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疑似家族・前

「仁科さん。さっきお話に挙がった吉野泰介です。……おい、吉野。佐伯はどうした? 一緒に来るように言っただろう?」

 担任の島田の声を黙殺し、吉野泰介は歩く。朝の白々とした光が射しこむ応接室に舞う埃が、窓際でちらちらと輝いた。泰介は「おい、吉野!」と僅かに声を荒げる島田を無視し、面会の相手である長身痩躯の前に立つ。

 そして、見上げた顔つきのあまりの相違のなさに息を呑んだ。

 だが、意を決して言う。

「吉野泰介と申します。佐伯葵の方は、すみません。呼び出されてるの、本人には伝えてません。でも、佐伯の知ってる事は大体俺も知ってます。だから佐伯が話せない分は、代わりに俺が話します」

 泰介は頭を下げた。

 無礼は、承知していた。

「そうか」

 短い返答を受けて頭を上げると、ダークグレーのスーツに身を包んだ背の高い男は、感情に乏しい顔つきを全く変えないまま、泰介へ頭を軽く下げた。

「仁科健吾。話は島田先生から聞いていると思うが、要平の父だ。息子が、世話になった」

 朴訥な喋り方に、既視感を覚える。

 似ているのだと、気づいていた。

「病院。駆けつけてくれた子、君だろ。覚えてる。もう一人いた女の子が、佐伯さんか」

「……そうです」

「その時から、そうだと思っていた」

 ソファに腰かけもせずに、立ったまま話し始めた高校生と男を、島田が少し離れた所からはらはらと見守っている。そして「仁科さん、どうぞお掛けになって下さい」と声を掛けてきたが、仁科と呼ばれた男はそれには返事をせず、硬い表情で睨むような目をした泰介を見下ろしていた。

 泰介は、手に持っていたものを差し出した。

「……現像、しました。写ってるの、こんなのしかないですけど」

 泰介の手の茶封筒を、男が受け取る。封筒を掴む長い指は武骨だったが、何故だか繊細な手つきに見えてしまう。そんな所が、やはり似ていた。

 男は、その場で封を開いた。

 そして――初めて、口の端を僅かに持ち上げ、笑った。

「ありがとう」

 お礼の言葉に、泰介は無言のまま俯いた。礼を言われるような事など、何もしていない。それどころかあの修学旅行で割かれてしまった時間を思うと、後悔の念が毒のように身体を蝕み、苛んだ。

 集合時間と夜のラウンジを中心とした、三人の時間。制服で過ごした時よりも風呂上りのラウンジの方が時間は長く、皆格好はジャージだった。ラウンジにいたクラスメイトを葵が捕まえて、写真を撮ってもらったものだ。

 明るく楽しそうに笑う幼馴染を真ん中に据えて、対面の人物へ喧嘩腰でつっかかろうとする自分の姿が映っている。反対側には揶揄を滲ませた顔で笑う、オレンジ色の髪の青年。

 一回目の撮影でぶれたので、撮り直された。その間で勃発した他愛のない喧嘩をこっそり撮られていたらしい。これほど普段の日常を顕著に表す写真もないだろうと葵はデジカメの映像を見て笑っていたが、今やそれを思い出す事さえ、胸が痛かった。

「君達の名前、もっと前から知っていた。初めて要平が、友達の名前を食卓で言ったんだ」

 ぼそりと、男が言う。端正な顔には微細な皺が見られ、声も泰介の知るクラスメイトよりずっと低い。それに立ち姿が脆弱な印象の残る仁科と違って、同じ細身でも男はずっと精悍だった。

 それでも、似ていた。

 喋り方も、雰囲気も、何もかもが仁科要平を髣髴とさせる。親子なのだと、はっきり思う。

「要平の遺品だ。返すべきか迷ったが……君が、受け取ってほしい」

 男は写真を懐に収めると、代わりに泰介へ、手に持っていた別の封筒を渡した。

 泰介はそれを無言で受け取り、男が頷くのを認めると、その場で中身を検める。

 息が、止まった。

「……な、なんで……」

 何故、と思った。ただ、唖然とする。

 それが何故、遺品になるのか。いくら必死に考えても答えは出なかった。

 唐突に戻ってきた失せ物に驚いて、心がついていけなかった。

「……病院で、君を見た時。あの佐伯さんという子を、とても大切にしているんだと思った」

 男は、言った。

「なんで要平がこんなものを持っていたのか、事情は知らないが……。何も知らないはずの君達が、渡すわけがない。どうやって手に入れたんだろうな。要平は。……佐伯さんの知ってる事は君が話すと、さっき言っただろう。それを聞いて、確信した。やっぱり佐伯さん本人に返すよりも、君に返した方がいい気がした」

