カーテンコール・前
「もうそろそろかな」
佐伯葵が緊張気味の表情で、コーヒーカップを握った。ミルクを溶かして滑らかな色味になった表面が震えて、波打つ。
それを横目に見ながら吉野泰介は嘆息したが、緊張しているのは何も葵ばかりではなかった。
「まだ連絡来てないだろ。お前はあんまりじろじろ見んな。隠れとけ」
喫茶店の中から見る往来は人通りが多くなく、むしろ日中である事を鑑みても少ないくらいだ。これならば、連絡が来たらすぐに特定できるだろう。
「泰介。ほんとに身体はもう大丈夫?」
「何回訊くんだよ。平気だって」
「元々あんまり病み上がりに見えなかったから、時々訊かないと忘れちゃいそうなんだもん」
葵はむくれたが、泰介の指摘を受けてかニット帽を目深に被り直す。そしてそのタイミングで、テーブルに微かな振動が走った。
「! 来た!」
葵が慌てて携帯を掴み、フリップを開く。そして緊張の面持ちでメールの画面を見つめ、「赤いワンピース、黒いピンヒール。えっと、バッグは……」ともたもたと特徴を挙げていった。
「髪型は、長いって。私くらい。明るい茶髪」
「ん」
泰介は頷くと、通りの人影に目を凝らした。歩道と道路を挟んだ対面にも、泰介と葵が今いるような店が軒を連ねている。そこを通るあらゆる年齢層の人間の中から、赤い色を探す。
「いたぞ。見つけた。前に乗り出すなよ。見えるから」
「うん」
葵が泰介の影に隠れると、代わりに泰介は窓側にぴたりと張り付いた。明らかに怪しい二人連れだが、これでも互いに真剣だった。
高いヒールを履いた女性が、のろのろと歩いてくるのが見えた。
赤いワンピース。他の点も全て合致する。この女性で間違いないだろう。
予想より、ずっと若かった。三十代前半に見えるが、実年齢は知らされていない。見た目通りなのか化粧がそう見せるのか、泰介には判断がつかなかった。
ただ、顔は頭に叩き込んでおいた。
胸糞悪いと思うが、今後の為に覚えておくべきだろう。何となくだがその為に、佐伯蓮香はこの話を泰介の耳に入る状況で話したような気がするのだ。
「前、通る。あっち向いとけ」
「うん」
葵がくるりと背を向けた。背もたれに身体を埋めるようにして小さく纏まっているので、余程この間の手紙が恐ろしかったと見える。
「……行ったぞ。もういい」
「うん」
声を受けて葵が起き上がると、二人ともしばらくの間無言だった。
やがてここには、蓮香と葵の父が迎えに来る。そうなれば、後は御崎川へ帰るだけだ。
「……ねえ。泰介。似てるって、思った?」
「全然似てねえよ。ありえねえ」
「そうだよね。……他人、だもんね」
葵は何かを儚むように、悲しく笑った。
*
二日の入院生活を経て登校した教室は、いつもと雰囲気が違っていた。
修学旅行の療養休みも明けて、楽しい旅行の記憶をふわふわと浮つかせた会話が飛び交う教室の中で、二年二組の区画だけが全く違った喧騒に包まれていた。
教室の扉をくぐった瞬間に、その異様さに呑まれた泰介は立ち尽くす。
入った瞬間は、違和感だけが全てだった。
そしてもう一歩踏み込むと、その感覚が強くなる。
八時十五分。あと十分もすれば予鈴が鳴り、さらに五分も経てば本鈴が鳴って一時間目の授業が始まるという時刻。そんな早朝の教室には半数以上の生徒が既に登校していて、思い思いに席を立ち、級友と談笑を交わしていた――かに見えた。
教室に満ちる喧騒は小波のようにどこか密やかで、好奇と困惑、そして何よりも強い驚愕の感情がない交ぜになった、いかにも奇妙なものだった。
「……あ、吉野じゃん」
友人の何人かが、泰介に目を留める。「ああ、おはよ」と泰介は挨拶を返したが、友人達は気もそぞろに頷くばかりで、すぐに泰介から目を逸らした。
「?」
謎めいた反応だった。泰介の修学旅行欠席は周知の事実らしいのだが、理由は伏せていると家族や教師から聞いていた。それが原因で気でも遣われたのかと考えたが、それにしても奇妙だった。
