囚われの迷子は不思議の国へ
葵は走っていた。
階段を駆け下り、校舎の外と飛び出し、捜索ルートをその最中に脳内で組み立てながら走っていた。
教室で泰介と仁科の荷物を見つけた時点で二人の不在は分かっていたが、それでも葵は無駄骨を承知で二人の姿を探していた。まずは一通り高校を一周し、それで駄目なら校外へ出るつもりだった。今は帰還していなくとも行き違いでの帰還の可能性を疑い、そこへ期待をかけたのだ。
そして陸上部の先輩と思しき生徒へ泰介を見ていないか訊ねたが、そこで返ってきた答えに、葵は唖然としてしまった。
「吉野なら、今頃走ってると思うぞ」
「……へ?」
おかしい。そう思ったがその場では口を噤んだ。葵はクラブ棟に背を向けてから、予期せず得られた答えの歪さに、顔色を青くして考える。
おかしい。やはり思う。
――泰介が、走っている?
いつものように? 校庭や校舎の外周を?
葵はクラブ棟を離れると、グラウンドへ降りる階段前で立ち止まった。冷たく吹きつける秋風が、黒髪とスカートを揺らしていく。ローファーに履き替えた靴が砂を踏んで、ざりっと乾いた音を立てた。乱れる髪を掻き揚げながら、葵はグラウンドをたった一人で見下ろした。
四方を金網に囲まれた御崎川高校の校庭には、今やたくさんの生徒の姿があった。もうすぐ始業開始五分前の予鈴が鳴る所為か、忙しなく校庭を横切って登校する姿が目立つが、のんびり歩く生徒も多い。白んだ空は時間と共に青さを増して、それでいて薄いベールを被せたような、優しい淡さを湛えていた。
葵の眼前に広がった光景は、日常だった。
その光景のあまりの普通さに、一瞬、分からなくなる。
〝ゲーム〟に参加していた事自体が、悪い夢なのではないか。そんな錯覚を覚えるほどに、この光景は普通過ぎた。込み上げてきた郷愁の熱さが、胸に迫る。
――本当に、夢だったら。
葵は、唇を噛みしめる。本当に夢だったら、どれだけいいだろう。心からそう思った。
だが、葵はもう気づいていた。
〝ゲーム〟の真実の一端を握るのは、自分だけだ。そして気づいてしまった以上、その事実から目を背ける事はできなかった。
だからこそ、見つけなくてはならなかった。
〝ゲーム〟を、終わらせる為に。〝アリス〟の正体が、分からないままでも。それでも葵にできる事があるのだと、それだけは確信していたのだ。
ただその役割が何なのかまでは、葵はまだはっきり掴めていなかった。
そして何故理解が届かないのかは、もう自分でも気づいている。
――情報の、不足だった。
考えてみれば葵は、結局仁科から話を聞けずじまいだった。〝放送〟をきっかけに行先を分断されてしまったので、葵は仁科の抱えた葛藤をほとんど何も知らない。
葵は――〝アリス〟を、仁科だと考えていた。
――それ、多分間違ってるわよ。
その推測を葵は言葉にしなかったはずだが、あの少女には見破られ、否定されている。だがそれでも葵は、この〝ゲーム〟に仁科がどれほど多大に関わっているのかは認識しているつもりだった。
そしていまだに、〝アリス〟だという考えを捨て切れずにいる。
葵にはまだ、分からない事が多すぎた。
だが同時に、微かな安堵も感じていた。
おそらく葵が必要としている情報は、仁科か、あるいは泰介が持っている気がするのだ。
宮崎侑。その名を、葵は反芻する。
〝彼女〟の事を、知る必要があった。そして仁科が〝彼女〟の鍵なのだ。
だから葵のすべき事は、仁科の事をもっとよく知る事かもしれない。ただ、それを思うと少し複雑で、少し気が咎め、そして少し、悲しくなった。
葵は気弱な方へ振れた感情を矯正するように首を振り、再度グラウンドを見下ろす。生徒の登校ラッシュの光景に混じって、グラウンドを走る運動部員の姿を見つけたが、案の定その中に泰介の姿は見当たらなかった。
「うーん……」