「……なんで……、佐伯の事……何か、知ってるんですか」

「……。さっきの言いようだと、あの子の事情は知っているんだろう。そこの先生は気遣って下さって、佐伯さんも呼んでくれたようだが……来たのが君一人で、よかったと思う」

「……どういう、意味ですか」

「繊細そうな子だ。気に病むだろう。間違っていたら、すまない。知ったような口を利いた」

 泰介は男の観察眼に目を瞠りながら、同時に葵を連れてこなくて本当によかったと、胸が締め上げられる思いで俯いた。そのまま頭を、深く下げる。

 事情はまだ、半分も呑みこめていなかった。

 だが、この遺品が仁科要平に何らかの影響を与えた事だけは――理解した。

 多分、葵は耐えられない。

 耐えようとするだろうが、させたくなかった。

「佐伯さんは、この呼び出しに応じたのか」

「……俺と、二人で。でも相手は来ませんでした」

「先回りされたんだろうな。要平に」

「な……」

 セロハンテープの継当てを握り締めながら、泰介は顔を上げた。

「顔見て、分かった。今写真を見ても、やっぱりそうだと思う。……似てるんだ。実際に会ったのは一度きりだが。綺麗な子だった」

 朴訥とした声は、感情の欠落を思わせるような空虚さで、応接室に静かに響く。

「要平達が何を話したかは知らないが……あれは、あまり褒められた親御さんじゃない。昔の事しか、私は知らないが。……きっと、知らなくてもいい事を聞いたんだろう」

 言葉を一度そこで切って、仁科の父は、訥々と言った。

「息子が死ぬのを止められなかった私が、言えた義理ではないが」

 話についていけずにぽかんとしている島田を、仁科健吾は振り返る。そしてしばらくの間席を外してくれるよう要求し、泰介と二人だけになると、ようやくソファへ掛けた。促され、泰介も対面へ座る。

 そして泰介は、過去を知る。

 仁科要平の過去を、仁科要平がいなくなって初めて、仁科要平でない人間から聞いて、知る。


     *


 授業が終わると、佐伯葵と連れ立って学校を出た。

 そんな風に二人で帰るようになって、しばらく経つ。

 早めの帰宅は部活漬けだった泰介にはまだ馴染まず、何だか胃の底の辺りがふわふわする。校舎の外周を走っている陸上部員を見ると、自分がまるでずる休みか病欠をしているような後ろめたさと、息抜きをしているような気の緩みの両方を感じた。同学年の何人かが「吉野ー」と叫びながら泰介へ手を振ってきたので、おざなりに振り返してやった。

 二人で校門に向かって歩いていると、「あ」と葵が声を上げた。

「どうした?」

 泰介は訊いた。日が傾き始めた空はオレンジ味を帯び始め、灰色の雲が焼けるような赤に染まっていく。そんな様をぼんやり見ていたので、葵の声は不意打ちだった。

「晩御飯。メニュー考えてなかった」

 ぽつんと、葵が言う。完全に失念していたと言わんばかりの表情だった。

 なんだ、そんな事かと拍子抜けした。泰介は嘆息して「そんな事かよ」と実際に声に出して言ってやったが、葵としては重要な問題だろう。「むー」と小さく唸りながら、思案気な顔つきで空を見上げていた。

