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修学旅行・午前

「みんなー、遅いよ……」

 集合時間に遅れてやってきた吉野泰介達を非難するのは、駅の隅にぽつんと立った狭山敬だ。泰介達を見るなり、その顔つきがほっとしたものに変わる。

「ごめんね、敬! だいぶ待たせてるよね!」

 よく通る声がすかんと響く。秋沢さくらが軽やかに駆けて、待ちぼうけの敬の元へ急いだ。泰介はさくらに続こうとして、佐伯葵が遅れを取っているのに気付く。幼馴染の非力がここに極まっているように思え、振り返りながらさすがに呆れた。泰介が荷物を肩代わりしても苦行は変わらないらしい。旅行から帰ったら筋トレでもすべきだと思うが、どうせ続かないのは分かっていた。

「葵ちゃん、無理しないで」

 敬が手を口に当てて葵に叫ぶのが聞こえてくる。泰介は学ランの胸元で交差したボストンバッグの肩紐を掴み、リボンの付いている方を足元へ置いた。女子の荷物は何故男子の荷物の二倍の重量があるのだろう。そのくせ体力は二分の一ときているので理解に苦しむ。たかが三泊四日の旅行くらいで大げさなのだ。

「置いとくからな、葵」

「あ……ありがとう」

 葵は息切れしながら言ったが、泰介は居心地の悪さから「あー、別に」と濁した。元はと言えば泰介が悪いので、礼を言われても複雑なのだ。

 そんな泰介の内心を葵は察したらしく微笑んだが、謝るのが先と割り切ったのだろう。敬に向き直ったので、泰介もそれに倣う。

「ごめんね、敬くん」

「わり。敬。待ったろ」

 頬を掻きながら、泰介も言った。たったそれだけの言葉だが言い難かった。非が自分にあるのは十分承知していても、謝るという行為はいつだってばつの悪さが先に立ち、言葉尻が乱暴になる。

「もういいよ。皆、そんなに気にしないでも。えっと……一応、全員揃ったんだし。事故とかじゃなくてよかったよ。問題は……集合時間をとっくに過ぎてる事なんだ」

「……」

「グループでは確かに集まってるんだけど、ほら、クラス単位でも一回集まんないといけないから……」

「敬、もしかして、島田センセに電話してくれたの?」

 さくらが訊くと、敬は頷いた。

「泰介達は遅れるってメール早い段階にくれたけどさ、やっぱり集合時間過ぎたら先生から電話かかってきちゃって」

「わあ……遅刻の言い訳なんてさせてごめん……」

 葵が引き攣った顔で言う。敬は班長だから連絡を受けたのだろうが、その班長だけは時間を守っているのだ。それなのに遅刻した泰介達の為に言い訳を考えさせられる敬を思うと、さすがに不憫だった。

「敬、先生になんて連絡したんだよ?」

「みんな欠席です、とか?」

「おい、さく……」

 さくらはきゃらきゃら笑ったが、すぐにしゅんとうな垂れて「ごめん」と謝った。敬は「いいよ。さく」と苦笑した。

「クラスの方は解散だって。でも島田先生厳しいから、帰ったら何か書かされるかも。反省文とか」

「うわ」

「げっ」

 泰介とさくらがそれぞれ呻いた。島田の厳しさは御崎川高校一を誇っているのだ。泰介とさくらの所属する陸上部の先輩によると、友人達と島田の顔をゴリラ呼ばわりしていた所を不運にも聞かれてしまい、憤怒の形相の島田にこってり絞られたという。皆がその逸話を知っているので、泰介達の間に重い沈黙が降りた。

「ほんとにごめんね、敬くん。もし反省文書くことになったら、私が代わりに書くから」

 申し訳なさそうに言う葵へ、「ほんとにいいよ。葵ちゃん」と、敬は微笑んで繰り返した。

「それにさ、遅刻の原因って泰介が間違って普通に学校に登校した、とかじゃないの? 泰介、中学の修学旅行でそれやらかしてたじゃん」

「そ、そんなんじゃねえよ!」

 痛い所を突かれながらも泰介が喚くと、さくらがにやりと愉快そうに笑った。

「泰介、早起きなのにねぇ。でも土日はいつも走りこみしないの。走ってるのはガッコある日だけ。だから、ほら。今日土曜日じゃん。目覚ましかけ忘れて寝坊までしてんの。家族の人用事で何日か家空けてるから誰も起こせなくってさあ、葵の電話でやっと起きたの。で、巻き添えで全員遅刻。バカでしょ?」

「さくらあぁ!」

 ぺらぺら喋るさくらに向けて叫んだが、もう後の祭りだった。

「反省文よろしく。泰介。じゃ、行こっか」

 呆れ笑いを浮かべた敬が、足元のバッグを両手で持ち上げた。

「あ、敬くん」

 ボストンバッグを提げた葵が、敬に駆け寄った。旅行用にと結い直されたお馴染みの青いリボンが、動作に合わせてひらりと揺れる。

「仁科のこと、メールで言った通りだから」

「うん、オッケー」

 敬が鷹揚に頷く。済まなそうにする葵が痛ましく思えたのか、敬も人の良さそうな微笑をほんの少し陰らせた。二人の密かなやり取りを気にしながら、泰介はさくらを盗み見る。

 こちらは二人とは対照的で、活気に満ち溢れた笑顔だった。今からこのメンバーで始まる旅行が楽しみで堪らないのだと顔に書いてある。

 そんな三者の様子を見て、ここにはいない一人を思う。

 事態の面倒臭さに辟易して、泰介は溜息を吐き出した。

 文句を言いたい所だが、折角の修学旅行に水を差すのも気が引ける。

 そうなると泰介にできるのは、沈黙を貫く以外にないのだった。


     *


 御崎川高校二年の修学旅行は少し趣向が変わっていて、自由行動がメインに組まれた三泊四日の京都旅行だった。

 与えられた期間をどう過ごすかは、全て生徒達に決定権が委ねられる。京都内であればどこを巡っても構わないし、名所巡り、食べ歩きのようなツアーを班毎に計画するのも自由だ。極端な話、有意義な目的さえ存在すれば旅館から出ない日があってもいいという。行き帰りの新幹線さえ団体行動ではなく、間で集合を挟むもののグループ行動だ。

