってきた。

 でも育ち盛りの中学二年の女の子が、一か月も一人にされて、どうやって生きていくのって話よね。助けてくれる人は、他に誰もいないのに。侑のあの性格、覚えてるでしょ。相談できる友達はいないし、学校の先生に泣きつこうなんて考えもしなかったでしょうね。お母さんはこんな調子の人だから、いざとなった時に侑が頼れる人脈なんて本当に何もなかった。そんな身寄りのない状態で、葵への憎しみばかりが募っていく。学校から帰っても食べるものがない。お腹が空く。だから、やっぱり憎くなる。葵の事が、どんどん憎くなっていく」

「……」

「帰ってきた宮崎円佳は、留守を守って健気に暮らしている娘の姿と、安アパートに大量に散らばるお札を見た」

「……!」

 息を呑んだ。

「自分の娘は、多少ほったらかしても自分で稼げるものなんだって思ったのね。純粋に。馬鹿みたいに。さっき援助交際してるって言ったでしょ。羽振りのいい人が中にはいたみたいね。どうしてそんな事したのか、理由なんて分かりたくなかった。でも分かっちゃった。学校が面倒とか飽きたとか苛められたとか、ただ単に食べ物を買うお金が欲しいとか生存本能とか。そんなの、全部関係なかった。これはただの、葵への当てつけよ」

「! なんで……!」

「分からない?」

 蓮香は、泰介から目を逸らす。

「あの子達、双子なのよ。侑はもっとお淑やかに笑えば、簡単に葵になるわ」

「……なるわけ、ねえよ」

「そんなの、当たり前よ。でも、あの子はそうは思ってなかった」

 握りこんだ拳の中で、爪が刺さる。

「それを侑が自覚してから、回数が増えた。仁科君があの子を見限った事も、無関係ではないと思う。でも、仁科君がいたからどうにかなるものでも、もうなかった。止められるレベル、振り切ってた。宮崎円佳は、出てったから。夏の事だけじゃない。秋にも一回、同じような事があったの。それであの子、学校で泣いてた。今となっては私立のあの学校に、途中まででも通えていた事自体が奇跡だった。……仁科君があの子に出会った時には、もう、手遅れだったのよ。

 戻ってきた母親の事、それでも好きって思う気持ちと、殺したいくらい憎いって気持ちが混ざり合って、そんな憎悪はやっぱり葵へ向けて流れたの。――夜が来る度に、あの子は葵になった。自分が中年の男と寝れば寝るほど、葵の価値が削れるって思った。葵の尊厳がなくなるって思った。ほとんど同じ顔なんだもん。身体つきだってきっと同じだって思った。触られればそれだけ葵の身体が触られる事になる。望まれれば何だってやったし、やればやるほど葵が軽薄な女になる。脂でぎとぎとの男に犯されて気持ちよくもないのに気持ちいいって喘いで、葵が擦り切れればいいって、毎晩のように、あの子は」

