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幼馴染と、友愛と

「さくら……何、言ってるの」

 泰介の後ろから、葵が震える声を掛けた。

 秋沢さくらとの付き合いは、泰介も葵も小学三年時から続いていた。泰介はことさくらに関しては中学高校共に陸上部が同じなので、学校で過ごす時間は葵よりさくらといる方が多いくらいかもしれない。

 あけっぴろげで、無遠慮な性格。敵も多いが友人も多い。陽気でとても社交的な、泰介と葵、共通の友人。

 そのさくらが放った異質な言葉に、投げかけられた二人共が咄嗟に返事をできず、結局沈黙を破ったのは泰介よりも葵の方が先だった。

「え? 何って?」

 くすくすと、甲高くさくらが笑う。そんなさくらの隣に立つ狭山敬は、今のところ何も喋っていない。穏やかに微笑んだ表情は紛れもなく泰介の知る敬そのものだったが、こんな状況で浮かべられた普段と寸分変わらぬ微笑は、悪戯に狂気を煽るだけだった。泰介は、歯を強く食いしばった。

 悔しかったが、何も言えなかったのだ。今の泰介は悪態一つつくのにさえ、膨大な体力と精神力が必要だった。

 耐える事。それだけで、今は精一杯だった。

「泰介っ、大丈夫……!?」

 葵が悲愴な声で泰介の腕を取り、一歩、二歩とこちらへ寄った。泰介は葵の軽率な行動に即座に気付くと、「葵!」と前を見据えたまま鋭く呼んで、行く手を阻むように右手を伸ばした。

「それ以上、前出るな」

「でも……!」

 葵が、哀願のように叫ぶ。だが虚勢を張らないわけにはいかないのだ。目の前に明らかな害意を持った敵が存在している現状で、己の窮状をひけらかすような醜態を晒すわけにはいかなかった。嫌な汗が身体中に浮くのを感じながら、泰介はそれらを全て徹底して無視し、ただ目の前の敵だけを睨めつけた。

 さくらと、敬。普通に考えるならば、泰介の友人である二人。

 そして〝ゲーム〟の渦中のこの場所で、葵に危害を加えた張本人。

 ――多分、見つけても話通じないよ。

 葵の言葉が、フラッシュバックする。

 佐伯葵という少女は、本当に誰に対しても分け隔てなく優しいのだ。人の話をきちんと最後まで聞こうとする姿勢を見せ、相手がどんなにせっかちだろうが要領を得ない話をしようが、途中で投げ出そうとせずに他者と向き合い、理解しようと努力する。おそらく本人には努力という認識はないのだろうが、葵にはそんな几帳面とも言える優しさがあった。

 ――さくらも敬くんも会話にならなかったんだもん。

 ――関わらない方がいいと思う。

 その佐伯葵に、これほどの事を言わしめた。

 異常など、それだけで十分立証できたと言えた。

 葵の警句を聞いた時から、泰介の覚悟は決まっていた。だから唐突に教室へ現れた級友の姿を目撃しても、泰介の心は揺るがなかった。友人と敵対するという事態への動揺もほとんどなく、スイッチが切り替わるように、ごく自然に敵対の姿勢を取る事ができた。

 だが、そんな風に意識をシフトできる理由が別の所にある事に、泰介は既に気づいていた。

 多分だが、二回目だからだ。こうやってさくらと対立するのが二回目だから、覚悟が既に一度できている。今の泰介はそれを土台にして臨戦態勢に入っているだけなのだと、もう半ば以上気付いていた。

 だから、こんなにも、既視感が。

「……さく」

 泰介は、さくらを呼ぶ。

 呼ばれたさくらは視線を葵から泰介へと転じ、にこりと笑った。

 そして、「で?」と、挑発するような響きの声音で、泰介へ訊いてきた。

「……で? じゃねえよ。何言ってんのか全っ然分かんねえ。やっぱお前って現実だろうが〝ゲーム〟だろうが結局知能足りてねえんだな。そんなんだと、また赤点大量に食らうぜ? それで葵に泣きつくなよな」

 挑発に挑発で返しながら、こんな喧嘩腰が通用する相手ではないと分かっていた。そして予想通りさくらは泰介の挑発に対してにたりと笑い返したのみで、文句を言い返さなかった。

 普段のさくらであれば、確実に口喧嘩へ発展しているレベルだった。

 疑惑と猜疑が、確信へと変わった。

 泰介は意識して、自分の中から躊躇いの残り粕を排斥する。

 目の前の人間は、友人では、ない。

 〝ゲーム〟内の、敵だ。

「泰介。さく、言ったよね。聞こえてなかったの?」

「うぜぇ」

 泰介は一刀の元に両断するが、さくは構わず先を続けた。

「だから。葵と泰介。どっちが死ぬの?」

 裾を握る葵が、震えた。何の躊躇いもなく飛び出した「死」という言葉の温度のなさに、閑散とした教室の空気が、さらに温度を下げた気がした。

「どっちが、死ぬの」

 さくらは、繰り返した。

 もう、三度目だった。同じ言葉ばかりを、さくらは執拗に繰り返す。

「……敬。お前さ、さくにばっか言わせてないで、なんか言いたい事あるなら言えよ」

 泰介は、敬に水を向けた。「泰介、だめ」と葵に裾を引かれたが、振り返る事はできなかった。

 泰介は、敬に水を向けた。「泰介、だめ」と葵に裾を引かれたが、振り返る事はできなかった。手が、かたかたと震えている。葵の手の震えだと思いたかったが、残念ながらそんな甘えを許すような都合のいい性格などしていない。シャツが汗を吸って、べったりと肌に張り付く。その不快感と目の前の人間に対する生理的嫌悪の全てを怒りに変えて、泰介は震える身体に鞭を打ち、一度は捨てた殺意でもって、敬を睨んだ。

「……泰介、何言ってるの」

 敬は、微笑した。

「葵ちゃんでも泰介でも、僕はどっちでもいいよ。どっちが死んでも、構わないよ」

 恐ろしいまでに無垢な声音に、葵が悲鳴のような声で息を呑んだ。

「……こんな時まで優柔不断かよ。お前のそういうとこ、俺、大っ嫌いだ」

 変に敬の性格が残っているところが異様に腹立たしい。侮蔑を込めて吐き捨てるが、敬は笑顔のままだった。

「ねえ、どっち? 泰介? 葵ちゃん?」

 敬が、笑いながら答えを迫る。狂気を孕んだ言葉で、泰介と葵に笑いかける。

 泰介はそれに、言い返そうとして――喉に呼吸が絡んで、咽た。

「っ、泰介!」

 ぎゅ、と服の裾がきつく握られた。葵は言いつけを守ってか、泰介の視界に入るような事はしなかった。ただ、裾を握る手が先程よりもずっと強い。

 もう震えてはいない、葵の手。

 恐怖以外の感情が込められているのが明白な、明らかな配慮の手のひら。

「……」

 もう、何かを言ってやる余裕さえなかった。安心させてやりたかったが、それを口にしようとするだけで体力が削れていく。ならば少しでも温存して、虚勢の足しにした方がいい。

 そうでもしないと、守りきれる自信がなかった。それにここで弱気になるくらいなら、死んだ方がマシだった。泰介は、意識を繋ぎ止める事に腐心する。怒りを繋ぎ、殺意を掻き集め、ぎりぎりのところで自我を保つ。こんなにも必死になって虚勢を取り繕う泰介の内心を背後の幼馴染が見抜いているだろう事を予感しながら、それでも決死の覚悟で、虚勢を守る。

 葵に構った瞬間に、虚勢が剥がれ落ちる気がした。

 何故なら。

 こうしている間にも――フラッシュバックが、続いていたのだ。

「っ……ちっ……!」

 がつんっ、と頭をバットで殴られたような痛みが走る。脳裏にはあの日の喫茶店の情景がちかちかと瞬き、帰りの電車で葵と交わした言葉がぐるぐると巡っている。まるで泉の底からこんこんと水が湧き上がるように、次々と記憶が溢れ、ぶつかり、脳内にぶちまけられ、泰介の意識を撹拌していく。

 まるで、意味を為さない記号のようだった。だがそれら一つ一つに意識を向けると、簡単に思い出せてしまう。そしてその行為一つ一つが、確実に泰介の体力を奪っていった。

「泰介……」

 葵の声に、涙が混じる。

 ――駄目だ……!