葵は首を捻る。何だか腑に落ちなかった。仮にも〝ゲーム〟の途中だ。全てを投げ出して陸上部の活動へ向かう泰介など想像もつかないし、不自然だ。とはいえ校舎の外周を走っている可能性もある。葵は一応思案したが、やはり腑に落ちなかった。泰介に限って、と思う。
あの泰介が、突然失踪する形になった葵を放置して、あんなにも感情の掴み方が不安定になっている仁科をも放置して、部活などするだろうか。
葵は即断する。あり得ない。こんなものは逡巡するまでもなかった。くるりと踵を返した葵は、背後の昇降口へローファーの踵を鳴らしながら駆け込んだ。この情報を信頼するには、あまりに状況が怪し過ぎた。あの先輩には悪いと思うが、葵はただ目撃情報を募っただけなのだから、真に受ける事もないだろう。
そして、気づく。こう割り切ると、泰介の目撃情報はやはり皆無に等しかった。
「……」
最初から、覚悟の上での捜索だった。あの〝校舎〟から帰還するとどこへ戻されるかは不明だが、泰介の方の心当たりは一応当たった。
そうなると次は仁科になるのだが、こちらは骨が折れそうだった。今度は校外を広範囲に回る事になる上に、放浪癖のある仁科の行先など、葵には把握しきれないからだ。元々外を探しに行く気ではいたが、それでも捜索範囲を絞り込めないという難点を、葵は泰介の姿を探しながらずっと煩悶していたのだ。
普段仁科がどの辺りをうろうろしているのかも、実は全然知らないでいる。
そういった詮索を仁科はあまり好まないだろうと思い、敢えて訊かないでいたのだが、こんな事になるのなら訊いておけばよかったと思う。後悔しても遅い上に身勝手だと分かっていたが、それでも悲しさが込み上げて、胸がいっぱいになってしまった。
思い知らされる。
葵は、こんなにも仁科を知らない。
葵でもこれだけ知らないというのに、他の誰が仁科の事を知っているというのだろう。泰介なら同じ男子という事で幾らか分かりあえる事もあるかもしれないが、葵が見る限り、二人の友情は少しばかり捻くれている。それが何だか微笑ましくて葵は会話する二人を見るのが好きだったが、いざこういう局面に立たされてみると、泰介が知る仁科要平は、葵の知る仁科要平と変わらないか、ベクトルが違うだけの同じ深さのような気がした。
御崎川での、仁科のスタンスを思う。誰とも群れずに孤高に過ごし、斜に構えた態度をあまり崩そうとしない、仁科要平の事を思う。少し人を食ったようなところはあるものの、話してみれば思っていたよりもずっと朴訥とした喋り方をしていて、時々だが素直な笑みや言葉も覗く、そんな仁科の顔を思い出す。
それでも葵は、仁科を知らな過ぎた。それを、思い知らされる。
――仁科、泰介とまだ一緒にいてくれてるかな。
葵はローファーを脱いで、昇降口の簀子を踏みながら、思う。
――喧嘩、してないかな。
思わず、苦笑が零れた。絶対、している。だが、それでも。
――泰介。仁科をお願い。
祈るような気持ちで、思う。
泰介にも仁科にも会えない今の葵にできるのは、二人を探す事と、ただ二人の無事を願う事だけだ。そんな事しかできない自分が不甲斐なくも思ったが、二人に会わなければ何も始まらないのだ。葵はまだ検めていない校舎の廊下を見回る為に、上履きを再度履き直し、歩き始めた。
その時、唐突に声が掛けられた。
「葵! おはよっ」
びくりとした。心臓が跳ねる。聞き覚えのある声だった。
だが、今ここで出会って、喜ぶべき相手なのか。葵にはその判断がつかず、瞬時にできなかった判断が、葵に泰介の不在を思い出させた。
何故か、鳥肌が立った。舟木朝子を思い出す。そして先程の、陸上部の先輩も。
――吉野泰介は、走っている。
皆が、そう言っている。その台詞が軛のように、葵をこの場へ繋ぎ止める。振り返るのが怖くなった。だが怖がる理由など一つもないのだ。葵はおそるおそる、昇降口を振り返った。
「……さくら。……敬くんも」
秋沢さくらがいた。そして隣には、狭山敬も立っていた。
