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記憶

 葵は薄目を開けて、辺りをそっと窺った。

 普段、こんな風に教室を見る事はない。だからつい、見入ってしまう。

 蛍光灯の高さが普段見るよりずっと高い位置にあり、等間隔に並ぶ机と椅子を、木々を振り仰ぐように葵は見上げた。すぐ横が窓際の壁なので、良く晴れた空も見渡せる。

 まるで、小人になったようだと葵は思う。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に、そんな薬があった。身体の大きさが変えられる、劇薬。ただ、実際に葵が置かれている現実は、そういった可愛さとは程遠いものだった。

 床に転がされてから、どれほど時間が経っただろう。

 そもそも、〝ゲーム〟が始まってからどれほど時間が経っただろう。

 時間の概念が擦り切れて、空腹感も分からない。不思議なものだと思ったが、案外そういうものかもしれない。葵は寝返りを打つ要領で、そっと身体を傾けた。

 ぎしり、と。床が小さく軋る。

 その音に少し動揺したが、さほど大きな音ではなかったのでほっとした。拘束されているのが腕だけの為か、思ったよりも自由が利く。こんな事ならもっと早く動けばよかったとも思ったが、先程まで腹部と腕の痛みで蹲っていた自分にできる事があったとは思えない。

 なんとか上体を起こそうと頑張るが、重い痛みに思わず呻く。まだ、腹部に鈍痛が残っていた。だいぶ薄らいではいるもののまだ根強く残る痛みと格闘しながら、葵は床に肘を押し付けて、ほうほうの体で上体を起こす。とん、背中を窓際の壁へともたせ掛けたところで安堵の息を吐くと、葵は辺りをもう一度見渡した。

 誰もいない、空き教室。

 葵はそこに、転がされていた。

 腕は後ろ手にリボンで縛られていて、思うように動かせない。

「……」

 黒いセーラー服の空っぽの胸元を見下ろすと、何となく空虚な気持ちになる。黒一色となった制服は御崎川高校のものではないようで、少し奇妙な感じがした。それでも、あれ以上の暴行がなくてよかったという安堵の気持ちが、ぽっかりとした空虚を埋める。

 引き絞られた手首に、リボンが擦れるのが痛かった。だが気になったのは最初だけで、今は当て布のように捉えていた。外気に触れるのが辛かったので、返って気が紛れていたのは事実だ。

 多分、場違いなくらいに暢気なのだと思う。

 ――葵は拘束された後、この空き教室に置き去りにされていた。

『逃げないでね。……夕方までここにいてくれたら、何もしないよ』

 そう念を押して引き上げていったクラスメイトの言葉を最後に、扉はぴったりと閉じられた。手さえ自由が利けば逃げられるかもしれないが、もし扉を開けた際に人影があった場合、先程の二の舞になってしまう。扉は近くにあるが、葵には開ける気になれなかった。人を一か所に閉じ込めるなら、恐怖を叩き込むのが一番なのかもしれない。

 とはいっても、恐怖だけの感情で、そうしているわけではなかった。最初こそ葵は恐怖で震えていたが、その感情は既に放置した炭酸水のように抜けていた。虚脱状態に近いのかもしれないが、それも何だか違う気がする。

 孤独に、時間を過ごす。

 たった一人、誰もいない教室で、思考以外にする事もなく、時間を浪費する。

 単調に流れる時間の流れは、世界から自分が弾き出された疎外感にも似た気持ちを葵に抱かせ、同時に誰の目にも触れない状況に置かれた事が、心に安堵を齎した。葵は先が分からない状況に戸惑いながらも、静寂の中で落ち着きを取り戻し、ずっと〝ゲーム〟の事を考えていた。

 〝ゲーム〟の事。

 そして、泰介の事を、考えていた。

 昨日の、事だった。

 風邪で病欠を続けていた泰介が、学校へ戻ってきて、すぐの事。

 そして、それよりもずっと前の事も。

 御崎川高校に通い始める、ほんの二か月ほど前の事だった。

 葵の我儘に、泰介を巻き込んでしまった。

 あの時も、確か同じだった。

 葵の挙動不審を見抜いた泰介が、突然声を掛けてきたのだ。

 さくらに、言われたのだ。

 自分の血液型を知らないなんて、おかしい、と。

 その台詞がずっと頭から離れなかったのは、多分、葵の気にし過ぎだ。さくらに悪気がない事は分かっていたし、純粋に思った事を口にされただけだった。それを聞いて傷ついたのは、完全に葵の都合だった。