 泰介は、きつく歯を食いしばった。ここで泰介が倒れたら、その瞬間から葵が孤立するのだ。そうなれば葵は間違いなく捕まってしまう。一度敵の手に落ちた葵が、敬とさくらの二人を出し抜けるとは思えなかった。

 そうなれば、どうなる?

 さくらは言ったのだ。どちらが、死ぬのかと。

 間違いない。殺す気だ。どういう手段に訴えてそんな凶行を実現させるつもりかは知らないが、葵への暴行の痕を見れば危険は明らかだ。

 倒れる泰介か、残される葵か。二人のうちどちらか一人を確実に殺す気で、さくらと敬は今、ここに立っている。

「……さくら」

 葵が、唐突に口を開いた。

「! 葵、……黙ってろ!」

 泰介は、低く叫ぶ。葵自身が会話にならないと警告し、現にここで繰り広げられた会話はどれも支離滅裂なのだ。変に注目を浴びて危害が葵に及ぶような事になれば、返り討ちにする自信さえ今の泰介にはなかった。

 認めたく、なかった。

 だが、泰介はもう、本当に――立っているだけで、精一杯だった。

「……泰介。大丈夫」

 葵は、不意に声をそっと落として囁いた。

 とん、と。

 風が、吹いた。葵が一歩、こちらへ距離を詰めたのだ。

 涼やかな風はふわりと緊張感を分解して、熱を帯びた身体を僅かだが冷ます。葵は掲げた泰介の手をそっと押し上げると、自然に自分の肩へと回した。そして裾を掴んでいた手を離すとそちらは泰介の背に回して、支えるように腕を当てた。

「な……、お前」

 泰介は、茫然と、そんな葵の動きを見送ってしまった。見送る事しか、できなかった。葵に抵抗するとか、後ろへ押しとどめるとか、そんな事が全くできないくらいに自分の身体が麻痺していた。それらの行動に思い至った時には既に、葵に支えられた後だった。

 完全に、動きが鈍っていた。

 それほどまでに摩耗し切った体力と精神力にこの時初めて気づかされ、泰介は凄まじいショックを受けた。

 そうやって簡単に泰介の言いつけを破った葵は、毅然とした表情で、敬とさくらの二人を見上げた。

「……よせ!」

 泰介は泡を食って叫ぶが、葵は既に二人分の視線を受けて、唇を青くしていた。

 だが、表情だけは変わらなかった。ひた、と二人を射るように見る眼差しは真摯で、ひどく純度の高い感情が葵の瞳で揺れている。そしてそれは泰介にとって、馴染み深い感情の片鱗だった。

 ――怒って、いる。

 葵が、怒っている。初めて泰介は、それに気づいた。

 そして気づいた瞬間に、既視感が炸裂した。


『や……やめ、て……さくら……』


 最初、それを、泣き声だと思った。


『……もう、やめてぇぇ……っ!』


 そして、次に、悲鳴だと思った。


『それ以上、言ったら……私、さくらを許せなくなる』


 最後になって、ようやく気づく。

 葵の悲しみの正体に。


『……』


 葵が、ぱっと身を翻して走り出す。

 教室から葵が飛び出した瞬間、二年二組の教室は水を打ったような静けさに包まれた。誰も何も言えず、動けなかった。唯一動くものがあるとすれば着席するさくらが震えているくらいのもので、休み時間の教室とは到底思えないほど重苦しい沈黙だけが、その場に残された。

 そんな沈黙を全て、泰介は置き去りにした。

 足が床を蹴って軋る音が響いた瞬間、動き出した時間が視線を攫って集めていく。だが気にならなかった。どうでもよかった。それら全てが視界にさえ入らないまま、教室を飛び出していた。どんな注目をされたところで、一向に構わなかった。そんなもの、気にした事など一度もない。

 泰介は、追いかけていた。小学校で引き摺って、中学校で追いかけて、高校に入ってまた追いかける。泰介は葵の背中ばかりを追っていた。悲しみを抱えたまま一人背を向ける幼馴染を追う時、葵はいつも潰れる寸前だった。抱え過ぎた悲しみで溺れる寸前にまで、葵はいつも心を追い込んでいる。

 だが今回ばかりは、小学校や中学校の時とはわけが違った。

 荷物も持たずに学校の敷地を飛び出し、追いついた泰介を振り返った葵は、もう、既に泣いていた。

『来ないで。……ごめん』

 そして初めて、泰介を拒絶した。

『今、私……何言うか分からないの……さくらに、酷いこと言ったのに。私……私は……』

 葵は、涙を溜めた目を手で覆った。

『それでも、謝りたくないの……』

 それを、泰介は黙って聞いていた。

 小学三年生の時からずっと一緒にいて、同じ中学に通い、同じ高校へ入り、今、再び同じクラスになって、その間、一度も見た事がない表情だった。

 葵が泣くところは、数えきれないほど見てきた。

 だが、こんなにも真剣で純粋な怒りの感情に葵が呑まれたところを、泰介は今までに一度も、見た事がなかった。

 泰介は。

 葵の言い分を、聞き入れなかった。

『そんなのは、俺もだよ』

『……』

『お前が言ってなかったら、俺が言ってた』

『……だから、来たの?』

『違う』

『……』

 葵は涙を拭うと、泰介を見上げて薄く笑った。卑屈にも見える笑顔は、仁科要平を連想するような諦観が浮いたものだった。葵がこんな顔も作れる事を、この日泰介は、初めて知った。

『……だめ。泰介。学校に戻って。こんなとこ、泰介に見せられない。嫌でしょ。私が、怒ってるとこなんか見て、……そんなの、追っかけてきて……っ、泰介、どうするの。戻れるの? あの教室に』