「蓮香さんっ!」

 自分のものとは思えない怒鳴り声が、迸った。

 しん、と静まり返る、リビング。

 声が、震えた。荒げた声で、空気も震えたような気がした。

 テーブルの上についた手も小刻みに震え、それを自分で、止められない。

「……」

 蓮香が、黙る。

 憐憫の微かに浮かぶ瞳から、涙が静かに伝い落ちた。

「馬鹿よね。……違う人間なのに。何をしても、減るのは自分だけなのに」

 蓮香の静かな声が、静かな部屋に、沁み渡る。

「ちゃんと怒れる事って、強さだと思うわ。それって立派な自衛だもの。だからここで感情的になれない人間は脆いのよ。仁科君も、あんたみたいに怒れたらよかったのにね」

「蓮香さん。……すみませんでした」

 泰介は、頭を深く下げた。

 分かってしまったのだ。今の台詞で、全部。佐伯蓮香が何故、こんなにも詳しく知っているのか。

「頭いい子って、これだから嫌ね。何? 分かったの?」

「〝過去〟、見たんですよね。……宮崎侑の。蓮香さん、演じてたから」

 頭を上げないまま、泰介は言う。

「俺を、助けに来た所為で」

「気にしないで。吉野君、さっさと顔上げなさい。あんたがそんな風に謝るの、見てて本当に気持ち悪い」

 蓮香はぴしゃりと言った。あまりの言いようにむっと顔を上げると、蓮香は存外に優しい目で泰介の顔を見ていた。

「吉野君。やっぱり優しいのね。葵に」

「……何、言ってるんですか」

「泣いてる。気づいてないの?」

 言われて、頬に触れた。

「……泣いてなんか」

 かろうじて、泰介はそれだけを言った。

「だから、言ったのよ。訊かなきゃよかったでしょ」

 蓮香は、淡く笑った。やはり、疲れたような笑みだった。

「仁科君。多分。……こんな風に、聞かされたのよ。侑の事と、葵の事。でも棚橋さんはさっき言った通りの人よ。仁科君がどういう風にあの女に取り入って同じテーブルについたのか知らないけど、大方葵の代理で来たとか言ったんでしょうね。自分の娘のこんな有様、普通初対面の赤の他人なんかに話さないわよ。普通の親ならね。……でも、多分話したと思う。もっと赤裸々に言ったと思う。もしかしたら、もっと酷い言い方もしたかもしれない。……悪気が、ないから。別におかしい事だって、思ってないから」

「……仁科は……葵の事」

「そうね」

 蓮香は、悲しげに笑った。

「〝ゲーム〟で、あたしは初めて仁科君に会った。仁科君が葵を見る目って、びっくりするくらい優しかった。多分、恋愛感情とは違うと思う。でも、本当に葵の事、大切に扱おうっていうのが伝わってくる接し方だった。仁科君には……きっと。葵がとても、綺麗なもののように見えていたのね」

 蓮香の瞳に、憧憬のような感情が浮かぶ。仁科の心遣いをとても尊いもののように慈しむ眼差しは、どこか葵を髣髴とさせるような、殉教的な儚さがあった。

「だから。仁科君は、追い詰められたの。まあ、本当に死ぬ気はなかったでしょうけどね。それさえどうでもいいって感じの投げやりなところがある子だし。でも……自分が綺麗だって感じて、大切にしてる存在の価値が、そんな風に陰でぐちゃぐちゃにされてたって分かってしまったから。それを止められなかったのは、自分なんだって、多分……自分の事、責めた」

 仁科の謝罪の言葉が、耳にまだ残っている。

 ――佐伯。

 ――悪かった。

「……納得、いかねえよ」

 泰介は、呻く。

「葵は、葵だろ。……仁科の奴。馬鹿だ」

「……。驚いた。あんた、もっと堪えるかと思ってた」

 堪えたに決まっている。堪えない、わけがなかった。頬に流れた涙の跡が、冷たくなって乾いていく。そうなって初めて、自分が泣いたという実感が、泰介の胸へきちんと落ちた。

 泰介の事を気遣って、訊くなと警告した仁科の言葉が蘇る。

 もう〝ゲーム〟開始前の仁科との付き合い方をよく思い出せないくらいに、仁科要平という人間の事を知ってしまった。

 だからその弱さも優しさも、もう他人事ではなくなっていた。

 そんな脆弱なものをさらに細かく砕いて、泰介へ差し出す仁科の心は、一体どんな感情でできているのだろう。

 まるで、葵のようだと思う。

 今、ようやく気が付いた。

 二人がどこかで、似ているのだと。

「堪えてる場合じゃねえよ。あのオレンジ頭と同じような潰れ方して、たまるか。……あ。もうオレンジじゃなかった」

「ん。そうよね」

 蓮香が、ようやく明るい笑みを見せた。

「吉野君、仁科君に助けられたわね」

「……はい」

 泰介は、呟くように肯定する。面倒を見るつもりが見られていたらしい。先日に教室で助けられた時だってそうだ。あの瞬間には仁科の行動が突飛なものに思えたが、よくよく考えてみればそんな事はない気がした。