クラスをざっと見回すと、泰介を除く全員の様子が、先程の友人のようにどこか奇妙だとすぐ気づく。クラスメイト達は皆仲のいいもの同士固まって談笑しているように見えたが、その実全く会話に集中できていない様子で、ちらちらと余所見を繰り返している。
泰介は、何気なくその視線を追いかけて――固まる。
「あ。泰介。おはよう」
教室の真ん中辺りにいた葵が泰介に気づき、穏やかに笑いかけてきた。
「……おい、葵」
今こそ、悟った。
何がクラス中を、こんなにも困惑させているのかを。
「……にし、な……?」
泰介は、茫然とその名を呼んだ。
着席した仁科要平が、呼ばれて顔を上げた。
端正な顔立ちの青年は片頬に冗談のように大きなガーゼを貼り付けていて、それだけでも十分に人目を引いた。やがて仁科は口元に揶揄を浮かべ、にたりと笑う。
「――ああ、おはよ。吉野。退院おめでとう」
特に感情も込められずにさらりと言われたが、泰介にはそれに対して全く返事を寄越せず、ただ茫然と、席に着く級友の姿を見た。
仁科の横に立つ葵は、泰介の反応が予想済みのものだったらしい。何だか楽しそうに笑っていた。仁科がこんな早朝に登校しているという事も驚きだったが、それどころではなかった。
この級友は、数日見ない間にとんでもない激変を遂げていた。
「――っ、おいいいいい!」
泰介は絶叫して、荷物をその場にどすんと置き去りにしたまま、ずかずかと大股に仁科の席へ近寄った。
「仁科! お前! 何!」
「朝っぱらからうるさい奴だな。病院でもその調子だったんだろ? さぞ周りの患者の迷惑になっただろうな」
「うるせえよ! だから、お前、それ!」
ごくんと唾を飲み込んでから、泰介は叫んだ。
「髪っ!」
クラスメイト全員の総意を、叫んだ。
「なんでっ、黒髪! あの馬鹿みたいなオレンジ頭、どこ行ったんだよ!」
仁科の頭髪が――――真っ黒に、なっていた。
以前は学ランの襟にかかるまであった長めの髪もさっぱりとカットされていて、襟元の風通しがよくなっている。それでもまだ男子にしては長めと言えたが、オレンジ色の髪が黒くなったというだけでも、最早視覚の暴力と言えるレベルの衝撃を見る者へ与えていた。
「人の事を禿げたみたいに言うな。佐伯、こいつほんとうるさいんだけど」
「驚くよねって思ってたけど、ほんと予想通りの反応したよね、泰介って」
「ああ。絶対騒ぐと思った」
葵と仁科は笑い合いながら、泰介の方を可笑しそうに見やった。
「あのなあ……! 驚くなって方が無理だろ! もう誰だよお前ってレベルの変貌じゃねえかよ!」
「泰介ってば。素直に似合うって言えばいいじゃない。仁科、似合ってるよ」
「ん。さんきゅ」
葵が屈託なく笑って仁科の髪を褒めると、仁科も薄く笑って泰介を振り返る。目元にまた揶揄が浮かぶのが分かり、泰介は口をへの字に曲げた。
「……なんだよ?」
仁科は「これ」と短く言うと、机の上に伏せて置いていた一枚の紙を差し出した。茶色く変色の進んだ藁半紙だ。裏面には何かが印刷されているのか、薄く何かの文字が透けて見える。
「?」
何の気なしに、泰介は手に取ったそれを裏返す。
「……は?」
目が点になった。
そして、それが何なのかを脳が理解した時――顔が、ばっと熱くなった。
何故。そう思った瞬間には当時の仁科との会話を思い出し、羞恥と怒りで手がわなわなと震え出す。
「古い教科書とか捨ててたら、それが出てきた。昔中学の掲示板に貼られてたんだ。同じ中二としてよく見とけって話らしい。今の俺ってこの時の吉野みたいに馬鹿でかいガーゼ貼ってるから、折角だし真似てみようかと思って。髪、染めた。……さすがに、髪を刈るのはできなかったけど……」
言いながら、仁科が俯いて震え始める。そして本格的に可笑しくなったのか、腹を抱え、声を殺して笑い出した。その姿を見ていた葵まで思わずと言った様子で吹き出して、口元を抑えて震えた。