 もちろん、それでは何の為の修学旅行か分からない。帰ってから一日の休養を挟んで登校した後、行程をレポートにまとめるという申し訳程度の作業もあるが、御崎川の修学旅行といえば、まず誰もが大喜びする一大イベントだった。

 そこで何かを学習するというよりも、日頃の行いの良さへの飴玉、勤勉な学習態度への労い。そんな側面を強く持った修学旅行は、この歴史ある高校の伝統らしい。父兄の中にはお祭り騒ぎのような軽い修学旅行の是正を求める声もあるようだが、学生としては喜ばしい限りだし、学校側も今まで羽目を外した生徒はいないと主張している。きっとこの方針は、これからも続いていくのだろう。

 こうして泰介達は、クラスでのグループ決めを経てここにいる。

 同じ中学出身メンバーばかりでグループを組むのは、何だか奇妙な縁だと泰介は思う。修学旅行のある二年生で、これだけ揃うのは面白い。これが一年や三年の時でなくてよかったという素直な気持ちはあったが、それだけでは割り切れない感情も、正直なところ根深い。

 泰介は自然と葵の姿を見ながら、首を振った。今更思い煩ったところで、もうどうしようもないのだろう。

 眼前の道路の両側には、軒を連ねる土産物屋。それらの店を一軒一軒冷やかしながら、泰介達四人はぶらぶらと歩いた。事前にどこを回るかは軽く決めていたが、別にその通りに行動する必要はないので気楽なものだ。

 都会育ちの泰介には京都の景観は新鮮で、遠い所まで来たのだという不思議な感慨が湧いた。空気はやや肌寒いが、今朝の遅刻騒動で走り込んだ所為か体温は上がっている。それでも汗が引けば、また寒さを感じるのだろう。

 京都の夏は暑く、冬は寒い。そう聞いた事がある。

「あーあ。秋かあ。どーせ見るんだったら桜が満開のきれーな時がよかったのにぃ。四月だったらきれーだったんだろーなぁ」

 さくらがぼやくと、「さくらってば。ほら、紅葉も綺麗だよ。私は秋でよかったかな」と葵が相槌を打った。

「ふぅん? 葵、それ春だと虫出るからでしょ? 毛虫とか、なんかよく分かんない飛んでるやつとか」

「ちょっと、やめてよさくら」

 悪乗りしたさくらが葵をからかうと、やり取りを聞いていた敬が吹き出した。

「両方のイメージがあるよね。桜も紅葉も。やっぱり町並みに似合うからかな」

「そうだよね」と、その花を名に冠したさくらが嬉しそうに笑う。

「ね、葵。後で扇子見に行こーよ。さくね、桜柄のがいーなって決めてるんだ」

「うん。私も気に入るのあったら欲しい」

 泰介は、敬と視線を交わし合った。京都には綺麗な物が多いだろう。男子は女子の買い物に振り回されて、あちこちの店を梯子させられそうだ。

「敬は買うもの決めてんのか?」

「僕は、家族に八橋買って帰ろうかな。後は妹に何か買って帰んなきゃって思ってるけど、気に入らないって言われたらショックだし。さくと葵ちゃんに見立ててもらおうかな」

「優しいんだな。ま、あいつらに連れ回されるのはもう仕方ないにしろ、土産の荷物持ちとかさせられないように気をつけた方がいいぜ」

「聞こえてるからね、泰介」

 前を葵と並んで歩いていたさくらが、すぐさま泰介に噛み付いた。

「そんなにここで散財するわけないじゃん。明後日までもたせなきゃいけないし。帰ったらカラオケ行くんだから」

「は? カラオケ?」

「泰介も参加でしょ? ほら、旅行から帰ったら次の日休みじゃん。今んとこ参加者はー、さくと、葵と、朝ちゃんとー、ってとこで企画が止まってるんだけど、敬と泰介もおいでよ」