「冷蔵庫何入ってたっけ……」

「お前、さ」

「うん?」

「何か、食べたいのある?」

 特に抵抗なく、そんな台詞が口をついて出た。相手が、葵だからだろう。照れも衒いも何もなかった。

 聞いた葵が、ぱっ、と顔をほころばせた。

 だがすぐに、その笑顔が少し萎む。最後は控えめな笑みに落ち着いて、

「何でも。何でもいいよ」

 と、どことなく寂しさを感じさせる声で囁いた。

「そういうこと訊いてるんじゃねえよ」

 半ば想像通りの答えが返ってきたので、思わず憮然として泰介は言う。そんな優柔不断な態度が一番困るのだ。葵は自分でも分かっているのか、困ったように微笑んだ。

「何でもいいんだけどなあ……ほんとに。ね、泰介は? 合わせる」

「俺はいいって。ほら、吐けよ。早く」

「あはは。もう、急かさないでよ」

 泰介の性急さが可笑しかったのか、葵はくすりと笑った。

 多分、これが今日で一番まともな笑顔だっただろう。泰介はその表情を見て、自分の心がふっと軽くなったのを感じた。

 今日も、葵は笑う。

 そしてたったそれだけの事に、安堵を覚えるこの状況を思った。

「泰介?」

 葵が怪訝そうに、こちらを覗き込んできた。

「決まったか?」

 こちらの逡巡などなかったかのように顔を上げると、泰介はぶっきらぼうに尋問を再開する。葵はどことなく物憂げな表情で泰介を見つめていたが、やがて淡く笑うと、もうちょっと待って、と小声で言った。

 吹き抜ける風が、冷たい。もうじき駅に到着するので、構内に入れば少しは暖かいだろう。泰介は葵を待ちながら、己の台詞を反芻する。

 何を食べたいか、なんて。

 他愛のない質問だと思う。だがたとえ幼馴染相手であっても、以前ならいちいち訊かなかったかもしれない。多分、そこまで気を回さなかったと思うのだ。それが今は、こうして訊いている。

 普段と何ら変わらない距離で隣に立ちながら、変わらない声音で、葵と過ごす。

 あまりに気心が知れている上に、何を考えているかなど大抵聞かなくとも分かる。そんな、幼馴染だった少女。泰介は溜息を吐くと、空を振り仰いだ。

 飛行機雲を漫然と目で追い、思う。自分は、変わったのだろうか。

 泰介、と葵に呼ばれた。見下ろして目が合うと、葵は悪戯っぽく微笑んだ。

「泰介、料理すごく下手じゃない。私が無理難題ぶつけてきたら、どうするの」

「失敗したら責任は折半に決まってんだろ。お前の監督不行き届きで」

「やっぱり。そんなとこだと思った」

 葵が、笑った。

「ねえ、カレー食べたい。野菜だけちょっと買い足したら、材料うちにあるよ」

「そんな簡単なのでいいのかよ」

「だって、泰介のレベルに合わせなきゃ。フライパン焦がされちゃいそうだし」

「言いやがったな、お前」

 葵と一緒になって、いつしか泰介も笑っていた。だが表情は笑顔を浮かべながら、頭は全然違う事を考えていた。

 今が、楽しいと思う。その気持ちに、嘘はなかった。そして今を楽しむ事が罪悪だなどとは、泰介は微塵も思っていないのだ。

 だが、葵はどうなのだろう。

「……」

 意識して、優しくする事。

 それがこんなにも、胸を絞めるものだなんて知らなかった。


     *


 二人でスーパーを出ると、日はもう沈みかけていた。藍色を帯び始めた空の彼方で、赤い太陽が燃えている。線香花火のような薄幸さを湛えた明かりは周囲の雲の色を茜色に染め上げて、燃えるようにたなびいていた。

 綺麗な、夕空だった。夜が間近に迫った空を見ると、秋の終わりと冬の到来を、否応にも思い知らされる。

 夜が、長くなっていく。

「……綺麗だね、空」

 そんな泰介の心を見透かしてか、葵がぽつりと言った。

「ん」

 泰介も、短くそれに応える。手に提げたスーパーの買い物袋ががさがさと音を立て、ニンジンと玉ねぎが膝に当たった。

 それきり葵は何も言わず、ただ黙って泰介の隣を歩いていた。スーパー脇の小道を抜けて住宅街へ入ると、ぽつぽつと等間隔に灯った電灯が二人の行先を照らしている。真っ直ぐに続く道の先には道路の終わりと、その向こうの街並み、そしてやはり空があった。