 〝ゲーム〟の時も、仁科は泰介と葵を庇い、身を挺して逃がそうとした。

 もしかしたら、今までにも助けられた事があったのかもしれない。泰介が、気づかなかっただけなのだろう。

「……。吉野君、ちょっと待っててくれる?」

 蓮香は席を立つと、葵との共同部屋へ向かった。そして一分もしないうちに泰介の前へ戻ってきた蓮香の腕には、冊子のようなものが抱かれていた。す、と表を向けてテーブルにそれを置かれて、泰介は目を瞠る。

「絵本?」

「そ。言った事なかったっけ。和歌子お母さん、絵本作家だったのよ」

 淡い緑色に彩られた水彩画の表紙には、青色の服を身に纏った少女が描かれていた。懐中時計を握り締め、勝気そうに笑っている。イラストの少女を中心として、辺りには螺子や歯車の欠片がぱらぱらと散っている。クレヨンのような主線のタッチが優しい、慈愛にあふれたイラストだった。

 表紙のタイトルは――『タイムリープ』。

「それ、さ。お母さんの遺作なのよね」

 特に感情のこもっていない声で、蓮香が言った。

「入院中に描いてたやつ。亡くなる三日くらい前に、原稿出来上がってたの。お母さんの死後に出版が決まって、世に出たってわけ。お母さん、もしかしたらだけど、あたしの事分かってたのかもしれないな、って。これ見た時に思った。……吉野君。あたし、あなたに一つ謝らないといけないの」

「え?」

 驚く泰介から蓮香はそっと絵本を取り上げると、表紙の少女を複雑な表情で見下ろした。

「あたし、一度時間を戻ったって言ったでしょ。お母さんが死んでから。……本当は遺作の絵本、『タイムリープ』ってタイトルじゃなかった。絵本のタイトル、なかったの。内容も途中で止まってて、未完成のまま間に合わなかった。最初に描いてた別の絵本をやめて、新しく違う話を描き始めたからそんな事になっちゃったみたい。新しく描こうとして、未完成になった絵本は……喧嘩ばっかりしてるやんちゃな男の子が、すぐに傷ついて人に見られない所で泣いてばかりの女の子を、助けに行こうとする話だった」

「……っ、それ、は」

「ごめんなさいね、吉野君」

 蓮香が、絵本を抱きしめながら目を伏せた。

「あたしの我儘が、あんた達二人の絵本を消してしまった」

「……蓮香さんがそんな風に謝るのも、気持ち悪いんでやめて下さい」

「あ。言ったわね」

 ぶっきらぼうに言う泰介を、顔を上げた蓮香がにたりと笑った。やはりこういう笑顔の方が、佐伯蓮香という人間に似合っている。気持ちを持ち直したらしい蓮香を横目に見ていると、「そういえば」と蓮香が不意に言った。

「吉野君が病院抜け出してうちに転がり込んで来た時、あたし、あんたのこと結構見直したのよね」

「?」

 怪訝な表情になる泰介へ、蓮香は呆れ笑いを見せた。

「だって吉野君。すごく必死に学校行くこと考えてた。あの切羽詰まった状況で、もう一度時間を戻ること、全然考えてなかったでしょ」

「……」

 確かにそうだ。あの時は必死過ぎて、そんな可能性が自分に残されていた事さえ思いつかなかった。泰介はぽかんとした表情になったが、それを見て蓮香はいよいよ可笑しくなったらしい。声を立てて笑った。