「ちょっと待て。お前今いつっつった?」

「修学旅行から帰った次の日。療養休み。ね、いーでしょ」

「休む間とかなしかよ」

「善は急げって言うし。いーじゃん別に。いこーよ」

 さくらは楽しそうに絡んでくる。泰介は思わず渋面を作った。

 嫌だとまでは思っていない。だが、参加は無理だ。

「俺、パス。今言った朝ちゃんって舟木の事だろ。俺、あいつの事あんま知らねーもん。あいつも俺の事なんか名前くらいしか知らないだろうし。あいつが気まずいだろ」

「そうだね……朝ちゃんと泰介じゃ完全に他人だもん。仕方ないよ、さくら」

 頷いたのは葵だ。さくらの突然の誘いは葵にとっても予想外だったようだ。どことなく顔つきが神妙だ。

「あー、そだね。じゃあ、敬は?」

 さくらは最後に敬を振り返ったが、敬も難色を示した。

「泰介が行かないなら、僕も。女の子ばっかりの中に、男一人はちょっと」

 控えめながらも確かな拒否に、さくらは「そっかぁ」と残念そうに呟いた。

「仕方ないよ。さくら」

 とりなすように繰り返した葵は、「あ、そうだ」と、明るい声を上げて、全員を見回した。

「私、何か甘い物食べたいなって思ってたの。さくらも抹茶アイス食べたいって言ってたでしょ? たくさん走ったし、どこかで休む時間作ろうよ」

 空気を読んだのだろう。やはり葵はこういう所で気が回る。泰介は幼馴染の手腕に感心しながら、薄く唇を引いて笑った。

「へぇ。それうまいのか?」

「分かんないから試すの」

 葵も、笑った。

「帰ってきた後の事より、今を楽しまないと。せっかく京都に来たんだもん」


     *


 泰介は携帯を開くと、メールを一応チェックする。そして新着メールはないと分かるとフリップを閉じた。

「仁科君、気になる?」

 隣を歩く敬が訊ねてきたが、泰介はズボンのポケットへ携帯を戻すと「別に」とぶっきらぼうに言った。

「この場にいなくても一応メンバーだからな。集合時間に足並み揃わないと、お前に迷惑かかるだろ」

「泰介が言う? それ」

 敬が可笑しそうに笑った。遅刻してきた泰介を責めているというよりも、平然と矛盾を述べる泰介が純粋に可笑しい。そんな風に泰介の目には映る。

「仁科君、クラスで集合の時に合流って、葵ちゃんから聞いてるよ」

 そう言って敬は、足を止めた。

「僕は気にしないからさ、仁科君もやっぱり一緒に来たらいいのに。そうしたら葵ちゃんが申し訳なさそうにする事もなかったんじゃないかな……って」

「仁科に関してだけ言うなら、深い意味はないと思うぞ」

 妙に勘ぐり過ぎている様子の敬へ、泰介は一応釘を刺した。

「あいつは単純に団体行動が面倒臭いだけだと思うぜ? せっかくの遠方の旅行を煩い御崎川の連中と連れ立って、ぞろぞろとそぞろ歩くのが本気で怠いって思ってるに決まってる。……だから、別にいいんだよ。一人で行動すること自体は。勝手にすればいい」

「相変わらず仁科君相手になると、ひどい言いようだよね、泰介って」

 苦笑する敬の表情は晴れない。泰介は引っ掛かりを感じたが、何も言わなかった。おそらく仁科の事で何か思う事があるのだろうが、泰介では敬が望むような言葉など何一つ掛けられない。そうなれば、余計に傷つくのはどちらか。泰介であっても分かっている。

 失望を与えるくらいなら、何も言わない方がいい。泰介には不器用にしかできない事を簡単にこなす奴が、同じグループ内にいるのだ。

 だから今回の事に関しても、泰介が気を揉むよりも葵に任せていればいい。

 そもそも、葵に任せる以外にやりようもないのだ。

 敬に倣って泰介も足を止めると、数歩離れた先の店舗で葵とさくらが扇子を眺めているのが見えた。

「葵、見て見て! 楽譜柄だ。朝ちゃんとか好きそう。吹奏楽もやってるし」

「あ、ほんとだ。さくらはどうするの? 何か買ってくの?」

「そのつもりだけど……うーん、今は保留かなー。後でこれよりいい! ってやつ見ちゃったらヤじゃない? あ、でも他の人に買われちゃったらどうしよ」

「もう、さくらってば。保留にするんじゃなかったの?」

「だってぇ。……好き! って思ってるのを人に取られちゃうの、ヤなんだもん。……やっぱり買おうかなぁ」

 二人の会話に何気なく耳を傾けながら、泰介はげんなりした。やはり女子とグループを組んだ以上、相当な時間を買い物に費やされそうだ。

「せっかく京都来たってのに、お前ら寺とか見ないでいーのかよ」

「キョーミないもん」

 さくらは笑って言ってのけた。

「お寺はさ、金閣と銀閣明日行くんでしょ? だったらもうそれでいいじゃない。それとも、お寺めぐりに興味ある子、この中にいるの?」

 そんな言い方をされたら、興味があってもあるとは言いにくいものだろう。だがここにいる者は皆さくらのそんな言い方には慣れていたし、悪気がないのも分かっていた。

「僕、隣のお店行ってていいかな? 家族のお土産見ときたいんだ」

 敬が話題を逸らすように言うと、さくらが不意を衝かれたような顔をした。

「敬、後の方がいいんじゃない? 嵩張るよ。一日目だし。帰りにも多分同じ道通るよ」

「うん、だから今は見とくだけ。いいのが見つかったら後で買うから」

「そっか」

 さくらは表情を曇らせたが、ぱっと明るく笑うと「じゃあ敬の方が早く済むと思うし、後でこっちに来てね」と手を振った。敬はさくらに手を振り返すと、扇子の並ぶ店舗から背を向ける。

 その後ろ姿に、泰介は声を掛けた。

「敬、待てよ。俺もそっち行く」

 呼び止められるとは思っていなかったらしい敬が、不思議そうに泰介を見た。

「さく達、泰介みたいな人が時々声掛けないとなかなかお店から出ないんじゃない?」

「けど、あっちの店の匂い。お香か? 俺には長時間あれに耐えれる自信ないや。敬が行くって言ってなかったら俺が言ってた」

「そんな大げさな」

 敬は呆れ顔で泰介を見やると、「でも、泰介らしい」と笑った。

 さわさわと髪が風に揺れる。外気を胸いっぱいに吸い込むと、空気の爽やかさを改めて感じた。空の青さも目に眩しい。辺りを見回しながら泰介は言った。

「ほんとに、俺らの制服見ないな」

「今の時間がもう十一時過ぎだしね。それに一本道だし、皆はもっと先に行ってるよ。今日お寺を見に行ってるグループもあるみたいだよ」

「俺らはまだ名所もちゃんと巡ってねえし、これじゃほんとに学校の行事っていうより、遊びに来てるみたいだな」

「遊び、かあ」

 敬が向かった店の軒先にはガラスケースがあり、和菓子を輪切りにして餡を晒したものが幾つも陳列されていた。客は泰介達しかおらず、店員も見たところ一人だけだ。雑踏や雑音に慣れた泰介の耳にはここは静か過ぎて、別世界に紛れ込んだ気分になった。敬は団子の断面を眺めていたが、顔を上げるとにこりとした。

「いいね、そういうの。泰介の遅刻もいい方に作用してるって事じゃん」

「誉めてんのか責めてんのか、はっきりしろよ」

 泰介が軽口を叩くと、不意に、敬の表情が陰った。

「ねえ泰介」

「ん?」

「ちょっと出よっか」

 敬は入ったばかりの店内にいきなり背を向けて、暖かな日差しの射す表へ歩いていく。泰介は訝しんだが、促されるまま外へ出て、道路に面した歩道に立つ。敬はこちらを振り返ると、また笑った。