ぶちんと、堪忍袋の緒が切れた。
「――――仁科あああぁぁぁっ!」
泰介の怒号が、朝の教室の空気を揺るがし、響き渡る。
こうして日常が、帰ってきた。
*
「敬」
昼休みを利用した、各授業の担当教諭への挨拶回り兼、配布プリント収集の帰りだった。
泰介は廊下を歩くクラス委員長の姿が目に入ると、足を止めて呼びかけた。
「あ、泰介」
狭山敬は手に持ったノートの束を抱え直すと、泰介へ朗らかに笑いかけた。
「なんだお前、一人でそんなのやってたのか。女子の方はどうしたんだよ?」
「忙しそうだったから、声掛けなかった。いいよ、これくらい一人で持てるし」
「おい……何言ってんだよ。お前」
泰介は呆れながら、三十八人分のノートを一人で抱える敬から、ノートを丸ごと奪う。あっさりと泰介の手に渡ったノートを見た敬が驚いたように泰介を見返して、少し悲しげに目を伏せた。
「これくらい大した量じゃないよ。泰介、修学旅行来れないくらいに風邪ひどかったのに。無理なんてしなくていいから」
「そんなもん、もう治ってるから気にすんな。あと、大した量じゃないって言ってるけど、お前。職員室と教室までもう一往復する気だろ。見え見えの嘘ついてんじゃねーよ」
「……」
「これ、持って帰って先に配っとくから。もう一往復で終わるんだよな?」
「うん」
「じゃ、そっち頼む。次からはちゃんと役割分担しろよな!」
「……泰介には、敵わないなあ」
敬は観念したように優しく笑うが、泰介の内心は複雑だった。
敬の空虚な言葉が、まだ泰介の耳に残っている。そこまで敬を削れさせてしまった原因の一端は確実に、自分達の事しか考えていなかった泰介の怠慢の所為なのだ。過剰に自分を責める気も思い詰める気もなかったが、だからといってそれは無視できるものでもなかった。
この程度の事が罪滅ぼしになるとは、勿論思っていない。
だがそれでも、これからはできる範囲の事くらいはしようと、泰介は思う。
ふと、その時思い立った。
訊こうか訊くまいかしばし逡巡し、結局泰介はストレートに訊いた。
「あのさあ、敬。……修学旅行、大丈夫だったか?」
少し、間が空いた。
「……さすがに、大丈夫じゃなかったよ。いろんな意味で」
敬は、複雑な苦笑いを浮かべた。
「泰介も葵ちゃんも仁科君もいなかったら、行動班のメンバーって僕とさくだけになっちゃうでしょ? でも、二人だと既定の人数に達しないから余所の班に入れてもらわないといけなくなっちゃって。僕は、元々別の友達と約束してたから大丈夫だったよ。その……決める時に揉めて、その流れで泰介達の班に居つく感じだったから。事情話したら、快く班に入れてもらえた。……でも。さくの方は、なかなかそういうわけにもいかなくて」
「……」
予想は、していた。修学旅行の行動班を取り決める際、秋沢さくらの我儘に振り回された泰介達だったが、考えてみれば迷惑を被ったのは泰介達ばかりではない。元々さくらは別の友人達とグループを組む約束をしていたにも関わらず、それら全てを擲って葵にぶつかってきたのだ。それなりの軋轢はあるだろう。泰介であっても想像がつく。
「さく、なんとか元々約束してた子の班に入れてもらえたみたいだけど。あんまり楽しくなかったみたい」
「敬、気に病むなよ」
泰介は、釘を刺す。
「これはさくの自業自得だ。後は……あの時さくを追い払えなかった、俺らが悪りいんだって。だからお前、そんな事で絶対気に病むなよ」
「……うん。気に病んでない。でも、自業自得って割り切っちゃっていいのかなって、少し気になってた」
「それを気に病んでるって言うんだよ。忘れろって」
「泰介。……あんまり気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