『戻れる。当然だろ』

『怖く、ないの?』

『何だそれ。ばっかみてぇ』

 本心だった。

『お前が珍しく怒ったくらいで……いちいち幻滅なんか、するかよ』

『……でも、……やだ。見られたくない。……見ないでよ』

 葵が、泣いた。

『お前に怒るの先に取られたから、俺が怒れなくなったってだけだ。それだけの事だろ。全然、気にする事じゃねえよ』

『……』

『……教室、戻ろうぜ。一緒だったら戻りやすいだろ』

『……なんでそう思うの。泰介は。……余計、戻りにくいよ』

『……』

 これ以上、押し問答を続ける気はなかった。

 泣きじゃくる葵の手を、無言で引いた。

 手なんか繋いだのは、小学生以来だろうか。こんなにも荒んだ気持ちでは感慨など何も浮かばなかったし、ましてや葵が言うような覚悟さえ泰介にはなかった。

 もう既に、変わってしまっていた。沈黙を振り切って、一人動いたあの時から。

 だからこれは、葵が躊躇しているだけの事だった。そんなものにいつまでも付き合っていられるほど、泰介は優しくない。優しくできないし、する気もなかった。

『泣き止むまでは、待ってやる。でも、教室には戻るぞ』

『……』

『一緒に戻る。それでいいだろ。っていうか、いいって言え』

『……だめ』

『葵』

 泰介は、焦れる感情を隠さずに言った。

『俺が好きなのか嫌いなのか、どっちだよ。今すぐ言え』

『……泰介、馬鹿じゃないの』

 葵は、泣き声で呟いた。葵にしては珍しい類の罵倒だった。涙をぽろぽろと零しながら、葵は泰介の手を振り解こうとする。

 さすがに、苛々してきた。

『もう、いいだろ。……やめようぜ。幼馴染』

『……嫌だよ』

 葵が俯いて、泣いた。

 零れた涙が頬を滑り、ぱらぱらと小雨のように落ちていく。落ちた涙が点々とアスファルトに黒い染みをつくり、雨の色へ変えていく。泰介の手を振り解いた葵が顔を隠し、嗚咽を必死に堪えながら泣いていた。抱えきれなくなった悲しみを両手から取り零しながら、心を削って泣いていた。

『甘えたくないの……今、泰介が好きって言ったら、甘えになるでしょ』

『……そんな風に、二度と言うな』

 泰介は葵を、睨み付けた。

『お前を甘やかす為に付き合ってきたんじゃねえよ。本心で言ってるんだったら、許さないからな!』

 そして、葵に手を差し出した。

 掴む事は、もうしない。掴んでもよかったが、言うだけの事は言ったのだ。それにどの道戻れないなら、ここからは葵に委ねたかった。

『どっちだよ。好きか、嫌いか』

 葵は、泰介の目を見上げた。疲れの浮いた空虚な瞳に、怒りの残滓が揺れている。ひたと泰介へそれを向ける葵の目から、溜まった涙が滑り落ちた。

 幻滅なんて、しなかった。

 葵は、葵だ。泰介の知っている佐伯葵の違う側面が見えたという、たったそれだけの事に過ぎない。そんな感情が一つ零れ落ちる事さえ恐れる葵の弱さがひどく気に障り、そしてそんな弱さが、やっぱり葵だと思ってしまう。

 全く、不自然ではなかった。

 泰介の知る、佐伯葵だった。

 そしてそんな感慨が、脈絡のない言葉になって、口をついて出てきた。

『お前は、お前だよ』

 泰介が、そう言った時。

 差し出した手に、葵が、触れた。

『…………、好き』

 その手を、そのまま引き寄せた。


 葵が泣き止むまでにたっぷりと時間を要したが、その後、二人で教室へ帰った。

 そして本当に、もう元には戻れなくなった。


「――泰介、大丈夫」


 葵が、落ち着いた声音で泰介に囁いた。

 何も知らない、覚えていない佐伯葵は、倒れそうな泰介の身体を支えながら、穏やかに笑った。先程まで恐怖で竦んでいた人間とは思えないほどに、葵の表情は凪いでいた。静かな怒りの感情さえ、もうそこにはなかった。

「……」

 泰介は支えられたまま、そんな葵を見下ろす。支えられた手が、冷たい。その冷たさが氷のように、熱に浮かされた身体を冷やしていく。虚脱状態の意識が、まるで葵の感情を映したように塗り替えられていくのが分かる。緊張も殺意も焦燥も、怒りさえもがこの時欠落した気がした。穏やかな感情だけが、すう、と秋風のように心を抜けていく。

 意識は、保てていた。

 過度な疲労に引き摺られながら、それでも泰介の目は今もしっかりと、さくらと敬を捕らえている。そしてそんな状況のまま唐突に蘇った記憶に驚き、それを支えた葵の手を見下ろした。

「……ねえ、さくら。質問があるの。聞いて」

 葵が、言う。泰介に話しかける時とは微妙に違う、少し張りつめた声だった。

「なあに? 葵」

 さくらが答えた。一応形ばかりの会話は成り立つらしい。だがこの〝ゲーム〟上で他の人間と意思の疎通が図れないと訴えたのは葵なのだ。泰介は葵の意図が分からず、無闇に葵が注目を浴びたという焦燥が心を急き立てる。無駄だと首を振ろうとするが、葵は泰介の服の裾をきゅっと握って制してきた。

 任せろ、と。そういう事らしい。

「……」

 こんな風に葵が要求してきた事が、前にもあった気がした。

 いつの事か、すぐに気づく。〝ゲーム〟開始が宣言されるより、少し前の事だった。頑なに泰介達を煙に巻こうとする仁科を、葵が説得した時だ。

 その頃から随分と、長い時間が経った気がした。泰介は途方のない時間の流れを感じ、そのくせどれだけ時が流れたのか全く掴めないでいる自分も同時に感じて、どこかで疲れ始めていた意識とぼろぼろの身体が、重力に従って何度も落ちそうになる。そんな窮状への苛立ちに任せて、拳をきつく握り込んだ。

 まだ、倒れるわけにはいかなかった。

 葵がここにいる以上は、まだ。

「私と、泰介。どっちかが死ぬの?」

 葵が、どこか事務的な口調でそう訊いた。淡々としているようで、だが温度と配慮を感じる声。そんなスイッチの切り替え方までもがあの時の仁科に対する労りを窺わせて、今葵がどれほど真剣に、泰介に代わって二人と対峙しているかが分かる。

 ――秋沢さくらと一番最初に衝突したのは、佐伯葵、だった。

 泰介では、なかったのだ。

 それに気付いた泰介は、さくらと葵を見比べると、しばらく考えて口を閉ざした。

 危険かもしれない。だがそれでもここは、葵に任せたかった。自然とそんな風に思ってしまった。

「うん。どっちか死ぬから」

 さくらは葵の質問に、笑いながら返事をした。付き合いの長い親友にあっさりと口にされた死の宣告に、葵はもう動揺を見せなかった。「……そう」と言って少しだけ悲しげに目を伏せたが、顔を再び上げた時には、もう元の葵だった。気丈にも笑みさえ浮かべて見せて、質問を再開する。

「ねえ。どっちも、は?」

「一人でいいよ」

 さくらが笑った。

「一人が落ちて、それを一人が見てるの」

「……残った、その一人。どうなるの?」

「帰るんじゃない?」

 投げやりな口調だった。

「だからさあ。一人、落ちてくれないと。……帰れないよ。葵。終わらないよ」

「……さく」

 泰介は、思わず割って入る。

 聞き捨てならなかったからだ。

「何だよ、それ。まさか……」

「泰介ってば、何慌ててんの? ばぁか! じゃあ葵を泰介が突き落としてさ、泰介が帰るとかでもいいじゃん。怖いんでしょ? 死ぬの」

「お前は……っ!」

「さくら!」

 葵が、大きな声で叫んだ。泰介の背に回された手に、力がこもる。泰介とさくらの会話を打ち切るための言葉だと気づき、泰介は飛び出しかけた罵声を呑み込む。だが湧き上がった怒りは呑み込めなかった。そして同時に思わぬ所から零れた情報の符号に慄き、泰介はあらん限りの殺意を込めて、さくらを睨みつける。