 血のように赤い空が暗く淀み、浅葱色と混じりあい、星が瞬く藍色へ溶けていく。やはり綺麗だと、ぼんやり思う。

 会話は、もうほとんどなかった。

 特に必要だとも、思わなかった。

 何もなくても、よかったのかもしれない。こんな風になるずっと以前から、葵との間に余計な会話など要らなかったのかもしれない。泰介は、そんな風に思う。

 ただ互いの靴音だけが、黄昏時の沈黙に響く。それだけが全てだった。本当に他には、何もなかった。

 くしゅん、と葵がくしゃみをする。

 何気なく見ると、両手を胸の前で合わせて震えている。その段になってようやく、泰介は口を開いた。

「そろそろセーターとか、上に着た方がいいだろ。寒がりが何やせ我慢してんだよ」

「そうだよね。ちょっと前までそれ考えてたのに。忘れてた」

 葵が少し照れたように、笑った。

「葵、これちょっと持て」

 泰介は立ち止まると、スーパーの袋を葵へ押し付けた。唐突だったので葵は慌てたようだったが、言われるままに袋を持ってくれた。

 泰介は肩から提げていたスポーツバッグを、地面へ落とす。舗装された歩道の上にぼすんと落ちるバッグを見て、葵は泰介が何をしようとしているのか悟ったらしい。小さく息を呑む声が聞した。

「泰介、いい」

 泰介は聞かなかった。

 ボタンを外して学ランを脱ぐと、ばさりと葵の肩に回して掛けた。

「……」

 葵は、俯いた。

 泰介も、動かなかった。

 学ランを回し掛けて、両肩に手を置くような体勢になって初めて、今まであまり意識した事のなかった体格差に気づく。元々泰介は小柄な方で、成長期を迎えても身長はあまり伸びなかったし、運動をいくら頑張ったところで筋力も望むほどつかなかった。

 だがそれでも、いつしか葵を見下ろしている。

 同じくらいの、背丈だったのに。肩幅だって、もう昔のままとは違うのだ。目の前の少女がひどく、華奢に思えた。俯かれてしまったから、尚更そう思うのかもしれない。

 冷たい風が、吹き抜けていく。

 空が暗さを、増した気がした。

「……困る」

 葵が、呟く。

「……何が」

 泰介は、殊更ぶっきらぼうに言った。

「だって」と葵が笑った。顔は見えないが、笑ったのだと分かる。

「泰介に優しくされたら私、泣いちゃうでしょ」

「泣けばいいだろ」

 泰介は、言う。

「……怒らない、から」

 葵は、黙った。

 通行人のいない住宅街の端で、太陽の沈んだ空から赤みが失せていく。冷たい風がひゅうと音を立てて吹き抜けた時、ばさりと買い物袋が落ちた。

 とん、と。

 音を立てて、シャツを着た自分の胸板に、頭がぶつかる。

 もう動揺などしないと思っていたのに、それでも少し、狼狽えた。葵の手首を掴んだ事を思い出す。乱暴に握り締めた所為で、うっすらと赤く腫れた細い手首。力加減が、分からなかった。また荒っぽくしてしまうのではないかという危惧で、持ち上げたままの手が、止まる。

 まるで壊れ物に触れるような拙い手つきで、黒いセーラー服を覆うぶかぶかの学ランごと抱きしめた。

 寒いと凍えた葵の身体は、熱かった。

 生きている、温度だった。

「ごめん」

 葵が、震える声で言った。

「……次謝ったら、ぶっ飛ばす」

 泰介はそれだけを言うと、葵の肩に顎を乗せた。


     *


 アパートの階段を上がる音が、かつん、かつん、と黙に響く。そんな音もすっかり耳に馴染んでしまった。

 葵が鍵を開け、家の中へ二人して足を踏み入れると、薄暗い室内は淡い紫を帯びた青に染まっていて、窓から射す夜の気配が、寒々とした空間を茫漠と浮かび上がらせていた。

 葵がすぐに、電気を付ける。

 ぱ、と点いた蛍光灯の明かりが、薄闇を駆逐して白い光を投げかけた。

 勝手知ったる葵の家。小学生の頃は何人かで時々遊びに来ていたし、中学生の頃には親同士が既に仲良くなりつつあったので、田舎から野菜等が送られて来た際にはおすそ分けしに伺っていた。

 それでも高校生になってからは、滅多に来る事はなかったと思う。そんな少し前までの自分が、随分遠い存在に感じられた。

 泰介は買い物袋を台所へ運び、背後を振り返る。

 葵は通学鞄を部屋に置きに行っていたらしい。蓮香との共同部屋だという自室から出てきたところだったが、ふらふらと部屋の隅に据えられたソファへ向かうと、そのままへたり込むように座ってしまった。