敬は声を潜めると、どこか気まずそうに泰介へ言う。
「さくの事だけど。……ちょっと、気をつけた方がいいかも」
「俺ら、やっぱり恨まれてるんだな」
「……」
敬は、困ったように俯いた。
「三人で示し合わせて修学旅行来なかったって思われてる……と、思う。さく、多分だけど、クラスの子にそれで言いふらしたりしてると思う。変な噂になりかけてる。……あんまり、あてにされてないみたいだけど。皆も泰介が風邪引いてたの知ってるから」
「噂は、別にどうでも。お前がそんな風にさくのこと言うのが、ちょっと意外だってだけだな」
実際は言葉ほど意外に思ってはいないが、泰介はそう言った。鎌をかけたつもりだった。すると敬は、やはり観念したように笑った。
「僕、泰介に言った事なかったけど。さくの事、ちょっと意識してた時期あったんだ。……でも、さ。なんか……なんだったんだろう、って今は思ってる。中学で仲良くしてて、高校でも仲良くて、一緒にいて、楽しかったのに。本当にそう思ってたのに。……こういう風に手のひら返して、今までずっと一緒にいた泰介達のこと、こんなに簡単に悪く言えちゃうんだなって、思ったら……その」
「……幻滅したくらいが、何だってんだよ。敬が悪いわけじゃねーし、そんなんで傷つくなっての。お前のそういうとこ、ほんとうぜぇ」
「だって。……僕だって手のひら返したのは一緒なんだなって、そう思っちゃっただけだよ」
敬はそう言って、重い溜息を吐き出した。だが泰介としてはその本音が聞けただけで今は十分のように思えてしまった。敬は辛そうだが、吐き出した分だけきっと軽くなるだろう。
全く、手のかかる友人だと思う。
「考え過ぎんなって。それにお前って、他にも気になる奴いるんだろ?」
「え? ……え、えっ!? ちょっと泰介、なんでっ」
「あ、やべ。じゃなくって。お前見てたら分かりやすいから」
「泰介、今やばいって言わなかった? なんで泰介が知ってっ」
「あー、うるせえ」
失言を無理やり有耶無耶にしていると、「あ」と不意に敬が言った。
「どうした?」
「葵ちゃん」
その言葉に振り返ると、確かに廊下の突き当たりに葵の姿が見えた。
ただ、様子が少し変だった。葵は背後の保健室から丁度出てきたところのようだったが、ふらふらとした足取りは今にも縺れて転びそうなものだった。
「葵。どうした?」
ほんの数メートル先をとろとろ歩く幼馴染を、泰介は呼ぶ。
だが葵の反応は、こちらが予想した以上に鈍いものだった。
声には反応したようだったが、緩慢に辺りを見渡しても泰介達に気づかず、不思議そうに、首を傾げて――そのまま、崩れ落ちるように倒れた。
「!」
敬が息を呑んだ時、泰介はもう駆け出していた。ノートの山とプリントを脇へ放り、滑り込むように屈み込む。敬も慌てて後を追ってきたのが足音で分かった。
「おい! 葵!」
抱え起こして、ぱちぱちと軽く頬を打つ。するとあっさりと目が開き、驚く葵と目が合った。
「あっ……ごめんなさい! ……あ、れ? 泰介?」
葵は身体を強張らせたが、自分を助け起こしたのが泰介だと分かると、きょとんと目を瞬かせる。だがその目は焦点が合っておらず、泣いてもいないはずなのに潤んでいる。身体も熱く、頬も赤い。
どういう状態なのか、すぐに把握できた。
「葵ちゃん、大丈夫?」
敬が切羽詰まったような声で呼ぶと、葵は弱々しく笑ってそれに応えた。「敬くん、ごめん、心配させて」と言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「何だよ、お前! 朝めちゃくちゃ元気だったくせに、風邪か?」
「ん。でも、風邪気味かなあって思ってたくらいで……こんなになるなんて思ってなくて……でも、ちゃんとおでこ冷やしてるよ? ほら」
言いながら葵が前髪を捲るが、そんな事をされても頭が痛くなるだけだ。