 推測に、過ぎないが。

 ようやく、からくりが読めた気がした。

 宮崎侑を名乗る少女が始めた、不可解な〝ゲーム〟。萩宮第一中学での突然の硝子の粉砕。そして仁科は言ったのだ。侑の飛び降り現場に、唯一自分が居合わせた、と。

 ――一人が落ちて、それを一人が見てるの。

「……そういう、事かよ……!」

 仁科要平の目の前で、宮崎侑が飛び降りた。そして今さくらと敬は、吉野泰介と佐伯葵に問いかけている。どちらがここで、死ぬのかと。

 これは、明らかに仁科の顛末をなぞっていた。

 さくらは泰介と葵に、同じ顛末を要求していた。

 そして、おそらく――そうしないと、帰れないのだ。

 反吐が出るほどの怒りと嫌悪で、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される。何故ならさくらは言ったのだ。落ちずに残った人間は帰れると。

 それは、つまり――誰か一人の死でもって、残りの者が〝帰還〟するという事。

「……」

 葵が、泰介の背に宛がった手を動かした。制されている。分かっていた。だが気づいていても、この瞬間に噴出した生理的嫌悪と憤りに、どう歯止めを掛けたらいいのか分からなかった。

 〝アリス〟は、誰だ。泰介は焦る。こうなった以上今すぐ正体を突き止めなければ危険だった。唯一この場を切り抜ける鍵があるならそれは〝アリス〟だけだった。今すぐ〝ゲーム〟を終わらせない限り、命の危険は明白だった。仁科の〝ゲーム〟との関わりがより一層濃厚になるのと同時に、〝アリス〟が仁科という推測が揺らいでいく。あまりにも、安直すぎた。ここで仁科を疑う事が。

 ――俺達は皆、〝アリス〟だったんだ。

 仁科の推測の言葉が、不意に耳に蘇る。

 ――だって、〝アリス〟はあの空間に三人もいたんだ。

 もう泰介には、誰が〝アリス〟なのか分からなかった。自分も含めて全員が等しく疑わしかった。それに、たとえ〝アリス〟を特定できたとしても、それをどんな形で表現すれば、この〝ゲーム〟は終わるのだろう?

 声高に叫ぶ?

 侑に告げる?

 どちらも、何故か違う気がした。そんなあやふやな解答ではなく、もっとはっきりとした天啓のような何かが、答えを泰介達へ示す気がした。

 葛藤する泰介に、葵が少しだけ身を寄せた。心を見透かされたような気がして、それでも取り戻せない冷静さを求めて拳を握り締める。だが強く握り込んでいたはずの手も、気づけば弛緩して開いていた。

「……そう。……落ちるんだ」

 葵は再びそう相槌を打つと、思案気な顔つきになった。

「さくら、敬くん」

 そして二人の名前を呼んで、覚悟を決めたような表情で、言った。

「じゃあ……〝ゲーム〟って聞いて、何の事か分かる?」

「……!?」

 泰介は、ぎょっとして葵を見下ろした。

 直球の質問だった。それを口にする葵の表情は真剣そのもので、さくらに合わせて笑って見せてはいたが、完全に何らかの意図が読める、明らかな理性を帯びた目つきだった。

 さくらの動きが、止まる。言われた敬も、同様だった。

 停止したように、空間から音が消えた。

 そして、耳鳴りさえ聞こえてきそうな静寂の果てに、さくらが言った言葉は。

「……泰介と葵、どっちが死ぬの?」

 もう何度目かも分からない、死の問いかけだった。

 意思の疎通が、徹底的に破綻した瞬間だった。

「どっちが死ぬの? 早く、決めてよ。決めてくれないなら、どっちでもいいから突き飛ばして、それで終わりにしようよ」

「……落ちて、死ぬの? ……ねえ。敬くんが答えて」

 念を押すような葵の言葉は、今度は敬に向けられた。敬はさくらをちらと見てから、「うん」と葵に返事をした。

「でも葵ちゃん一人じゃ足りないから、もう一人来るの待ってたんだ。待ってたら、泰介が来た」

 葵は、黙った。

「……葵、お前……」

 泰介は、葵を見下ろす。

 葵はゆっくりと泰介を見上げると、「泰介」と小声で呼んだ。

「私、ここに来てから……ずっと考えてた。多分だけど〝ゲーム〟の事、一番私が分かってる気がするの。仁科が〝アリス〟だってずっと思ってたのに、多分、仁科、〝アリス〟じゃないんだと思う」

 でも、と葵は続けると、少しだけ悲しげに笑った。

「私、仁科に話を聞かないと駄目みたい。仁科に嫌な事は話さないでいいって言ったの、私なのにね。でも仁科から話を聞かないと、多分〝ゲーム〟、終われないんだと思うの」

「……お前、まさか」

「……うん。泰介も……気づいてるんでしょ?」

 葵がそう言って、薄幸な微笑を浮かべた時だった。

 さくらが、一歩動いた。

「!」

 泰介と葵に緊張が走る。

 さくらは敬をその場に残したまま、こちらへじりじりと近寄ろうとしていた。その動きはとてもゆっくりとしたものだったが、一歩、また一歩と進んでくる様は、肉食獣が得物を追い詰める様にとても似ていた。葵が泰介を支える手に力を込めて、背後へ一歩、後退した。だが葵の一歩に対して泰介は、半歩ほどしか進めなかった。

 驚愕する。

 身体が、ほとんど動かせなかった。

 悪寒も頭痛もかなり治まっていたというのに、自由だけが利かなかった。弛緩し切った身体はまるでゴムのようで、本当に神経が通っているのかさえ疑わしいほど身動きがままならない。

 一瞬で、決断した。

 今決断しなければ、葵まで駄目になる。

「……置いてけ! 葵!」

 泰介を必死に引き摺ろうとする葵へ叫ぶが、葵は返事をしなかった。必死になって泰介を引き摺り、全く進まない後退を続けていた。泰介は焦る。さくらがもうじき、二メートルもしない距離に迫ってくる。

 そして、にじり寄るさくらの浮かべた薄っぺらな笑みを見た瞬間――戦慄が、初めて泰介の背筋を貫いた。

 泰介はこんな状況に置かれながら、それでもさくらなど恐れていなかった。級友の姿をした人間にむざむざ突き落とされるつもりはなく、身体に力が入らない今でも、心のどこかにそんな慢心とも取れる余裕が残っていた。

 だが、葵は。

 詰まりゆく距離を意識した瞬間、一気に青ざめた。

 余裕が、慢心が、根こそぎ奪われる。

 泰介が動けなかったら――――葵は。

「葵、離せ!」

 泰介は傍らの葵へ怒鳴った。だが見下ろした葵の顔は頑なで、泰介の言い分を聞き入れる気がないのは明白だった。思考が、手に取るように分かる。泰介も立場が逆ならそうするからだ。それを分かっていても許すわけにはいかなかった。泰介は葵を引き剥がそうとしたが、手も腕もただ微かに震えるだけで、そんな動きが葵の歩行の邪魔になる。葵は小さく呻くと、泰介を支える手に力を込め直し、毅然とした表情に焦りを浮かべながら、決死の後退を再開した。