「疲れたか?」

「ううん」

 葵はぱっと泰介を振り返るとそう言ったが、やがて、その表情が少し陰る。俯いた葵は睫毛を伏せると、悲しそうに笑った。

「……ごめん。嘘。ちょっと、疲れちゃったかも」

「俺がやるから。座っとけ」

「泰介」

 葵が、呼んだ。

「後で、いいよ。一緒にやりたいし。すぐ行く」

「……」

 泰介は野菜を袋から出して洗おうとしていたが、少しの間逡巡し、結局何もせずに流し台に背を向けた。

 テーブルと椅子を抜けて、テレビの真正面。二人掛けの小さなソファに座る葵が、少し身を寄せた。空いた所へ泰介が腰を下ろす。昔腰かけた時にはもっとゆとりがあると思ったのに、今は二人が座れば余裕があまりないくらいに狭かった。

 しばらく二人共黙っていたが、とす、と葵が軽く身体をこちらへもたせかけてきた。

「泰介も。疲れたでしょ」

 どこか空虚な声音で、葵が言う。声は冷たい部屋の中で思いのほか孤独に響き、その寂しさが何だか癪で、泰介はむきになって言い返す。

「疲れてなんか」

「嘘。慣れないこと、してるもん。……喧嘩は、慣れてるけど」

「……」

 そしてすぐに、言い返せなくなった。

 言い返す事を、止めてしまった。

 虚勢を張って言い返す事はできたし、事実咄嗟にそうしようとした。だが、できなかった。そんな嘘はすぐにバレると知っていた。

 葵は。

 泣いて、いるのだろうか。

 見なくても、分かっていた。泣いてなどいない。目を合わせなくても、感情が分かる。もうあれほど鮮烈な悲しみの感情は、どう引っくり返しても出てこない。出てこなくて、いいのだと思う。

 癒えるだろうか。

 簡単には、癒えないだろう。

 癒えなくても、いいのかもしれない。

 自分らしくない考えだと思うが、何故だかそう思ってしまった。

「泰介」

 葵が、小さく呼んだ。

「泣いてるの?」

「は?」

 ぎょっとした。

「何、言ってんだよ。お前じゃあるまいし」

 思わず身体を動かし、葵に向き直る。葵はやはり、泣いていない。無表情に近い葵の顔には微かな憐憫のようなものが浮いていて、そんな眼差しに、泰介はたじろぐ。

「……泣いてねえよ。見て分かったろ」

「うん」

 葵が頷いて、笑った。儚い微笑だった。

「ごめんね」

「…………」

 心が、掻き乱された。

 たったそれだけの事に揺さぶられた心に、自分の弱さが見え隠れする。それがひどく、癇に障った。痺れるような怒りで、麻痺したように思考が鈍る。

「……誰が、泣くかよ。泣いてなんか、やらねえよ」

「うん」

 手を、伸ばした。

 こちらへもたれた身体を抱え込んで体重をかけると、あっさりと倒れた。

 ソファの手すりが倒れた葵の背中を受け止めて、仰け反る首のラインが白い。少しだけ驚いたような顔をする葵の髪がふわりと揺れて、床へ流れる。ぎしりと、ソファが軋んだ。

 葵は、抵抗しなかった。動揺したように頬が紅潮しただけで、後は肩から被っていた学ランの裾を、そっと手繰り寄せただけだった。その手が邪魔だったから、片方を掴んで脇に寄せる。ふい、と泰介が動かすままに腕が動き、肩透かしを食らった気分になった。

 襟を掴んで引っ張ると、ぷつん、と軽い音を立てて留め金が外れ、華奢な肩から下着の赤いストラップが覗いた。指が素肌に触れる感触に敏感に反応したのか、葵は小さく身体を震わせて、悲鳴のような声で喘いだ。それでも抵抗はせず、こちらの為すがままだった。