 時々。

 本当に、時々。

 葵は知らない人から、話しかけられる事があった。

 指をさされ、ちらちらと見られる事もあった。

 それは大人の時もあれば、自分とそう変わらない年の子供の時も多かった。葵の知らない人が葵を指でさして、何事かを囁き合う。そしてじっと、見つめている。話しかけられても、何の事か分からない。

 怖かった。

 笑われたような気がしたのだ。

 それが被害妄想だと分かっていても、心はその度に傷ついた。次第に他者が恐ろしくなり、一時葵は口数が激減した。

 日に日に憔悴していく葵の姿は、最早誰の目にも明らかだった。さくらには心配され、他の友人にも気遣われた。皆に心配をかけたのが申し訳なくて取り繕った笑顔が、さらに葵を追い込んでいく。

 このままではいけないと分かっていた。だがそれ以外の自衛を葵は知らなかった。限界が最早秒読みだと、途中から気づいていた。それでも止まれなかった。

 誰かに相談すればよかったのかもしれない。だがそんな感情を吐露するのはもっと恐ろしかった。自分でも被害妄想だと思っているのだ。そんな戯言を誰かに話す勇気を、葵は持っていなかった。

 こうやって心を追い詰めたのが、二度目だという事。

 同じ袋小路に、一度既に嵌った事。

 それを思い出したのは、中学三年の冬の日。廊下を歩き、足早に学校を出ようとしていた。さくらとの何気ない会話で、たったそれだけの言葉で荒んだ心と取り繕えない顔を見られたくなくて、俯いて歩いたあの日。

 背後から走って追いついてきた泰介に、肩を強く掴まれて、名を呼ばれた、瞬間――葵は学校の廊下にも関わらず、涙が止まらなくなってしまった。

 ごめんね。

 ごめんね。泰介。

 顔をブレザーに当てて、泰介に引き摺られるようにして中学を飛び出しながら、泣きじゃくった葵はその言葉ばかりを言った。

 一度助けられていた。それなのに、繰り返した。

 自分が泰介の気持ちをどれほど踏み躙ったのか、肩を掴まれた瞬間に気づいていた。泰介さえも怖くなる。それなのに離れたくない自分がいて、泰介のブレザーを掴んでいた。縋った狡さに嫌気がさす。それでも離れられなかった。一緒にいてくれて、嬉しかった。

 謝り続けた葵に、泰介は何も言わなかった。ただ、怒ったような顔でずっと唇を引き結んで、視界が塞がった葵を引いて走り続けた。

 長い間、二人で話した。

 公園のベンチに並んで座り、互いの顔を見ないまま、二人で長い話をした。

 葵の話は要領を得ないものばかりで、それを聞く泰介もけして聞き上手とは言えなかった。つっかえては泣き、泣いてはつっかえるを繰り返す葵に相当苛々したはずなのに、その日の泰介は文句を言わなかった。気づけばあっという間に日が落ちて、寒さの厳しい夜の中、葵が泣き止むまで一緒にいてくれた。

 ごめん、と何度目かも分からない謝罪を口にした時。

 それ以上謝ったらぶっ飛ばす、と。ようやく相変わらずの悪態が飛んできて、そんな乱暴さに、また泣いた。安堵したのだと、遅れて気づいた。

 荒っぽく扱われても、よかったのだ。大事にされて何も知らずに怯えるよりも、その方がずっと嬉しかった。

 後日、二人で病院へ行った。

 蓮香にも父にも、内緒だった。

 中学の制服を着た一組の男女が、他に誰の付き添いもなく病院の検査へ向かう様は、傍から見て異様だったと思う。

 あの時葵を止められなかった事を泰介は後悔していると気づいていたが、葵は当時、後悔などしていなかった。自分の事を知りたいと思う気持ちは紛れもなく本物で、それに対して歯止めを利かせようとすればするほど、疑心暗鬼と不安が膨らみ、どうしようもなく怖くなる。得体の知れない佐伯葵という個人が、とても恐ろしいものに思えてならなかった。