二人は今しがた登校してきたばかりのようで、昇降口からこちらへ手を振っている。葵はその様子を、ぎこちなく強張った顔で見つめた。
――吉野泰介は、走っている。
声が、フラッシュバックする。泰介は、陸上部で、走っている。
「おはよう、葵ちゃん」
混乱する葵をよそに、敬が朗らかな声で言った。
「お……おはよう。二人とも」
葵は、なんとか笑顔を取り繕う。言葉尻ははっきりと震えていて、訊けば誰もが怪訝に思うようなか細い声だったが、それでも葵の挨拶を聞いた二人は、にこりと笑顔を返す。
下駄箱が等間隔に並ぶ昇降口の扉の前で、二人は並んで立っていた。木製の扉に嵌められた窓から朝日が白く降り注ぎ、二人の立ち姿は僅かだが、逆光で黒い。
こ――――ん。と。間延びした音が、沈黙する三者の間に生徒達の喧騒を伴って流れ、響き渡る。始業開始、五分前のチャイムだ。
「…………」
無言、だった。
葵は半端な笑顔を浮かべたまま、その場から動く事ができなかった。
目の前のさくらと敬の二人もまた、昇降口の戸を塞ぐように立ったまま、身動き一つ取らない。背後からの生徒の侵入を阻むように、門番のように立っている。
「……っ」
異様な沈黙は、まだ続く。葵のぎこちない笑顔が、沈黙の中でじわじわ崩れていく。威圧感を放つ二人は、ただただ笑顔でそこにいる。
――不気味だった。
いつまで続くか分からない沈黙に耐え兼ね、葵はついに、空気の塊を吐きだすように、言った。
「……え……と。どうした、の……?」
「どうもしないよ」
あっさりと、さくらが答えた。
そしてそれが――決壊の合図となった。
「葵。どこ行ってたの?」
「え?」
「手ぶらじゃん。ねえ、手ぶらで、どこ行ってたの? 葵、今ローファーに履きかえたでしょ? でも荷物は持ってないから、一度教室に来て置いてったってとこかな? ねえ、葵、教室にいたんでしょ? それなのに、手ぶらでどこに行ってたの? ……それとも、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの? ねえ、どこかに行くの?」
「……っ!? ちょっと、さくら!?」
唖然とした。
すらすらと淀みなく喋り始めたさくらの語り口は鋭利だった。葵に反論する隙を与えない会話の運びは流れるように滑らかで、どこにも反論できなかった。葵の行動を逐一見ていたとしか思えない言葉の内容に理解が及んだ瞬間、肌が粟立つほどの恐怖に襲われ、葵は口元を抑えて後ずさった。
さくらは口元をうっすらと笑みの形に吊り上げたが、その目は笑っていなかった。自然体のさくららしくない、ひどく歪な笑みだった。
〝ゲーム〟。
様子のおかしいさくらを見て、頭を過る言葉がそれだった。
――まだ終わってない。
葵は今こそ、本当に気づく。〝ゲーム〟が動き出したのを肌で感じた瞬間だった。
「ああ、泰介かな? 葵ちゃん、泰介を待ってるの?」
言葉に詰まった葵に、今度は敬が言った。
「泰介なら、陸上部で走って」
「ちがう!」
叩き伏せるように、葵は叫んだ。もう限界だったのだ。吉野泰介は陸上部で走っている。誰もがそう答えた。これ以上は耐えられなかった。それを聞くだけで心が悲鳴を上げた。葵は目の前で笑う二人の級友を、きっ、と見返す。涙が浮かびそうになる。だが、駄目なのだ。まだ。葵は、決死の表情で訴えた。
「泰介は走ってなんかない! 教室に鞄があるもん! ……お願い、さくら、敬くん。知ってるなら教えて! 泰介は……仁科は、どこに」
「仁科なんか知らない」
さくらが言った。
緩慢に、声が響く。
だがその声量は、かなりのものだった。
さくらはゆっくりと、だが葵の声を潰すほどの大声で、たったそれだけの台詞を言ったのだ。その大声は何故だか感情に乏しい空っぽの声で、葵は蒼白になる。
今更のように思い至ったのだ。さくらが、仁科へ抱く感情に。
「……さくら……」