 笑われた泰介は、全くもって面白くない。むすっとした表情で蓮香を睨んだ。

「時間を戻るとか、俺はそんなのどうでもいいです」

「そうよね。こんなこと言うと矛盾だらけだけど。あたし達、やり直しが利かない毎日、生きてんだもんね」

 そう言った蓮香が遠い目をして、頬杖をついた時だった。

 携帯の着信音が響き、「ちょっとごめん」と泰介に断りを入れた蓮香が、ポケットから携帯を取り出した。

「あら。葵からだわ」

 すると、泰介の上着のポケットでも携帯が震えた。取り出して確認すると、見知った名前が表示されている。

「こっちも葵からです」

「ああ、病院帰りに寄り道するみたいね。お昼ごはん、言ってた通り食べてくる、って」

「俺の方は、今から空いてるかって内容です。……仁科も来るのか」

 思わず呟くと、それに蓮香が反応した。

「へえ? 仁科君が? あんた達三人ってさ、揃って学校以外の場所集まるの、初めてなんじゃないの」

 言われてみれば、そうかもしれない。軽い驚きを覚えながらメールにもう一度目を通すと、どうやら仁科の方も、泰介が来るのを分かっているらしい。休日に仁科要平と会うような日が来ようとは、二年に上がった頃には考えもしなかった。

「それじゃ、俺、もう行きます。今日はありがとうございました」

 泰介はそう言って、立ち上がった。

「え?」

「……どうかしました?」

 蓮香が不意を打たれたような顔をしたので、泰介はたじろぐ。何かまずい事でも言っただろうかと己の台詞を振り返るが、お暇を述べただけで他には何も言っていない。疑問に思っていると、蓮香がしみじみと言った。

「今の台詞さ、どっかで聞いた事あるわねって思ったら。思い出した。あんたが葵と暮らしてた時の台詞だわ」

「暮らしてません」

 まるで同棲のような言い方に思わず反論する泰介だが、蓮香はそんな泰介の反応を見ると、にやりと意味深に笑った。

 その段になって、ようやくはっきり自覚した。

 時間が少し巻き戻った事で、葵は泰介と共に佐伯家で過ごした時間を忘れてしまったが――泰介以外にもその生活を覚えている人間が、一人だけいた。

 頬がじわじわと熱くなるのが、分かった。

「何赤くなってんの。マセガキ」

 蓮香にあっさりと笑い飛ばされ、泰介は黙る。悔しかったが反論の言葉が出てこなかった。葵と二人で過ごしたあの生活を後悔してはいなかったが、当時の自分の精神状態を振り返ると、なかなか直視し難いものがあったのだ。

 思い返せば、葵はそんな泰介の状態を的確に見抜いていたように思う。守っているつもりが、案外逆だったのかもしれない。何となく不甲斐なさが先に立ってしまい、そこへ上乗せされた羞恥と気まずさと、それでも忘れるのは絶対に嫌だという相反する気持ちで、胸が閊える。

「別に、からかってるんじゃないわよ?」

「そういう慰めはいりません」

「ほんとだってば。……なんか、さ。うちも、和歌子お母さん亡くなったでしょ。だから、ああ、こういう風景久しぶりだなあ、って。そんな風に思っちゃったのよね」

「こういう風景?」

「支え合ってる、風景」

 言いながら立ち上がる蓮香は、ぐっと両手を上げて伸びをする。さらりとした茶髪が背に流れ、揺れた。

「一人、大切な人がいなくなるだけで。あんなに空虚になるんだなって、死なれるまで気が付かなかった。家族が他にいても、支えになる友達がいても、人が元々一人いた場所の空白ってなかなか埋まらないのよね。よく言われるのあるじゃない? 時間が埋めてくれるのを待つとか、そういうやつ。でもさ、それって一体いつよ? って思ったわよ。今空っぽになってる場所をどうすればいいのかなんて、分かんないのに。それを今知りたいのに。

 結局あたし達にできた事は、家族で一緒にいる事だけだった。皆空っぽなの分かってるし、誰にも何も埋められないけど。誰かが倒れないように気をつけて、支え合う事ならできるでしょ? 倒れそうになったら、大好きだって言ってあげればいい」