 それが、家族への裏切りに近い行為だと。気づけないほど愚かだった。

 それでも。だからこそ思う。

 泰介がいてくれて、葵は嬉しかった。

 葵が自分の限界を見誤った時、いつも泰介に先回りされていた。葵が、駄目になる前に。風を切って走る泰介は眩しかった。周りの風景が少しだけ、煌めいて見えた気がした。一緒に走って目にした景色の眩しさに、今でもまだ、目が眩む。高校生になった、今でも。

 多分、ずっと、好きだった。

 もう一緒にいる時間があまりに長すぎて、これが恋愛感情なのか友愛なのかさえ分からない。どちらでも、よかった。

 気づいたら助けてもらっていた、ではなくて。せめてきちんと、自分から助けを求められるようになりたかった。助けられてばかりで何も返せないのは悲しい。そんな状態のまま会えなくなるのは、もっと悲しい。

 泰介に、会いたい。

 だから――〝ゲーム〟は、終わらせなければならなかった。

「………」

 葵は壁にもたれながら、手首をもぞもぞと動かす。頑丈に結び付けられたリボンは一向に緩む気配がなく、拘束はやはり解けそうにない。どういう結び方をしたらこんな拘束力を生むのだろう。構造が理解できなかった。

 ただ、気がかりな事が一つあった。

 葵が腹を蹴られ、身動きができなくなった後。

 更なる暴行を葵は覚悟していたが、近寄ってきたさくらにリボンを抜かれて括り付けられただけで、あれから危害は加えられなかった。

 こんな風に思うのは、おかしいのかもしれない。

 だが、何となく――助けられた、気がしたのだ。

 何らかの操作が働いて、害意が急に希釈された。そんな唐突な手心を、葵はあの教室で感じたのだ。葵が暴れたり学校の外へ飛び出そうとしない限りは、もしかしたら安全なのではないか。その推測が正しいのかは定かではないが、無闇な抵抗を止めてからは、特に身に迫る危険はない。

 葵は、二年二組での行動を誤ったのだろうか。

 あの場では、学校にいるという選択こそが、正しいものだったのだろうか。

「……」

 葵が学校で待つ事で、〝ゲーム〟がどう動くというのだろう。予想はつかなかったが、きっかけだけは分かった。

 泰介と、仁科だ。

 二人が学校にやって来た時、〝ゲーム〟が動く。そんな予感が不安と共に湧き上がる。来てほしい。来ないでほしい。相反する気持ちと決別するように、葵は肘を壁に当てて、とん、と軽く押し返す。反動で身体が揺れ、そのまま跳び箱の着地の要領で弾みをつけると、葵は両足で床を踏みしめた。

 ――立てる。

 ほっとした葵は腕を背に回したまま立ち上がり、背後を振り返った。

 その瞬間に、わっ、と飴色の光が溢れた。

 一瞬の変化だった。世界の色が変わった。鮮やかな閃光が走り、火の粉のような燐光を散らして霧散する。風が、優しく吹き抜けた。窓が開いているのだ。目の前のカーテンが大きくたわみ、制服と髪がたなびいた。

 あっという間だった。もう、驚くこともなかった。

 つい先程まで白く射していた陽光が、光の向きを変えている。濃いオレンジの輝きが、教室と、そこに立つ葵の色を変えていく。

 まるで、スタート地点から一歩踏み込んだ、あの学校のようだった。

 眼前の夕景色に、葵は見惚れた。住宅地の向こうの太陽が、赤く燃える様は美しかった。黒髪が、風に洗われるように揺れていく。転んだ時に毛先のほつれには気付いていたが、こんな状態では直す事もできない。二人に見られたら笑われてしまうかもしれない。それよりも先に、怒られるだろうか。