小さな罪悪感が、葵の中に生まれた。先日クラスで決めた、修学旅行のグループ割り。その席での自分の我儘を思い出して、葵は思わず目を伏せる。だが同時にこんな場面でも確執を引き合いに出すさくらに対して、小さな反発や悲しみ、そして怒りも一緒に湧き上がった。葵は複雑に混じる感情を抱えたまま、目の前の友達に掛ける言葉を刹那、迷う。
だが、それでも。今はそれどころではないのだ。
葵はさくらを諭すように、そして逆上されないよう、慎重に口を開いた。
「さくら。仁科のことは……私の我儘、きいてくれて嬉しかった。ありがとう」
でも、と葵は続けた。
「ごめんね、今は私、仁科を探してるの。どうしても会って、話さないとだめなの……」
だから、と。葵は揺れる気持ちを噛みしめながら、さくらへ言った。
「仁科と泰介の居場所、もし、知ってるなら……!」
「まだだよ、葵ちゃん」
「え……?」
敬だった。さくらの脇に控えていた敬が、無機質な微笑みを浮かべて、言った。
「まだだよ、葵ちゃん。……夕方まで、待たないと」
場が、寒々しいほど静かになった。まだ駆け込みで登校してくる生徒がたくさんいるはずなのに、異様なまでの静けさがそこに広がり始めていた。
葵は、ようやく気づいていた。
二人が塞いでいる昇降口。そこからは誰も、生徒が入れない。
そしてその通せんぼを見た生徒は、何事もなかったかのように他の昇降口を選んでいた。その顔には扉を塞ぐ生徒への苛立ちも憤懣もなく、ただただ当然のように、進路をくるりと変えている。
二人は、背後からの侵入者を阻んでいるのではない。
葵の退路を、塞いでいるのだ。
――恐怖で、思考が真っ白に塗り潰された。
「葵。教室に行こうよ」
さくらが、不意に動いた。
葵は「ひっ」と悲鳴を上げた。明らかに友人への態度ではなかったが、さくらは構わず葵の手を、ぱしっと音がするほど強く掴んだ。引き摺られ、踏み止まることも叶わず簀子から足が離れてしまう。葵の隣に、敬が並んだ。その顔が微笑んでいるのを見て、悲鳴さえも喉の奥で潰れた。
「どこにも行かないでよ、葵」
さくらが甘く、囁いた。
*
「どうして、俺は自分の過去なんか見せられてるんだろうって、お前と別れてからもずっと考えてたんだ」
仁科要平はそう言って、カップに添えた自分の手を無気力に見下ろした。
朝日が差し込むカウンター席は眩しく、その光に白々と照らされた自分の手は、抜けるように白い。弛緩した手がだらりとテーブルの乗った様はまるで死人の肉を髣髴とさせ、我ながら不気味だとぼんやり思う。
コーヒーの黒い表面が僅かに波打ち、その波紋の中に、歪んだ自分の顔を見る。どんな表情をしていたかは、さしたる関心もなく眺めた仁科には判らない。顔を上げれば窓硝子に映っているだろうが、ろくでもない顔だろうと簡単に想像がつく。
「吉野と別れた後。予想できてるだろうけど、あいつ、また死んだ」
淡々と、仁科は言った。それを言う声が、まるで他人事のように空気を打つ。自分の声だとは俄かに信じ難いほどに、空っぽの声だった。
本当に、馬鹿みたいだった。
ただ、飛び降り自殺をもう一度見た。それだけの事が、自分をこれほど変えるとは思わなかった。笑い飛ばせたら楽だろうが、何故か笑顔は固まった。
いつものように。そう思えば思う程、から回る。一度看破された笑顔を復元する事が、これほど心を砕いてもできない。そんな己に苛立つ心さえ、摩耗していた。
「……」
仁科の告白を聞いた吉野泰介は、何も言わなかった。俯き気味の姿勢をぴたりと維持し、両膝に乗せた拳を固く握り締め、テーブルのコーヒーを睨み付けるようにして座っている。仁科の心に、微かな感慨が湧き上がった。
――泰介は、帰ってきたのだ。
佐伯葵が失踪し、次に消えたのは泰介だった。萩宮に一人残された仁科はいつの間にかここへ着席していたが、顔を上げると、泰介がいた。短髪を揺らして辺りを窺う、心なしか擦り傷が増えたクラスメイト。その姿を見て初めて、固まったままの感情が、僅かだが動いた。心の閊えが一つ、確かに抜け落ちたのを感じた。