 蓮香が、笑った。

「あんた達、家族みたいだった」


     *


 泰介が呼び出しを受けた御崎南駅に到着すると、そこには葵一人の姿だけがあった。

 休日の所為か、駅は人でごった返していた。混雑を極める改札前を人の波に流されながらのろのろと歩く泰介は、そんな状態で葵を見つけたのだった。葵がこちらに気づいた様子はなく、手に握った携帯に視線を落としている。

 この所冷え込んできた所為か、葵の上着が厚手のものに変わっていた。紺色のスカートに黒のタイツを合わせた葵は携帯を上着のポケットに滑り込ませると、少しだけ寒そうに両手を合わせて震えた。

 病み上がりが何をやっているのだろう。泰介は混み合う改札に視線を寄越しながら、呆れを込めた目で幼馴染の少女を睨む。

 そんな目で見ていると、葵が泰介に気づいた。ぱっと表情が明るいものへと変わり、手をひらひらとこちらへ振ってきた。

 たいすけ。

 名前を呼ばれたのが、聞こえなくとも分かった。

「……」

 一緒にいる時間が、長すぎたのだと思う。蓮香が葵の容姿に触れた瞬間に身体を抜けた動揺が、まだ心に残っている。

 泰介は葵に手を振り返してやりながら人ごみを掻い潜り、改札まで辿り着く。定期を回収して葵の元へ向かうと、小走りに近寄ってきた葵が穏やかに笑った。

「おはよ、泰介」

「ああ、おはよ。風邪はもういいのか?」

「うん、もう治りかけ。こないだはありがと」

 葵はくるりと踵を返し、泰介を促して歩き始めた。

「おい、葵? 仁科は?」

「もう着いてるよ。仁科も泰介待ってる」

 葵が悪戯っぽく笑うが、泰介にはまだ状況がよく呑み込めない。

「そもそもこれ、何の呼び出しだよ? 俺まだ何も知らねえんだけど」

「来たら分かるから」

 葵がそう言って、笑った時だった。

 前方から四人ほどの高校生の一団がやって来て、泰介と葵の傍を通り過ぎた。

 すれ違った瞬間に、彼等の視線が葵へ注がれたのがはっきり分かった。

 葵は特に表情を変えずに、前を見て歩いている。だが泰介はその横顔を見ただけで、葵が視線に気づいているのだと分かった。

「……おい」

「大丈夫だよ、泰介」

 葵は立ち止まらないまま、泰介を振り返って笑う。

「空元気とか嘘とかじゃなくて、ほんとに。大丈夫」

「お前の大丈夫ほどあてになんねえものはねーんだよ。嘘つけ」

 言いながら、どんどん腹が立ってきた。

 何なのだ。あれは。泰介が怒りを隠さず振り返ると、まだこちらを見ていた高校生達とばっちり目があった。相手は連れ合いが振り返るとは思わなかったのか明らかに動揺して目を逸らしたが、それでも懲りずに見てくる者が半数いた。