 こつん、と葵は窓枠に額を当てた。金属の冷たさが、額に伝わる。

 ――泰介。仁科は。

 仁科の事を、葵は思う。

 卑屈に笑う仁科の顔が、何故だか薄幸に見えた時。

 颯爽と歩いく足取りに、微かな不安を覚えた時。

 長身の仁科が、ひどく脆く、見えた時。

 いつからか、気づいていた。多分、最初から気付いていた。気づいていない振りを、無意識のうちにしていたのかもしれない。

 ――仁科は……仁科も。

 全然、似ていないのに。

 ――泰介は、怒るかもしれないけど。

 何となくだが、分かってしまった。

 ――仁科も、助けて、って。言えない人だと思う。

 だから。

 ――泰介が先回りして、助けてあげて。

「……仁科」

 助けたかった。自分の事さえ満足に面倒を見れない体たらくで、それでも助けたいと思うのは傲慢だろうか。

 それでも、と葵は思う。

 皆で、帰りたかった。


     *


 二人は、バスに揺られていた。

 泰介一人ならば間違いなく、走った方が早く学校へ着く。だが仁科を連れてとなると、多少遠回りする事になってもバスの方が早いだろう。そんな判断で乗車したバスだったが、本来ならば一本道で行ける所をぐるりと迂回するのを見ただけで、泰介の心に言いようのない焦燥が、さざ波のように広がった。

 葵が、まだ、見つからない。

 学校に行けば何かが変わると信じての行動だったが、その行為に確証はないのだ。他にあてがないだけで、もし学校を当たって見つからなければ、その時泰介はどう動くべきか、全く考えられずにいた。

 だが思考を停止させている場合ではなかった。泰介は己を叱咤するが、焦燥に焼かれた脳はまともに働かず、気づけば葵の泣き顔のフラッシュバックばかりが脳裏をちらつき、それが思考を乱していく。

「ちっ……!」

 泰介は乱暴に髪を引っ掴むと、額に手を当てて呻いた。

 眩暈が、ひどい。ずるずると崩れ落ちるように前の座席へ頭が傾き、咄嗟にそれを庇った手の甲が手すりにぶつかる。ひどく打ち付けた気がしたが痛みは分からなかった。バスの振動だけが、直に伝わる。

「吉野……?」

 仁科がそんな泰介の様子を不審に思ったのか、声を掛けてくる。だが首を横に振るしかできなかった。大丈夫だと言うのは簡単だったが、明らかに大丈夫ではなかった。断続的な頭痛がさらに泰介から集中力を奪い、加速した焦りに衝き動かされるように思考しても、上滑りするばかりだった。

 葵が、まだ、見つからない。

 ――駄目だ。違う。考えろ!

 泰介は首を振って、熱っぽくなった思考を振るい落とす。眩暈が余計に増した。目の前の黒い手すりが歪み、バスのシートの緑と混じって斑になる。ぐにゃぐにゃと変容するマーブル色を見るだけで、激しい悪寒と吐き気に襲われた。

「う……!」

「吉野! おい!」

 仁科の声に、焦りが混じった。顔を上げて仁科の顔を見る余裕は、既に泰介から失われていた。むしろ、見せない方がいい。見るな、と思う。身体的にいくら泰介が危険だろうが、精神的に参っているのは仁科の方だ。ならば余計に、見るべきではない。それなのに見せてしまっている現状が、自分の弱さも仁科の弱さも含めて許せなかった。

「……こっち、見んな。俺を心配する仁科なんてらしくねえよ。気持ち悪りぃんだよ……」

 なんとか絞り出した悪態は、這いずるような声だった。こんな声なら無視を決め込んだ方がマシだったかもしれない。だがこれほど異常な身体変化を隠し通せるとも思えなかった。泰介は諦観を覚えながら、仁科の前でこんな醜態を晒す羽目になった己の状態を強く呪った。

 結果的に、バスに乗るという選択は正しかったのかもしれない。走っている途中でダウンして、仁科の肩を借りながら学校を目指すよりは遙かに早く着けるだろう。泰介は、歯を食いしばる。

 なんとしてでも、抑え込むつもりだった。バスを降りるまでに、いつもの吉野泰介に戻れるように。学校を、すぐ捜索できるように。葵の顔が、またフラッシュバックする。たいすけ。呼んでいる。泰介を呼んで、泣いている。

 葵。

 ――どこにいるんだよ、お前……!