そして同時に、泰介の無事を確認したところで僅かほども変わらなかった己の虚無に、仁科は淡々と向き合っていた。
何が、ここまで自分を空っぽにしたのだろう。仁科は空っぽの心で考える。
泰介はやはり寡黙だった。頑なに引き結んだ口元が、呑みこんだ感情と言葉で歪んでいる。泰介が仁科への質問を諦めて聞き役に徹する姿勢を見下ろしながら、胸に暗い諦観が広がった。
――バレている。
泰介は、仁科の状態を見抜いている。こんなにもぼろぼろの自分を見抜いて、だから泰介は怒らない。
元々吉野泰介というクラスメイトは、感じた事を言葉にする事に躊躇いが薄い所為か、気性が荒いと見られがちだ。だがその実かなり面倒見がよく、問題を抱えている人間を放っておけない所があるらしい。苛立ちを隠そうともしない顔のまま葵の世話をこまごまと焼く姿からも、それは顕著に表れている。腹が立つのであれば放っておけばいいのに、それでも泰介は人の弱さや粗に構う。
穿った見方をしているのは承知していた。こんな感想を持っていたと知られれば泰介には手加減なしで殴られるだろうし、確実に葵を悲しませるだろう。だが仁科は泰介のそんな愚直さを、馬鹿だと蔑むのと同時に一目置いていたのだ。
それは、間違っても優しくなどない自分には、到底真似できないからだ。
皮肉だと思う。
その気遣いを、自分に向けられる日が来るとは思わなかった。
泰介が人に意識して優しくする時は、いつもそうなのだ。誰かに対して真摯な態度を取ろうとする時、泰介は寡黙になる。協調性皆無の自分のように、だが自分とは明らかに違う顔で、泰介はぶっきらぼうに口を閉ざす。
泰介は、不器用だ。
不器用だからこそ実直で、誠実だった。
それは確実に相手へと伝わる、拙いながらもはっきりとした配慮だった。
仁科にはない、優しさだった。
「……」
それをどうして、自分はあの時持てなかったのだろう。
ないものねだりをする気はなかった。だが、だとしたらこの感情は後悔だろうか。
最後の会話を、思い出す。結局誘いに乗って教室に出向いてしまった、鮮烈な最期の記憶。蘇った過去を前にして茫然と立ち尽くす自分の姿が、十四の自分と重なった。
何もできないのは、今も昔も変わらないのだ。仁科があの結末を後悔しているのだとしても、それは意味のない事だ。何故ならあの時の仁科に泰介のような優しさがあったとしても、それを侑の為に、仁科はきっと使わない。使う自分が、思い描けないのだ。
だから、駄目なのだ。何度でも、同じ事を繰り返す。
その堂々巡りに、心が擦り切れ果てるまで。
気づけば泰介の横顔を見ながら、随分と時間が過ぎていた。だが泰介は視線を動かさず、仁科を急かす事もしなかった。一度待つと決めた泰介はぴたりと静止し、それでも顔には悔しさと怒りと、仁科には想像もつかない何かの感情が色濃く滲んだ、複雑な表情を浮かべていた。
そして、何も言わない。待ってくれている。
「……吉野。萩宮の中学で、お前と話した時。佐伯ももしかしたら過去を見てるのかもしれないって俺に言ったの、覚えてるか?」
仁科は、そう切り出した。
「俺は、その考えが正しいんじゃないかって思ってる。俺が、自分の中学時代を見たみたいに。吉野は今も、そこは同じ考えだと思う。違うか?」
泰介はカウンターを睨み付けていたが、やがて顔を上げると言った。
「……ああ。俺もそうだと思ってる」
奥歯に何かが挟まったような、歯切れの悪い返答だった。
違和感を、覚えた。何事もはきはき喋る、泰介らしからぬ言い様だ。
訝しんだが、やがて気づく。
もしかしたら泰介も、仁科と分断された後に何らかの過去を鑑賞する羽目になったのだろうか。泰介は決まり悪そうに口を噤んでいたが、それが語る事を拒む姿勢なのか、単に仁科の態度への怒りなのかは判断がつかなかった。訊き出すべきだと分かっていたが、どうにも訊く気になれなかった。