「馬鹿っ……! 言う事、聞け!」

「嫌!」

 叩きつけるような拒絶の声を葵が放った瞬間、がたん、と大きな音がして、身体に鈍い衝撃が走った。

「っあ」

 葵が、悲鳴を上げた。一気に身体が傾いでいく。葵が、机にぶつかって転んだ。崩れ落ちるようにその場にへたり込んで初めて、それに気づく。隣で転がった葵が、絶望的な表情を浮かべた。

 だが、すぐに覚悟を決めたように唇を引き結ぶと、立ち上がる。

 泰介の前に、葵が立った。長い黒髪が、背中で揺れた。

 何を考えているか、すぐに分かった。

「早く逃げろ! 葵ぃ!」

 泰介は怒鳴ったが、葵は泰介の前に立ち塞がって動かない。

 見上げた葵の背中は、華奢だった。そんなか細い背中で泰介を背中に隠して、決然と前だけを向いていた。

 葵の背中の向こうに、歩いてくるさくらが見える。敬は退路を塞ぐように、教室の入り口へ留まっていた。

 逃げられない。少しずつ、だが確実に詰まっていく距離を目の当たりにして、それでも泰介は動けなかった。削れた慢心の空隙を、焦りと恐怖が埋めていく。

 こんな所で、崩れ落ちている場合ではなかった。葵を探して、ようやく見つけて、そしてその葵が盾のように目の前に立っている。そんな事をさせる為に、ここまで来たわけではなかった。

 なのに、何もできない。動けない。守れない。

「やめろ! さくらああぁぁ!」

 さくらへ向けて絶叫した、その時だった。

 ばんっ! と激しく引き戸が開け放たれた。


「吉野! 佐伯!」


「!」

 髪が、揺れた。

 オレンジ色の輝きが閃いて、着崩した学ランが、大きく翻る。

 仁科だった。

 敬とさくらの二人が立つのとは反対側の、教室の後ろの扉。それを仁科が切羽詰まった表情で開け放っていた。

 仁科は転んだ泰介とその前に立つ葵、敬とさくらの二人を見た。まるで対立するように立つ領域を分けた四人を見て、瞳が驚きに見開かれる。そして事態をすぐに察したらしい。切れ長の目をすっと細めた。

「……仁科……来るなって、言ったろ。なんで……」

 泰介は呻くが、仁科はそれを無視すると真っ直ぐにこちらまで歩き、泰介の近くへ転がっていた金属バットを拾い上げた。

 そして何の躊躇いもなく四人の真ん中へ歩を進めると、バットを構え、さくらと敬の方へ向き合った。

 突然の仁科の行動に、泰介は息を呑んだ。

「仁科……っ」

 葵の声が、上ずる。か細い悲鳴のような呼び声を聞いた仁科は、軽く葵を振り返ると、うっすらと笑った。

「吉野の馬鹿に気を遣って、約束破った。……佐伯。ここで待っててくれって言ったのに、少し遅刻した」

「仁科、だめ。やめて」

「そこでのびてる体育馬鹿に、頼まれてたから」

 仁科は葵の言葉に返事をせずに、にやりと泰介へ視線を投げる。

「……仁科、お前がそんな風に格好つけても……全然、安心なんかできねえんだよ……お前、バットなんて振れんのか? バットに振られて転げるとこしか想像できねえよ」

 泰介は、無理やり悪態を絞り出した。

 分かっているのだ。バットを振り上げる仁科の行為が、ただの牽制に過ぎない事くらい。仁科がどれほど人の命に対して繊細なのかを、もう泰介は知っている。侑の事でトラウマを抱え込むほどに、仁科の死への触れ方は、触れるというただそれだけで簡単に心が壊れてしまいそうな程に脆く、不安定で、覚束なく、優し過ぎた。

 そんな仁科が二人へ向けてバットを振り下ろすわけがなく、だとしたらこれはただの時間稼ぎでしかないはずだ。

 そう考えたところで、仁科の意図が、読めた。

 そしてその考えが正しかった事を、泰介は次の仁科の言葉で知った。

「佐伯。その体育馬鹿引き摺って逃げろ」

「仁科……だめ! そんなのだめ! さくらが、一人ここで……っ、殺すって言ってるの! 仁科、お願い。泰介連れて逃げて! 代わるから!」

 葵が頭を振った。蒼白になった表情に哀願を浮かべ、必死になって仁科へ叫ぶ。だがそれに対して仁科は淡く笑って、「いいから」と、諭すような口調で一言だけ囁いた。葵の顔が、泣き出しそうに歪む。

「いいわけ、ないよ……三人で帰るって、言ったじゃない!」

「すぐ追いつくさ。お前らが逃げたら」

「嫌ぁ! だめ! 一緒にいてよ、仁科ぁ!」

 葵の目に、涙が浮いた。泰介は驚愕して仁科の言葉を聞いていたが、やがてふつふつと込み上げた腹立たしさで身体が震え出す。

 仁科の立ち位置は無防備な葵ほど危険ではないとはいえ、二人の人間を相手に立ち回れるとは思えなかった。相手が何をするかも分からないのだ。今の泰介では何もできないし、葵など論外だ。

 冗談ではなかった。

 そんな危険地帯に、こんな軟弱で使えない同級生など要らなかった。

「お前、なんで来たんだよ……! 馬鹿だろ!」

 泰介は苦渋を押し込み、仁科へ叫んだ。

 既視感が、ふっと過った。そしてその感覚が通り過ぎた、一瞬後にはもう気づく。今朝の、仁科の態度に通じるのだ。

 呼び出しを受けて登校した泰介達に、仁科が見せた虚ろな態度。その情景と感情を今になって思い出して、泰介の心に言いようのない苛立ちと怒りが広がる。

 仁科はそんな泰介を、横顔で振り返った。

「さっきも言っただろ。吉野。お前に佐伯のこと頼まれたから。それに」

 教室から入る夕焼けの光に、髪色を金色に透かせながら、振り返った仁科の目も同じ輝きを受けて光る。穏やかな、眼差しだった。何だか、変わった。雰囲気が。葵の言葉が、蘇る。

「吉野に貸しを作っとくのも悪くないな、って。それだけさ」

「……っ、要らねぇ! そんなの、要らねえんだよ!」

 言葉にならない感情が白く炸裂して、胸いっぱいに張り詰めた。

 自分でも驚くほどの大声が迸り、教室に響き渡った。

「俺らが逃げたら、お前は絶対に逃げられないに決まってるだろ! 葵とどっこいの運動オンチが格好つけんな!」

「そんなの言ってる場合じゃないだろ。吉野。動けないんだろ? 普通なら突っ立ってるだけの人間二人にお前が負けるわけないだろうけど、今はこっちが不利だ。分かってるんだろ?」

 仁科はもう、振り返らなかった。

「佐伯と行け。すぐに追いつくから」

「冗談じゃねえよ。三人だ」

 泰介は譲らなかった。

「三人って約束だろ。お前そんなのも覚えられないような鳥頭だったのかよ」

「……なんだ、吉野。思ったより元気で、心配して損した」


「仁科」


 不意に、声が割り込んだ。

 さくらの声だった。

 はっとする。葵が身体を強張らせ、へたり込んだままの泰介へ慌てて駆け寄った。肩を担ぎ上げるように力を込められ、泰介も立ち上がろうと頑張るが、それでも力が入らず二人で尻餅をつく。まだ、駄目なのだ。もどかしさと歯痒さで気が狂いそうになる。そんな二人を庇うように、仁科がすっと立ち位置を変えた。