 ぎりっ、と鞄に乗せた指が生地に食い込む。自分の心からいつしか余裕が失われている事に、泰介は今更気づかされた。止まらない頭痛と身体を芯から冷やしていく悪寒が、葵は必ず学校にいるという自信を少しずつ剥ぎ取っていく。そして疑心暗鬼に陥り始めた瞬間、入れ替わるように殺意が湧いた。〝ゲーム〟に振り回されていると気づいたからだ。

 また、フラッシュバックがちらついた。

 葵が、ひどく泣いている。

「……なん、で……泣いてんだよ……お前……っ」

 泰介は呻き、額を強く手すりに押し付けた。

 葵の事を、ただ思った。今朝も、泣き出しそうな顔で泰介を迎えに来た葵の事を。小学生の頃には短かった葵の髪は、今では背中の真ん中辺りまで伸びていた。

 髪を長めに伸ばすのは、高校生の時の蓮香の髪型に、憧れていたから。葵が最近、そんな風に明かしてくれたのを思い出す。

 だが、お淑やかな葵と開けっ広げな蓮香とでは、同じ長さの髪でも印象が全く違った。似てないと言いたくなったが、それだけは言えなかった。口をついて出かけた言葉をぎりぎりで呑んだ泰介を、葵はじっと見つめて、やがて笑った。

『似てないって思ったんでしょ? いいのに』

 穏やかな笑みに寂しさはなく、不思議な晴れやかさだけがあった。

 葵が家族に泣きながら謝った事を、泰介は知っている。

 自分自身の事を家族に訊かずに、勝手に調べようとした。その行為の浅はかさを泣いて謝った事を知っている。泰介も一緒に頭を下げたからだ。

 蓮香に、泰介は打たれた。頬を容赦なく引っ叩かれた。

 殴られて当然だった。だから泰介は黙っていたが、次に言われた台詞を聞いた瞬間、湧き上がった怒りの熱さで、自制心が弾け飛んだ。

『この子の事を、一番分かってるような顔をしないで』

 ――反論した。

 馬鹿だった。家族こそが一番分かっていて当然なのだ。それなのに反論してしまった泰介は、佐伯家へは謝罪に向かったはずなのに、心の底では反省などしていなかったのだと思う。

 即座に、もう一発殴られた。葵が泣きながら、葵の父が慌てながら、蓮香を止めた。

 そして泰介と葵は、葵の出生について少しだけ説明を受けた。泰介は追い出されるかと思っていたのに、葵の父と蓮香は泰介がいる状態のまま、話し始めた。

 葵は、佐伯家の本当の子供ではないという事。

 実の父も母も生きているが、実父は蒸発したという事。

 実母の消息は把握しているが、葵には絶対に教えないという事。

 そしてどうやら、兄か姉がいたらしいという事。だがもう会えないという事。

 関わるな、調べるな、という事。

 真実を述べたのは葵の父で、禁則事項は蓮香が言った。蓮香は泰介を牽制するように睨むと、

『あたしの妹これ以上不幸にしたら、ぶっ殺す』

 と、真顔で言った。不幸じゃないよ、と葵が言ってまた泣いた。

 代わりに葵の父は、泰介に頭を下げた。大人の男性に頭を下げられて初めて、ここへの同席を許された意味を知った気がした。

 泰介しか、知らない。その重みを、今もしっかり覚えている。

 ――こんな所で、蹲っている場合ではなかった。

 仁科が泰介をしきりに呼ぶ声が聞こえたが、返事をしようにも息が閊えて喋れなかった。まずい、と焦る。意識が朦朧とし始めた。だから今、こんな事を思い出しているのだろうか。

 早く、帰らなくてはならなかった。葵を連れ戻して、仁科と、三人で。

 だから。

 早く。

 ――葵!