泰介が何を見たにしろ、それは泰介の問題だ。訊いた所でどうにもならない。それにおそらく〝ゲーム〟との関係は薄いだろう。吉野泰介と宮崎侑との接点は皆無ではないと発覚したが、あまりに希薄な上にあれだけでは意味不明だ。わざわざ泰介に注進する気にもなれない。
自分と、侑。その関わりだけで、沢山だ。
「なんであいつが〝アリス〟を探せって言ったか。それがやっと分かった気がする」
仁科はコーヒーカップに触れたが、手に思うように力が入らず、爪がかつんとカップを叩いた。その挙動に自分で笑いそうになる。なんとか掴んで、一口飲んだ。コーヒーの匂いが鼻腔を抜けたが、何の味もしなかった。
「きっとそれは、あの場所が不思議の国だからかもしれない」
泰介が、不可解そうな顔をする。仁科は構わず、先を続けた。
「『不思議の国のアリス』は知ってるだろ? 不思議の国。非現実世界。あるわけはないし、そんなものは空想の産物だ。時間を気にするウサギがいたり、身体が大きくなったり小さくなったりする薬とか食い物とかがあったりする、馬鹿げた場所の事だ」
「……それが今実際に起きてる事と、関係してるって言いたいのか?」
「吉野はこういう話、嫌いだろ。俺もヤだけど」
「ああ。信じられないし馬鹿みてえ。信じて後で笑われる自分ってやつを想像してみろよ。恥ずかしくて外歩けねえよ」
仁科は笑い、コーヒーをとんと置いた。優しく置いたはずなのに、波打った黒い雫がコップの淵から一滴零れて、側面を伝い、コップの底をじわじわと回る。真っ黒な表面が揺れて、射しこむ朝日を跳ね返す。それを見下ろしながら、泰介がこちらを複雑な表情で睨んでいるのに気づいていた。
結局吉野泰介という人間は、優しさや労りの感情さえ怒りにしてぶつけてくるのだ。損な奴だと仁科は思う。そんな顔ばかりするから、誤解されるのだ。馬鹿だ、とまた思った。
だが、こういう馬鹿が傍にいた葵は幸せだっただろう、と。仁科はそんな風にも考えながら、言った。
「……きっと。一番最初に不思議の国に行ったのは、佐伯なんだ」
泰介の表情が、固まる。
「佐伯は消えたな。俺達と離れた僅かな時間の間に。その時あいつも、俺達みたいにどこかに飛ばされたんだ。そこを不思議の国だと仮定する」
「じゃあ、俺らが行った、仁科の中学時代も?」
「ああ。同じように仮定する。……吉野。不思議の国に迷い込むのは、アリスだろ?」
「つまり……不思議の国へ行けた者は、〝アリス〟。仁科が言いたいのは、そういう事かよ」
仁科は頷く事はせず、話し続けた。
「俺達は皆、〝アリス〟だったんだ。探すべき〝アリス〟なんて、俺達の中にはいなかった。というより、〝ゲーム〟にすらなってない。だって、〝アリス〟はあの空間に三人もいたんだ」
「……」
「俺達は、皆〝アリス〟だったんだ」
「けど、〝アリス〟は。小説のアリスは、目が覚めるだろ」
泰介が、声を割り込ませるように言った。
「仁科。ここに俺達は帰ってきたんだぞ。お前の言う不思議の国から、帰ってきたって事になるんだろ?」
「空想論の嫌いな吉野が、仮定を元に会話なんてするんだな」
「茶化すな。聞けよ」
歯痒そうな表情で、泰介が一喝した。
「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。俺一回しか読んだ事ないし、それもかなり昔だ。結構細部は忘れてると思う。でも、結末は忘れてないからな。不思議の国なんか、アリスの夢だ。あんなものはまやかしなんだ。アリスが目を覚ました瞬間に、全部消えちまうんだよ」
「ともかく、だ」
仁科は、冷たいコーヒーを一口含んでから、言った。
「目覚めたアリスは、正しいんだって俺は思う」
「正しい?」