「次いつこんな風に話せるか分かんないからさ、ちょっと聞いてほしい事があるんだけど、いいかな?」

 泰介は目を瞠る。その声音から、敬の真剣さが分かったのだ。

「……俺、相談事とか向いてないと思うぜ。分かってるだろ」

「でも、話すなら泰介がいいって思った」

 敬は泰介の顔色を窺いながら、おそるおそる言った。

「泰介、モテるでしょ」

 バッグが地面へ落ちた。ぼすっと硬い布地が歩道に叩きつけられる、くぐもった音がした。完全に不意打ちだった。

「お前、何言ってんだよ……?」

「あはは、ごめん」

「なんか敬誤解してるけど、そんな事ねえから」

「ほんとに?」

 敬が苦笑を引っ込めて訊いてくる。泰介はその視線を受けて、何だか見ていられなくなって目を逸らした。

「……高校入ってから、三回。言っとくけどな、全部断ってるからな! それに断ったら三人共からそのまま嫌われてるから」

「どんな振り方したらそうなるの」

 敬は呆れていた。

「言い方が乱暴とかデリカシーないとか、なんか色々言われた気がするけど、そんなのいちいち覚えてねえよ」

「じゃあ、泰介は自分も好きな子に告白されたら?」

「は……? そりゃ、付き合うとか、そうするんじゃねえの?」

 泰介はまごつきながらも、思いついた事をそのまま言う。だが敬は泰介の答えを聞くと、少し悲しそうに目を伏せた。

「でも、友達に、自分の事を好きかもしれない子がいるんだ」

 ぴん、とすぐに連想が働いた。

「さく」

「え」

「さくだろ? それ。あいつ分かりやすいじゃん。俺でも分かるくらいなんだから」

 敬が目を見開いて「知ってたんだ」と呟くので、「今になるまで気づかなかったお前が鈍すぎるんだろ。あいつがお前のこと好きなのって中一からだぜ」と言ってやった。さすがにバラし過ぎたと遅れて気づいて慌てたが、敬はただ俯いた。

 そして、さらりと言った。

「僕、さくのこと好きだよ」

 あっさりとしたものだった。聞かされた泰介の方が恥ずかしくなる。飾り気のない言葉はすっきりと簡素で無駄がない。だがその躊躇いの無さは、さくらへの好意があくまで友達としてのものだという何よりの証左に思えて、泰介は少しだが、さくらが不憫になった。

「さくの事は好きだけど、それは泰介や葵ちゃんに対するものと変わらないんだ。友達なんだと思う」

「男の俺まで引き合いに出すなよな」

 泰介はわざと乱暴に言ってやった。できるだけこの話題を、軽く扱いたかった。「お前の好きな奴って誰?」と訊ねると、敬は口こそ開けたものの顔を赤くして何も言わない。今度は泰介が呆れる番だった。

「お前は女か。ちゃちゃっと吐けよ」

「……泰介が言ったら」

「うぜえ。黙れ。ふざけんな」

 敬はもじもじしつつも、今度は素直に言った。

「舟木さん」

「舟木?」

 てっぺんにまで上りつめた太陽が、立ち尽くす二人を頭上から照らした。仄白く柔らかな日差しの中で、敬はそれだけで体力を使い果たしたかのように下を向いた。やはり女子のようだと泰介は思う。

 舟木朝子という少女は、真面目で大人しい印象の少女だ。朝早めに登校して席に着き、黙々と勉強している姿をよく目にする。泰介はおそらく会話を交わした事さえない。先程さくら発案のカラオケ騒ぎで名前が挙がった生徒でもある。

 改めて舟木朝子について回想してみると、あの真面目な舟木朝子が本当にカラオケになど来るだろうかと泰介は疑問に思った。さくらが嫌がる朝子をそうとは知らず無理やり誘う図が容易に想像できて、泰介は事の真相を見た気がした。

 それにしても、正直意外だった。

「そういや、敬も朝早かったっけ。だから話すのか。でも、それにしたって……」

 普段つるんでいる所を見ないだけに、意外だという思いが強い。それを言おうとすると、「でも」と敬の声が割って入った。

「最近、よく分かんなくって。舟木さんは……なんて言ったらいいか、よく分かんないんだけど。さくだったらすぐに言っちゃうような事でも、言わなくて。静かだよね。我慢強いって言ったらいいのかも」

「おう」

「さくとは、ちがくて。さくは、もっとストレートじゃん。隠すって事しないでしょ。何か不満があれば、相手に嫌われるの覚悟でがんがん言っちゃうよね。それにすぐ怒るし、泣くし。同じだけよく笑うけど。僕みたいな地味なのは、さくみたいな派手な子って歯牙にもかけないって思ってたのに……なんでだろ。気づいたら、中学の時からつるんでた」

「友達だからだろ」

「友達だから?」

「さっき自分でそう言っただろ。敬。さくは友達だって」

「……」

「舟木はどうなんだよ」

「え?」

「だから、舟木は。お前のこと好きなのか?」

 泰介は居心地の悪さを堪えて頭をがりがりと掻きながら訊ねた。敬はぽかんとした表情を見せたが、つっかえるようにして「多分」と言った。

 なんだ、と思う。人をけしかけておきながら。つい剣呑な目で敬を睨んだ。

「お前と、舟木が付き合うような事になったら。さくにどんな顔で向き合えばいいか分かんなくなるとか、怖いとか、そういう事で悩んでるって事かよ?」

 泰介が不慣れなりに懸命に考えて口にすると、敬は曖昧に頷いた。

「怖いよ。でも……それだけじゃない気がする」

「……」

 隣の店へと目を向けると、セミロングの黒髪が、真っ先に視界に飛び込んでくる。バッグに結わえた、青いサテン地のリボン。葵だ。

 その葵の隣にいるのは当のさくらだ。少し離れた所でこんなやり取りがなされているとも知らないで、さくらは無邪気な笑みを見せている。

 敬は中学からだが、さくらは小学生からの付き合いだ。泰介がつまらない挑発に乗って同級生と喧嘩をした時も、間に割って入って相手を罵倒したのはさくらだった。自分の感情に対して真っ直ぐな奴だと泰介は思う。そんな愚直さはきっと、女子の社会で生きていくには非常に分が悪いだろう。その辺りには男子の泰介にも通底するものがあるので、幾らか共感できる面もある。泰介は、笑うさくらを見ながら思った。不思議と、気分が良かった。