「……もっと騒ぐかと思った」

 素直にそう言うと、こちらへ顔を傾けた葵が、泰介を睨んだ。

「……手、出したらぶっ殺すって、蓮香お姉ちゃんに言われてるでしょ。知ってるんだから」

「バレなきゃいいだろ。おっかねえ姉ちゃんの名前なんか出すなよな」

「あ。……やっぱり」

 葵は怒ったように、唇を引き結んだ。

「泰介。ほんとにする気なんてないでしょ」

 泰介は、驚いて手を止める。

「何だよ、それ。……この状況で、よくそんなこと言えるな」

「だって」

 葵が、目を逸らす。

「分かるよ。幼馴染だもん」

「……」

 麻痺し切っていた感情の回路が、今の言葉でやっと正常に繋がった気がした。

 至近距離の顔を見つめ、露わになった白い鎖骨と胸元に目が行く。

 一気に目が覚めた気がした。

 そしてその瞬間に、急に耐えられなくなった。

「……!」

 ぱ、と泰介は起き上がって葵から手を離した。片側へずり落ちたセーラー服から、思いきり目を逸らす。互いにしばらくの間動かなかったが、やがて倒れたままの葵がそろりと起き上がり、乱れた服を直し始めた。そんな動作が、視界の端に映る。

「……変態」

「……うるせえよ」

 覇気のない返事になってしまった。

 重い、溜息を吐く。

 悔しかったが、こんな体たらくでは泣いていると言われても反論のしようがなかった。不機嫌も露わに立ち上がると、髪を掴んで掻き揚げた。背後の葵を見ないまま、ぶっきらぼうに泰介は言う。

「あー。……忘れろ。全部」

「うん」

「……っ、絶対だからな! 蒸し返すなよ!」

「はいはい。すぐ機嫌悪くなっちゃうんだから」

 葵が笑った。

「ごはん、作ろうよ。お腹すいた」

 背後で葵が、とん、とソファから立ち上がる。振り返った泰介が見た葵の笑顔は、心なしか少し明るいものへと変わっていた。


     *


「いただきます」

 二人揃って席につき、二人揃って唱和した。これではまるで給食のようだと昨日も思った事を思い出す。こんな風景に慣れつつある自分に不意に気づき、泰介はカレーを一口分掬ったまま思わず動きを止め、葵の表情を窺った。

 葵はもぐもぐとカレーを咀嚼しながら、大いに顔を顰めていた。そしてごくんと呑みこんでから、恨めしそうに一言。

「焦げてる」

「うるせえ」

 一蹴してやった。泰介が台所に立てばこうなる事は分かっているのだから、葵の監督怠慢がいけないのだ。舌を出して挑発してやると、葵はいーっと顔を顰めて見せて、だが結局笑った。

「でもおいしい」

 ぽつん、と。狭いリビングに、それだけの言葉が染み渡る。かちゃりと、スプーンが皿の底を叩く音が嫌に大きく響き渡った。

「……そうか」

 泰介は返事を寄越すと、葵に倣って口に含む。途端に焦げた玉ねぎが喉を通過して、咽た。

 ごほごほと咳き込んでいると、葵が水を差し出してくれた。

「ね、焦げの味するでしょ? なんか飯盒炊爨のごはんみたいじゃない?」

「だからおいしいって言ったのかよ、お前」

「懐かしい感じがして、おいしい」

 くすくすと笑った葵は、テレビのリモコンに手を伸ばすとスイッチを入れた。ぷつんと電源が入る無機質な音がして、ニュースキャスターの声が流れ出す。

 葵はテレビを付けたからといって、画面の方などまるで見向きもしなかった。ただのBGM替わりらしい。葵のこの習慣を、泰介は最近になってようやく知った。

 父は仕事で夜遅くに帰宅する上、姉の蓮香も社会人だ。一人で夕食を摂る事がほとんどだから、と。そう言い訳された時、何故だか怒りが湧いたのをまだ生々しく覚えている。

 姉が社会に出てから何年になるかは忘れたが、大学生の頃からバイトなどで帰りが遅かった事は容易に知れた。

 その間ずっと、そうしていたのか。そう思うと込み上げた怒りをどう鎮めればいいのか分からず、泰介はただ、唇を噛みしめていた。

 葵はそんな泰介を、悲しそうに見つめていた。そんな風に見られてしまうから、泰介は余計に、葵の孤独が許せないのだと思う。そんな、気がするのだ。

 泰介は、リモコンを掴んだ。

 乱暴な手つきだったからか、向かいに座る葵がびくりと竦む。泰介は問答無用でリモコンを操作して、チャンネルをニュースからバラエティに変えた。少し煩くなったが、溜飲は下がった。