「……アキサワ、サクラ」

 突然、仁科が無感動に呟いた。

「で、合ってる? 佐伯。今朝言ってたのこいつ?」

「あ……う、うん……」

 葵が戸惑いながら、頷いた。隣に立つ敬には全く目もくれずに、仁科は石ころでも見るような目で、名を呼んだクラスメイトを見返した。

 泰介は、驚いていた。興味のない人間の名など記憶しない仁科が、さくらの名を覚えているとは思いがけなかったのだ。

「なんで、お前、さくの名前……」

 疑問が口をついて出ると、仁科はこちらを振り返って、口の端で笑う。

「そりゃあ、まあ。あれだけ悪意ねちねち向けられてきたら、名前は覚えてなくても顔は覚えるし。その名前だって、今朝佐伯に聞いたから」

「……」

 悪意。

 仁科があっさりと使った言葉は、その言葉が持つ本来の禍々しさを希釈したような軽さで、泰介の耳に響いた。

「アキサワ。お前が本当は俺のこと毛嫌いしてるの、俺、知ってるよ」

「……」

「知ってるけど、学校で佐伯と話すの、やめるつもりないから」

 仁科は、笑った。

「そういうのいちいち気にすんの、だるいし。ここから帰ったら学校、前よりも行くことになると思う。お前はもっと俺のことが嫌いになるだろうけど、そんなの俺、多分どうでもいいんだ。あんまり悪いとも思ってない」

「仁科……」

 葵が、痛々しい表情で俯いた。その様子を目の当たりにして、泰介も何も言えなかった。

 きっと葵は、薄々気づいていたのだろう。ただ、どの程度まで気づいていたのだろう。そしてどこまで、覚えているのだろう。

 泰介も、気づいていた。

 修学旅行のグループを決める時に、予兆があった。多分二人とも、それまでは全く気付いていなかった。葵はもしかしたら勘付く瞬間が他にもあったのかもしれないが、グループ決めの際の困惑を思い出す限り、杞憂だと思って考えを改め続けてきたのだろう。

 仁科の靴箱に、虫が入っていた事があった。

 仁科の机の中から、ノートが消える事があった。

 仁科の所持品が、校舎裏庭のゴミ捨て場から発見される事があった。

 それらは本当に時々だったが、それまで仁科要平に苛めと見られる行為は全く為された事がなく、時期は高校二年の初夏頃から、突然始まった。

 それが何と符合するのか、泰介も葵も分かりかねていた。犯人の心当たりが全くなかったのだ。

 ただ、仁科要平は奇抜な髪色と恵まれた容姿、しかも成績優秀という御崎川の有名人だったので、そういう事もあるのか、と。腑に落ちないものを抱えながら、無理やりに納得してきた。

 仁科本人はというと、特に表情を動かさないまま、自身の受けた苛めの痕跡をしげしげと眺めていた。そんな行為の被害者になったのは、今まで生きてきて初めての事だったらしい。あまり傷ついている風ではなかったが、ノート類の紛失の際にはかなり鬱陶しそうな顔をしていたので、それなりに怒りは溜まっていたと思う。葵は怒りと悲しみが入り混じった複雑な顔で、そんな仁科を見つめていた。

 一番行為が激化した時、葵は極力休み時間を仁科と過ごすようにしていた。

 そして泰介はと言うと、時折靴箱や机に視線を向けていた。それとなく緊張感を漲らせているのがバレたのか、当の仁科に笑い飛ばされて不愉快な思いをしたのを覚えている。

 だが決定的な瞬間は得られないまま、その日を迎えた。

 修学旅行のグループを決める為に割り当てられた、自習の時間。

 現地での行動班は男女混合グループでも構わないが、三人以上という縛りがあった。

 葵は紅一点になるのを構わず、仁科と泰介の三人で組むと主張した。

 多分、分かっていたのだろうと思う。葵が仁科と組まなければ、おそらく仁科は修学旅行をサボるだろう、と。喧嘩三昧の修学旅行になると思うと少しげんなりしたが、泰介としても葵がそれで構わなければ異存はなかった。面倒臭そうな顔をしつつも修学旅行のしおりを眺めていた仁科と三人で、しおり裏面のメンバー欄に名前を書こうとした、その矢先だった。

 さくらが、割り込んだのは。


『葵。なんで?』


 まるで裏切られたとでも言わんばかりの、悲しげな表情だった。

 泰介達の集まる机の一角に突然やってきたさくらを、『お前、部屋割りで葵と一緒なんだろ? そんなにべったりしなくてもいいじゃん』と泰介は軽口で追いやろうとしたが、さくらはその場から動かなかった。じっと葵だけを見つめていた。

 見られた葵が、驚いてさくらを見返す。そして少しだけ後ろめたそうな表情を覗かせたが、やがてそんな表情を控えめな笑顔で隠し、申し訳なさそうに、さくらに言った。

『ごめん。さくら。仁科と泰介と行くって約束してたの。さくらも他の子と約束、してたよね?』

 控えめながらも、はっきりとした主張だった。

 それを聞いた仁科が、顔を上げた。

 それを聞いたさくらが、仁科を見た。

 さくらの顔が、歪んだ。

『約束、してた。でも葵もいるものだと思ってた』

『でも……ごめんね。仁科と泰介と、三人で組む』

 葵はやはり申し訳なさそうにしながら、それでも主張を変えなかった。着席した状態の仁科が、そんな葵を物珍しそうに見つめていた。

 今思えば、物珍しい、という泰介の認識は少しだけ違ったのだと思う。

 〝ゲーム〟で過ごした時間の中で、表情が読みにくくて面倒臭い仁科の事を、泰介は僅かだが以前より知った。だから、違うのだと今なら分かる。

 あの時の、仁科はきっと。

 嬉しかったのだと、思う。

 葵の言葉が、ただ単純に嬉しかったのだと思う。

 そして何やら揉めていると思ったのか、委員長の狭山敬がこちらへやって来て、さくらと葵達に話しかけてきた。

 さくらは、めげなかった。

 頑なに葵と行動班を組むと主張したさくらは、当の葵に断られておきながら、その場で駄々をこね続けた。さすがにさくらの我儘が度を越していると感じて苛立った泰介が、『お前、しつこいぞ』とうっかり言ってしまったので、余計にさくらを意固地にさせてしまった。

 気づけば、泥沼化していた。

 だが、泰介とさくらの雰囲気が悪くなり、葵が困惑し、敬が宥め、それでも仁科は、さくらが望むような事をけして言わなかった。

 自分が外れるとは、言わなかった。

 だから、泰介は葵の事を凄いと思う瞬間があるのだろうか。

 葵はあんなにも脆く、そしてこんなにも人を惹きつける。その所為で心が擦り切れそうになりながら、それでも葵は、仁科を確実に変えたのだと思う。

 結局、皆まとめて同じグループになればいいという折衷案をさくらにごり押されてしまった。たかだかグループ決め程度の事でごねられた疲れが、泰介達から反論の気力を削いでいた。

 今にして思えば、唾棄すべき案だったと思う。今後の友情に致命的な支障をきたしてでも、阻止すべきだったと思う。何故そうしなかったのかと、あの日の自分を詰りたかった。

 仁科は、修学旅行をサボらなかった。

 代わりに、葵と泰介と行動する時間が、減った。

 だが、それでも仁科は来た。

 ラウンジで葵と会話を交わした時の、仁科の表情が脳裏を掠める。穏やかに笑う顔には演技も無理も煩わしさも、何もなかった。葵に目を留めた瞬間の笑みは、そんな自然な笑みだった。