 突然、ぱしっ、と乾いた音が脳裏で鳴った。


 視界から一気に、色が失せていく。

 ――きた。

 期待と覚悟が同時に胸にせり上がり、緊張で全身の筋肉が強張る。

 焚かれたフラッシュのような光が、ぱちん、と閃いた。


『……泰介、いい』


 ――葵の声、だった。

 そっと囁かれた声は、短い拒否の言葉だった。

 俯いた葵が、他にも何か言っている。だがノイズのような粗がひどく、鮮明にそれを聞き取れない。それでも見えているのに、まだ思い出せない。

 ただ、そんな不鮮明なフラッシュバックでも、葵が笑った事だけは分かった。

 悲しい笑い方だった。

 泰介が一番嫌いだと思う、葵の笑い方だった。

 悲哀を滲ませながらも隠そうとして、無理に笑う、葵の顔。もう顔を見なくても分かる。焼き付いている。声を聞くだけで分かってしまう。それだけの時間を一緒に過ごしたのだ。

 葵はどうして、こんなにも悲しみを抱え込むのだろう。泰介はそれが大嫌いだった。これで隠せているつもりなのだろうか。だとしたら最悪だった。泰介のような感情の機微に疎い人間でも気づくほどの拙い演技で、誤魔化せると本気で思っているのだろうか。

 だが、本当は気づいていた。それが苛立つ原因ではないと、いつからか泰介は気づいていた。

 泰介は、隠されたという、ただそれだけの事が嫌だっただけなのだ。

 単純に、自分の都合で腹を立てただけだった。

 言えよ、と思う。

 何で言わないんだ、と思う。

 それができないのが佐伯葵なのだと、分かっていても腹が立った。許す事ができなかった。そうやって泰介が意固地になった結果が、今にまで続いた関係を生んだのかもしれない。そしてそんな葵の弱さに付き合った事を、後悔などしていなかった。

 泰介の手は、葵の両肩に乗せられていた。脱いだ学ランを何故か葵の肩に掛けていて、凍えている葵へ何かを尋ね、言葉を重ねた。そんな、気がした。

 葵が、手荷物を落とす音が響く。落とした瞬間に、支えを失くしたようにこちらへ倒れ、肩に乗せた両手の間をすり抜けて、泰介にぶつかる。宙に手だけが、残された。

 抱きしめたら、痛がるのではないか。乱暴に手を掴んだ記憶が蘇る。そんな躊躇と共に背中へ下ろした手の動きは、拙過ぎて目を背けたくなるほどに、こわごわとしたものだった。

 すとん、と何かが自分の中にしっかりと嵌ったような符号を感じた。

 覚えている。知っている。この記憶は、本物だった。

 泰介達の間で、泰介達が忘れてしまった何かが起こった。

 そしてその何かが、泰介と葵の関係を変えたのだ。

 ただ同時に、大して何も変わっていないような気も少しした。もっとずっと前から、こんな風になっていても不思議ではなかったのかもしれない。今の延長線上に、こんな未来は確実にあったように思う。

 そしてこれは、未来ではなく現実だ。その差だけが、今の全てだった。

 すう、と。悪寒が身体から、抜けていく。身体の熱も一緒に憑き物が落ちるように抜けていき、フラッシュバックがここまでなのだと、身体から力が抜けていく感覚と共に、泰介は悟る。

 歯噛みした。絶対にまだ、忘れている。そして同時に、気づいていた。

 今朝の、葵を思い出す。その距離感を思い返すだけで、もう分かってしまった。

 やはり葵も、仁科と同じなのだ。

 二人とも、あの修学旅行の記憶がない。

 まだ、秋沢さくらとの喧嘩の全容が判然としない。

 仁科が奪い去って行った手紙の事も、行動の意図が不明のままだ。

 それなのに泰介の記憶は欠けだらけのままなのだ。それが、ただ歯痒かった。

 泰介が全てを、思い出したら。

 〝ゲーム〟は、変わるのだろうか。

 薄れゆく意識の中で、手が、滑る。ずる、と鞄の生地を擦りながら落ちていく手を、ただ、見送ってしまったその時。

 がつっ、と。

 肩を、掴まれた。

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