「泰介……」

 葵の顔には驚きが広がっていたが、やがてそれが収束していき、淡い諦めのような感情が、仄かに浮かぶ。泰介は、口元を引き結んだまま何も言わなかった。

 そんな顔を、させないためだった。それなのに結局、させてしまった。

「ありがと」

「……別に」

 ニュースの画面が変わる刹那。画面に踊った『自殺』の報道が、泰介の眼窩にこびり付いて離れなかった。


     *


 夕食の片付けも終わり、葵は風呂場を洗いに行った。

 泰介はその間に荷物を広げて、学校の宿題を黙々とこなしていた。

 佐伯家の部屋から見る窓は、暗い夜色に沈んでいる。ここにいられる間が、あと僅かだと泰介は悟る。できることなら今のうちに片付けてしまいたいので、泰介は殊更急いで問題集と格闘していた。

 英語の訳に、早速躓く。だが辞書で調べるのは答え合わせの時だ。周囲の文脈から大よその意味を割り当て、なんとか訳し、正誤問題に取り組む。それに時間内に既定の量をこなす努力は、それだけ己の血肉になる。

 こうやって問題集に取り組んでいると、ここが学校なのか泰介の部屋なのか佐伯家なのか、よく分からなくなってくる。そんな感覚が、泰介は嫌いではなかった。空っぽになるのが、気持ちよかった。

 背後から足音が聞え、葵が戻ってきたのが分かったが、泰介は顔を上げなかった。葵も心得ているので、何も言わない。蓮香との二人部屋から教材を持ってきた葵は、泰介から少し離れた所で同じように問題集を広げ、問題にあたり始める。

 そんな無言の時間が、三十分ほど続いた。

 そして泰介が宿題を全て終わらせて、答え合わせを済ませて伸びをしたところで、がちゃり、と玄関で扉が開く音がした。

「ただいま」

「あ、蓮香お姉ちゃん」

 葵の声が弾み、姉の名を呼んで「おかえり」と笑った。

「ただいま、葵。吉野君。お父さんもあと三十分くらいで帰るってさ」

 ラフなジャケットに白いパンツスーツを合わせた蓮香は、いかにも社会人然とした立ち居振る舞いに見えるから不思議だった。最近になって久しぶりに顔を合わせたが、大人の女性の雰囲気を微かだが纏い始めた蓮香に、泰介は気後れにも似た居心地の悪さを覚えていた。

 蓮香の仕草は洗練されていて、とても昔スケバンだった人間とは思えない。何となく泰介は、写真で見た金髪の少女の面構えの方が、佐伯蓮香という個人の性に合っているように思える。だからこの蓮香の姿は、見ていて少し落ち着かないのだ。昔殴られた事も、そんな苦手意識に拍車をかけているのかもしれない。

「それじゃ、俺、もう行きます」

 泰介は、そう言って立ち上がる。

 葵も一緒に立ち上がったが、ここでいいと手で制した。蓮香はそんなやり取りを横目で眺めた後、

「それじゃ、また明日」

 と言って、薄い笑みを浮かべた。

 蓮香は、泰介に礼を言わない。代わりにただいまと言う。

 泰介も、ここを出る時にお邪魔しましたとは言わない。礼も言わない。代わりに何を言えばいいのか、まだ掴めずにいる。

 だが、それは泰介が望んだ事だった。

 泰介は荷物を手早く纏め、普段よりも重さのないスポーツバッグを肩から提げると、葵に「じゃ、明日な」とだけ言い残す。葵は何かを言いたげな目で泰介を見上げていたが、結局悲しそうな笑みをこちらへ返した。「うん」と葵が頷くのを確認してから、泰介は玄関へと歩き去った。

「鍵だけ、お願いします」

「はあい」

 蓮香の返事を聞きながら、玄関の扉を閉めた。錠が掛かる音を背中で聞きながら、泰介はアパートの階段を降りていく。肌寒さが、突き刺すようだった。

 家に帰ったのは、九時頃だった。

 泰介の母は、遅めの帰宅をする息子に何も言わない。ただ、少しだけ痛ましいものでも見るかのように、表情を陰らせた。

 だが何も言わないで見守るのが、暗黙の了解だった。

「おかえり、泰介」

「ただいま」

 泰介は答えると、思ったよりも遅くなった事だけを謝った。母は首を横へ振って、居間へ引き返す。そんな母の後ろ姿を見送りながら、泰介は自然と、佐伯蓮香の事を考えていた。