 修学旅行の行動班を決めた、あの日。仁科を見るさくらの目に、憎悪の欠片を見つけた気がした。

 泰介と葵は、互いに何も言わなかった。最悪の想像が、互いの中で育っていく。だがそれでも言葉にする事を恐れる気持ちが、泰介でさえ強かった。

 普通の友人ならばまず疑って掴みかかっているところだったが、小学生の頃からの付き合いの友人が、そんな仕様のない事に手を染めるなどとは信じたくなかったのだ。それが泰介の甘さだと、まだ、気づかないでいた。

 そして、そんな疑惑を抱えたまま――葵と仁科の覚えていない修学旅行を、泰介は迎えた。

 その修学旅行が終わって、気づいた。

 高校二年の初夏頃。

 それは、葵と仁科の友達付き合いが、教室内で公認のように扱われ出した時期だった。

「……佐伯。お前の前でこんな話して、嫌な思いさせて、悪かった」

 仁科が振り返らないまま、葵に言った。落ち着いた声音は先程の葵を髣髴とさせるような、静かに凪いだ声だった。

「……嫌な思いをしたのは、私じゃなくて仁科じゃない……!」

 葵は頭を振って、悲痛な声で叫んだ。

 さくらは、何も言わなかった。元々まともな会話が望めないような秋沢さくらだったが、それでも仁科に対する悪感情だけは、このさくらにも刷り込まれているらしい。仁科を見る眼差しが、底冷えするほど鋭利だった。敬も立ち位置を変えず、じっと同じ場所に立っている。

 もしかしたら、逃げられるのではないか。そんな風に安易に考えて身を捩ると、それだけで二人分の視線が、刺すように泰介を追いかけてきた。

 泰介達が逃げれば、その瞬間に仁科が拘束される。それが簡単に予想できるほどに、その視線は鋭かった。

 そして仁科が相手の手に落ちてしまったら最後、葵のように無事で帰ってくるとは到底思えなかった。

 それが簡単に予想できる程に――憎悪の根が、深い。

「仁科は……どうして、そんなに優しいの」

 まるで懺悔のような葵の言葉に、仁科は穏やかな一瞥を返した。

「優しくなんてないさ。本当に優しいのは、佐伯、お前の方だ」

「……仁科。分かった。今から〝ゲーム〟、終わらせられるか分からないけど、試してみたいの」

 葵は、毅然とした声で言った。

「ごめん。教えて。宮崎侑さんの事」

 唐突な台詞に、仁科の動きが止まる。

 泰介も、驚いて葵を見下ろした。

 ああ、と思った。

 言うつもりなのだ。

 手紙の記憶がフラッシュバックする。葵に宛てられた、実母の手紙。仁科が攫った、継ぎ接ぎだらけの葵の手紙。その真意を訊き出す事さえ叶わないまま、泰介達はここまで来てしまった。

 そしてそれに手を下すのは、やはり葵なのだ。

「佐伯……まさか」

 仁科が、振り返らないまま言った。その言葉は驚きのあまり茫然としたかのように、どこか感情のピントが暈けていた。

「そのまま聞いて、仁科。私の事、時々見てたでしょ。……ごめんなさい。気づいてた」

 泰介に肩を貸す葵が、腕の中で俯く。

「仁科みたいに、私の事を見る人、時々いたの。だから、気づいてた。気づいてたけど、言いたくなかったの。……仲良く、なれたから。何か言って、壊したくなかったの。私は佐伯のおうちの養女で、本当の両親が誰か、知らないの。……でも、産んでくれた人の名前だけは、知ってる。棚橋さん、って名前の人」

 葵の身体が、少しだけ震えた。泰介はそれをどう止めてやればいいのか分からず、ただ、葵に支えられて座っていた。

 だが、葵の問題だった。

 自分で決めて、口にしたのだ。

 だから、今は――見守ってやらなくては、いけないのだと思う。

「棚橋さんって、名前だったから。だから……最初、違うんだって、思った。そう考えたらいろんな事が当て嵌まるのに。違うって、思いたかったのかも。……すぐに、そんな事ないんじゃないかって、思い直したよ。一緒に暮らそうって言われて、……今度会おうって、呼び出されてる。でも……本当のお父さん、蒸発したって聞いてるのに。女の人がたった一人で、お金のかかる高校生を引き取って、今更一緒に暮らそうなんて、普通、言い出さないよね、って。……そんな風に、思っちゃった」

 葵が、薄く笑う。

「だから、何となく、なんだけど。棚橋さん……私を産んでくれた人、結婚したんじゃないかなって思うの。初婚か、再婚かは分からないけど……多分、旧姓は」

「佐伯。いい。もう言うな」

 仁科が頭を振った。だが葵はそんな仁科へ、首を静かに横へ振る。

「泰介と仁科が、どういう風に〝ゲーム〟のこと考えてるのか、まだ全然すり合せられてなくて、分からないけど……。私、この〝ゲーム〟、私たちを殺すためのものじゃないんじゃないかな……って、考えてたの」

「な……」

 泰介は、面食らった。

「多分……ううん、絶対。閉じ込められた私たちを、殺すためじゃなくて」

 葵が、顔を上げた。

「これは、閉じ込められた私たちを、助けるための〝ゲーム〟だと思うの」

 その言葉が、凛と響いた瞬間。


 ふ、と。


 泰介の視界に、何かが過った。

 廊下、だった。

 すう、と帯がたなびくような滑らかさで、何か白く透明なものが通っていく。鈴の音のような、澄んだ音を聞いた気がした。

 泰介の視線に気づいた葵が廊下を見て、息を呑んだ葵の気配に気づいた仁科も廊下を見る。さくらや敬までもが背後を振り返って廊下を見た。

 全員の視線を受けたその人物は、豊かな茶髪を手で振り払い、靡かせた。

 笑う。

 窓の外で、艶然と。

 悪戯っぽい表情はまるで『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のようで、童顔に乗せた薄化粧が、背伸びした艶やかさを見る者へと魅せつけた。

 ……もっと早く、気づいていてもよかったのかもしれない。

 事実、どこかの時点で気づいていた。

 気づきたくなくて目を背けた理由は、薄々とだが分かっていた。

 葵がこれ以上、傷つくのが嫌だった。そんな、詰めの甘い、言い訳じみた理由だった。

「ああ」

 仁科が、瞠目する。

 そして、葵を振り返る。

 からん、と。金属バットが落ちる音がした。

 背後にいたはずのさくらと敬の姿が、その瞬間に掻き消える。魔法のように、誰もいない。少女が硝子の向こうで、可笑しそうに笑った。

 現れたのが唐突なら、消えるのも唐突だった。少女の姿は空気に溶けるように、すう、と背景に同化した。

 まるで役者が舞台袖へ引くように、誰も、いなくなっていた。

 泰介と葵、そして立ち尽くす仁科だけが、静謐な空気の満ちる黄昏の教室へ取り残された。

 三人とも、しばらく口が利けずにいた。時が止まったかのような静寂の中、浮かび上がった感情が上手く掴めないまま、ただ茫然と、三人の時間が流れ続けた。

 そんな永劫とも思えるような、停滞した沈黙の後。

 仁科の乾いた声が、葵を呼ぶ。

「佐伯」

「うん」

「全然、似てない」

 葵が、笑った。

「私も、そう思う」

 仁科はふらふらと葵へ近づき、かくんと膝をついて、崩れ落ちた。オレンジ色の髪が頬にかかり、仁科の目元を隠す。表情は分からないが、仁科の口元だけが、笑みの形にふっと緩んだ。