「だって、そうだろ。アリスは絶対に目を覚ますものだろ。あのタイミングで」
「あのタイミング……?」
「女王に首を切られそうになるだろ。だからアリスは、目覚めた事で救われた」
泰介が、はっと息を呑んだ。
会話が、途切れる。その隙間を埋めるBGMだけが場違いに明るく、窓から射す外光は少しずつだが明るさを増し、泰介の手や頬の傷を鮮明に映し出していく。
一体何を頑張れば、ここまでぼろぼろになれるのだろう。硝子を割った時の事を思い出したが、その後にできた擦り傷の方が多く見える。まるで小学生のような奴だと、場違いにも笑いそうになった。
だが分かっていた。仁科の所為だ。
「……お前が言いたい事、分かった。仁科」
泰介が、小さな背もたれに思い切りもたれて天井を仰いだ。
「お前、〝アリス〟の正体分かったんだろ」
「……。絶対、俺だと思う。でも、第二候補も一応考えた」
「その第二候補、当ててやる」
「どうぞ」
「葵だと思ってるだろ!」
泰介が怒鳴った。
周囲の客がぎょっとしたようにこちらを振り向き、店内が静まり返る。泰介はその沈黙に虚を突かれたように息を呑むと、ひどくもどかしそうな表情で仁科の顔をひたと睨んだ。
「目覚めて、帰ってきた〝アリス〟。これが定型通りの正しい〝アリス〟。つまり俺とお前だ。帰ってきた〝アリス〟同士はここで無事に合流できた。でも、もう一人……まだ帰って来れてない〝アリス〟がいる。仁科、そう言いたいんだろ」
――アリスが不思議の国から、帰って来れなかったら。
耳鳴りのように頭に響くのは、甘ったるい少女の声。その声で、言うのだ。
不思議の国から、帰ってこられない、〝アリス〟は。
「不思議の国のアリス、か。文字通りそれって、佐伯葵の事だろ。あいつまだ、帰ってきてない」
仁科はそれだけの台詞を抑揚なく述べると、自嘲気味に笑った。
全て、自分の蒔いた種だった。それが今、葵を追い込んでいる。
佐伯葵の事を、仁科は思う。黒く真っ直ぐな、少し長めの髪。オレンジ色の頭髪の自分が隣に立つと、両者の髪色の差が激し過ぎて笑い合ったのを思い出す。今にして思えば何がそんなに可笑しかったのか分からないが、ただ仁科よりも葵の方が、ずっと楽しそうに笑っていた。
仁科の髪を、綺麗だと言ったのは葵だった。
オレンジ色の髪を、褒められたのは初めてだった。
馬鹿な奴だと、そう思ったのを覚えている。非行の象徴のような如何にも頭の悪そうな頭髪を指して、綺麗とは一体何事だろう。だがそんな風に言われるのはどうしてか嫌ではなくて、一房摘まんで日の光に透かした。金色に見えた髪が懐かしいと、葵の言葉が耳に残る。
何故、葵なのだろうと自問した。だがそんなものは自問するまでもなかった。あの日の、自分が悪いのだ。
葵は、どうなるのだろう。〝ゲーム〟の言葉が過る。死ぬのだろうか。死ぬべき仁科要平が死なないで、仁科要平でない誰かが死ぬ。そうやって繰り返すのが、この〝ゲーム〟なのだろうか。これから死ぬかもしれないのが佐伯葵だという事実が、途方もない絶望となって、胸にぽっかりと穴を開けた。少しの間笑い続けた仁科は、ぜんまいの切れた人形のように笑いを収めて、緩慢に泰介を振り返った。
視線を受けた泰介は、仁科をきつく睨んでいた。
「お前のその推理。穴だらけだぞ」
泰介は言いながら立ち上がり、隣席へ乗せていた葵の鞄を引っ掴んで肩へ提げると、仁科を傲然と見下ろした。
「仁科、さっきの不思議の国って仮説。それ、正しいって立証できないだろ」
「ああ。勿論。仮説だし」
「もう一つ。ここがその不思議の国じゃないって保障、どこにあるんだよ?」
仁科は、沈黙する。泰介の言わんとする意味が分からなかった。
だが、すぐに理解が追いついた。
「まだ、〝ゲーム〟終わってないだろ。過去見せられたくらいで終わるわけないだろ。多分これ、そんなぬるい〝ゲーム〟じゃねえよ。あの過去が不思議の国なんじゃなくて、ここが、ここ全体が、不思議の国なんじゃないかって思ってる」