「そういう問題じゃねえから! 今日はもう帰れ!」
「うん、帰るつもり。でも鞄だけ、取りに行かなきゃ。……あ、まだ次の授業の先生に、何も言ってない……」
夢うつつの声に、泰介は敬と顔を見合わせた。
「先生に話したら、タクシーとか呼んでもらえるんじゃないかな? 僕訊いてくるよ」
敬の言葉を聞いた葵は、「いい。だいじょうぶ」と主張してきた。大方タクシーなど呼ばれて大げさにされるのが恥ずかしいといった所だろうが、それを聞いた泰介の苛立ちは倍増した。
「大丈夫じゃねえよ。倒れるに決まってんだろ。どっかでお前が行き倒れたら俺と敬が寝覚め悪りぃんだよ」
「ん……そう、だよね。ごめん」
葵は素直に謝ったが、明らかに思考が働いていない状態の受け答えは、こちらの不安を煽るばかりだった。
「……敬、ちょっとこいつ見ててくれるか?」
泰介はノートの束を抱え上げると、困惑の顔の敬へ言った。
「ノート置いて、葵の鞄取ってくるから」
「うん、じゃあノートよろしく。ありがと、泰介」
「ああ。じゃ、頼んだからな」
泰介は駆け出した。教室で仁科と話していた時は元気に見えたので気づかなかったが、考えてみれば葵はいつも今ぐらいの時期に風邪を引いていた。毎年の事なのだから、気に掛けていればよかったのかもしれない。
そんな事を考えながら教室に戻ると、泰介はノート束を教卓に乗せて「ノート返ってきたけど、悪りぃ。これ、各自で回収してくれ」と声を張った。クラスメイト達がてんでに頷くのが見えたところでノートの山から背を向けると、自分の席へプリントを放り、葵の席へ向かう。
「吉野。佐伯はどうした?」
古典の問題集から顔を上げた仁科が、不思議そうに泰介を見た。泰介が葵の鞄を提げて教室を出ようとしたからだろう。青いサテン地のリボンが、動きに合わせてひらひら揺れた。
「熱出たんだよ。葵。これから早退」
泰介がそう言ってやると、仁科は少し驚いたような顔をした。
「元気そうに見えたのに、意外だな」
仁科でも、気づかなかったのか。仁科は泰介よりは人の表情を観察しているように思っていたので、泰介としてはそちらも少し意外だった。仁科は感情に乏しい顔つきのままだったが、微かな驚きを湛えた目が、すとんと机に落ちる。
泰介は、嘆息した。
「心配ならお前も来いよ。昇降口の近くで、敬が今一緒についてるから」
仁科はしばらく沈黙していたが、やがてノートを閉じて席を立った。葵にはどこまでも甘いらしい。様子が気になるなら素直にそう言えと思う。仁科を背後に伴った泰介は教室の扉へ向かったが、ふと、刺すような視線を感じて振り返る。
「……」
クラスメイトのほぼ全員が、泰介を見つめていた。目が合った数人はさりげなく目を逸らしたが、速攻で首の向きを変えるようなあからさまな輩も中にはいて、泰介は思わず目を吊り上げた。
何を見られていたかは、分かる。泰介が持つ葵の鞄に間違いない。この鞄は目立つリボンが結ってある所為で、一目見れば葵のものだと誰でも分かる。それを当然のように肩に提げて出ていこうとする泰介の姿が人目を引いたのだ。
ここにいるメンバーから以前受けた謂れのない糾弾の記憶が蘇り、電光石火の勢いで怒りの感情に直結した。
「おい……何、見てんだよ。お前ら」
うっかり漏れてしまった泰介の恫喝を、近くの女子が拾ったらしい。「ひっ」と小さな悲鳴が上がり、泰介は我に返る。だがその時にはもう遅く、教室には緊張と気まずい空気が瞬く間に広がった。
「ちっ……」
正直な所、こればかりは面倒だった。
教室に秋沢さくらはいないようだったが、さくらが帰還すれば余計に事態が酷くなるのは明白だ。敬の警告の言葉を思い出す。そしてそれを裏打ちするように、さくらの今朝からの態度には不審な点が多かった。