「佐伯。……お前に会えて、よかった」

「……うん」

 葵が、幸せそうに笑った。

 顔を上げた仁科は、目元にいつも通りの揶揄と、そして何かを吹っ切ったような穏やかさの両方を浮かべ、自然な動作で葵に手を差し出した。

 葵が、少し驚いたような顔をする。だがすぐに花のように微笑むと、その手をすっと握り返した。

「……今朝、ここに来た時。私にはお姉ちゃんがいるって話、仁科にしたでしょ」

「ああ。覚えてるよ」

「宮崎侑さん……いつ、亡くなったの」

「中二。俺と、同級生だった。教室の窓から飛び降りて、亡くなった」

「…………そっか。歳、私と一緒なんだね。それでもやっぱり、お姉ちゃんだったんだね」

 葵が目尻に、涙を浮かべた。

 そして、「帰れるよ、私たち」と囁いた。

「今ので、分かった。やっぱり大丈夫なんだと思う。誰かがここで飛び降りたら、さくらが言うみたいに、二人は帰れるのかもしれない。でも、誰かが死ななくても……絶対、三人で帰れるよ。だって」

 葵が、制服のポケットを探り始め、何かを取り出した。

 泰介は最初、死角になっていてそれが見えなかった。

 だが、掲げられた葵の手元を見た瞬間――――絶句した。


 青い、サテン地の、リボン。


「大丈夫。きっと、助けてくれるから」


 リボンを握りしめて、葵が泰介を振り返る。

 殉教的なまでの聖性を湛えた葵の言葉が、がらんどうの教室へ染み渡るように響いた時。


 何かが、割れる、音がした。


「あ……」


 ざああ、と。風の音が聞こえた時、見える世界が、変わっていく。こちらを振り返る、髪が靡く。そんな映像が、一瞬だけ混じった。金色の輝きが視界を埋め尽くし、その眩さに目が眩んだ途端、全身に風が吹き付けた。その刹那に掻き消えた顔が誰のものなのか、泰介は知っていた。枯葉がアスファルトを擦りながら、風に吹かれて走っていく。

 フラッシュバックだと、もう気づいていた。

 そして最後のフラッシュバックだと、予感があった。


「泰介……っ?」


 葵の声が、遠ざかる。手が、伸ばされる。風景と校舎の視界がぶれて、歪んだ境界が混じり合い、何もかもが分からなくなる。伸ばされた手が、掴めない。

 葵。

 呟いた声が現実の声なのか記憶の声なのか、その間で伸ばした手が、空を切った。


『――泰介、置いて行って!』


 葵が切羽詰まった声で、泰介に叫んだ。

 声は半分裏返り、激しい呼吸で押し潰されて掠れていた。それでも聞こえた葵の声に、振り返る余裕など既になかった。

 ただ、腕を引いていた。

 腕を引いて、がむしゃらに走っていた。

 御崎川についてすぐ、タクシーを拾おうと奔走した。だがターミナルは運悪くがら空きで、その待ち時間さえももどかしく、二人で何も言わずに走り出した夕空の下、風が冷たく吹き付けた。

 言葉はなかった。そんな暇さえ惜しかった。

 走る以外の行為に思考を割き、割けなくて無心に走る。揺れた思考が焦りを加速し、走り続ける二人の体力だけが凄まじい勢いで削れていく。それでも距離は一向に縮まらない。後先考えずに走った所為で、喉の奥に血が絡む。呑みこむ空気が冷たく、熱い。

 早く。

 それだけが全てだった。

『お願い、泰介! 置いて行って!』

 切迫した声だった。

『泰介だけなら間に合う! 早く!』

『駄目だ!』

 泰介は振り返らず、走った。

 腕は、最初引かなかった。だが葵が遅れ始めた瞬間に、躊躇せずに掴んで引っ立てた。無理をさせてでも連れて行く気だった。

 葵の腕を引き、他には何も考えないで、ただ走った。祈る気持ちさえ、そこにはなかった。

『お前がいないと、意味ないだろうが! 駄目なんだよ! 俺だけじゃ! 俺が間に合わなくっても、お前がいなきゃ意味なんてねえよ!』

『ばかぁ!』

 強い抵抗感に腕を取られた。

 葵は泰介の腕を強引に引き、振り返り様に掴みかかった。

『そんなこと、ない! 言わないでよ! そんなわけないじゃない!』

 そしてその手に握られたものを、泰介の手に押し込んだ。

『持ってて。私が来たって、分かるように。絶対に追いつくから。だから、泰介だけでも、早く。走って。間に合ってよ。お願い』

 息が、できなくなった。

『間に合ってよ! 泰介ぇえ!』

 滑々とした、リボンの感触。

 青い、サテン地の、リボン。

 荒い呼吸を繰り返す葵の頬に、涙が伝う。だが泣き顔ではなかった。怒りとも悲しみともつかない懇願の表情は、泰介に全てを託す、覚悟を決めた顔だった。

 逡巡している暇はもうなかった。

 リボンを、奪う。

 言葉もなく身を翻した泰介は、葵を残して駆け出した。

 どこをどう走ったのかも分からなかった。ただ最短で病院へつけるようにと、それだけを考えて走った。後の事など考えなかった。今が全てで他には何も要らなかった。走る事だけが、その時の泰介の全てだった。

 ――吉野、なんで電話に出なかった!

 陸上部の先輩からの電話に折り返した瞬間に浴びた罵声は、激しい焦燥に染まっていた。

 ――今日、修学旅行の療養休みで二年は皆いないはずなのに、一人、学校に来てた奴がいて、


 ――教室の窓から、落ちた。


 ――お前の、クラスの、奴だと思う。


 ――有名人だから、知ってる。お前、そいつの、友達


『あああぁぁ……!』

 響き渡った泣き声を聞いて、全てを悟った。

 もう、遅かった。

 激しく泣き崩れる母と、肩を貸す父。夫婦と思しき二人の姿を目に留めて、泰介はその場で、肩で息をする。そのまま、力任せに壁を殴った。握り締めたままの青いリボンが、そんな動きに合わせて揺れた。

 痛みは、分からなかった。

 遅れて気づいたが、どうでもよかった。

『……』

 病院の待合に、立ち尽くす。

 どれだけの間、そうしていたのか分からなかった。

 ただ、時間が永劫のように感じられた。一人でいて、泣く声を聞いて、そんな悲しみを耳にしながら待つ記憶が初めてではない事に気づかされ、だからといって、何も思わない。

 空っぽに、なった。

 そして止まった時間が動き出した時、泰介の背後には葵が立っていた。

 目に涙を溜めた幼馴染の顔を見て、泰介は、言葉を失くす。

 握り締めたリボンを見た葵が、何も言わない。

 泰介も、何も言えなかった。

『……やだ』

 葵が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。条件反射で、それを受け止めた。だがそんな自分の動き一つにさえ現実感がなく、ただ、虚ろだった。

『やだ……こんなの、……やだよう……』

 泣く葵の身体が、熱い。泰介の制服を掴む手に、力がこもる。

 慟哭が、迸った。

『――――仁科あああぁぁぁぁあ!』


 ああ、と思う。


 全部、思い出した。

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