泰介は伝票を引っ掴むと、「行くぞ、仁科」と乱暴に言った。
「俺はお前に反論するぜ。お前の理論に則るなら、〝アリス〟はまだ俺ら全員だ。葵だけが怪しいなんて思わないし、葵は絶対、どこかにいるはずだ」
真っ直ぐに仁科を見る泰介の目に、怒りと、何かを呑み込んだような感情の色が閃く。それでもはっきりと、泰介は言った。
「それに俺、仁科も自分で言ってたけど。最初からお前が、〝アリス〟だって思ってる」
「……そうだろうな」
仁科は、乾いた声で笑った。泰介は顔を顰めたが、今はもう文句を言う気はないようだ。「出るぞ。早く立てっての」と仁科に催促しながら、足はレジへ向かっている。それらの言葉には、迷いというものがまるでなかった。日本刀の切れ味を髣髴とさせる言葉尻は相変わらず乱暴で、自分の言葉と心を毛ほども疑っていないそのスタンスが、仁科のがらんどうの心へ、風のように流れ込む。
何を感じたのか、分からない。だがそれでも、何かが響いた。以前泰介に言われた言葉を、不意に思い出す。
――御崎川に、三人で。
「……」
「葵、探すぞ。これで葵があっさり見つかったら、お前の今の理論総崩れだからな。すっげえ格好悪りぃぞ。覚悟しとけ」
「……吉野」
「ん?」
泰介が、振り返った。
「今まで、あんまり考えなかったけど」
仁科はそう前置きして、言うか言うまいか迷い、結局言った。
「お前が〝アリス〟って可能性、どうなんだろうな」
泰介が、息を吸い込む。
不意を衝かれたような表情だった。仁科は特に根拠も何もなく口にしたのだが、言ってみて初めて、その可能性に自分でも少し驚く。
吉野泰介が、〝アリス〟。考えてもみなかった事だった。
二人の間にこの時流れた沈黙は、象徴的なものだった。疑問を投げかけたその瞬間に、鬱屈も悲哀も憤懣も猜疑も、互いの間から消え失せた。重い感情の枷が外れて、純粋な驚きで見つめ合った。やがて長い沈黙の末に、泰介が言った。
「……そっか。それでも俺、構わねえよ。守る対象が自分ならやりやすい」
瞳に挑むような光を宿して、泰介が笑う。
ここに来てから、初めて浮かべた笑みだった。
「なあ仁科。俺、分かった。誰が〝アリス〟でも俺としては全然問題ないんだな、って」
「は? 何?」
「守ればいいんだろ? 〝アリス〟」
あっけらかんと、泰介は言った。
「お前だろうが葵だろうが、手がかかるお前らまとめて、俺が面倒見てやるって言ってんだよ。お前、さっき俺の事面倒見がいいってからかったろ。お望み通り面倒みてやるから感謝しろ。帰ったら飯でも奢れよな」
泰介は唖然として動かない仁科を怪訝そうに見ると、「だからっ、お前いつまで突っ立ってんだよ」と鬱陶しそうに目を細めた。
「行くぞ。仁科。葵が待ってる」
そう言って、泰介は表情を引き締めて歩き出す。
仁科は、カウンター席を振り返った。
手つかずのまま残された泰介のコーヒーを見て、それから前をずんずんと歩いていく背中を見た。葵の鞄を掴む泰介の指は、きつく生地を握っている。
背筋をぴんと伸ばし、迷いなく歩を進める同級生の姿は、仁科より小柄なはずなのにどういうわけだか眩しかった。その眩しさが何故だかひどく疎ましく、同時に血でも吐きそうなほどの鬱屈と後悔と贖罪、そして安堵の気持ちが、凄まじい勢いで湧き上がった。
一瞬眩暈がするほどの、情動。その意味が自分でも分からない。
これでは、まるであの時と同じだった。自分の事が一番分からない。何を考えても何を話しても、自分だけは分からないのだ。
何故、安堵したのだろう。そんな余裕などないはずだ。葵がまだ見つかっていない。にも関わらず、こんな所で安息を得るなどお笑い種だ。
泰介の気遣いが仁科の心へ吹き抜けて、そのまま通り過ぎていく。
その優しさにどう報いればいいのか分からず、仁科は空っぽの心と向かい合ったまま、泰介に続いて歩き始めた。