「敬。今のお前見てると、昔の葵見てる気分になるんだよな」

「? それ、女子っぽいって事?」

「めちゃくちゃ優柔不断で気弱でむかつくって言ってる」

「ちょっと泰介ひどくない? 優柔不断なのは分かってるけどさ」

「でも合ってるだろ。だってお前、さくが好きかもしれないじゃん」

「……へ?」

「今頃さくの事が分かるくらいに鈍いお前だから、まだ時間かかるんだろうけど、自覚しろよ。お前がいつから舟木を気にかけてたかなんか知らねーし興味もねえけど、それってほんとに今もなのか? さくが気になるんだろ」

 敬が、驚きの顔で泰介を見つめた。泰介は笑ってやった。

「急ぐなよ。いつも誰よりも堅実的なのがお前じゃん。考え方が二股っぽくてむかつくけど、あいつらには黙っといてやるよ」

 泰介は俯く敬の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。「わわっ」と叫んで慌てた敬が、必死になって抵抗する。

「やめてよ泰介っ」

「うるせえよ! 俺はこうやって中学時代に身長低いの散々からかわれたんだからな! お前も同じ屈辱を思い知れ!」

「僕だって泰介と身長変わんないじゃん! あと二股なんてかけてない!」

 敬は泰介と一緒になって騒いでいたが、唐突に「あれっ?」と声を上げると動きを止めた。

「どうした?」

「葵ちゃん」

 敬が指をさす。その先を見ると、買い物袋をボストンバッグに押し込みながら店を出る葵の姿が見えた。さくらは一緒ではなく、まだ店内にいるようだ。

 葵はきょろきょろと道路の左右を確認してから、ぱっと車道へ飛び出して対岸の歩道へ駆けていく。そのまま店の一つへ入ってしまった。看板を見て、泰介は嘆息する。

 どうやらオルゴールだとか硝子細工だとか、そういったものを売る店らしい。

 敬も同様に看板を見て、泰介の内心を察したのか苦笑いを浮かべた。

「観光地って結構こういうお店あるよね。家族旅行で行った先にもあったよ。こんな感じの可愛いお店」

「どこにでもあるって、そういう事じゃねーかよ」

 泰介はげんなりした。女子はこういった店を見るとすぐにほいほい入ってしまう。元々寺などには興味が薄いメンバーだといっても、これではあまりに酷い。

「京都に来てまでこれかよ……」

「まあまあ。大方、さくが出てくるまでってつもりだと思うよ」

「まあ、そうだろうな。それに……あいつ、昔からああいうの好きだったし。買わないくせに」

 昔から、葵の所持品は少なかった。物をあまり買い足そうとしない葵の持ち物はいつも最小限に抑えられていて、友達同士で買い物に出かけた時でさえも、一人だけ何も買わずに帰ってくる事がざらだという。

 さっき何かを買ったのだって、泰介から見れば珍しい。姉の蓮香への土産の可能性が高いが、もし自分用ならきっと大切にするのだろう。泰介は、敬を振り返った。

「俺、ちょっと行ってくる。お前はさくのとこ行けよ。あいつ、すぐふらふらするし。さくの買い物終わったら、こっち渡って来い」

「うん、わかった」

「変な心配すんなよ」

 背を向けかけた敬に、泰介は言った。

「さくを怖がる理由なんて、お前にはないだろ」

「……ありがと、泰介。泰介にこんな話したら困るだろうなって思ってたけど、やっぱり話してよかった」

「俺を何だと思ってるんだよ」

 敬は柔和に笑うと、さくらの元へゆっくりとした足取りで歩いていく。その背中を見送りながら、泰介はやれやれと息をついた。

 手のかかる友人と、男勝りな女子。そんなちぐはぐな二人を見るのは嫌ではなく、店内で話し始めた二人に不思議な安堵を感じた。穏やかで清々しい気持ちをそのままに、泰介は歩き出す。

 葵が消えた、オルゴール店。そこへ向かう為に、葵同様、道路を横断しようとした。

 横断、しようとした。

 道路を、横断しようとした。

 泰介は、道路を、横断しようとした。

 道路を。

 横断。

 泰介は。




 ぶつん。




     *


 何だこれ。

 かろうじて、絞り出した言葉がそれだった。

 何だこれ。

 何だこれ。何だこれ。何だこれ。

 何だよ、これ。

 思考する余裕は、今の吉野泰介にはなかった。

「……」

 泰介は全身にびっしりと汗を浮かべながら、その光景を見下ろしていた。

 目の前には吉野泰介、そして狭山敬がいる。

 二人で立って、笑っている。佐伯葵や秋沢さくらから距離を取り、内密に話し、笑っている。

 不意に、視界が二重にぶれた。

 輪郭の揺れる映像が二層に分かれ、視界を激しく攪乱する。混ぜ返った映像は出鱈目な方角へ乱れ飛びながら、まるでブランコのように勢いよく舞い戻り、映像同士が噛み合った瞬間に景色が歪んだ。何度も何度も映像がぶれて、戻り、ぶれて、戻った。

 鳥肌が一気に、全身に浮いた。額に浮いた脂汗が、つ、と伝って首筋に流れる。学ランの下に着たシャツが汗を吸って肌に貼りつき、きんと冷えた秋風は火照った身体から体温を奪う。身体を芯から冷やす風に嬲られて、敏感に反応した身体がぶるっと震えた。

 歯の根が、合わない。指先が、震える。きいん、と耳が壊れるような耳鳴りが脳を揺らし、景色をさらに撹拌した。

「……う……あ……!」

 上げかけた悲鳴を即座に噛み殺す。がちんと噛みしめた歯の間から吐息だけがひゅうと抜けた。

 唐突だった。何の前触れもなかった。

 膝をつき、どしゃりとその場へ崩れ落ちる。だがそんな泰介を顧みずに、二人の会話は続いていた。和やかな会話が穏やかな日差しの下で、何の疑問もなく継続されていた。それが悪趣味な映画を延々と垂れ流されているようで堪らなく不快なのに、声は泰介をいたぶるように、延々と流れ続けて止まらない。