目が合えば泰介へ挨拶はしてきたが、明らかに声音が低かった。普段の調子であれば風邪の具合についてからかってきそうなものだがそれもなく、修学旅行の話題にも一切触れなかった。葵にはいつも通りに挨拶しようと近づいていくのが見えたが、隣の仁科がいるのを見ると、黙って引き返していった。そうなると、さくらはひどく寡黙になった。
お調子者のさくらの不機嫌は周囲を戸惑わせたようで、女子生徒達は何となくさくらを腫物のように扱っている。泰介でさえそんな風に気づくのだから、余程露骨な態度に違いない。
さくらの不機嫌の原因は、分かっている。
そして頭が痛い事に、それは一つではなかった。
まずは、敬の指摘した修学旅行のボイコット。泰介に関してはサボりではないが、葵と仁科の二人に関しては言い訳の余地がない。
二つ目に、仁科要平が始業前から登校していた事。
そして、それによって――葵を、仁科に取られてしまったとさくらが思い込んでいるかもしれない事。これが三つ目だろう。
そんな最悪の状態の中で泰介までこんな風にクラスメイトから見られていると知られたら、泰介は再び糾弾の対象に追いやられ、葵共々同じ目に遭わされるに決まっている。
別に、構わないとは思っていた。どう言われようが泰介としてはどうでもいいのだ。だがだからといって、葵をまた同じ境遇に立たせようという気にはもう到底なれなかった。
以前窮地を救ってくれた敬と葵は、二人揃ってここにいない。そして仮にいたところで、今の二人ではどうにもならないと分かっている。それでも尚目の前の理不尽に対する文句が喉元まで込み上げて、泰介の足を教室へ縫い止めていた。
「……」
ただ、あんな状態の葵を待たせている以上、ここで時間を食っているわけにもいかない。泰介は釈然としない気持ちを抱えたまま、教室から出ていこうとした。
だがその時、意外な所から救いの手が差し伸べられた。
目の前に、学ランの背中が立ったのだ。
驚き、見上げる。そいつは、しれっと言い放った。
「何、見てんの」
仁科が、泰介とクラスメイトの間に立っていた。そして感情に乏しい目で面倒臭そうに、生徒一人一人を実に適当に眺めた。
全員が、突然の質問とも取れる仁科の声掛けに吃驚して竦んでいる。そしていよいよ気まずそうな表情になって黙り込み、やがてそのまま俯いた。
頭髪がオレンジから黒になっても、御崎川随一の秀才兼問題児、仁科要平の言葉の効果は絶大だった。
「……仁科、お前」
「佐伯待ってんだろ、吉野。行くぞ」
言いながら仁科はこちらへ歩き、扉の前に立つ泰介を邪魔そうに見やった。かちんとくる仕草だが、泰介は促されて教室を出る。
並んで廊下を歩いていると、仁科が特に面白くもなさそうにぼそりと言った。
「吉野、何やってんの。お前っていつもはもうちょっと飄々と躱してるだろ。ああいうの。意外と器用だったじゃん。なんで今日はキレるかな」
「……うるせえよ」
思わず悪態で返してしまったが、泰介は髪を掻き揚げると、吐き捨てるように言ってやった。
「……助かった。一応礼言っとく」
「珍しい事もあるもんだな」
「うるせえよ、オレンジ頭」
「もうオレンジじゃない」
仁科が、揶揄を込めて笑った。そんなやり取りを交わしながら、一階へ辿り着こうとした時――目前に迫った廊下を横切った人影に気付き、泰介は目を剥いた。
秋沢さくらだった。
たたた、と軽やかに廊下を駆けていくさくらは一瞬で泰介と仁科の視界から消えていった。即座に行動を決めた泰介は、足音を忍ばせて階段を降り始める。
「……吉野。今日のお前、やっぱりおかしい。なんか変質者っぽいんだけど」
「黙れ、仁科。お前も来い」
泰介は鋭くそう言って、呆れと不可解さで妙な顔をしている仁科を引っ張る。
今、見えたのだ。走るさくらの両手に、何かが握られていたのを。
「どこ連れてく気なんだ、吉野。佐伯はいいのか?」
「敬がいるから平気だろ。それに、すぐそこにいるし。こっちの用もすぐ済む」