 もう我慢ならなかった。

 泰介は葵の手を引っ掴むと、驚く葵を尻目に大股で前へ歩き出した。

「泰介……っ」

「さっさと行くぞ。不愉快だろ。っていうかお前、俺をどこに連れてく気だったんだよ。どこ歩いたらいいのか分かんねえじゃん」

「……ありがと。こっち来て」

 葵が薄く笑って、泰介を誘導するように手を軽く引いた。

 薄幸な微笑が癇に障り、泰介は葵を睨んだ。

「お前。……ああいうの。ずっとだったんだろ。今の奴らは歳一緒くらいだったから、マシだったってだけで……!」

 そこまで勢いで言って、はっとした。

 言葉を止めて固まる泰介を、葵が驚きの表情で見上げていた。

 二人の間に、沈黙が流れた。

「……泰介、ずるいよ」

 やがて囁くように、葵が言う。

 だが言葉とは裏腹に、それを言う葵の表情は明るかった。

「私、せっかく自分から言おうって思ってたのに。結局先回りされちゃってたんだね」

「……。俺が気づくより先に、言わないお前が悪い」

「えへへ、ごめん」

 葵は軽い調子で笑ったが、泰介は全く笑えなかった。

 そんな泰介を見上げた葵が、黙る。表情がすとんと悲しそうなものへと落ちて、二人揃って、足を止めた。

「……本当に、嘘じゃないよ。本気で言ってるの。大丈夫って。泰介、嘘じゃないの、ほんとは分かってるんでしょ?」

 葵が、拗ねたように言う。

「泰介が隣歩いてるんだから。怖い目になんか遭わないよ。大丈夫に決まってるじゃない」

「もう、いい」

「泰介?」

「いいから」

 肩を引き寄せようとすると、さっと葵の顔が紅潮した。「人、見てる、だめ」と抵抗されたが、もう知った事かという捨て鉢な気持ちの方が強かった。

 どん、と強く、身体のぶつかる音がした。

「……泰介、痛い」

 葵が、消え入りそうな声で言った。泰介は無言で、背に回した腕の力を少しだけ緩める。それでも、まだ離したくなかった。

 認めたくはなかったが、そういうわけにもいかないのだろう。

 どうやら泰介は、まだ引き摺っているらしい。あまりにあからさまに浮き出た自分の弱さに心底辟易したが、しばらくはこんな精神状態が続くのかもしれない。先が思いやられるが、そんな心とどう折り合いをつければいいのか分からなかった。

「……」

 葵が無言のまま、泰介の背に手を回す。そして頭を泰介の胸板へ倒しながら、抑えた声で囁いた。

「泰介。……泣いてるの?」

「泣いてなんか、ねえよ。誰が泣くかよ、こんな人ごみで」

「うん。……ごめんね」

 そう言って、葵が顔を上げた。

「ありがと」

「なんで、礼なんか」

「大事にしてもらってるって、思ったから」

「はっ?」

 たじろいだ泰介は、思わず腕を離した。

 葵が、少しだけ背伸びをした。風が吹いて、長い黒髪を揺らす。それが視界を遮って、景色が刹那見えなくなる。

「!」

 既視感と動揺で、動けなくなった泰介だが――目が点になる。

 くしゃり、と。髪が突然撫でられた。

 目の前には、葵の腕。

「……何やってんだよ? お前……」

 わしゃわしゃと犬でも撫でるような手つきで髪を撫でてくる葵を茫然と見下ろすと、そんな視線をものともせずに、葵は無邪気に笑った。

「だって、泰介よく私にこうするでしょ? 元気ない時に。……ね、元気出た?」

 動揺が反転して、激しい羞恥に変わった。

「……っ、お前なあ!」

「あ、元気になった」

 葵の笑顔が、ぱっと明るくなる。泰介は憮然と目を逸らしたが、言われてみれば、先程までの鬱屈はもう心から消えていた。

「泰介、どしたの?」

「……。なんでもねえよ」

 煩悶するのが、馬鹿らしくなってしまった。

 きっとこんな感情の振れ幅に翻弄されながら、泰介はそれでも葵と一緒にいるのだろう。そういう風に割り切ってしまえば、案外悪いものでもないような気が、ほんの少しだけした。

「葵」

「なあに?」

「お前、勝手にどっか行ったら承知しねえからな」

 葵が、泰介を見上げたのが分かった。視線に気づいたが、こんな時に顔を見られるのは絶対に嫌だった。殊更強引に葵の手を引っ掴んで歩くと、引き摺られるようについてくる葵が、背後で笑った気がした。

 そしてそんな折に、唐突に声が掛けられた。

「何昼間っからいちゃついてんだか。吉野、佐伯と付き合い始めた途端に羽目外し過ぎじゃないのか?」

 声を聞いただけで誰だか分かった。

「仁科……!」

 泰介はぎょっとして声のした方向を振り返る。

 駅舎の周囲に隣接するビル群を背に、仁科要平が立っていた。

 仁科は泰介達同様に私服姿だった。ラフなTシャツの上から丈の長い上着をざっくりと羽織った立ち姿はすらりとした体型に異様に似合っていて、妙に様になっているから面白くない。穏やかな青色に凪いだ空の下で、太陽光に照らされた仁科の顔は白かった。頬のガーゼもまだ健在だ。