「友達だからだろ」


「友達だから?」


「さっき自分でそう言っただろ。敬。さくは友達だって」


 ずきん! と、一際大きく頭が痛み、凄まじい悪寒が再び全身を貫いた。痙攣した身体がびくんと震え、泰介は地面に突っ込むように倒れ込んだ。ぶるぶると震える拳が鞄の生地に掠り、支えを求めるように泰介はそれを掻き抱いた。生地の硬さが頬に擦れて痛みがびりっと走ったが、全身を苛む悪寒がその鋭さを希釈した。

 声を聞く度に、誰かが話すその度に、頭部の血管がどくどくと、爆発寸前のように疼いた。

 ――頭が、痛い。

 忘れていた頭痛を、今になって思い出す。今朝、起きた時だ。目を覚ました時の熱っぽい身体の怠さ、頭の痛み。それらが今になって鮮明に蘇る。何故。泰介は思う。何故、今、こんなにも頭が。今朝の葵との会話が、労りが蘇る。そんなやり取りの存在さえ、泰介はもう忘れていた。それなのに。今、こんなにも、頭が。バットで殴られ続けているような衝撃が止まず、泰介は鞄を抱き締めるように身体を丸めた。

 ――何だよ、これ!

 心の中で絶叫した。

 何がここまで自分を窮地に陥れたのか、その理由が分からないのだ。

 だが、危険だけは理解した。まずい、と。それだけは分かっていた。

 何が原因かは不明だが、このままこの状況が続けば己が潰れる事だけは、明瞭に理解できたのだ。歯を食いしばって悪寒と痛みに耐えながら、それだけを泰介は必死になって理解した。理解して、顔色を失う。焦りで逸る心が震え、酸素を求めて伸ばした手は、何もできずに空を掻く。喘ぐように、息を吸う。すぐに咽て、吐き出した。

 まだ二人の会話は続いていた。泰介は、ふらりと手を伸ばす。

 二人へ、いや――敬の方へ。

「け、……けい、やめろ……もう、喋んな……」

 頼む、と続けたかったが、泰介の声はそこで途切れた。

 何故か、思った。

 間に合わなかった、と。

 その瞬間に、横合いから放たれた台詞が――世界を、変えた。



「さくを怖がる理由なんて、お前にはないだろ」



 ぱきん、と。

 何かが音を立てて破裂した。


「――うああああああぁぁあっ!」


 悲鳴が迸った。

 もうそこに意思など存在しなかった。ただ唐突に訪れた限界に何かが弾け飛んで爆発した。

 視界が、真っ白になる。だが本当にそれが白なのかさえ分からなかった。灰色かもしれない。黒かもしれない。赤かもしれない。ひどく色彩に乏しい中で、唯一彩度を保った赤が鮮やかに閃いた。

 まるで刃物を思い切り振りかざした瞬間の、残光のような一閃。その閃きがぬらぬらと赤い。カメラのフラッシュを焚かれたような赤い光に意識を照らし尽くされながら、同じくらいに赤いリボンが、視界いっぱいに翻る。それらはぐるりと踊るように、身体を囲んで取り巻いた。

 誰のリボン?

 分からない。

 たくさんいた。赤いリボンが、たくさん見える。

 何がそんなにも赤いのか、意識が、心が、知っていた。リボンだけがそんなに赤いのではないと、もう泰介は知っていた。

 だが、でも、それは。

 本当に見たわけではなくて、では、この記憶は。

 喉が、からからに乾いていく。それでも赤い、これは、人で。たくさんの人間がいる中で、喧嘩を、していた。

 口喧嘩だった。相手を罵倒して、相手からも罵倒され、背後で誰かが、震えていて、守れなかったと、何故だか悔いて、同時に怒りで我を忘れた。

 ――誰と。

 分からない。喧嘩など、たくさんしてきた。

 ――誰と。

 ……分からない。相手が誰だったか、思い出せない。

 ――誰と。

 誰かがずっと、問いかけている。

 誰と喧嘩をしたのかと、泰介に延々と訴えている。

 ――誰と。

 ――誰と、喧嘩をしたのか、と。

 頭が、痛い。頭が、割れるように痛かった。

 突然、モノクロの映像が、ばりばりと音を立てて壊れ始めた。

 ああ、と思った。焦燥が胸を焦がしていく。同時に喪失感がぽっかりと胸に穴を開け、突如湧き上がった絶望と共に泰介は思った。

 消えてしまう。このままでは取り零す。何も得られない。取り戻せない。ここに見えているのに。だがまだ何も見えていないのに。まだ、全然、何も。それなのに。

 手を、伸ばした。

 伸ばせば、届く気がした。そうすれば何かを、掴める気がした。

 今でなくては。今でなくてはいけない気がした。朦朧とし始めた意識が、それでも漠然と焦り、求めた、瞬間。

 唐突に、何かがはっきりと蘇った。


『なんでそんなわけわかんない奴の言うこと訊いて、さくの話は聞いてくれないの? 葵、分かんないよ!』


 叩きつけるような声だった。罅割れた激しいノイズが走り、砂嵐が吹き荒れ、不明瞭な映像が一層不明瞭になっていく。

 だが、その中に見つけた。

 黒い髪。赤いリボン。

 ――葵だった。

 背後に、葵が立っている。

 小刻みに震える葵の顔は蒼白で、距離が、何故か近かった。

 気づく。

 葵の腕を掴んでいるのは、自分だった。

 泰介が、葵の腕を掴んでいる。

 ――何故。

 分からない。

 だが見上げた葵と真っ直ぐに目が合うと、葵は怯えをひどく滲ませた顔で、こくりとこちらへ頷いた。

 理解、信頼、友愛。そんな感情の色が茫漠と灯る。それが閃いたと思った瞬間には、視界の大半が赤く染まった。画面が、目まぐるしく変化する。その変化に意識が追いつけないまま、場面が急激に切り替わった。

 モノクロの映像の中に、人影が立った。

 机。椅子。鞄。黒板。クラスメイト。

 全てを敵に回して轟然と立つ人影が、声を張り上げ、何事かを糾弾している。

 だが、画面が再び切り替わり――その人影は、泣いていた。

 秋沢さくらが、泣いていた。


「さく」


 泰介は、茫然と呟いた。目の前の光景の意味が分からなかった。

 ――そして突然に理解が及んだ瞬間、泰介は言っていた。


「……やめろよ」


 意識が、どんどんクリアになっていく。視界を覆っていた砂嵐がどんどん消えていく。さああ、と風が吹いた。ノイズがその風に吹き払われていくように、目の前が明瞭になっていく。だがそれでいてモノクロの景色だけは何も変わらず、暗鬱な色彩を湛えた世界はただ静かに、泰介の目の前に広がっていた。