そろりと一階へ降り立つと、泰介はざっと周囲を見渡してさくらの姿を探す。そして昇降口前の下駄箱の影に女子生徒の後ろ姿が消えるのを見つけ、そろりと足音を引き続き忍ばせながら、それでも大股に近寄った。
途中、壁にもたれて放心する葵と、その葵の肩へひざ掛けをかけて付き添う敬の姿が見えた。
敬がこちらに気づいて口を開くのが見えた瞬間、泰介はぶんぶんと首を横へ振り、黙れとジェスチャーする。敬はぽかんとしていたが、今はそちらに気を回す余裕はない。
「仁科」
小声で呼ぶと、仁科は泰介の警戒を面倒臭がりながらも汲んでくれたのか、目だけでこちらへ問うてくる。
「犯人、そこにいる。ちょっと俺に付き合え」
「……ああ。なんだ。そういう事か」
仁科は、心底どうでもよさそうに嘆息した。
「分かってるようなもんだったけど。犯人なんか。吉野ってほんと喧嘩ばっかやってきたんだな。実は喧嘩、好きなんだろ」
「うるせえよ。いい加減見てるこっちの苛々が限界なんだよ。――ほら、行くぞ!」
仁科の腕を引き、じりじりと下駄箱へ近づいてから、泰介は不意を打って一足飛びに跳躍して、下駄箱の影から躍り出た。
「さく!」
「!」
そこにいたさくらが、ぎょっとした様子で振り返った。
「泰介……何よ」
「何って、お前こそ何やってんだよ」
泰介は、仁科を前へ押し出した。押された仁科が嫌そうな顔をしたが、構わず二人でさくらに近寄り、下駄箱の中を覗き込む。
「は?」
仁科が、呆けた顔で呟いた。
「……。雑草?」
そこには、予想通りとも言うべき惨状が展開されていた。
木枠で囲われた下駄箱の一角に、明らかに中庭辺りから適当に引き抜いてきたと思しき萎びた草が詰められていた。それは運動靴とローファーの中にも入っていて、簀子の上にも散っていた。
泰介はその光景を、苦々しい気持ちで見下ろした。
こういう糾弾をする事が、正しいやり方かは分からない。もしかしたらこれで余計に逆恨みされて、また葵を巻き込むかもしれない。そんな危惧が、再び頭をもたげる。だが、それでも泰介は思うのだ。こんなものを見過ごすのは、死んでも嫌だと思うのだ。
「……」
さくらは、唇を噛みしめて俯いた。その手についた泥を隠すように、腰の後ろへ隠す。手を泥だらけにしてまでこの行為を実行に移そうとする執念に、泰介は明確な嫌悪を覚えた。そして同時に、諦観も浮かぶ。
時間が戻ったところで、さくらとはやはり戻れそうにないらしい。戻る気もなかった泰介としては、むしろ望むところだった。
「……何よ。泰介。さくに言いたい事あるんでしょ。言えば」
「言いたい事あるのは俺じゃねえよ。勘違いすんな」
本当は山ほどの文句があるが、それらをなんとか呑みこんだ泰介は仁科を押し出す。押された仁科はやはり面倒臭そうに泰介を見下ろしたが、やがてさくらに向き直ると、ぽつりと、無感動に言った。
「お前さあ……えっと、悪い。名前忘れた」
「秋沢」
さくらがつっけんどんに名乗る。仁科を睨め上げる目に、憎悪と戦意が閃いた。
だが仁科はそんな戦闘犬のような目をものともせずに、淡々と言った。
とんでもない発言だった。
「秋沢。お前、俺のこと好きなのか?」
変な、間が空いた。
「はっ? なんで! あんた何見てそんな寝ぼけたこと言ってんの! ばっかじゃないの!?」
さくらが火を噴くような勢いで怒鳴り散らすが、仁科は相変わらずの無表情で、目の前の女子生徒を冷淡な目つきで眺めていた。
そして、す、と下駄箱を指でさす。
「花、入ってるじゃん。毛嫌いする相手の下駄箱に入れるんなら、もっと徹底すりゃいいのに。詰め甘すぎて萎えるんだけど」
「……っ!」
さくらの顔が、怒りで紅潮した。泰介は妙にピントのずれた仁科の言葉を、茫然と聞いていた。喧嘩慣れしていない人間を矢面に立たせると、こんな妙な事になるらしい。
「仁科、お前って俺にはよく厭味言うくせして、ほんとにこういう喧嘩とかろくにした事ねーんだな。変なこと言ってるぞ」