「あ、仁科! 待っててくれてよかったのに、来てくれたんだ」

 葵の声が華やぐ。仁科は葵に目を留めると笑ったが、手を繋いだままの泰介を見ると、顔に揶揄の色が浮かんだ。

「なんだよ仁科、こっち見んな」

「見せつけてんのはそっちだろ」

「お前、休日も変わらずうるせえよ」

「まあまあ」

 葵が笑って、泰介をたしなめた。

「泰介、さっきまでね、仁科と旅行代理店の前にいたの。パンフレット見てた」

「はあ?」

 唐突すぎて、何を言われたのか分からない。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする泰介を、仁科が可笑しそうに笑った。

「吉野の所為で俺らの修学旅行、駄目になったろ。その埋め合わせでどっか行こうかって、佐伯と話してた」

「は? おい、ちょっと待て。お前ら、旅行に行く気なのかよ?」

「あ、そっか。卒業旅行にするっていうのもいいよね。気が早いけど、予定だけでも楽しいもん」

 嬉しそうにはしゃぐ葵へ、仁科が苦笑を返した。

「このメンツで旅行ってどうなんだか。佐伯、連れが野郎ばっかじゃ家族の人から了承もらえないだろ」

「うーん。泰介いるなら案外簡単に許可出そうな気がするけど。信頼厚いし、安心だろうって」

 とんでもない事を言い出された。

「お前、何言って……! 出るわけねえだろ! お前の姉ちゃんに殺される!」

 葵はきょとんとしているが、仁科はにやにやと笑うと、顔色を変えて叫ぶ泰介を一瞥した。そんな仕草が本当にいちいち癇に障る。

「ま、旅行は卒業までに考え直すとして。佐伯、どこか行きたいとこ決まったか?」

「? 仁科、何の話してるんだ」

 泰介が訊くと、仁科がさらりと答えた。

「せめて日帰りでどっか遊びに行こうって佐伯が言った。何だ、吉野。お前どこか行きたいとこあるのか?」

「今知らされたばっかだぞ。まだ何も考えてねえよ」

 ぶっきらぼうに言い放ち、泰介は葵を見下ろす。

 二人分の視線を受けた葵は、「えっと」と考え込むように小首を傾げ、やがて楽しそうな笑い声を立てた。

「えへへ、なんか分かんなくなっちゃった」

「おい」

 泰介は脱力したが、仁科はそんな葵の返答が余程愉快だったのか、面白そうに笑った。葵は少しだけ仁科にむくれて見せて、それからふと思いついたように言った。

「ねえ、ごはん皆まだでしょ? ちょっと早いけど、何か食べない? この辺お店いっぱいあるし。さっきの代理店からパンフレット少しもらってきてるし、後で見てみようよ」

 葵の提案に、仁科が頷いた。

「それがいいだろうな。佐伯。何か食べたいのある?」

「なんでも……って言ったら困るよね。ねえ、仁科は?」

 仁科が動き、葵が動いた。駅周辺のファーストフード店が軒を連ねる方角へ、二人の足が動く。

 泰介の足が二人につられるようにそちらへ動いた時、今更のように手を繋ぎっぱなしだった事に気づかされ、何だか気恥ずかしくなって、離した。

 葵が、振り返る。

 そして泰介の表情を見ると、笑った。

「行こうよ、泰介」

 仁科も振り返り、泰介を見た。

「体育馬鹿が何もたもたしてるんだ。なんでお前が一番遅れるかな」

 もう幼馴染として見る事ができなくなってしまった少女と、以前より少しだけ距離が近くなった、学内随一の問題児。

 その二人を、泰介も見つめ返した。

 そして、笑う。


「言われなくても、行くに決まってんだろ!」


 泰介は前を歩く二人の元へ、大きく足を踏み出した。

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