 頭痛は、跡形もなく引いていた。長いトンネルを潜り抜けて外の景色が見えた瞬間に、それは似ていた。まさに今の状態が、そうだった。

 ――きい、と軋る音。

 上履きを履いた足が床を踏む。老朽化の進んだ校舎の床は、教室の中でも不吉に軋んだ。汗が、まるで涙のように顎の先からぽたりと落ちる。

 黒い学ランを着た、自分。金属バットも葵の鞄も持たない、手ぶらの自分。

 色彩のない世界で、唯一色彩を帯びた、血の通った肌を見下ろす。

 そんな自分の両掌を見つめて――泰介は立ち上がり、顔を上げた。

 御崎川高校、二年二組、島田学級。

 白黒の景色の中、クラスメイトの輪から外れた場所で、泰介は緊張で強張る顔のまま、周囲をゆらりと見渡した。

 全部では、ないのだろう。

 だが、一つだけ。この瞬間の事だけは。その感情の一欠片だけは。

 確かに、思い出していた。


「おい。……やめろよ」


 もどかしさで、息が詰まる。だがそのもどかしさが本物なのか分からない。現実感が、失せていた。

 クラスメイトたちは皆、表情を引き攣らせて固まっていた。ある者は好奇の表情で、ある者は純粋な驚きで、またある者は蒼白だった。

 そんなクラスメイト達にぐるりと取り囲まれながら、教室に立つ人影が、四人。

 その一人が、言うのだ。

 これから、言ってしまう。

 それを泰介は知っていた。

 きい、と床が軋る。

 学ランを着た生徒が一人、一歩、足を踏み出した。


「やめろ。……何も、言うな」


 制止の声を、絞り出す。

 だが、届かない。泰介の声はどこにも響かない。

 一緒に過ごした期間は御崎川で知り合った友人に比べたら段違いに長く、だからこそ気心の知れた友人の考える事くらいは、分かっているつもりだった。

 それが甘かったのか、それとも、怠惰だったのか。こんな激しさで、感情を破裂させるのか。それを高校二年の秋まで知らずにいた。

 ショックで思考が停止して何も言えなくなった、あの感情は後悔だろうか。

 違うと、分かっていた。それでも尚泰介は自分の行為の正しさを曲げる気はなく、対立の姿勢を崩す気はなかったからだ。

 そしてその結果として――教室は、断罪の場へと変貌を遂げた。

 それを、悔いている?

 悔いて、いない。悔いるわけがない。やり直しが利いたところで、きっと泰介は同じ選択をするだろう。

 葵がひどく泣いていた。

 だが、それがいつの事か分からない。

 小学三年生の葵ではなく、御崎川高校二年の、佐伯葵が。

 ただ、教室の真ん中で立ち竦む葵は、泰介の服の裾を掴んでいた。

 クラスメイトに取り囲まれた教室の真ん中で、泰介と葵は孤立していた。

 葵の唇が、白い。かたかたと小刻みに震えながら名前を呼ぶ声は、泰介ではない少年の名前を呼んで、哀願するような表情で、手を、虚空へ伸ばして――。


『さく』


 狭山敬が、口を開いた。


「やめろおおおおおおおおお!」


 あらん限りの大声で叫んだ。

 聞きたくなかった。こんな言葉は、二度も聞きたくなかった。

 好きだと言った。それがこんな事になった。それなら最初から聞きたくなどなかった。さくらが好きだと聞いた瞬間、何かが崩れて罅割れた。

 修学旅行の最中、打ち明け話をする敬の顔がフラッシュバックする。不器用ながらも懸命に受け答えする泰介を見ながら、悪寒と吐き気が止まらない。知っている。すぐ横で話を聞きながら思った。知っていた。泰介は声を張り上げ続けた。敬の発言全てを塗り潰すように。それを聞く泰介の不器用な返答を何も聞かないように。御崎川高校から遠く離れた地で交わされた二人の会話を、まるで己の怒号で揉み消すように。やめろ、と思う。やめてくれ、と願った。聞くに堪えなかった。聞けるわけがなかった。モノクロの教室内で叫んだ声が、あの場所の会話を消す事にはならないと気づいていた。気づいていたがやめられなかった。

 分かっているのだ、顛末が。酷い事になると知っていた。

 泰介は、知っていた。

 二人の恋愛の破綻を、知っていた。

 ――未来ではなかった。

 泰介は、知っている。

 ――じゃあ、これは。



 ぶつん。



     *


 テレビのコンセントをいきなり渾身の力で引き抜いたような、そんな音を聞いた気がした。

 それはあまりにも劇的で、非現実的で、それでいて鮮明な変化だった。

 秋の風が枯葉を運び、かさかさと乾いた音を立てていく。風が、ひどく冷たい。汗をかいた身体に、その風は涼し過ぎた。

 肌寒さを感じた泰介は身震いを一つして、顔を上げた。

 グラウンドを何週も走ったわけでもないのに、肺の辺りが苦しい。恐慌の名残のように身体に残った気怠さが、泰介の呼吸を乱していた。

 目の前ではボストンバッグを提げた泰介が車道を横断し、何食わぬ顔でオルゴール店へ入っていく。葵の姿を探しているのだろう、店内を見回した泰介は陳列されたオルゴール群に驚いたのか、ぎょっとした様子で仰け反った。

 ――既視感が、身体を巡った。

 泰介は立ち上がった姿勢のまま、和菓子屋の前に立っていた。前方に目を向けると、敬がさくらと談笑する姿が見て取れる。泰介は自分の両手を、すっと胸の高さまで持ち上げた。

 あの時。こうやって、己の手の平を見下ろしていた。その時の感覚を思い出すように持ち上げた手のひらは、慣れないバットを振り回した所為か指の付け根が赤く、細かい切り傷も見受けられた。硝子で多少擦ったから、その時にできた傷だろう。