だがそれでも立派に相手を挑発しているので、及第点といったところだろう。溜飲を下げた泰介へ、仁科が「なんで当事者の俺よりお前の方が怒ってんの」と、愉快げに笑った時だった。
「……泰介、仁科?」
背後から、声が聞こえた。
葵だった。隣には敬もいて、二人は土で汚れた下駄箱前で揉める三人を、硬い表情で見つめている。
「……」
虚ろだった葵の目に、理性が浮かぶ。葵は敬に支えられて立っていたが、つかつかとこちらに歩いてきた。
敬が慌てて「葵ちゃん!」と呼んだ時にはもう遅く、仁科とさくらの間に割り込んだ葵は、躊躇せずに下駄箱の中へ手を入れた。運動靴とローファーの両方をそこから引きずり出すと、それだけで縮れた草がぼろぼろ零れた。
「あ、葵……」
さくらの顔が蒼白になったが、葵はさくらを見なかった。ただ二足の靴を抱えると、昇降口へ大股に歩いた。
「待って、葵!」
「見ててよ、さくら!」
葵が振り返った。目に、涙が薄く浮かぶ。
「さくらが下駄箱に何か入れた後で、私たちが後片付けしてるとこなんか、見たことなんて、ないでしょ。……見ててよ。さくら。ちゃんと、見ててよ」
泰介は、その場から凍りついたように動けなくなったさくらを残し、葵へ近づく。昇降口の扉を開けようとして、力が入らない様子の葵に手を貸して、扉を開けてやった。
「……泰介」
目に涙を溜めた葵がこちらを見上げたが、怒っている顔を見られたくないのだろう。すぐに目を伏せられてしまう。泰介は構わず、言った。
「どっちか、寄越せ。片方やるから」
「……」
葵はしばらく動かなかったが、やがて顔を伏せたまま、ローファーの方を泰介へ差し出した。
「……お前ら、何やってんだか。両方俺の靴だろ。俺がやる」
嘆息した仁科が、さくらの隣から動く。その場に残された敬は複雑な表情で全員を見ていたが、「箒、取って来るから」と言い残して踵を返した。
さくらはその場に立ち尽くしていたが、やがてぱっと身を翻して走り去った。すすり泣く声が、少し聞こえた気がした。
「いいのか、吉野。……佐伯も。昔からの友達だったんだろ」
泰介は、それを言う仁科を見上げた。
あっさりと、目が合った。こちらを見下ろして会話をしているとは思わなかったので、泰介は鼻白む。だが、結局思った通りの事を言った。
「いい」
全てが綺麗に纏まるなどとは、最初から思っていない。時間が戻せたからといって、戻らないものもあるだろう。それはただ本当に、それだけの事なのだと泰介は思う。泰介の答えを聞いた仁科は不意を衝かれたような顔を見せたが、こちらの言葉の明瞭さが可笑しかったのか、口の端を持ち上げて笑った。
すると葵まで「いい」と頑なな調子で言い出したので、仁科は俯く葵を見下ろした。
「……佐伯。悪かった」
「どうして……仁科が、謝るの。辛い思いしたの、仁科なのに」
葵は顔を上げないまま、途切れ途切れに喋った。呼吸が、か細い。
「嫌な思いさせた」
「そんなこと……」
葵はまだ何か言おうとしていたが、やがて、靴を取り落とした。身体が傾いだのが分かったので泰介が背中を片手で支えてやると、葵は小さく嗚咽を漏らした。
「ごめんね、仁科」
それだけを葵が囁いた時、泰介の腕にかかる重みが、少し増した。
「……っと」
慌てて、支え直した。どうやらもう限界らしい。
「……。仁科。俺も早退する」
泰介は、ぶっきらぼうに言った。先程まではタクシーに乗せる所まで見送れば十分と考えていたが、さすがにここまで意識が朦朧としていると、それさえも心配になる。
「こいつ、家に誰もいないから。少し学校で休んで、動けるようになったら連れて帰る」
「それなら安心だな」
仁科はそう言って靴を拾い、泰介からも靴を回収した。
「佐伯、聞こえるか。保健室で少し休ませてもらえ。動けるようになったら、吉野が迎えに行くから」
「……ん」
小さな、葵の返事が聞こえた。