 ――秋沢さくらと佐伯葵が衝突し、葵が学校を一度飛び出した、あの日。

 さくらと葵は、口を利かなかった。

 さくらは落ち着かない表情で葵の方を気にしていて、何度か葵へと話しかけていたが、葵はその度に、席を外した。

 悲しげな表情だった。同時に頑なな拒否を、全身で示していた。

 何度も逃げられて尚追い縋るさくらの姿は、クラスの視線を大いに誘った。そしてその度に、葵の目から光が失われていく。

 どんどん瞳が空虚になっていく葵が、かといって心が壊れているわけではないと、泰介だけが知っていた。それはここへ戻ってくるまでに、散々話し合った事だからだ。それなりの覚悟を決めて、葵は今、ここにいる。

 避ける葵に対するさくらの接触が度を越したものになると、泰介は構わず割って入った。それによって余計にクラスメイトの視線を集める事になったが、それでも追い払うのが先決だった。

 女子同士のやり取りに、介入など普段なら絶対にしなかっただろう。

 だが、今回ばかりは別だった。

 こちらにも、さくらを許せない理由がある。

 さくらの恨みのこもった目を、泰介は思い出す。さくら相手に喧嘩など数えきれないくらいにしてきたが、あれほどの憎悪を向けられたのは、多分初めての事だと思う。育った疑惑が、確信へ変わった。

 仁科は。

 そんなものを、仁科は、ずっと。

 おそらく、全く気に病んでいなかっただろうとは思っている。勉強の努力を踏みにじられた事に対しては相当の怒りが窺えたが、基本的にあの飄々とした仁科が、さくらのような輩に思考を割くわけがないのだ。

 仁科は、さくらを恨んではいないだろう。

 だがだからといって、それを泰介と葵が許せるかどうかは全くの別問題だった。

 追いかけて、拒絶されて、受け入れられて、たくさん話した。

 泣き疲れて空虚な瞳になった葵を、泰介は本当は怒鳴りたかった。そんな顔をさせない為に来たのに、結局虚ろは埋まらなかった。それが悔しくて不甲斐なく、何より腹立たしくて、そしてそれ以上に――胸が苦しかった。

 葛藤で顔が歪んだのが分かったが、それでもその場を離れる事だけは死んでも嫌だった。葵はそんな泰介を茫然と見上げ、それから今度は、静かに泣いた。まるで代わりに泣かれているようだった。

『……ごめんね。しっかりしなきゃ』

 葵がそう言って、心許ないながらも決然とした笑顔を見せた時、途方もなく孤独なスタート地点へ葵を立たせた罪悪感のようなものが、うっすらと心を覆った。

 その日の帰りに、二人で葵の住むアパートへ行った。蓮香がいると聞いていたので、寄らせてもらったのだ。

 葵を部屋に追いやり、扉を閉め、泰介は蓮香へ頭を下げた。

 葵と、できる限り一緒の時間を過ごさせてほしい、と。

 そしてその行為を詰り、否定する事はあっても、礼だけは絶対に言わないで欲しい、と。家族同然の扱いを要求する厚かましさを承知の上で、ここへ通わせてほしいと願い出た。

 放っておけなかったのだろうか。葵の事が。だが、そんな答えではない気がした。それにこれは一体どんな感情を元にして自分が弾きだした結論なのか、泰介自身まだ掴み切れていないのだ。それでも、理由はどうでもよかった。ただ、自分が正しいと思う事をしたかった。

 きっと馬鹿にされると踏んでいたし、されてもよかった。自分でもどこかで馬鹿だと思っていたのかもしれない。

 それに相手は蓮香なのだ。既に一度揉めた相手。泰介は反論する為の材料を脳内で組み立て、捻じ込む覚悟を固めていた。

 だが蓮香は、あっさりと了承した。

『いいわよ』

 躊躇いのない快諾は、思わず面食らうほどの速さだった。

『お父さんにも言っとく。吉野君ならいいって絶対言うだろうしね。むしろ、お願いされるかも。あの子、今不安定だし。……それじゃ、今日からよろしく』

 それは、優しさだったのだろうか。

 それとも、別の何かだったのだろうか。

 考えれば考えるほど、気鬱になりそうだったので、やめた。

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