 自分の、手だ。

 〝ゲーム〟の最中の、吉野泰介の手のひらだ。

「……」

 分かっていた。

 気づいていた。

 彼等の姿を追ううちに、未来の出来事としか思えない修学旅行の道すがら、泰介は何度も己に問いかけていた。

 普段の何気ない行動が、以前に経験済みであるかのようにふとした瞬間に感じられる。そんな経験をした者は多いのではないかと泰介は思う。夢の中の出来事をなぞったような気分になり、実際に似た夢でも見たのだろうと納得するような、あの感覚。

 だが。

 それが、ずっとだった。

 パズルのピースを順番に嵌めていくような、奇妙な符号が纏わりつく。既視感が離れないのだ。修学旅行の吉野泰介の行動に、意識がひどく縛られて、記憶の奥底が軋んでいる。

 誰かに、笑われた気がした。

 お前はそれを、知っているのだと。

「……」

 泰介は無言で葵の鞄を肩へ引っ提げると、車道を横断した。そしてあっさりと対岸のオルゴール店に辿り着くと、開け放されたガラス戸の前に立った。

 薄暗い店内で、装飾ランプがぼんやり光る。豪奢な衣装を纏った天使のオルゴールが、くるりくるりと優雅に舞った。硝子のオルゴールは内部の構造を見る者へと晒しながら、緻密に噛み合った歯車を回し続ける。観光客によって出鱈目にぜんまいが巻かれたオルゴールの大音声が、原曲の美しさと旋律を壊し合いながら、手前勝手に鳴っていた。

 ふらりと、店内に足を踏み入れた。

 何故来たのか、よく分からなかった。ただ誘われるように、足がそちらへ向かっていた。だが店へ入った途端に音の洪水に聴覚から侵される感覚に陥って、泰介は拒絶反応を起こしたように、背後へ数歩よろけた。

 何かが腰にこつんと当たり、あ、と思った時には遅かった。

 がちゃん! と耳を劈くような音が破裂した。はっと見下ろすと硝子細工の天使が一つ、床に落ちて砕けていた。

「あ……」

 惨殺された人体のようなそれに、目を奪われる。

 ――アリスの、首を。

 そんな言葉が頭を過ったが、不思議と何も感じなかった。

 だが、何も感じないわけがない。苛立ったが、頭が働かなかった。割れた硝子の音を聞いてようやく、泰介は自分が僅かに覚醒したのを自覚する。自己嫌悪から、顔を歪めた。妙に動きの鈍い自分に対する、どこか暈けた苛立ちだった。

 ……どうか、している。

 だが、何がおかしいのかも分からなかった。違和感ばかりが意識を苛み、身体が思うように動かない。鉛を提げて歩いているかのようだった。不快さに一層顔を歪めたが、それでも苛立ちを上手く表現できない己を感じ、身体の重みがさらに増して、くらっとふらついた、その時――泰介は、声を聴いた。


「店員さん、こっちです。割れちゃってるみたいで……」


 ぱたぱたと、足音が木目調の床を僅かに軋ませて近づいて来る。泰介は汗で湿った髪を掻き揚げながら、声の主を緩慢に振り返った。

 だが振り返るまでもなく、誰か分かっていた。

「……あお……い……」

 佐伯葵だった。

 店員を誘導し、泰介の傍に落ちた硝子の破片を指さして何事か話している。そして頭を下げる店員へ葵も頭を軽く下げて、朗らかに笑った。

「あ……」

 すとん、と。何かが自分の中へ、落ち着いたのを感じた。

 何故か今、安堵を覚えたのだ。外れていた何かがぴったりと噛み合ったような、歯切れのいい符号の音が心のどこかで凛と響く。熱を帯びた額に冷たい氷を当てられたような、ひやりと気持ちのいい清涼感が身体を巡った。

 何かが、洗われた。そんな気がしたのだ。

 狂乱する記憶と現実が交錯して、感情の置き所さえ分からなくなっていた。自分が何を考えて、どう動き、どう感じたのか。それらが完全に摩耗していた。たった今起こった事が一体何だったのか、考える事さえ放棄していた。

 そんな自分に、今更ながら泰介は気づかされたのだ。

 葵が、消えた事。それをはっきりと思い出した瞬間、意識を覆っていた重い膜が、燦然と取り払われた。

 秋の風が、店内に優しく吹き込んでくる。その風が自分の身体と意識を冷やしていくのを感じながら、泰介の心は不思議と静かに凪いでいた。

「……」

 仁科と別れ、宮崎侑の挑発を受けてから、擦り切れていった平常心と動かないはずだった怒りの感情。それらがしっかりと、自分の胸に戻っている事に泰介は気づく。見える景色が、鮮やかに色づいた気がした。泰介はその感触を確かめるように、ばっともう一度手のひらを持ち上げた。

 忙しく掲げた両の手は、やはり早朝に比べると細かな傷をたくさん負っていて、それを一目見ただけで――言いようのない殺意が、湧いた。

 こんな傷を食らう羽目になった、元凶とも言うべき少女の顔が脳裏を過る。そして硝子を割る作業中に、それを揶揄したオレンジ頭の顔も一緒に思い出して――ひくりと、口の端が怒りで痙攣した。

 全くもって不愉快だった。こちらは真剣に取り組んでいるというのに、馬鹿にしたような目つきで見下ろす輩など許せない。こうなってしまえば高い身長さえも憎らしく、今度顔を合わせたら腹立ち紛れに一発ぶん殴りたいと切に思った。

 ――現実感が、戻っている。

「葵……」

 泰介は、幼馴染の顔を見下ろした。

 一メートルも離れていない距離に立ちながら、視線は全く合わない。それどころかこんなにも近い距離に立つ泰介へ全く注意を払わない葵は、やがて見知った人影を見つけたのか、ぱっと明るく笑った。

「泰介、こっちに来てたんだ」

 黒髪が、さらりと揺れた。店内の陳列物に気を配りながら、葵がそっと身体を動かす。

 泰介から、離れていく。

「……さんきゅ」

 泰介は誰にも聞こえない声で、葵にはけして聞こえない礼を呟いた。

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